『廃墟と都市』

『廃墟と都市』

著/秋山真琴
絵/みつ

原稿用紙換算50枚

 君は、包装されたハンバーガーに踵落としすると、どうなるか知っているか?
 僕は知っている。
 真上から衝撃を加えられたハンバーガーは、エネルギー保存の法則に従い、地面に対し平行に弾け飛ぶのだ。しかし、そのハンバーガーが包装紙に包まれていたら話は別だ。意外に千切れにくい包装紙は、ハンバーガーが四方へ飛散しようとするのを妨げようとする。だがしかし悲しいかな、人間の体重が充分に乗った踵落としを前にしては、包装紙の耐久力なんて象の歩みを止めようとする一匹のアリの如き――つまり、無力なのだ。
 おっと。焦って、結論を違えないでほしい。君は包装紙が、中に入っているものが外に出ようとしないのを食いとめるもの、もしくは外にあるものが中に入るのを食いとめるものと思っているかもしれないが、包装紙には〝ほどけやすい〟という特徴もあるのだということを忘れないでほしい。そう、偏りがあるのだよ。何に? もちろん飛び散り方に、だ。
 そして、ああ、肝心のこれを言い忘れていた。こればっかりは僕がここで説明しない限り、君は未来永劫、絶対に知りえないだろう。何故なら、これは宇宙全体の中で全知全能なる神(そんなものがいるとすれば、の話だが)を除いて僕しか知らない情報だからだ。
 心構えは出来たかね、それでは披露しよう。この世で僕しか知らない情報を。
 実はね、僕は、途方もなく不運なのだよ。
 おや、もしかして君は笑っただろうか?
〝僕が不運である〟という情報にどうしてもったいぶる必要があるのかと、君はいま笑っただろうか?
 もし、笑ったとするならば、僕は君の予想の甘さをこそ笑わずにはいられない。何故か。それはね、度合いが違うのだよ。君の想像を遥かに、遥かに越え、凌駕し、超越したところに僕の不運さはあるのだよ。
 想像してみたまえ──。
 目に付いた自動販売機という自動販売機の周囲を、まるでごきげんようおひさしぶりのように這いずりまわり、ようやく百円玉を一枚だけ発見することに成功し、そうして得たその貴重な硬貨一枚を、ハンバーガーひとつと交換し、席について「では食そう」と手を伸ばしたところを踵落としで粉砕され、しかも偶然、包装紙の開け口がこちらを向いていたせいで、中身がすべてこちら側に飛び散るという状態を。
 悲惨だと思わないかね。
 不運だと思わないかね。
 ああ、思わないなら思わないでくれて大いにけっこう。君がどう思おうが、僕の物語は続く、いやむしろここから始まるからだ。こんな具合に。
「な、な、なにをするんだ君は!」
 僕は片手を振り上げて、怒鳴った。
「はあん。ひとの女に手を出しておいて、のほほんとしているやつのハンバーガーを踏み潰してなにが悪いんだ。ほれ、言ってみな?」
 ゆっくりと脚を戻しながら、そいつはきれいな声で言った。
「ひとの女だって? あのね、君。生まれてこの方、僕はひとの女はもちろん、ただのひとりの女だって、抱きしめたこともないんだよ。当然、手を握ったことも、待ち合わせしたことも、はたまた鉢合わせたこともない。だから」
「うるせえ! 御託は充分だ。……ふん、ここは人目があるな」
 そいつは周囲を見回して、もの珍しそうにしていた見物客を「見てんじゃねえぞ」と威嚇してから、僕に視線を戻した。
「ついてこい。詳しい話はそこでだ」
「ちょっと待ってくれよ! 僕は今ここで本日はじめての食事であるところの」
「うるせえ! 黙って俺についてこい」
 それだけ言うと、そいつはくるりと背を向け、すたこらと歩きはじめた。
 やれやれだ。僕はそっとつぶやくと、ハンバーガーの残骸を素早くかきあつめて、テーブルの上に乗せた。後の始末は申し訳ないが店員に任せよう。急いで追いかけないと置いていかれる。と足早に店を出た僕だったが、すぐに足を止めることになった。
 いなかったのだ。
 いくらなんでも歩くのが早すぎだろうと思ったが、爪先立ちになって見渡しても人並みの中に、先ほど僕のハンバーガーを粉砕してくれたやつの姿は見えなかった。しかし、だからと言って僕は別にショックに打ちひしがれたりはしない。想定内だったからだ、あいつの姿を見失うことは。僕の運のなさを考慮すれば考えられなくもないどころか、充分にありえる。むしろ見失ってしかるべき、と言い換えてもいいぐらいだ。
 だから僕はむしろ安心して、数学の難問に腰を落ち着けて取り掛かるように、それこそリーマン予想に挑まんとする学士のように、この不運に立ち向かってやろうではないかという気になることができた。
 悠々とポケットに手を入れて歩きだす。
 人波に乗って歩きながら僕は顎を撫でる。
 ヒントが、与えられていたはずだ。
──『ふん、ここは人目があるな』とあいつは言っていた。あいつは人目を嫌がっていた、人目に晒されていたあの状況を嫌がっていた。どうしてか。それはあいつがひとの視線に対して何らかの負の感情を抱く種の人間であるか、もしくは人目を引くと具合が悪いことになると、分かっていたからだ。
 であるなるば。
 ああ、かんたんじゃあないか。
 あいつは僕を人目のないところに連れていくつもりだったのだ。
 しかし。人目のないところ……? そんな空間が、この都会(僕はいま、渋谷にいる)にあるのだろうか。
 疑問は尤もだ。都市において他者の視線に晒されていない空間など、皆無に近いだろう。あらゆる空間は外に開けており、外からの闖入者を歓迎すると同時に、通り過ぎるものの視線も迎合してしまっている。そして物理的に遮断された空間においても、監視カメラという悪しき文明の利器によって、僕たちは不特定多数の視線に晒されることになる。
 とは言え、すべての時間が、すべての空間が、他者によって綿密に、そして緻密に監視されているわけではない。中には絶対的な権力と、実質的な能力によって何人の監視も受け付けない領域を作りだすことに成功している例もある。しかし、そういった領域を享受できるのは、それ相応の身分の人間だ。僕はもちろん、あいつだって、そういうサービスを受けることはできないだろう。多分。
 では、僕たちはどうすればいいのか。
 視線の盲点を突くのだ。
 つまり。いや、これ以上の説明は不要だ。先に解答を言ってしまおう。
 それは主に恋人同士が愛を交わす巣箱、もしくは持てるものが持てないものから春を買うときに使われる、いわゆる連れ込み宿、もしくはラブホテルだ。
 ああ、分かった分かった。君の言い分は尤もだ。だから、そんなに声高に異議を唱えないでほしい。確かにラブホテルほど監視カメラに満ち満ちている空間はないだろう。しかし、だからこそ、だからこそなのだ。ラブホテルの店員は、溢れかえった監視カメラで、日々、他者の行為を見ていることに慣れきってしまっている。そしてそうであるがゆえに、もはや彼らの目は監視カメラを覗いても、その感情を昂ぶらせないし、仮に見ていたとしてももう見えていないのだ。彼らにとって監視カメラの中の、男と女の行為は、もはや特別なものではなく、ただの背景に過ぎないのだ。
 だからこそ、ラブホテルは例外的に、逆説的に、他者の視線から解き放たれた、自由な空間でありえるのだ。
 話が長くなった。
 僕はラブホ街に足を伸ばし、端からホテルを一軒ずつ覗いていった。
 空いている時間なのだろう。ほとんどの部屋は空いており、それに伴ない、部屋が空くのを待っている間に使うソファや椅子に人影はなかった。あいつが待っているとすれば、ロビーのソファや椅子に座っているはずだ。
 僕は次々とホテルを渡り歩いた。白い壁に赤い照明が投げかけられたホテルを後にし、四方の壁が水槽となっているホテルを後にし、いたるところに観葉植物があってジャングルのようになっているホテルを後にし(ここはやけに酸素が濃かった)、廉価であることの他にはなんの特徴もないホテルを後にし、そしてバーのようなホテルに入った。
 バーのようなラブホテル。
 左手にカウンター、右手にテーブル席。
 カウンターの向こうにはアルコールのボトルではなく、アメニティグッズがずらりと並び、奥の方にはカラフルにデザインされたバイブやローターが置かれていた。店員はいない。展示されている商品はすべて見本で、きっと部屋に入ってから内線で取り寄せてもらうように頼むのだろう。
 テーブル席の向こうにはグランドピアノが置いてあった。店内に響いているのはピアノジャズだが、演奏しているものはいない。天井から降り注ぐように静かなメロディが流れてくる。
「おせえよ」
 あいつの声がした。
 見れば、あいつはグランドピアノの上に腰掛けていた。店内が暗いことに加え、黒い服装をしているからまるで気がつかなかった。いや、注視してみれば、黒いのは上着だけで、下に着ている原色が暗闇の中に浮いて見えた。
「遅くはない。君が歩くのが早すぎるんだ。むしろ君を見失いながらもここまでやってきた僕を誉めてもらいたいな」
「アホか。俺はお前がなんでか分かんねえけど、ホテルに入っては出てを繰り返してたから、ここで待ち受けてやったんだよ。ばあか」
「失礼なひとだな、君は。まあ、結果として人目のつかないところまで来たのだ、話を聞きたいところだが、ひとつ訂正がある。僕はアホでも馬鹿でもない。僕はただ不運なだけだ。考えてもみたまえ、この都会において君はいくらでも喧嘩を売る人間を選べたのだ。僕のような貧しいものではなく、富めるものにだって売れたし、僕よりもさらに貧しいものに売ることができた。男にもできたし、女にもできた。老いたものにもできたし、若者にも、子どもにもできた。しかし、何故か、どうしてか、不可思議なることに君は、他の誰でもない僕を選んだ。そして君は、僕の本日はじめての食事を邪魔してくれたうえ、僕をこんなところに導いた。ほら、不運だろう。不運だろう?」
「話が長いな……」
 ぴょんとグランドピアノから飛び降りながら、そいつは指先に引っ掛けていた鍵をくるくると回した。
「もう部屋は取った、行こうぜ」
「部屋に、まさかここの?」
「他にどの部屋があるんだ」
「部屋に行ってなにをすると言うんだ?」
「なにを? 男と女がホテルに入って、やることなんてひとつだけだろう」
 そう言うと彼女は、グランドピアノの向こう側にあったエレベーターにひとりで乗り込んだ。「おい」僕は堪らず声をかけたが遅かった。ドアは閉まってしまった。エレベーターがどうやら六階で止まったことは分かった。しかし彼女が六階の、どの部屋に入ったかまでは分からない。まさか僕はすべての部屋をノックしなければならないのだろうか……。

『廃墟と都市』
 そんなことはない。
 僕は慌てず焦らず、近くにあったテーブル席のひとつを選んで腰を下ろした。すぐに何かが鳴る音がした。鳴っているのはテーブルの上に据え置かれたモノトーンの電話だ。僕は受話器を取る。
「フロントです。どうされましたか、お客様」
「実は連れと離れてしまってね、何号室に入ったか分からないんだ。そっちで分かるかい?」
「先ほどのお客様ですね。少々、お待ちください…………六、○二号室ですね」
「どうもありがとう」
──『先ほどのお客様』とこのホテルの人間は言っていた。やはり監視カメラはあるのだろう、巧妙に隠されて。
 受話器を置き、エレベーターに乗りこむ。
 ドアが閉まり緩やかな上昇がはじまる。ガタゴトと箱が揺れたりすることはなく、動きはとても滑らかだった。
 六〇二号室はエレベーターを出て目の前にあった。ノックをすると「どうぞ」とくぐもった声が聞こえてきたので開ける。
 目の前にもうひとつドアがあった。その手前に彼女のものとおぼしきブーツが置かれており、壁には見たことのない機械が埋め込まれていた。硬貨の挿入口や、カードを通すのであろうスリットがある。この機械を用いて会計を済ませるようだ。
「どうした、入ってこいよ」
 僕は靴を脱いでドアを開けた。
 室内の照明は落とされていた。左右に扉がある、片方が浴室、片方が手洗いに通じているのだろう。奥にはベッドが見える。ベッドサイドのナイトランプだけが淡くひかりを放っている。恐らくベッドに横になった状態で見られるようにだろう、壁に液晶画面が埋め込まれており、ナイトランプの明かりが反射している。彼女の姿は見えない。
 奥に進むと、壁に阻まれ死角になっていたところに脚の短いテーブルと、ソファがあることに気がついた。テーブルの上にはグラスがひとつ、炭酸と思われる黒い液体をたたえていた。グラスの隣にエビスの黒ラベルが置かれている。繊手がそのグラスを取り上げる。彼女はソファに座っていた。もちろん、服を着て。
 突然、僕は少し気の利いたことを言いたい気分になった。
「来たよ。待ったかい?」
「いや、今、来たところ」
 うん? もしかして用法を間違えただろうか。
「まあ立ってないで座りなよ、そっちのベッドにな」
 僕はベッドに腰掛けた。
「わざわざここまで来てもらってご苦労だった。こんな風にお前の能力を試そうとしたのは、お前が俺の相棒に相応しいかテストしたかったからだ」
「テスト……。それで、成績は優かい? 良かい?」
「ふん」彼女は鼻で笑った「可、だ」
「とりあえず、フォルトでなくてよかったと言っておくよ」
「フォルト?」彼女は首を傾げて言った「フォルテッシモの、いや、あれはフォルテか」
「落第のことさ」
「ああ」
 彼女はつまらなそうにテーブルの上のビールに手を伸ばすと、ひと息にそれを飲み干した。その姿があまりに堂に入っていたので、僕は思わず制止するタイミングを逃してしまった。彼女がビールを飲みおえ、テーブルに空になったグラスを置いたところで僕はようやく口から言葉を出すことができた。
「き、君は未成年じゃないのかね」
「うん?」
 彼女は、そう黒服を着て男言葉を操る彼女は、しかしどう見ても子どもだった。
 身長は百二十センチメートルかそこらだろう。いくらグローバルな視点を意識して、日本人が年齢よりも若く見えるものだと、自らの不明を恥じても、こればかりは譲れない。彼女は絶対に未成年だ、それどころか小学生にしか見えない。
「そうだぜ。十一歳だ」
 やっぱり。
「だけどさ、それがどうかするのか? 俺が十一歳だからと言ってお前が偉くなったり、お前が俺に尊大な態度を取っていい理由になったりするのか」
「いや、ならないと思う」僕は冷静に答えた。
「だろう。話が逸れたな。俺はお前が俺の相棒に相応しいかテストした、そしてその結果、お前はこれに合格し、俺に認められた。お前は俺が俺の計画を遂行するうえで、相棒を務めることのできる資格を手に入れたのだ。しかし、これはまだ権利だ。お前には俺の計画に加担するかどうかの自由が与えられている、今はまだ。これから俺はお前に計画の内容を話す。これを少しでも聞いてしまったが最後、お前の権利は義務に代わり、お前の拒否権は剥奪され、お前は俺の相棒にならざるをえず、共に計画を進めることになる。俺と運命共同体になる。では」
「待て」
「待たない。俺とお前は国会図書館に盗みに入る」
 国会図書館に、盗みに、入る?
「国会図書館にクロワッサンはないぞ、もし広辞苑が欲しいなら借りればいい。いや、その前に、君は今こう言ったね『俺とお前は』と。さらに君はこうも言った『少しでも聞いたら僕に拒否権はない』と。もしかして、僕が君と国会図書館にドロボウしにいくのは、もう確定事項なのだろうか?」
「そうだ。ちなみに盗みに行くのはクロワッサンでも広辞苑でもない。Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ。真理だ、そして自由だ」
「ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース?」
「今のは新約聖書からの引用だ、ヨハネの福音書だ。意味は『真理はあなたたちを自由にする』、そして国会図書館の東京本館にも同じような言葉が刻まれている、それは『真理がわれらを自由にする』だ。国会図書館には真理がある。真理は我々を不自由から解放する。俺は自由になりたい。だから真理を盗みにいくんだ」
「あのね、……」
 僕は彼女の名前を呼び、そして「真理とは盗めない宝石のようなものだ」と続けようとしたが、まだ彼女の名前を知らないことに気がついた。だから、まずは名前を聞くことにした。
「ところで。君は何と言うのだね?」
「え?」
「名前だよ。教えてくれたっていいだろう」
「し! 失礼な男だな、君は! レディに名前を聞くなんて。別に考えていなかったわけではないぞ。あ、待てよ、お前から名乗れって言いたい訳じゃないからな。俺はお互いにお互いのことはコードネームで呼びたいんだ。そうだな、うん。お前は老けてるから廃墟《ルイン》だな。そして俺のことは、都市《シティ》と呼んでくれ」
「シティ」
「なんだ?」
「どうしてコードネームで呼び合わないといけないのか。君は子どもで恥ずかしくないかもしれないが、僕はとてもじゃないが君を街中でシティと呼ぶことには耐えられない。だがしかし、敢えてここは看過しよう。とりあえずその件に関しては置いておこう。それよりシティ、重要なことがある、真理とはね、シティ、それは盗めない宝石のようなものなのだよ。我々は国会図書館を訪ね、そこにある書物を読みとくことで或いは真理を手にし、理性という戒めから解き放たれ自由を手に入れることができるかもしれない。分かってくれ、シティ、仮に君が国会図書館に真理があり、それを奪うことで自由になれると思っているのなら、シティ、君は比喩を理解していない。そうではない、そうでないのだ。真理とは盗めない宝石のようなものなのだ、我々はどんなに頑張ってもそれを奪えないし、奪えたところで君は、シティ、君は自由にはなれないのだ」
「自由に……なれない?」
「そうだ、シティ。だからもう僕のことは諦めなさい」
 僕はベッドから立ち上がり、胸ポケットから一万円札を取りだした。
「すまないが精算の仕方が分からない。これで足りるだろうか」
 札をシティに渡そうと思ったが、彼女がそれを素直に受けとるとは思えなかった。僕は札をテーブルの上に置いて、部屋を出た。
「ルイン! ちょっと待ってくれ、真理は本当にあるんだ!」
 シティの声が聞こえたが、僕は無視してエレベーターに乗り込んだ。
 緩やかな下降が僕を襲う。
 少し残酷だったかもしれない。
 それに。ぼくは胸元に手を当て、紙幣一枚分の重みを失った財布に触れながら思う。使わないつもりのお金だったが、こういう使い方なら悪くないだろう。
 ところで君。
 街を歩いているときに突然、公衆電話が鳴ったらどうするかね。そうだね、もちろん驚くだろう。公衆電話を使って、こちらから何処かへ掛けることはあれど、何処かから公衆電話へ電話があるとは思えないからね。でも、ここでは鳴ったとしよう。君は街を歩いていて、ちょうど公衆電話の脇を通り過ぎたときにこれが鳴りはじめたのだ。歩いているひとは君以外にもいるが、公衆電話に最も近いのは君だ。そこで、君は、どうするかね? 受話器を持ち上げ、何処かから掛かってきた電話を受けるかね?
 そうだね、僕だってそうだ、そんな質問には答えられない、時と場合によるだろう。まったくもってその通りだ。では、こういう場合はどうだろう。どうやら監視カメラが張り巡らされているらしいラブホテルのロビーにおいて、電話が鳴った場合は。察しのいい君のことだ、もう分かっただろう。あの電話だよ、僕がシティの入った部屋を知るために使った電話が鳴ったのだ。
 君はこの電話を取るのに躊躇するかね?
 しない、と。なるほどね。確かにこの状況において電話が掛かってきたら、取るのが普通だろう。僕かい? 僕だってそう思ったさ。だからエレベーターを降りて、さっさとホテルを辞去しようと思っていた僕は、けれどほとんど躊躇せずに受話器を取りあげた。もしかしたら一万円では足りなかったかもしれないしね、僕はホテルの相場を知らなかった。しかしね、君はもう忘れてしまったかもしれないが、僕には人並外れた特性があるのだよ。そう、不運であることだ。
 僕はもう少し注意しているべきだったのだ。
 空からいきなり隕石が降ってきて、死ぬかもしれない。
 それはとんでもなく低い可能性だ。一般人にとっては。僕にとっては? それほどでもない。
 明日、隕石が降ってきて死んだとしても、それは僕にとってはそう珍しいことではないのだ。今までの不運さを考えれば、隕石の直撃を受けて死亡だなんて、特筆すべきことではないのだ。
 ましてや、だ。
 受話器を耳に当てて、開口一番こう言われるなんて日常茶飯事だ。
「ミクリヤトシコを誘拐した。三日後の午後六時、真理を、もしくは身代金一千億を持って代々木公園に来い」

 背中の毛が逆立つのが分かった。
 受話器から聞こえた声は、変声機で醜く加工されており、僕の耳朶にこびりついて離れない。いや、いや違う。僕が震えたのは別に声が告げた内容に驚いたからでも、その声が加工されていたからでもなく、その声に、悪意が存在していたからだ。
 それはすべての人間が持っているもので。
 生物の中で人間だけが持っているもので。
 同じ人間を不快にして。
 同じ人間を傷つける。
 僕は悪意が嫌いだ。悪意は誰にだってあるものだけれど、それをことさらに見せびらかせたり、その感情だけに基づいて行動するひとが嫌いだ。
「待て」
 と、僕は言おうとしたけれど、既に電話は切れていた。
 僕は顎に手をあて、複数のことを同時に考えた。ミクリヤトシコとは、先ほどシティと名乗った彼女のことだろうか。今の電話の主は何者だろうか。シティか、ホテルの人間か、誘拐犯か。誘拐犯だとして、そいつは僕の正体を知っていたのだろうか。
 分からない。
 一秒で考えることをやめ、僕はエレベーターに乗りなおした。
 六〇二号室へ。そこにアンサー、もしくはヒントがあるはずだ。
 先ほどと同じく緩やかな上昇。乗っている人間に揺れを感じさせないようにするがゆえに、出ないスピード。遅い、遅すぎる。
 扉が開くと同時に僕はエレベーターを飛び出して、六〇二号室に飛びこんだ。
 ブーツはなかった。壁の機械に目を向けると「またのご利用をお待ちしております」と表示されている。精算は済まされている。
 扉を開ける。
 部屋は、もぬけの殻だった。
 トイレにも、バスルームにも人影はない。
 シティの姿も、清掃員の姿も、誘拐犯の姿もない。
 やはり、いたずらだったのか。
 彼女はもう帰ったのか?
「あ」
 僕は靴を脱がずに入り込んでいたことに気がついた。
 慌てて靴を脱ごうとして、床が濡れていることに気がついた。
 屈みこんで床に触れてみる。やはり、濡れている。視線を動かしていると、テーブルの下にグラスが落ちているのを見つけた。中身は空、しかし水滴がついている。先ほど、シティがエビスの黒を飲むのに使ったグラスに違いないだろう。それが何故か、テーブルの下に落ちている。
 悪意のにおいがした。
 気持ちの悪い、悪意のにおいだ。
 理屈じゃない、本能で分かった。シティは誘拐された。
 僕は三日後の午後六時までに、真理か、一千億を持って代々木公園に行かねばならない。
 胸ポケットの中の財布の重みを確かめる。ここに一千億はないが、三日を費やせば一千億を用意するのは不可能ではない。しかし、一千億を用意できた頃には、僕は代々木公園には行けなくなっているに違いない。
 真理
 真理を持っていくしかない。
 拳を作り、つよく握りしめる。国会図書館に行こう。
 もはや振り返らず、僕はホテルを出て、渋谷の雑踏に紛れこんだ。
 人波に揺られながら記憶を探る。確か、国会図書館は国会議事堂のすぐ隣にあったように思う。ということは永田町駅か国会議事堂前駅で降りればよかろう。どちらも地下鉄だ。地下鉄に乗るのは、実は初めてだ。ボストンでサブウェイに乗ったことはあるが、あれと似たような感じだろうか。
 もの思いにふけりながら歩いていたときだ。
 僕の耳に聞き覚えのある声が届いた。
「筆頭!」
 それはスクランブル交差点の反対側から聞こえてきた。
「筆頭! そこを動かないでくだされ、筆頭!」
 まずい。
 僕はすばやく身をひるがえすと、交差点を離れた。ここで掴まるわけにはいかない、しかし、あのオールバックの男は実に執念深い。僕は他の交通手段を考えながら、信号が変わる前に交差点を離れた。
 二十歩ばかり歩いたところで、目の前にタクシーが止まった。
 そう言えば、タクシーという手段があったか。
 僕は手を挙げ、これに乗りこんだ。
 なるべく使わないようにしようと思っていた金を使わなければならないことに気づいたのは、タクシーに乗った後のことだった。腹が鳴った。

「真理を寄越せ!」
「こちらへどうぞ」
「うむ」
 高圧的な態度を取ってみたら素直に差し出してくれるかもしれない……国会図書館のカウンターにて、僕の淡い期待は、応えられたように見えた。
 通されたのは、まるで取調室のような小部屋だった。どんな用途のために作られたのか疑問を覚えるぐらいに小さいテーブル(縦は三十センチ、横は五十センチほどだろうか)とパイプ椅子が二脚。部屋はきれいにされていたが、壁にはひびが走っており、扉の近くにあった空調を調節するためのパネルも、なんだか古そうだった。僕は最初、扉に背を向けるかたちでパイプ椅子に座ったけれど、それでは誰か入ってきても振り向かないと見えないことに気づき、慌ててもう片方の椅子に移った。
 十分ほど待った。
 天井の空調機がゴトゴトと音を立てる中、僕は身じろぎもせず誰か来るのを待った。しかし、誰も来ない。もしかして僕は罠にはめられたのだろうか。真理を欲して国会図書館に侵入した曲者を、館員はこうして小部屋に閉じこめ、餓死させ、葬り去ってきたのかもしれない。僕は立ちあがって、ドアノブを捻ってみた。扉は容易にあいた。ドアを薄くあけて、頭を出して周囲を窺う。不審はない。僕は逃げようと思えば、いつでも逃げられそうだった。廊下の向こうを白シャツの男が歩いていくのが見えた。司書だろうか、何冊か本を持っていた。
 僕は扉を閉めて、再びパイプ椅子に腰を下ろした。
 シティのことを考える。
 彼女は pinkywolman のブーツを履き、レザーのパンツとジャケットをまとい、原色が目に痛いシャツを着ていた。僕が pinkywolman だけ見抜くことができたのは、彼女に遭遇する少し前に覗いた店で、ちょっと格好いいなと思ったのが pinkywolman だったからだ。
 今にして思えば彼女の瞳には、真剣さがあった。
 真剣に自由を願う気持ちがあって、真剣に相棒を求める気持ちがあって、彼女は僕に期待していたように思う。彼女が求めていたのは自由と、そして彼女の良き理解者にして、彼女の唯一無二の仲間であるところの相棒だったのかもしれない。僕は、シティを、傷つけてしまったかもしれない。
 そのときだ。
 突然、テーブルが動いた。
 僕はパイプ椅子から立ちあがり、壁際に移動した。テーブルは音を立てながら横に動いていっている。テーブルの下に視線を走らせる。
 男と、目が合った。
「や、やあ」
 テーブルの下には先ほどまではなかった、ひとひとりが無理をすればなんとか通れないこともない大きさの穴が空いていた。白衣を身にまとった男がそこから顔を覗かせていた。僕は謎の男に緊張しつつ、しかし高圧的な態度を崩さずに問いかけた。
「君は誰だ、どうしてそんなところにいる」
「ええっと」
 男は部屋を見まわして、部屋に僕以外の存在がいないのを見てとると、困ったように眉をひそめた。
「私は怪しいものじゃない。どうやら貴方は何も教えられずにここに通されたようだけど、私はここの職員で、地下二十階より下を担当しています」
「地下二十階……?」
「そうです。貴方、真理希望のひとですよね。ご案内いたしますので、ついてきてください。狭いのでお気をつけくださいね」
 それだけ言うと、男はまた穴の中に隠れてしまった。
 穴の中を覗きこむと、慣れた動作で梯子をおりてゆく男の後頭部が見えた。仕方ない、僕もついていくことにする。
 梯子は鉄製で、わずかに湿っていた。ところどころに電灯があったが、その間隔は広く、基本的に暗い。足を梯子にかけるたびに空き缶をゴミ箱に入れたときのような音が響き、反響する。かんかんかん一段、降りるたびに反響する音はどんどん高くなってゆき、僕は少しだけ不安になった。見下ろすともう男の姿は見えない。もしかしてこの梯子は二十階分もあるのだろうか。それはどれぐらいの長さなのだろう。
 だんだん暗さが増していくような気がする。僕は男に声をかけようと思ったが、もし声をかけて、しかし返答がなかったときを考えると恐くなってしまい、結局、歯を食いしばることにした。やがて、誰かが床のうえに着地するような音(無理に言語化するならすとんだろうか)が下の方から届いてきた。先ほどの男がついに地下二十階についたのだろうか。
 男がいることと、この梯子に終わりがあることが分かり、僕は少しだけ元気が出た。降りるスピードを上げる。
「お疲れ様でした」
 やがて、僕は開けた空間に出た。
 梯子は床まで続いていたが、ホールのようになっているそこは閑散としており、そこには僕を見上げている男しかいなかったので、僕は梯子から手を離して、床に着地した。
「申し遅れました、私、司書のタカツギ、と申します」
「ルインだ。よろしく」僕はコードネームを名乗った。
「ミスター・ルインですか、こちらこそよろしくお願いします」
 男、タカツギは僕の名前に不自然さを覚えるでもなく、手を差し伸べてきた。握手を求めているのだろうか、僕は彼の手を取って、上下に振った。
 タカツギは微笑むと「では、ご案内します」と言って歩きだした。
「国会図書館地下二十階より下には、主に原爆を受けて、核に汚染された書物が所蔵されています。勿論、これらは厳重に管理されているので、私やルインさんが二次感染する恐れはありません。万が一に備え、地底深くに封印しているのです。この事実を我々は公表していませんが、それは都心の地下に汚染された書物があると一般の方々が知ることによって生まれる混乱を回避するためです。……と、言うのはすべて嘘偽りのことです。確かにこの階層には被爆した書物も、何千冊と収められていますが、我々が本当に忌避しているのは、『真理』が日の目を浴びてしまうことです。『真理』は我が国が独自に、そして秘密裏に開発を進めていた書物で、歴史を改変するという力があります。『真理』を操作することで我々は敗戦すらも〝なかったこと〟ことにできるのです。しかし『真理』は遣い手を選別します。誰もが自分の好きなように、好むように歴史を書き換えることができるとは限らないのです。歴史を、既に起こってしまった事実、過去を改竄するのは、神が振るう気まぐれに近いのです。誰もが『真理』を使えるわけではありません。では、誰が『真理』を扱えるのか、極少数ですが、そういったひとは存在します。我々はいかにしてそれを見抜くか。ふふ『真理』はですね、呼び寄せるのですよ、遣い手を。彼らは国家的機密である『真理』の存在をどうしてか知り、そしてここを訪れるのです、そう、貴方のように。ルインさん、伺ってもよろしいですか。貴方はどこで『真理』の存在を知ったのですか、どうして、『真理』のために、他の何処でもない、ここを訪ねたのですか?」
「風が、教えてくれた」
 僕は嘯いた。
「風ですか、面白い。貴方の前にここを訪ねたひとも、そう答えていましたよ。その方は……ああ、着きました。お待たせしました。ここです」
 僕とタカツギは、一枚の扉の前で立ち止まった。
 タカツギは微笑を浮かべるとその扉を開け放った。
 途端、妙なにおいが漂ってきた。
 焦げたにおい、煤のにおい、死のにおいだ。
「ご安心ください、この大部屋に収められているのは広島長崎にあった書物ではありません。東京で空襲に遭った書物です。そして『真理』はこの中にあります。もし、貴方が本当に『真理』に選ばれたものであれば、──御免!」
 タカツギは突然、僕に向かって足を伸ばした。
 ただ単に足を突き出したのではない、それは空気を切り裂いて迫ってきた足刀であった。間一髪でタカツギの攻撃を避けた僕は、扉を抜けて大部屋に入ってしまっていた。そして体勢を立てなおす間もなく、扉は、閉められてしまった。
「タカツギ!!」
 僕は閉められた扉に駆け寄ったが、錠が掛けられたのか、扉はぴくりともしなかった。扉に耳を当てたが、防音性の高い扉なのか、タカツギの声も去ってゆく足音も聞こえなかった。
 僕は閉じ込められてしまった。
「なんてことだろうか……」
 どうにかして扉を開けられないものか、手で探っているとスイッチを見つけた。捻ってみると大部屋の天井からぶら下がっている、いくつもの蛍光灯が時間差で灯った。明かりの下、僕は見る。扉だと思っていたものは壁だった。ドアノブらしきものはない。こちら側からこの扉を開けることは到底、不可能なようだった。
 僕は振り向く。
 本棚が並んでいる。
 本棚に並んでいる本は焼けて煤がついていたり、黒く汚れている。
 手近にあった本を一冊、ぺらぺらとめくってみる。〝俺様〟という言葉が目に飛びこんできた。僕はその言葉に不思議な魅力を覚えて、それがどういう意味か探ろうとしたけれど、本は瞬く間にボロリと崩れて手から落ちてしまった。
 俺様──?
 一人称、だろうか。ずいぶんと不遜なイメージがする。
 なんだか使い慣れない〝僕〟より〝俺様〟の方が、ずっと本来の僕の性質にあっているような気がした。まあ、それはさておき。三日後の午後六時に代々木公園だったな。時間がない。ここにある本のいずれかが『真理』なのだろう。だとすれば、僕、いや──俺様はそっと息を吐いた。
「撫で斬りにしてくれよう」

///

 俺、御厨季子《みくりやとしこ》は御厨竜二郎の孫で、大金持ちだ。
 俺自身に関する説明はこれぐらいで充分だろう。竜二郎の悪口を言う気にもなれないし、大金持ちだってことは、それだけ制約も多くて、不自由だってことだからな。
 十一歳の俺は、とにかく色々なものから逃げ出したかった。
 もちろん、それなりの自由は与えられていた。しかし、他人から与えられた自由を、本当の自由と言えるのだろうか。それに俺の周囲には、あまりに多くの思惑が渦巻いている。彼らや彼女らは、それぞれの欲求を満たすべく、そのために視野を固定し、そのための論理を構築し、そのための世界を往行している。
 俺はそういう認識の中から逃げ出したかったのだ。
 そんなときに俺は知ったのだ『真理』の存在を。
『真理』のことを教えてくれたのは下の兄貴だ。下の兄貴は一族の人間にしては珍しく、薄明の領域に生きていた。美術や芸術、そういったものに魅力を覚え、そういったものに囲まれて暮らすことを望んでいた。あいにく河豚の毒にあたって死んでしまったが、兄貴は死ぬ前に俺に『真理』のことを教えてくれた。
『聞け、季《とし》。国会図書館の地下には世界を改変する書物があるんだ』
 そのまま遺言となったこの言葉は、俺を縛りつけ、いつしか俺は『真理』という存在するかどうかも分からない書物に囚われていた。俺は早速、国会図書館を訪ね、『真理』との対面を果たそうとしたが、最初の関門で躓いてしまった。
 タカツギという男に俺は、見抜かれてしまったのだ。
『おや、貴方は……違いますね。貴方は精神の深奥から、あの書物を欲している人間ではありませんね。貴方には餓えがありません、貴方には望みがありません、貴方があの書物を欲するのは逃避からですね。残念ながら、貴方にあの書物の遣い手たる資格はありませんね。私にすら分かるのです。あの書物は、世界を改変したい、世界の在るかたちを根底から覆したいという、強い、世界の敵になる覚悟を決めたものを選ぶのです。残念ながら、貴方はここまでです』
 今でもあのときのことを思いだすと、悔しくなる。
 俺の苦悩は、ただの逃避だったのかと。
 しかし、しかし俺は諦めなかった。別に俺自身が『真理』の遣い手になる必要はないのだ。『真理』の遣い手を見つけだし、俺がその遣い手に──『真理』の遣い手の遣い手になればいいのだ。
 それからの日々を、俺は人間を見て過ごした。
 この人間は『真理』の目に適うか、この人間は『真理』の目に叶うか。
 そして俺はついに見つけたのだ。あの異国の老人、ルインを。
 彼は不運を身にまとっていた。
 いや、取り憑かれていたと称しても差し支えないだろう。ドブに片足を突っ込み、カラスに襲撃され、若者たちに襲われ、それでも機転を利かす彼を見て、俺は確認した。
 この男は不運を力に変える男だと。
 この男なら、あるいは。その不運から『真理』を手にするかもしれないと。

///

 午後六時。
 代々木公園。
「待たせたな」
「お前か、ルインと言うのは?」
「そうだ」
「その様子だと『真理』を手に入れたようだな」
「シティは何処にいる?」
「シティ……ああ、御厨季子のことか。先に『真理』を見せろ」
「シティが先だ」
「ちっ」
 黒スーツにサングラスの男は、ポケットからトランシーバーを取り出して一言だけ何かを告げると、すぐにまたポケットに戻した。
「見ろ、通りの向こうだ。バンが止まっているのが見えるだろう」
 男の背後、通りの向こう、確かに白いバンが止まっているのが見えた。カーナンバーを読み取ろうとしていたら、窓が開くのが見えた。
 暗くて見にくいが、確かにバンにシティが乗っているのが見えた。猿ぐつわを噛まされているが、相変わらず、その目元は引き締められ、気丈さは失われていない。
「もう、いいだろう。さあ『真理』を寄越せ」
「『真理』はこの鞄に入っている」
「開けて、中から取りだせ」
「分かった、少し待て」
「……状態がひどいな。まあ、いい」
 男は口を歪めると、片手を挙げ、パチンと指を鳴らした。
 直後。
 男の遥か後方から飛来した銃弾は、俺様の右目を貫き、脳細胞を粉砕し、後頭部を抜けてどこかにいった。俺様は当然、即死だった。

 と、言うのは俺様がなんの策も講じなかったときに到来する未来だ。
 今はまだ撃たれていない。
 俺様に残されている時間は限りなく少ないが、それでもなくはない。
 そして刹那でも時があれば、充分だ。
 俺様は『真理』に問いかける。
 国会図書館の地下で発見し、俺様の中に吸い込まれていった謎めいたひかり。
 今や俺様と完全に同化し、いつでも語りかけることのできる『真理』に問いかける。
 かつてニッポンの奥州で名を馳せた、俺様の遠い先祖である〝独眼竜と呼ばれた男〟と同じように、眼帯が俺様の右眼を覆っていたら、どうなるのだろうか。
 なあ『真理』よ、歴史を改変し、俺様に見せてくれないか?
 俺様の自由、俺様の願う世界を見せてくれないか?

 いいだろう

「さあ『真理』を寄越せ」
 男は実に傲慢な態度だった。
 そしてその口調には、俺様の大嫌いな悪意がにじんでいた。
 辟易しながら、俺様は答えてやる。
「『真理』はこの鞄に入っている」
「開けて、中から取りだせ」
「分かった、少し待て」
「……状態がひどいな。まあ、いい」
 男がパチンと指を鳴らす前に、俺様はそっと鞄を持ち上げた。
 直後、男の遥か背後から飛来した銃弾は、鞄を貫き、右眼を覆う眼帯にあたり、どこかに飛んでいった。鞄と眼帯とによって俺様の脳は守られたが、少なからずの衝撃はあった。
 俺様は鞄を手放し、無様に地面に転がってしまう。
「『真理』が……っ!」
 男の慌てた声が聞こえる。
 次いで、鞄の中から七十年前に空襲にあった本が取り出される気配があった。
「くそっ」
 激痛と眩暈に襲われながら、俺は立ち上がった。
 莫迦めがっ。
『真理』が目に見え、手で触れるかたちでの書物だなんて誰が言った。『真理』は目には見えない、手では触れない、しかしそこに確固として存在する。そして、残念。それは俺様の内にあるんだなあ。
 俺様は立ち上がり、自慢の銀髪をかきあげてから、男に指を突きつけて言った。
「今の一発は効いたぜえ……だがな、二度は食らわねえぞ、アメリカ柳生! 貴様の悪意は臭すぎるんだ。んな変装してもバレバレだ。ちなみに、その本は偽物だぜ」
 ヤギューは鞄に入っている本をいちべつすると、舌打ちした後に放りすてた。
 彼はしばし歯を食いしばり悔しそうに俺様を睨んでいたが、やがて何かに気がついたのか哄笑をあげはじめた。
「HAHAHA、久しぶりだなイタリアに流れし伊達政宗の末裔、欧州筆頭! 髪を下ろしてたんで気がつかなかったぜ。だがよう、随分と余裕じゃねえか。忘れたのか? 俺にはまだ人質がいるし、『マロバシ』もあるんだぜえ」
「人質? それはまさか俺様の片腕、クラウディオの隣に立っている女の子のことかい?」
「なにい!」
 すでにバンの中にいたヤギューの仲間は、長髪をオールバックにした側近のクラウディオによって殲滅され、シティは救けだされている。
「ちっ」
「それに『マロバシ』ってのは、あれだろ。さっきの自由自在に銃弾を飛ばす、アメリカ柳生の奥義だろう? だがな、その程度の力で『真理』を持つ、この俺様に勝てるとでも思っているのか、ん?」
「くううう……しかし、やってみないと分からないだろう! くらえ!!」
 瞬間、俺様の前後左右に銃弾が生まれた。それらは、それぞれが微妙に弾道を交差させつつ、さらに着弾のタイミングを絶妙にずらしつつ俺様に襲い掛かった。
 が──、
「おいおい、アメリカ柳生。今のは伊達じゃねえなあ、これっぽっちも伊達じゃねえなあ」
 俺様はヤギューの背後に立っていた。
 ヤギューが『マロバシ』を発動させてから、ここまで回り込んだのではない。
『真理』が見せてくれたのだ。
『真理』が俺様の立ち位置という情報を書き換えてくれたのだ。
「刀を持ってりゃあ、容赦はしなかったんだが。生憎こちとら、お忍びの身でねえ。今日はこれで勘弁してやるよ」
 俺様は拳をかためると、からだを沈め、一気に振りぬいた。
 振り向きざまを殴られたヤギューは、空中をきりきりと舞い、血反吐を吐きながら倒れた。
「はっ、口ほどにもねえな」

  

 バンの脇に立って待っているクラウディオとシティに向かって歩きながら、俺様の中に迷いが生まれつつあった。なんだか『真理』を使って国会図書館地下二十階から脱出したことや、アメリカ柳生を倒したこと。それらすべてが、ほとんど見ず知らずのシティのためにしたことだったと改めて気がつき、気恥ずかしさがあった。
 僕(やっぱり、俺様よりもこっちの方が向いているかもしれない)は迷いはじめる、シティは本当に僕がこのように行動することを望んでいたのだろうか。
 シティ……。
 そして今さらのように僕は思う。ルイン、なんて僕にぴったりの名前だろう。
 武芸で名を馳せたがしかし、既にこのからだは老い衰え、もはや重い刀を満足に振るうこともできない。ここに栄華は、ない。僕は、廃墟だ。
 しかし、彼女は、シティは。
 都市。多様に枝分かれし、極度に複雑化している。
 しかし、矛盾しているわけではない。不自由に拘束され、真理を渇望し、いついかなる瞬間も成長し、進化する。
 彼女はかつての僕だ。僕は飼い殺されてしまい、衰え果てた。
 僕は彼女の前に辿りついた。
 息を止めて、三秒。
 僕は言った。
「来たよ。待ったかい?」
「いや、今、来たところ」
 ん? やっぱり日本語はよく分からない。
 それとも今のは、彼女なりのジョークだろうか。
「なあ、ルイン。頼みがあるんだ」
「……なんだ?」
「俺は自由になりたいんだ。もし、よければ。俺の手を引っ張って、どこかに連れて行ってくれないか?」
 瞬間、涙が溢れそうになった。
 シティはやはり都市《シティ》だった。
 僕はシティの脇に立つ、クラウディオに目を向けた。
 彼は鋭い目つきで僕を睨んでいる。今すぐにでも僕をイタリアに連れもどそうという目だ。また、あの不自由で制約に満ちた日々に、僕を連れもどそうとしている。
 彼の腕が僕を捉えるより早く、僕はシティの手を取った。
「行こう! 真理は僕らを自由にする!」

 いいだろう

 ひかりが生まれ、廃墟と都市はそらを翔ぶ。

了   


(著者注 アメリカ柳生に関しては、xx氏が考えた設定を利用させていただきました)
http://kill.g.hatena.ne.jp/xx-internet/

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