『輪廻/輪舞』 (3)

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4.足跡

 冬のある日のこと。寒くて寒くて、震えの止まらなかった夜のこと。
 カーテンの隙間から外を眺めると、妙に明るかった。
 雪が、積もっていた。
 見慣れた景色は白に覆われ、平坦になっていた。
 コートを着て、手袋をして、ニットの帽子を被って、靴下を二重に履いて、外に出た。
 音のない夜。風のない夜。誰もいない、止まったような夜。
 何も考えず、歩き続けた。私ひとり分の足音だけが、私に聞こえていた。
 誰かに呼ばれた気がして、振り返る。誰もいなかった。でも、足跡が残っていた。
 真白な雪に点々と、私が歩いてきた跡が残されていた。
 私は目を閉じて、深呼吸をして、部屋に戻ることにした。
 部屋の窓から外を見ると、雪の上に足跡が残っていた。
 嫌な気分だった。


5.夜の街

 どうして高校に進学したのか、私には分からなかった。お母さんが何かを言った記憶があるから、それでだと思う。
 とにかく私は名目上、高校生になっていた。
 もちろん、学校にはほとんど通わなかった。

 家にいるとお母さんが、冷たい目と冷たい言葉で私を責める。どこかで聞いたような単語を並べ立てて、私を追い詰めようとする。優しい言葉なんてくれない。
 学校に行っても、私はひとりきり。気まぐれに話しかけてくる子もいたけれど、その誰もが私に下卑た目線を向けていた。その度に、私はあの日先輩に言われた言葉を思い出して、少しだけ嫌な気持ちになった。
 人を好きにならなくても、誰とも話さなくても、嫌な気持ちにはなる。
 そんなとき、私は夜の街に行くことを覚えた。

 誰かに誘われた訳でもない。ただ、何となく明るかったから足を向けた、夜の街。
 胸の高鳴りよりも、見知らぬ恐怖よりも、安心感があった。
 街には私のような行き場のない人がたくさんいるように感じられた。そして、そんな人たちが時間を過ごす場所もたくさんあった。
 ホール、クラブ、カラオケボックス、ネットカフェ、ゲームセンター、ファミリーレストラン、ファーストフード店、コンビニの裏。それと、ライブハウス。
 私はライブハウスの雑多な雰囲気を選んで、夜を過ごすことが多かった。ステージの見えないテーブル席にひとり座って、じっと待つ。
 朝になるまでの時間を、一緒に過ごしてくれる人が訪れるのを、待っていた。

 お母さんの酷い言葉が聞こえない部屋。同級生の下卑た視線を受けなくて済む部屋。
 朝陽が昇るまで、何も考えずにいられる部屋。薄暗くて、ときどきおかしな匂いがするけれど、気にならない。一度きりの男の人が、私の上で呼吸を荒くしていても。流れた汗が顎の先から、私の胸に落ちてきても。
 やれと言われたことをやって、後は黙っていれば良かった。全然気にならなかった。気持ち悪くもならなかった。
 ときどき、薬をくれる男の人もいた。後腐れがないように、と。確かに、それは大切なことだった。私の中に他の人間が出来るなんて、考えたくもなかった。私の中から他の人間が出て行くなんて、考えるだけで苦しくなった。
 言う通りに振舞う私に、時々酷いことをする人もいた。何人かに囲まれるようなこともあった。けれど、私は逃げなかったし、何も言わなかった。
 まるでマネキンのようだ、と言われたこともあった。気味が悪いと逃げ出す人もいた。悪人のような格好や仕草の人ほど、私から逃げ出すことが多かった。
 弱いな、と思った。それと、とても憐れにも見えた。去り際に言い残す言葉は、子供の言い訳にしか聞こえなかった。
 ライブハウスの隅の席。いつも決まって座っていた席。そこに誰も近寄らなくなった頃、私は家に帰ることにした。

 夜の内に家に帰って、自分の部屋に入る。
 見知らぬ人の部屋のような感じがして、落ち着かなかった。埃の匂いと、動かなかった空気の匂い。脱ぎ捨てた服は、床にだらしなく広がった。
 自然と訪れた朝。目覚めて、高校の制服を着て、居間に行く。両親が私に向けた視線は、忘れられない。汚物に触れてしまった手を見るような、嫌悪と諦観の混ぜこぜになった視線。
 学校に行く。それだけ言うと、私は家を出た。真新しいまま埃を被っていた鞄に、一度も開いたことのない教科書を詰めて。

 高校には迷わずに行けたし、自分のクラスもちゃんと知っていた。それらしい席に座ってぼんやりとしていると、ホームルームが始まった。担任の先生は、男の先生だった。
 ホームルームが終わると、生徒指導室に連れて行かれた。私はいつものように、逃げなかった。
 圧迫感のある、落ち着かない部屋だった。壁一面に書棚があるのに、中身はほとんど空で。窓はあるのに、カーテンは閉まったままだった。ここなら、いつも連れて行かれる薄暗い部屋の方がずっと落ち着けると思った。
 私を椅子に座らせると、先生は何かを言い始めた。言いながら、ちらちらと私を見ている。私の目でなく、体を見ている。
 きっと、誰かから噂話でも聞いたのだろう。どういう噂かはどうでも良い。ただ、先生でさえその噂を信じている。私以外の人間が語った、私のことを。
 どうでも良いことばかりなんだと思った。溜め息も出なかった。
 頷くだけを繰り返していると、チャイムが鳴って開放された。教室には戻らず、そのまま学校から帰った。

 鞄を置き忘れていたことに気付いたのは、家に着いてからだった。

 制服を脱いで、ハンガーにかける。あまり服の入っていないクローゼットに、しまう。出来るだけ大きなバッグを探して、私は服を詰め込んだ。
 その日、玄関を出るときに「いってきます」を言わなかった。
 だからなのかもしれない。家に戻らなかったのは。

 そして、その日が両親の顔を見た最後の日だった。


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