『Don't Trust Over Zero.』

『Don't Trust Over Zero.』

著/キセン

原稿用紙換算35枚

1.

 グラビアアイドルへの「クン」付けのように不自然なものがこの世界にはいくつもあって僕の眼の前にある書物もそのひとつだ。〈首都分離〉に関する宗教がかったブックレットや迅駆事件のルポルタージュと一緒にダンボール箱のなかでスナック菓子以下の値段で売られている一冊の小説、「翼天使の蘇る時──エンジェル・ストーリー1──」。著者、香月聡。帯には「あの迅駆事件の英雄が描く青春バトル・ラブ・ストーリー! 初版限定著者&音無実夏ピンナップ付!!」とある。全体的に薄汚れたカバーには小説の内容とはまったく関係のない香月の姿のイラストが載っている。僕はその本を手にとってレジへと持っていく。男の店員が心なしか蔑んだような眼で見ているような気がする。妄想だと思いたい。
 古本屋を出た。二日前から続いている日照りはおさまる気配を見せない。夜も来ない。誰かがこの街を日干しにしようと目論んでいるらしい。どうせまた第一階層の連中の勝手な都合の結果なのだろう。噂では、〈首都分離〉によって大幅に退行した気象予報の精度をふたたび向上させるための実験として、ウェザー・シミュレータが用いられているという。
 第一階層の住民のみが自然の天候にさらされているのは事実だが、「作られた天災」がどれだけの被害を第二階層以下の住民にもたらしているのか、〈上〉の連中はわかっているのだろうか──いや、わかっているに違いない。十五分だけ来る夜、三発だけ落ちる雷、三日間わずかに揺れ続ける地震──〈下〉の、彼らいうところの〈地底人〉どもがそれらの現象にあたふたするさまを、奴らは笑いながら見下ろしているのだ。

 指名手配されていた神野由美奈の死体が、〈爆心地〉として知られる首都第五階層C-0ブロックで見つかったというニュースをネットワークで知って僕が最初に思い出したのが「翼天使の蘇る時」の序章だった。五千万年前から〈伝説の地〉に住まうとされる有翼族の末裔である主人公が狩りに出かけている間に、村が人間たちによって焼き払われる。あわてて村に戻った主人公が見たものは惨殺された家族、赤い炎の色に染まった村の風景、そして狂気に満ちた表情で村人たちに襲い掛かる人間の姿だった。このあと主人公は怒りの果てに水龍を召喚する能力を手に入れるのだが、報道された神野由美奈の死体の姿は、ほとんど「翼天使の蘇る時」における、両親の屍体の描写と同一だった──焼かれ、四肢を切断され、両腕と両脚を入れ替えられていた。
〈路闘〉の連中がこのことに気付いていないのか、あるいは報道機関に伝わっていないだけなのかは判然としないが、少なくとも第二階層内のネットワークではそのような話は出ていない。他の階層のネットワークには出ているかもしれないが、捕らえられる危険を冒してまでクラックを仕掛ける気にもなれない。とにかく、どう弱気に考えても、周知の事実というわけではなさそうだ。まあ、だからといって、別に何をするわけでもない。いまだに有毒ガスが漏れ続けているという噂のある〈爆心地〉に出向くなどということは非現実的だし、だいいちもう数ヶ月第二階層から出ていないのだ。探偵ごっこなど出来ようはずもない。
 ただ思い出したのだ。作られた偽の英雄としてのカヅキサトルを、ではない。「エンジェル・ストーリー」の著者、香月聡を。英雄が書いたというただそれだけで世に出て、一瞬で消費されたジャンクな小説。いまや時々思い出したように好事家が取り上げるだけで、まともに顧みられることはない。だが、僕はある程度の時間をこのゴミのような小説と過ごしたのだ。その時間をもっと別の高尚なものとの時間に置き換えることはもはやできない。だからそのまま受け入れるしかない。あるいはこう考えることも出来るだろう──あのとき自分を取り囲んでいたろくでもない現実から逃避するために僕はあんなくだらない小説にのめりこんで、そしていまがあるのだと。まあそういう言説を否定するすべを僕は持たないが、しかしこの小説を読んだ者すべてが僕のような状況にいるとも考えづらいだろう。大体アニメ化もされていたのだ。結局は僕自身にすべての責任があるのだ。
 神野由美奈によるエンジェル・パレス襲撃と音無実夏の殺害をきっかけに、次々と明らかになっていった迅駆事件に関する『真実』を、どこか僕は醒めた気持ちで見守っていたように思う。もちろんそれは、かつて熱狂したものの嘘が暴かれていくことへの無意識の防衛でもあったろうし、何かを冷笑することでその上位に立つことができるという勘違いに基づく思考でもあっただろう。でもやはりそれらを取り除いてもなお、僕の感情は冷え冷えとしていたように思う。僕は「エンジェル・ストーリー」を香月本人が執筆したと考えている。年少の読者を対象として、勧善懲悪の価値観を前提に綴られるステレオタイプな冒険譚でありながら、その細部にはどこか暗い影が落ちていた。たとえば、序章における異様に細かい死体の描写もそうだし、時に主人公であるレイヴは冷酷でもある判断を下した。モンスターに襲われた村を要人との約束のために見捨てたこともあったはずだ。泣き叫んで彼を罵倒するヒロインを理路整然と論破していく部分はいまでも強烈に覚えている。そういう細部は、迅駆事件のさまざまな側面が露になるにつれ明らかになっていった、香月の狡猾な部分と一致した。ゆえに、ああいう小説を書くような人間なら、自分を嘘で塗り固めることも厭わないだろうと思ったし、逆にそういう人間だからこそああいう小説を書けたのだろうと思った。そして、あの小説の薄汚いリアリティこそが、僕にとって特別だったのだろうと思う。それから、いくつもの小説を読んで、漫画を読んで、アニメを観て、それでも自分の根本にはあの小説があることに、いまさらながらに気付く。だれもが自分に酔った「英雄」の余技ととらえて、一顧だにしない代物が。
 溜息をついて、古本屋のビニール袋から本を取り出す。古本には珍しく紙のカバーがかけられていた。別に外で読むわけでもないし、古本だというのに手垢などを心配していても仕方がないのにと思う。もう一度あの妙な表紙を見ようと思ってカバーを外そうとしたとき、何か不自然なものが手に触れるのを感じた。と同時に、紙片がカバーと本の隙間から落ちる。拾い上げる。灼けた、ノートの切れ端。薄く、青い平行線を無視して殴り書きされた文字。
〈神野由美奈を殺したのはお前だ〉
「ちげーよ」
 思わず口に出して云ってしまった。反射的に投げ捨て、そして少し考えて、それからやっと背筋に寒気が走る。これはいったい何なのだろうか。レジで付けられるブックカバーと本のあいだに挟まっていたということは、古本屋の店員が挟み込んだものと考えるのが妥当だろう。と、とりあえず「犯人」は容易に推理できるのだが、「動機」がまったくわからない。あの古本屋を訪れたのは初めてだった。そこで僕が本を買ったのがまったくの偶然である以上、無差別に紙を挟みこんだか、あるいは僕の容貌を見て、一瞬のうちにそうすることを決めたのかもしれない。いずれにせよ気味の悪いことには変わりない。
 いつもであれば高度に発達した忘却機能を駆使して、こんなことはすぐに意識の奥底にしまいこむ。だからこのとき、僕が再び古本屋に向かい、店員に真意を訊こうと思ったのは、極めて珍しいことといえた。そもそも、両親の遺産を食い潰し(そもそもが食い潰せるほどの額ではないのに)、生活必需品を宅配によって賄っている現在、外出したことすら久しぶりだったのだ。外気を吸って高揚していたこともあるし、神野由美奈のことを調べるために〈爆心地〉に向かうことができないかわりに、第二階層のなかで済ませられる探偵ごっこで感情を充たそうとしたのかもしれない。わからない。過去の自分の感情を説明するということは僕にとって、もはや存在しないものを手に入れようとすることに等しく思える。
 しかしもう時刻も遅くなっていた。これから例の古本屋に向かったところで営業してない可能性すらある。どうせ何もすることなどない。外出は翌日にすることにして、とりあえず久しぶりに手に入れた「エンジェル・ストーリー」を読むことにした。ふとカーテンの隙間から外を見る。日照りはまだ続いていた。

2.

 一時間弱で一冊を読み終え、夕食をとり、深夜までネットワークを徘徊して、寝た。夢は見なかった。そして眼醒めると、昼過ぎになっていた。炭水化物のみで構成された食事を済ませたのち、何気なく横になったところ、急に出掛けるのが億劫になり、二時間ほどそのままでいた。精神の一部はあきらかに焦りを覚えているのに、それをはるかに覆い隠す怠惰が僕を抑え付けていた。ようやく動く気になったのは午後三時すぎのことだった。窓の外を見ると、小雨が降り始めていた。ようやく日照りを終わらせる気になったらしい。もう少し早く出ていれば雨を逃れることができたのにと思うが、詮無いことだ。せめて諦めだけは諦めたくない。
 もはや前にいつ開いたかも思い出せないビニール傘を持ち、外に出る。大通りをまっすぐ歩いて二十分ほどのところにその古本屋はある。しかし、やはり人通りが少ない。おかしいと意識の一部分が訴えるが、何しろ前にこうやって通りを歩いていたころの記憶がすでにあいまいになっているので確信することができない。もしかしたら前からこの程度だったのかもしれない。釈然としない気持ちを抱えながら、脚を動かした。
 一目見て、異常に気付いた。ドアの横に据え置かれたカートのなかの本が、雨で濡れていた。そのなかにはそれなりに貴重なものもあったが、僕にはどうすることもできない。通常であれば雨が少しでも降り始めた時点で、こういった外に陳列されている本はしまわれるか、少なくともカバーによって守られるはずだ。それがこうやって、無残に雨にさらされている。
 透明で、店内が透けて見えるドアは開いていた。雨粒が店内へ落ちている。昨日訪れたときも開いていたが、雨が降っているいま開いているのはおかしい。なかに入る。ある程度予期していたとおり、なかには店員も含め人はいなかった。念のため、すいませんと、何度も店内で声を張り上げたが反応はない。これほど大きな声を発したのはいつ以来だったのだろうか。途方に暮れた。その一方で、いまこの店内にある本を盗んでも露見することはないのではないか、というほのかな期待のようなものも胸をよぎった。まるで遠い昔に読んだ漫画の有名なエピソードのように、気に入らない人間を次々と消し去ったあとの街を彷徨う子供のように、僕は無人の古本屋のなかをうろうろした。陳列された本を出したり戻したりした。実際、このまま持ち帰っても何の問題もなかったろう。前々から欲しかった本もそれなりにあった。だが僕は持ち帰らなかった。罪悪感からではない。何かそれがひどく不自然な気がしたからだ。僕がそれをすることで、いまここにいない店員の存在が、本当の意味で消えてなくなってしまうような気がしたからだ。
 やはり人通りの少ない道を家に戻りながら、このことが何を意味するのかについて思考を巡らせたが、明瞭な答えは浮かばなかった──というか、まともに物を考えることが出来なくなっていた。思考能力が錆び付いているというか、一点に意識を集中させることができない。愕然とした。言葉もろくに出てこないし、事象から事象を連想する能力も失われている。腐った、と思った。ぼくのあたまのなかはくさってしまった。そう思うと同時にひどい絶望感に襲われ、叫び出しそうになったのを必死で抑えているうちに共同住宅の前に着いていた。足取りは乱れ、息は荒く、手は口を覆っていた。そうでもしないと叫びだすどころか、嘔吐すらするのではないかと思った。どう見てもまともな状態とは思われない。相変わらず人通りがなく、注目されることもなかったことだけが救いだった。
 自分の部屋の前まで戻り、鍵を開けてなかに入った瞬間に全身から力が抜けた。ようやく気兼ねなく叫べると思ったが、口から漏れたのは空気の抜けるしゅうしゅうという音だけだった。咳き込む。涙は出そうで出ない。いったい何がそんなに自分に打撃を与えたのか。使いもしない脳味噌が腐敗しただけじゃないか……違う。いい加減認めるんだ、おれはいままで何を根拠に生きてきた? 大して高くもない知能ではなかったか。人より少しだけ頭が回るのを根拠に、せいぜい頭の劣った者どもと見下して、それで少しずつ生き延びるためのよすがとしてきたのではなかったか。……こんな問いだって何度も繰り返してきたことだ。相手の存在しない優越感ゲームの繰り返し。自分を深く問い詰めることのできる存在としての自分。そう認識することはすべての矛盾や眼の前にあるものを打ち消していく、白色に。そしてこの問いすらももう何度も繰り返してきたものだ。
 夜になっていた。
 朝と同じ食事をして、ネットワークへと接続する。昨夜自分を覆っていた闇は消えてこそいないものの、限りなく薄くなり、眼を背けることが可能になっていた。例の古本屋やブロック名などを交えて検索を繰り返したが、膨大な件数の情報が表示され、関係のありそうなものはまったく見つからなかった。専門性の高いエンジンを使ったり、検索語句を増やしたりして検索件数を絞ってみたがうまくいかない。気が付くと数時間が経っていた。もういい加減やめにしようと思いつつだらだらと続けていたとき、「消されたらしい」という文字列が不意に眼に入った。関係ないかもしれないと思いつつページを最初から読み進める。それは見たことのないニュースグループのログだった。まったく関係のない話の流れのなかに唐突にその投稿はポストされていた。文法が崩壊しており、適度な改行も行われていないうえに、ある文脈のなかでのみ解読しうると思しき唐突な単語選択が頻出しているので読みづらいことこの上ない。ただ少なくともあの古本屋から店員が消失した事実について触れた文章であることは推察できた。ただでさえ損なわれている思考能力が寝不足によってさらに空転する。文字の羅列は意味を失い、奇怪な形に組み合わさった線の集合と化していた。ネットワークを切断して、底なし沼に沈むように眠る。翌朝、底なし沼から這い上がって、ネットワークに接続し、履歴から投稿を辿った。投稿は消えていた。なくなっていた。欠片も残さずに。
 ああ、駄目だ、街に出なければと思った。その感覚には虚しさが伴っていた。街に出たくはなかった。そこには何もない、むしろ僕から何かを奪い取っていくのだとわかりきっていた。眼の前に見えている落とし穴に自分から脚を突っ込むようなものだ。それでも僕はネットワークを切断して街に出なければいけなかった。教訓的な意味はない。秘められた願望が僕のなかにあったのでもない。ほとんどの時間を家のなかで過ごしている若い男が久しぶりに遠出をする、その現象に本来付随するはずの物語はそこにはなかった。ただ家から出なければいけない。僕はそう思った。
 そうはいっても外出じたいはここ数日連続して行っている。今回の外出がそれまでのものとは違うのは、階層を降りる点においてだ。僕は完全に家に閉じこもっているのではない。ただあの時から、第二階層を出ることはなかった。強いて云うならば第二階層が自宅の外にあるもうひとつの外枠として機能していた。
 階層エレベータは古本屋へと通じる大通りとは逆のほうにある。比較的つくりが古い建物が連なる一帯をすり抜けるようにして進むと、B-5ブロックに出る。さらに東側へしばらく歩くと、商業街の路地裏に藍色に塗り固められた異様な建物がたたずんでいる。それが階層エレベータの入り口だ。こう描写すると大仰だが、僕以外の一般住民がみな毎日のように利用しているものにすぎない。それでも僕にとっては明確に内と外を隔ててきたものだ。近付くごとに動悸が激しくなるのを感じる。それでも歩みが止まることはなく、気が付くと眼の前に藍色の壁があった。設置されたスイッチを押すと、しばらく機械の作動音が響いて、ドアが開いた。相変わらず動悸は続いていたが、身体が行動を拒否することもなく、僕は箱のなかに入る。「3」と書かれたスイッチを押す。記憶の奔流が流れ出すこともない。あのときのことももうあまり思い出せない。ただ倦怠感。ずっと続けてきた習慣を止めたときのような。自分のなかで何かが失われたことは確かだが、それが何を意味するのか、何も意味しないのか、わからない。箱のなかには僕のほかに誰もいなかった。記憶のなかでは常に込み合っていたはずだが、もはやそういった記憶すらもあいまいになっているのかもしれない。女性の声でナレーションが流れる。第三階層まで降りるには十五分くらいかかるらしい。ご了承くださいとナレーションは云った。毎日のようにこのエレベータを利用している人々は、内周に沿って設置された椅子に座って、毎日のようにこの言葉を聴いているのだろうか。

3.

 まず青いと感じて、次に何かが違うと思った。数年間の月日が経っているのだから何も変わらないほうがおかしいのだが、それを超えた、何か根本から組み立てなおされてしまったような強烈な違和感が僕を襲った。記憶にあるのと同じ事物も、周到にすりかえられた偽物のように思えてならなかった。第二階層と同じく人通りはない。やはりおかしいと思うが、断片は組み合わさろうとしない。もうそれを拒絶しようとも思わない。あらゆるものが諦めへと落ちていく。
 そのときふと気付いた。小さな機械の作動音が連続して聞こえる。何だろうと思い音の鳴るほうへと視線を向けた。街頭に備え付けられた、空虚な円形のレンズと眼があった。異音を発するのはその眼ではない。その下からこちらへ突き出された物体。そちらに通じているわけではないがすぐに識別できた。それほどに特徴的な姿をしていた。漆黒、細長い円柱が重ねられたような形の銃身。素人目には機関銃のように見える。僕を見据えて、微動だにしない。それなのにまだどこからか作動音がするということは、他の機関銃が標的を探しているのだろう。そう思った瞬間、あらゆる思考回路が焼ききれた。
 常識的に考えれば最悪の行動だろう。僕は背を向けて、出たばかりの階層エレベータへと駆け戻ろうとしていた。数歩で息が切れ、唐突に耐え難いほどの喉の渇きが意識の最前面に現れる。身体が思うように動かない。おそらく数十秒にも満たなかったろうが、エレベータに戻るまでの道のりが果てしなく長く思えた。ろくに見もせずにスイッチを押す。閉まるドアの隙間から覗くと、カメラはまだこちらを見ていた。
 ナレーションが聞こえた。「第五階層へ降下します──到着までには二十五分ほどかかります、ご了承ください」
 喉の渇きはしばらく癒されそうになかった。

 ……降下するエレベータのなかで、到着した瞬間に引き返すようにしようと、「2」のスイッチを押したが反応はなかった。どうやら静止した状態でないとスイッチは反応しないらしい。舌打ちをしてついでに唾液を呑み込む。椅子に腰掛けてぼんやりと待つ。疲れが押し寄せてきて、かすかな揺れも手伝って眠りこみそうにすらなる。
 ようやく到着したようなので、ふたたびスイッチを押そうと立ち上がったときだった。開くドアの隙間から血まみれの男が転がるようにして入り込んできた。男の向こうに見えた第五階層では明らかに異変が起きていた。赤い、と感じる。街なかで幾多もの男たちが縺れあうように動いていた。片方が倒れ、立ち上がろうとして、崩れ落ちる。もう片方はそれにさらに蹴りを食らわせる。そういう光景が、視界のあらゆる部分で展開されていた。僕は「2」のスイッチを連打した。ゆっくりとドアが閉まる。こちらへ走りこんでくる男たちの姿が見えたが、すんでのところで扉が閉まるほうが早かった。流れ込む罵声にかき消され、第二階層への所要時間をはっきりと知ることはできなかった。すぐに罵声は聞こえなくなり、「ご了承ください」という言葉だけは聞き取ることが出来た。良かったと思った。倒れこんだ男は動かなかった。
 階層エレベータが第二階層に着き、ドアが開いた瞬間、僕はまた走り出した。男を置き去りにして、枠のなかへ。

 朝が来ているらしい。そして昼になって、夜へと滑り落ちていく。そして気が付くとまた朝がその姿を現す。それが繰り返されていた。時間が流れていることだけは確かだ。それ以外のことは何もかも確かではない。あらゆるものの実在が疑わしく思えてくる。自分がこうして部屋のなかで寝転がっていることも、誰かの想像のなかの出来事であるかのように思えて仕方がなかった。時々「エンジェル・ストーリー」を繰りながら考える──この物語のように、この僕の現実も、誰かの物語なのかもしれない。いやきっとそうに違いない。だから眠ろう。
 もっとも内側、自分のなかのことですら見えないのに、外のことなど考える余裕があるはずがなかった。だからいつから変化したのかと問われても答えようがない。窓の外は毎日一度は見ていたはずだが、見る、という行為をはっきりと意識していたわけではない。ただ、色を確認していただけだ。青くも、赤くもないことを確認していただけだ。
 だから、いつから第二階層にもあのカメラと機関銃が設置されるようになったのか、僕は知らない。

 いつからそれを使っていないだろうかと考える。生活必需品の宅配もかなり前から何の滞りもなく行われるようになっていて、わざわざこちらから電話をかける必要など長い間発生していない。大概のことはネットワークを使って行うことができたし、そうではなく、個人的感情から他人に電話をかけることなど、ちょうど第二階層から出なくなったころから、まったくなかった。実際、電話機には埃がかなり厚く積もっていた。携帯電話はあの時期にあっさり解約したのに、自宅の電話は解約せず律儀に料金を払い続けてきたのは何故だったのだろうと考える。凡庸な回答しか思いつかなかったので考えるのを止めた。そうだ……もう僕は考えるのを止めるべきだ。そんなものはもはや空転でしかない。自己を誇るための虚しい思考など捨ててしまえばいい、──という思考。とにかく、この理不尽を少しでも解きほぐすために、僕は昔の友人に電話をかけようとしている。そしてそれは同時に、情報を収集するためのツールとしてのネットワークを断念したことを意味する。また凡庸な物語が近付いてくる。僕はそれを振り払う。ただ、使えないものを諦めて、次の手段に移っただけだ。貴様らが望むような、一対一のコミュニケーションの素晴らしさなんてものは、悪臭のたちこめる排水溝のなかに沈んだままだ。これさえ終われば僕はまた、空ろで皮相的で無意味な仮想へと帰ってゆくことだろう。
 実際に声に出してそう呟いて、僕は表面の埃を払い、受話器を取った。趣味の悪い語呂合わせで暗記していた番号を打ち込む。「現在この番号は……」。一瞬のうちに体温が下降するのを感じるが考え直す。待て、最初にモバイルコードを入力したか? していない。やり直す。単純な電子音が断続的に鳴る。それは脳髄を心地よく揺すぶる。あれだけの時間惰眠を貪ったというのにまだ眠いというのかと自分に呆れる。
 唐突に電子音が途絶えた。名を告げると、電話の向こうでかつての友人は、心底意外そうな声で久しぶりだなと云った。
「ああ、……久しぶりだ」
「本当にな。それで、いきなりどうしたんだ」
 と問われ、いきなり言葉に詰まる。ほとんど衝動に駆られるがままの行動だったので、口実など考えもしていなかった。どうして街頭に機関銃が据え付けられているんだと訊くのはいくらなんでもおかしいだろう。しかしどのような道程を経れば不自然なくそのことを訊くことが出来るだろうか。数秒の思考ののち、不可能だ、という答えが導き出された。こういうときは、まずガードを限界まで下げる。いままでそうやって生きていたはずだ。
「あのさ、あー、いや、あ、あのとき以来、おれ引きこもってたんだよね」
 まれに外出していたのでこの云い方は正確ではないのだが、こういうときに状況を正確に記述しようとしても煩雑になるだけだ。細かい違いに拘泥するのは当人だけで、他者から見ればもとから大差はない。
「ああ、そうだったんだ」
 そっけない返答にどういったニュアンスがこめられているのか、僕は判断できない。だからしない。
「で、この間、すっげー久しぶりに街に出たのね。そうしたらなんか人も少ないし、変だーって思ってて……」
 できるだけ軽薄な調子でそこまで喋ったところで、相手が息を呑むのがわかった。話すのを止めて、言葉を待つ。
「お前……あー、読んでなかったのか、新聞とか、なんか、あと、テレビとか」
「ああ、うん、あーいうのは信用できないと思って、ネットワークだけ……」
「そうか、……やっぱそういうのってあるんだな、うん」
 ひとりで納得したようにうなずいているので、少しいらつく。
「なんだよ」
「いや、な。落ち着いて聞け。俺に電話してきたってことはお前なりに違和感を抱いてたってことだから、普通よりは受け入れやすいとは思うけど、それでもあまりにお前にとって突飛な話であることには変わりはないだろうから」
「いいから云えよ」
「じゃあ云うから……、いいか、お前が引きこもっている間に、前の政権はひっくり返ったんだよ。クーデターって奴だ」
 その言葉を聞いたときの微妙な感覚はなんとも表現しづらい。予想もしていなかったのは確かだったが、その反面、云われてみれば、という気分でもあった。どうしても解けないクイズの解答が実にシンプルであったような感じ、あるいは虚を衝かれたという表現がもっとも近いのかもしれない。昔の友人は続けた。
「ネットワークだけ見ていたお前が知らなかったのも無理はない。そいつらはまずネットワークとモバイルでの通信を制圧したんだ。そんなこと無理だと思うだろう。確かに世界レベルでネットワークを制圧するのは不可能だろう。だがこの都市だけならそんなに難しいものではなかった。いくつかのゲートアドレスを押さえて一切の情報を遮断するだけで充分だ。そのあと、第五階層、つまり〈コア〉から支配していったわけだ」
 そこまで聞いて、唐突に思い出したことがあった。
「じゃあ、神野由美奈は……」
「ああ、なんだそりゃ──ああ、音無実夏を殺った、あの? その話、どこまで知ってる?」
「焼かれて、手足を切られて、そ、それでその両腕と両脚を入れ替えられていたって……」
「死んだのは事実だ。しかしそんな大仰なことにはなってないはずだ。なぜなら第五階層では相当抵抗があって、完全な戦闘状態になってたからな」
 それは僕も知っている。だが黙る。それを伝えることによって話がややこしくなるのが容易に予想できた。
「いまも続いてるそうだが、数週間前まではその比にならない状態だったそうだ。要は戦争だ。第五階層ではお前の知らない間に戦争が起きていたんだよ。確かに、神野由美奈は死んだ。だがな、いいか思い出せ、あのときはやたらに訃報が多くなかったか?」
 思い出せない。そうだったような気もするし、そうでなかった気もする。答えが返せずにいた。
「要はこういうことだ。戦争状態になった第五階層では山ほど死人が出た。そのなかには当然有名人もいた。お前も知っているようにネットワークは停止されたわけではない。検閲され、改竄された状態でお前らのもとへとお届けされていたんだ。有名人が死んだことは、お前のようにネットワークしか見ていない連中にも隠し通せないと判断して偽の訃報を流すことにしたんだろう。同じ時間、テレビでは第五階層の生中継を行っていたんだが。まあじきにマスメディアも全て制圧されたわけだが」
「それでいまも──抵抗活動は続いてるのか?」
「第五から第三くらいまでは完全にやられたらしい。お前第二だっけ? そこはまだ途中だ。とにかくもう激しい戦闘とかはなくて、これまで与えてきた恐怖を使って一瞬のうちに、無血状態で制圧しているらしい。……まあもっ」
 なぜ電話を切ったのかわからない。
 混乱とか、そういったものですらない。身体は芯から冷え切っていて、感情と呼べるものが自らのうちにかつて存在していたことすら信じられなかった。僕が知らないうちに、枠の外はすべて変ってしまっていた、枠のなかの僕を残して。カーテンは開いたままだ。カメラは僕を見ている。もしかしたら次の瞬間には、この電話を盗聴していた誰かがスイッチを入れて、機関銃から弾が発射されるのかもしれない。だがそのことよりも、僕はカメラの視線におびえていた。あのとき誰かが、僕を見ていた視線とそれは同じもののように思えた。この街全体が僕を見ていた。嘲笑っていた。僕は窓に近付いて、カーテンを閉めた。視線は遮断された。これでいいと思った。これでいい。これでもう、誰も僕を見ることはない。あとはこの枠のなかにいればいい。二度と、死ぬまで、僕はこの枠から出ることはないだろう。それだけだ。それでいい。何故か知らないが、まだ配達は続いている。遺産は何年後かには尽きるが、そんなことはどうでもいい。見られるよりは餓死するほうがまだ良い。布団にもぐる。急激に眠気が襲ってきた。圧倒的に僕を埋め尽くす闇。そのなかにひとつ、白く目立つ埃があったような気がした。
 メモを見て、友人の存在を思い出して、そして電話をかけた。で、あいつはいったい、誰だったのだろう? 第五階層から第三階層まで完全に制圧された、で、彼はいったいどの階層に住んでいるのだろう? 完全に制圧されたということは、モバイルによる通信は検閲状態にあるはずだ。しかし第二階層のことを『そこ』と呼ぶということは第二階層ではないはずだ、つまりそれは何を意味するのだろう……?

 まあいいや。

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