『輪廻/輪舞』 (2)
3.好き
中学生になった私は、部活に入った。望んだ訳じゃなく、強制だったから。
相変わらず私はひとりきりで、友達なんていなくて。誰にも話しかけてもらえないし、話しかけようともしていなかった。
選んだ部活は、吹奏楽部だった。演奏をしていれば、しゃべらなくても済むから。
夏の匂いがしてきた頃に、私はトランペットを吹くことになった。
先輩は、同じトランペット担当の人だった。
秋の演奏会に向けての練習。夏休みは、ほとんど毎日のように学校の音楽室へ通った。
先輩はとても丁寧に教えてくれたし、決して怒らなかった。それに、嘘を言わなかった。
良く笑う彼と一緒に、私も少しだけ笑えるようになっていた。
開いた窓から風が入り込む日には、窓辺に立って並んでトランペットを吹いた。
夕陽が眩しくて、暑くて、気持ち良かったことを覚えている。
夏休みが終わって、演奏会もそれなりの成績で終わって。だんだんと空に秋の色が混じり始めた頃。私は先輩のことが好きなのだと、気づいてしまった。
それは突然で、抑えることなんて出来なくて、どう言葉にして良いか分からなくて。
初めて、自分の気持ちを文字にしようと思った。
一週間かけて何度も書き直したラブレターを、一週間もバッグの中にしまっていた。渡す機会をずっと待っていた。
家に帰っても、先輩のことが頭から離れなかった。眠る前には、いつも先輩の笑顔を思い出していた。
眠れない夜と、落ち着かない毎日と、溜め息。そんな日々がしばらく続いて――
街路樹の葉が色を変えた頃、やっとその機会は訪れた。
部活が終わった後の音楽室。その日、残ったのは先輩ひとりだった。
準備室で楽器の手入れをしていた先輩に、手紙を渡す。緊張して息が出来なかった。声も出せなかった。ただ、先輩の前に封筒を差し出しただけ。
指先が震えて、顔を上げられなくて。受け取ってもらいたいのに、逃げてしまいたくて。
先輩はそんな私の手から、そっと封筒を受け取ってくれた。
大事そうにポケットにしまってから、「返事は後で良いかな」と言ってくれた。顔を上げた私の目の前に、先輩の素敵な笑顔があった。
私は何度も頷いて、逃げ出すように準備室を飛び出した。
家までの帰り道。目に映る景色が変わったような気がしていた。
胸の高鳴りは、家に着いても収まらなかった。
部活に行くと、先輩と逢う。他の人のことなんて、気にならなかった。ただ、先輩がいることだけしか頭になくて。返事をもらうのが待ち遠しくて。でも、怖くて。演奏を失敗してしまう日が、二日続いた。
三日目に、先輩は「ちょっと残って欲しい」と言ってくれた。
私は顔を上げられないまま、それでもしっかりと頷いた。
窓から差し込む夕陽で、音楽室はオレンジ色に染まっていた。
音楽室には、先輩と私の二人しかいなかった。部屋の隅に立つ先輩と、向かい合う私。
外からは、誰かの楽しそうな笑い声が聞こえていた。
先輩が口を開く。「良いよ。付き合おうか」と。
私は伏せていた顔を上げて、自然と浮かぶ笑顔を先輩に向けて――
彼の、歪んだ笑顔を目にした。私の笑顔も、凍りついた。
衝撃があって、痛みが遅れてやってきて、目の前が真っ暗になった。
唇が、痛かった。
肩を強くつかまれて、強引にキスをされた。そう気づいたのは、先輩が顔を離してからだった。
唇が痛かった。先輩の歯が当たって、少し切れていた。血の味が、口の中に広がる。
「お前、誰とでも寝るんだろう。他の子たちがそう言ってたよ」
下卑た笑みと、酷い言葉。嘘の言葉。
私は違うと言いたかった。誰かを好きになったのも、キスをされたのも初めてだと言いたかった。
でも、先輩は弁解をさせてくれなかった。力ずくで組み敷かれ、圧し掛かられた。
「誰とでも寝るなら、俺にもさせるよな」
荒い吐息と、途切れ途切れの言葉。聞き取るだけで精一杯の言葉。
私はただ、考えていた。どうしてなのだろう、と。
どうして先輩は嘘を言ったのだろう。先輩に嘘を教えた子は誰なのだろう。そして、その子はどうして先輩に嘘を言ったりしたのだろう。
私はどうして、先輩に信じてもらえなかったのだろう。
服が乱暴に剥ぎ取られ、体に痛みが走った。とても、とても痛かった。体が二つに裂けてしまうんじゃないかと思うくらいに、痛かった。
それでも、逆らうことも逃げることも思いつかなかった。揺れる視界が気持ち悪くて、目を閉じた。
しばらくすると、先輩は服を着て音楽室を出て行った。何かをしゃべっていたけれど、聞き取れなかった。
ひとり取り残されたまま、私はずっと考えていた。どうしてこうなったのだろう、と。
服のポケットからティッシュを出して、汚れた部分を拭いた。少し血がついていて、痛かった。服を着て、バッグを持って、帰途に就いた。
どれだけ考えても、分からなかった。どうしてこうなったのか、その理由が分からなかった。
次の日は、学校に行かなかった。
週が明けて、お母さんに言われるままに学校へ行った。
どれだけ考えても、答えは出そうもなかった。
どうして私に関係ない人の言葉で、私が決められなくてはならないのだろうか。どうして先輩はあの後すぐに帰ってしまったのだろうか。
どうして、あんなに痛かったのだろうか。
授業は頭に入らなかったし、部活にも行く気にはならなかった。
放課後、私の下駄箱から靴がなくなっていた。
学校に行かない日が増えた。部活にはあれから一度も顔を出さなかった。
いつからか、私を見てひそひそと話す人たちが増えていた。担任の先生でさえ、おかしな目で私を見るようになっていた。
理由を知ったのは、机に書かれた落書きを見た日だった。
黒いペンでぐちゃぐちゃに書かれた落書きの中に、あの日先輩が言ったような言葉が並んでいた。「誰とでも」、と。
机の前で立ち尽くしていると、教室のあちこちから酷い言葉が向けられた。
私は雑巾を濡らして、一生懸命机を綺麗にした。先生は、そんな私を見ても何も言わずにホームルームを始めた。
放課後、たくさんの女の子たちに囲まれていた。みんな、とても怖い顔をしていた。
校庭の隅の、石段の脇に連れ出されて、殴られた。
先輩に手を出したことが気に入らないと言った子がいた。誰か知らない人の名前を出して怒る子もいた。ただ笑って殴る子もいたし、醒めた目で私を見下ろす子もいた。
みんながみんな、私のことを嫌っているみたいだった。
何か言いなさいよ、と言われても、私は何も言わなかった。言いたいことなんて、何もなかった。
誰かが助けに来てくれることもなく、女の子たちは日が暮れるまで私を殴り、蹴り続けた。代わる代わる、額に汗を浮かべながら。
気がつくと、私は公園にいた。辺りはもう真っ暗で、人の気配なんてなかった。
街灯の白い光が、水道の蛇口を照らしていた。捻って、水を出す。
顔ばかり殴られたせいで、立っているのも辛かった。吐きそうだったけれど、我慢した。流れる水は冷たくて、それでも顔を冷やすには足りなくて。
汚れた制服を見下ろして、傷だらけの手足を見下ろして――
泣けるかな、と思ったけれど、泣けなかった。
とても嫌な気持ちがしただけだった。
熱にうなされながら、ベッドの中で考えていた。
先輩を好きになったことが、悪いことだったのかもしれない。だから私は先輩に乱暴をされて、みんなに酷いことをされたのかもしれない。
誰も好きにならなければ良いのかもしれない。好きになっても、近くにいなければ良いのかも。
そんなことを思って、家のトイレで吐いた。涙が頬を伝って落ちた。
中学校の残りの期間、私はひとりきりで過ごして、卒業をした。
誰も好きにならなかったし、誰かと話した記憶もない。
それは、小学校の頃と同じだった。でも、もっと苦しかったと思う。
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