『輪廻/輪舞』 (5)
7.恋人
居場所を失くした私は、駅前のベンチに座っていた。何も考えられないまま、人込みを眺めていた。
荷物はまだ、コインロッカーの中。時々バッグを持ち出して、コインランドリーで服を洗って乾かす。それから、またバッグに入れてコインロッカーにしまう。食事はファーストフードで済ませていた。寝る場所は、カラオケボックスが多かったと思う。
お金は充分にあった。私と夜を過ごした男の人たちは、それなりのお金を置いて行ってくれたから。
そんなとき、スーツ姿の男の人に声をかけられた。
私よりもずっと年上の、小太りの人だった。
手を引かれるままに部屋に連れて行かれた。いつものような薄暗い部屋じゃなく、その人が生活している部屋。きちんと掃除された、空気の澱んでいない部屋。
男の人はコーヒーを淹れてくれた。それから、幾つかの質問。
答えられないことは何もなかった。私がどういう生い立ちなのか、両親はどこに住んでいるのか、今までどうやって生活していたのか。問われるままに答えた。
大きな溜め息を吐いた男の人は、「しばらくここに居て良い」と言った。
だから私は、しばらくこの部屋にいることにした。断る理由もなかったから。
次の日の夕方、男の人は両手に大きな買い物袋を提げて帰って来た。中身はたくさんの食材だった。
その次の日は、服を買って来た。男がひとりで買うのは恥ずかしかったと、頬を赤くしていた。
その次の日は、布団。その次の日は、文庫本を何冊か。
私は買い与えられた服を着て文庫本を読みながら、キッチンで簡単な料理をして一日を過ごしていた。夕食は、男の人が作ったものを二人で食べた。
ベランダに、二人分の洗濯物を干す。二人分の布団を干して、部屋に掃除機をかける。食器を洗って、お米を研いで、文庫本を開く。
そんな日がどれくらい続いたのだろう。鏡に映る私の姿は、少し変わってきていた。頬は桜色だったし、髪は艶やかに潤って見えた。
髪を切ろうと思って、部屋を出た。与えられたスペアキーで部屋に鍵をかけて、街に出る。こうして部屋を出るのは、コインロッカーにバッグを取りに出た日以来だった。
風がとても強くて、道端ではのぼりの巻きついたポールが大きく傾いでいた。
適当な美容室で、髪を切ってもらった。今までで一番短く切ってもらった。風が強いから、短い方が良いと思ったから。
美容室を出て、外の景色に触れる。日差しは傾いて、そろそろ夕暮れの手前にさしかかっていた。
何となく、私の足は駅へと向けられた。駅前の、ベンチに向けられた。
電車から降りてきた人たちが改札を抜け、階段を下りて私の前を通り過ぎて行く。
ベンチの前に立って、人の流れを見詰めていた。
しばらくそうしていると、名前を呼ばれた。声のした方を見ると、彼だった。
私に服を買い与えてくれた人。私に本を買い与えてくれた人。私に食事を作ってくれた人。
私に、居場所を作ってくれた人。
彼は満面の笑みを浮かべて、本当に幸せそうな表情で、私の元まで駆け寄って来てくれた。
「髪の毛、切ったんだね」
そう言いながら、彼の手が私の耳元まで伸びた。
「こんな耳の形だったんだ」
何故か楽しそうにそう言った彼の指先が、私の耳にそっと触れた。
嬉しかった。私に触れてくれることが、嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、私は泣いてしまった。
慌てて謝る彼に、私は首を何度も振ることしか出来なかった。「ありがとう」の一言も、言えなかった。
その夜、私は初めて彼に抱かれた。幸せだと思った。とても気持ち良いと思った。初めての気持ちを、たくさん与えてもらった。
誰かの腕に抱かれて眠る幸せを、初めて知った。
昼間は家事をして過ごし、夜は彼の隣で眠る。
夜は眠る時間なのだと、やっと分かった気がした。
季節が変わって、枯れ葉が道の隅に集まる頃。生理が来なくなっていた。
妊娠検査薬は、陽性。産婦人科に行くと、七週目だと言われた。
本当に、嬉しかった。私の中に、他の人間が出来た。これは、誰かと繋がった証なんだと思った。
病院からの帰り道。初めて胸を張って道を歩くことが出来た。しっかりと、前を見て。
その日、彼に妊娠したことを話した。誇らしかった。嬉しかった。幸せだった。そう、気がつけば私は、目の前にいるこの人のことが大好きになっていた。離れたくないと思うほどに、深く。
けれど――
彼は、そうは思っていなかった。
激しく怒鳴られた。鬼のような形相で睨まれた。頬を強く打たれた。
何が起きたのか分からないまま、どうして良いのか分からないまま、私は彼の言葉をちゃんと聞いていた。
彼の言葉は、とても酷い言葉ばかりだった。体がこわばって、動けなかった。動けずにいると、殴られた。痛みで体を丸めると、蹴りつけられた。何度も、何度も。
「ちゃんと堕ろしてこい」
その一言で、全身から力が抜けていった。
滅茶苦茶になった部屋の真ん中で、彼は拳を握って立っていた。一生懸命作った特別な夕食は、一口も食べられずにカーペットの上に散らばっていた。彼はその上に、何枚かのお札を無造作に放り投げて――
もう一度私を蹴って、部屋を出て行ってしまった。
堕胎手術は、すぐに終わった。頬に残った痣を見て先生は眉をひそめたけれど、何も言わなかった。支払ったお金は、彼が放り投げたものをちゃんと使った。
部屋に戻って、しみの残っているカーペットに座り込む。お腹に手を添えて、目を閉じる。もう、ここには誰もいない。誰かと繋がったはずだったのに、消えてしまった。消してしまった。
哀しかった。あんなに幸せだったのに。あんなに気持ち良かったのに。あんなに、満たされていたのに。結局私は、自分を傷つけることしか出来なかった。誰かに、傷つけられることしか出来なかった。
哀しくて、哀しくて、泣いた。声を出して、泣いた。
そしてまた、夜の街に逃げ込んだ。
体のあちこちが痛かった。通り過ぎる人は皆、私から目を逸らした。多分、酷い顔をしていたからだろうと思う。目は真赤に腫れていたし、頬には大きな痣がはっきりと残っていたから。
それでも夜の街は、変わっていなかった。変わらず、私を受け入れてくれた。
濁った空気。澱んだ空気。作り物の華やかさと、見せかけだけの充足感。
静かに夜を過ごしたくて、慣れないバーに足を踏み入れた。座った席は、一番隅の席。飲みなれないお酒を飲みながら、何も考えないように時間を過ごす。
日付が変わって、店内から人がだんだんと減って、閉店の時間までをそうやって過ごした。
朝になって、私はベンチに座っていた。寒かったけれど、気にならなかった。
コートを着た人たちが足早に過ぎ行き、駅の中に消えて行く。その様子を、どこか遠くに感じていた。
思い出すのは、子供の頃のことだった。冬の始まりのこんな寒い朝のこと。吐く息が白い塊になって空に消えるのが面白くて、はしゃいで歩いたこと。空は青くて、青いほどに澄み渡っていて、澄み渡るほどに寒さは増して。
目を閉じてその青さを思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。ただ、こうして見上げている空よりは青かったような気がしていた。
部屋に戻ると、彼がスーツ姿のままでベッドの縁に座っていた。
問われるままに答える。堕胎手術をしたこと。夜の街にいたこと。明け方からついさっきまで、駅前のベンチに座っていたこと。
彼の手が私の肩を掴む。壁に背中を押し付けられ、厳しい視線で見下ろされる。
「あまり面倒なことをさせるな」
それだけ言い残して、彼は部屋を出て行った。多分、仕事に出て行ったのだろう。
その場に崩れ落ちて、私は考えていた。何が面倒だったのだろうか、と。部屋を滅茶苦茶にすることだろうか。料理を台無しにすることだろうか。私を傷だらけにすることだろうか。財布の中から何枚かの紙幣を取り出すことだろうか。
分からなかった。分からないから、私も面倒になった。考えるのが、面倒になってしまった。
彼は毎日のように暴力を振るう。私は逆らわない。ときどき病院に行って、階段から落ちたと嘘を吐いて治療を受けた。
彼は毎日のように酷いことを言う。私は黙って聞いている。何かを思うのも考えるのも、面倒になっていた。
食事は出来合いのものを並べるだけ。洗濯は一週間に一度だけ。掃除は言われたときにだけ。文庫本は、燃えるごみで出してしまった。
雪が降った。
いつかと同じように、街の起伏を曖昧にする雪だった。
喧騒を吸い込んで、汚れを覆い隠す雪。日が昇れば溶けて消えてしまう雪。
羨ましいと思った。
彼の帰りが遅かった日。お酒の匂いをさせながら帰って来た日。
いつものように、私は殴られた。口の中が切れて、胃の中の物を吐き出した。立っていられないくらい目眩がして、指先が痺れた。体中、全部が焼けただれたような感じだった。
倒れ込んだ私を、彼が抱き上げる。きつく、強く、しっかりと抱きしめた。
「一緒に死んでくれよ。もう俺たち、滅茶苦茶だもんな」
そう言う彼の声は、震えていた。泣きながら、そう言っていた。
違う。そうじゃない。
彼の手を力一杯振り解いて、私は大きな声で「違う」と言った。奥歯をかみ締めて、彼を睨みつけた。
滅茶苦茶にしたのは彼で、滅茶苦茶にされたのは私で。彼と私は、別の人間で。「俺たち」なんて言われ方も、同意を求めるような言い方も、認められなかった。言葉に出来ないまま、掌を握り締める。
「違う」
もう一度繰り返して、私は部屋を飛び出した。バッグだけを持って。
寒い、寒い夜だった。バッグを握る指先が凍ってしまうんじゃないかと思うくらいに、寒い夜だった。
駅の構内で缶コーヒーを飲みながら、夜が明けるのを待った。始発の電車で、どこか遠くへ行こう。そう決めて待った。
それと、もう「面倒だから」とそのままにしておくのを止めようと決めた。目を逸らすのを止めようと決めた。
すぐに生き方を変えることは出来ないかもしれない。でも、場所を変えることは出来る。簡単に。たくさんの苦しみも、その前に感じていた喜びも、全部忘れようと決めた。
夜が白んで、寒さが一番体に染みる時間。たくさんのものが見えるようになる時間。一番初めに、あの人と交わした会話を思い出していた。
「夜が好きなの?」
「昼間が嫌いなだけ」
「どうして?」
「余計なものまで見えるから」
あの人が笑う。
「夜は、必要なものだって見えなくなっちゃうよ?」
私は黙っていた。言いたかったことがあった。
あの人の言ったことは確かに正しかったけれど――
それは、昼に生きてきた人の言葉。たくさんのものがはっきりと見える時間を過ごしてきた人のための、正論だと思った。
だから私は言いたかったことを黙って飲み込んだ。
「本当に大切なものは、きっと夜でも見えるのに」
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