『輪廻/輪舞』 (4)

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6.怖いもの

 結局私は、いつものライブハウスに戻っていた。
 荷物はコインロッカーに投げ込んで来た。バッグひとつ分の、私の荷物。他には何も持っていない。
 時々声をかけて来る人について行って、お金をもらって時間をやり過ごしていた。
 悪いことだとは思わなかった。ただ、惨めな気持ちにはなった。
 自分の気持ちをちゃんと伝えられる相手もいない。無条件に安らげる部屋もない。心の底から好きになるような人もいない。
 骨と肉を引き剥がすような雑音の中で、子供の頃のことを思い出す時間が増えていた。家族がいて、友達がいた頃のこと。大声で泣いて、嫌いと叫んで。次の日には、手を繋いで走り回っていた。
 今の私には、誰もいない。何もない。目に映るのは原色の照明と、煙草の煙で霞む室内。思い思いのことをしている人たちの姿。私と関わり合いにならない人たちの姿。私の知らないことを、私の知らない相手に話して伝えようとしている、そんな人たちの姿。
 外国で迷子になったらこんな気持ちになるのだろうか。そんなことを考えながら、時間が過ぎるのをただ待っていた。

 そんな日がしばらく続いても、私の感覚は鈍くなってくれなかった。
 まるで時間が止まっているように、同じ苦しみが同じだけ思い出された。

 ある女の子が声をかけてきたのは、そろそろ違う店に流れようかと思い始めた頃だった。

 かわいい女の子だった。少し派手目な化粧と、ブランド物のコピーのハンドバッグ。薄くて小さい服と、短いスカート。髪の毛は色を抜いてあるらしく、焦げた卵焼きみたいな色をしていた。
 テーブルの反対側に座って、甲高い声であれこれと話しかけてくる。このライブハウスで女の子に声をかけられたのは、初めてだった。
 それなりの会話と、それなりの話題。私が相槌を打つだけで、彼女はとても嬉しそうにはしゃいでいた。
 私がいつもここにいると言うと、彼女は私の腕をつかんで、強引に席から立たせた。そして、店の外に連れ出した。どうしたら良いのか分からないまま、その子に引かれるままに夜の街を歩いた。
 ゲームセンターでぬいぐるみを取り、カラオケボックスでお酒を飲んで唄って。自販機の前に座って、内容のない会話をする。
 考えてみれば、彼女のやり方が当たり前だったのかもしれない。夜の街に逃げ込むより、夜の街で楽しむ方が正しかったのかもしれない。でも、私にはそんなことなんて思いつきもしなくて。時々無邪気に抱きついてくる彼女に、その視線に、疑問すら抱かなかった。
 
 日付が変わって、いつもなら適当な場所で朝まで眠る時間。彼女は、私をホテルに連れて行った。女の子同士でも入れるのを知らなかった私は、新鮮な気持ちで部屋に入った。かぎ慣れた匂いと、見慣れた光景。薄いシーツと、硬いカーペット。
 彼女は手馴れた手つきで有線をつける。流れてきた曲は、聴いたことのある曲だった。
 中学校の頃、トランペットで吹いたことのあった曲。一昔前の流行歌。ベッドの縁に座って、その曲を聴く。今の私はどう思うんだろう。そんなことを考えてみたけれど、何も思わなかったし、感じなかった。ただ聴いたことのある曲というだけだった。
 先にシャワーを使って良いと言われたので、バスルームに行った。シャワーで髪についた煙草の匂いを洗い落とす。肌にまで沁み込みそうな下水の匂いを洗い落とす。歯を磨いて、ドライヤーで髪を乾かした。背中まで伸びてしまった髪の毛。そろそろ切っても良いかもしれないと思いながら、バスローブに袖を通した。
 バスローブのままベッドに横になる。彼女は何かを言って、バスルームに。音楽は、最近の流行歌に変わっていた。

 かぎ慣れた匂い。見慣れた光景。薄いシーツと、硬いカーペット。
 どうしてだろう。私は、こんな薄暗い部屋でとても落ち着くようになっていた。
 湿っぽいベッドに横になるだけで、意識がだんだんとぼやけて行く。
 このまま眠ろう。そう思って目を閉じると、シャワーの音が途切れた。先に眠ってしまって、彼女は怒るだろうか。そんなことを考えて、深く息を吐いた。
 朝までの時間が、切り取られる。
 ――そう、思っていた。

 意識が途切れていたから、どれくらいの間だったのか分からなかった。ただ、私の体は嫌な汗でじっとりと濡れていた。
 彼女が、私の体に触れていた。
 何も分からないまま、心臓が弾けそうだった。女の子が、女の子の体に触れている。私にとってそれは、本当に理解出来ないことで。
 裸のまま、私の体に舌を這わせる彼女を、振り払った。バスローブの前を寄せて、ベッドから降りようとして――引き戻された。
 力ずくで組み敷かれ、体ごと覆いかぶさってきた。逃げられない。怖くて、本当に怖くて、逆らえない。
 金切り声を上げて、よだれを垂らして、目を血走らせて、彼女が何かを言う。彼女の掌が、私の胸元に伸びる。
 怖い。怖かった。必死に体を捻って、駆け出して、バスルームに逃げ込んだ。鍵を閉めて、肩を抱く。何だったんだろう。何が起きたんだろう。汗は流れ続け、奥歯はかたかたと音を鳴らしていた。
 少女が扉を叩く。ガラス戸の向こうで叫ぶ。結露したガラス越しの表情は、今まで見たどんな人より醜かった。醜くて、恐ろしいと思った。

 どうやって逃げ出したのか覚えていない。気がつけば、私はコインロッカーの前にいた。ちゃんと、服を着て。

 それから私は、あのライブハウスに行くのを止めた。
 居場所がひとつ減ってしまったけれど、あの恐怖だけはもう嫌だと思ったから。
 本当に怖いものが何なのか、少しだけ分かった気がしたから。


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