『輪廻/輪舞』 (6)

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8.風の強い街

 電車の窓から見える景色が、見知らぬ景色に変わる。小さく聞こえる車内の話し声に、耳慣れない方言が混じり始めた。
 網棚からバッグを下ろして、電車を降りる。
 知らない名前の駅。来たことのない場所。違う景色と、初めての空気。たった半日電車に揺られるだけで、こうして場所を変えることが出来た。どうしてもっと早くこうしなかったのだろうかと、疑問にすら思った。
 改札を抜けて、辺りを見回す。狭いロータリーと、閑散とした駅前通り。天気は良かったけれど、風も強かった。
 荷物をコインロッカーに入れて、歩き出す。
 少し暑く感じたけれど、風が強いのでコートは脱げない。どっちつかずの季節。
 最初に私が探したのは、お昼を食べる場所だった。

 それほど大きな街じゃなかった。田舎というほどでもないけれど、都会というほどでもない。特徴なんてほとんどないような、そんな街。
 部屋はその日の内に見つけることが出来た。保証人も書類もいらなかった。線路沿いにある路地を一本曲がった辺りにある、狭くて汚いアパート。明日取り壊しますと言われても違和感がないくらい、打ち捨てられている建物だった。
 コインロッカーから持ってきたバッグを部屋の隅に置く。わずかに差し込む夕日が、舞い上がった埃を照らしていた。まずは掃除から始めよう。それから、布団と小さなテーブルを買って……。
 あれこれと考えている内に、胸が沸き立つ感じがしてきた。
 ここから私は、始めるんだ。そんな前向きなことを思って、埃っぽい空気を吸い込む。
 もう絶対、「面倒臭い」なんて思わない。それだけは、しっかりと自分に言い聞かせて。

 商店街の外れにある弁当屋で働くことが決まった。古くからこの街にあるお店らしくて、小さい割りに忙しいという。細かいことを聞かず、問わず、雇ってくれた。
 特徴なんてほとんどないような街。でも、私を受け入れてくれた街。
 毎日はただ忙しく過ぎて、狭い部屋には少しずつ物が増えていった。
 ときどき、男のお客さんから声をかけられることもあった。でもそれは、お愛想のようなもの。嫌味のない、明るい冗談。誘いはしっかりと断って、傷つけないように笑う。相手も、笑い返してくれる。
 作り笑いでも、愛想笑いでも、気分が軽くなる。そんな簡単なことを初めて知った。
 お店の人たちとも笑って会話する。冗談を交えながら。そんな当たり前のことを、私はやっと出来るようになっていた。
 大丈夫。きっと大丈夫だ。私は、ここでならちゃんと生きていける。
 狭くて古い部屋から埃とカビの匂いが消えた頃、そんな風に思えるようになっていた。
 長い雨が上がって、昼の日差しが強くなった頃のこと。
 同じお店に勤める女の子から、海へ行こうと誘われた。車に乗って、何人かで。もちろん、日帰りで。
 私は少し悩んだけれど、付き合うことにした。もう何年も海を見ていない気がしたし、たまには違う場所を見てみるのも良いかなと思ったから。
 それと、こういうちゃんとしたお誘いは初めてで――
 本当に、嬉しかったから。

 レンタカーを借りて、高速道路で海まで。
 初めて逢う人ばかりだったけれど、全く嫌な感じはしなかった。私の目をちゃんと見て、真っ直ぐに話してくれる人たち。些細な気遣いが、何だかくすぐったかった。
 海について、水着に着替える。
 目の前が真っ白になってしまいそうなくらい、強い日差し。久し振りに踏みしめる砂浜は歩きづらかったけれど、とても心地良かった。
 パラソルの下で、良く冷えた缶ジュースを飲みながら、海辺を眺めていた。
 たくさんの人がいる。私のことを知らない、私と関係を持っていない人。でも、今はこうして同じ砂浜にいる人たち。声も交わさない。視線も合わせない。でも、同じ場所にいて、同じ空気を吸っている人。
 不思議な感じだった。まるで、世界が急に広がったような感じだった。
 ぼんやりとしている私に、同僚の子が心配そうに声をかけてくる。私は少し微笑んで、「何でもないよ」と返した。それは嘘だけど、罪悪感のない嘘だった。
 空を見上げる。白く霞んで、眩しい空。記憶の中にある青空よりも、ずっと淡い青空。
 同僚の子に、何の気なしにその話をする。昔はもっと空が青かった気がした、と。そうすると、彼女はこう答えた。
「それ、子供だったからだと思うよ」
 子供だったから。子供だったから、空は青いものだと無意識に刷り込まれていたのだろうか。それとも、子供だと空が真っ青に見えるのだろうか。この時この砂浜で遊んでいる子供たちが見る空は、私と違う色で見えるのだろうか。
 分からなかったけれど、彼女の言う通りだと思った。
 空は変わらなくても、私は変わってしまう。大人になってしまう。
 でもそれは、多分寂しいことじゃなくて――
 在るがままに、そのままに、目の前の全てを受け入れられるようになること。そう、なれたこと。それが、嬉しかった。

 一年。
 短いようで長かった一年が過ぎて、私は部屋を越すことになった。勤めているお店の店長さんが、「女の人がひとり暮らしする部屋じゃないよ」と言って、知り合いのアパートを借りてくれた。社員寮という名目で、家賃の一部を負担してもらって。
 正直、そこまでしてもらうのも気が引けたけれど、店長さんの厚意に甘えることにした。例えただの従業員としてだけでも、大切にされている。そんな感じが嬉しかったから。受けた恩は真面目に仕事をして、ちゃんと返そう。そんなことも思って。
 新しい部屋は、国道から少し入った場所にあった。大きな用水路の脇にある、水色のアパート。車がないと不便なこの街で、車で出入りするには不便なアパート。おかげで人気がないんだよと、大家さんが苦笑していた。
 引越しが終わって、荷解きも済んで、隣室の人に挨拶をして。新しい部屋で、ゆっくりと眠った。
 自転車を一台買った。通り過ぎる人と自然に挨拶が出来るようになった。お店に来るお客さんとも、仲良く話が出来るようになった。
 この街で過ごす二度目の夏が、そうやって過ぎて行った。

 空が高くなって、空気がゆっくりと透き通り始めた頃。午後になると決まって風が強くなり始める季節。隣の部屋の人が別の場所に越して行った。
 代わりになるように越して来たのは、男の人だった。
 無意識で身構えてしまう自分を抑えながら、挨拶を交わす。大丈夫。この人は私を傷つけたりしない。自分にそう言い聞かせて。
 朝、仕事に出るときにいつも顔を合わせることになった。どうも時間が重なるらしい。おはようございますの挨拶を交わして、一日が始まる。
 夕方、私が買い物に出かける時間になると、丁度帰ってくる。おかえりなさいの挨拶を交わして、一日が終わりに向かう。
 短い会話の積み重ねと、そんな毎日の積み重ね。少しずつ、お互いのことが見えてくる。私と歳が同じだということ。恋人がいて、今は遠くに離れていること。料理が得意で、車の運転が苦手だということ。朝は弱いらしく、「行き会わなかったら部屋の呼び鈴を鳴らしてくれると助かる」と笑っていた。
 何度目かの、「大丈夫」。自分にそう言い聞かせる。普通に近所付き合いが出来ている。何も警戒することはない。
 ちゃんと恋人がいるというのも、大丈夫だと思う理由のひとつだったように思う。

 そろそろ秋も終わり、冬が始まろうとしている頃。
 夕暮れの冷え込みで、手がかじかんでしまった日のことだった。私はいつものように、部屋でひとり分の夕食を作っていた。そろそろマフラーと手袋が必要な季節だな、と思いながら。
 突然、隣の部屋から大きな声が聞こえてきた。隣の、毎朝顔を合わせている男の人の部屋からだ。聞こえた声は、女の人の声だった。
 怒鳴り声は途切れ途切れに続いていた。女の人の声。それは多分、遠距離恋愛をしているという恋人の声だったのだろうと思う。
 足元が落ち着かなくなる気持ちと、何故だか速まる鼓動と。聞き耳を立てるのは良くないと思いながら、どうしても意識から外せなかった。
 激しくドアを叩きつける音がした。それと駆けて行く足音が。足音は、ひとり分だった。隣の部屋から聞こえていた物音は、それっきり凍ったように止んでいた。
 私は心配になって、震える掌を押さえながら部屋を出た。
 ドアは勢い余ったらしく、少し開いていた。そっと手を添えて、顔だけで中を覗く。きちんと整理された部屋の真ん中で、肩を落として立っている人。声をかけても、顔を上げない。見ると、大粒の涙を流していた。
 何があったのか分からないけれど、どうなったのかは分かるつもりだった。でも、それを確かめるほど私は残酷じゃない。扉を閉めて、部屋を出よう。きっと明日になれば、笑顔で挨拶を交わせる。そう思って、ドアから離れようとした。
 ドアから、離れるつもりだった。
 でも、私の足はそこから離れなかった。私の目は、彼の背中をじっと見つめていた。声を殺して泣き続けている、彼の姿を見続けていた。
 気がつけば足は部屋の中に向いていた。気がつけば彼の隣に立っていた。気がつけば、彼を抱きしめていた。
 こんな気持ちは初めてだった。誰かを抱きしめてあげたいと思う、こんな気持ちは。それが誤魔化しでも、今だけは目を逸らされてあげたいと思っていた。抱きしめた私の腕に、彼がすがりつく。
 体を合わせることで、重ねることで、こんなにも暖かくなれる。遠回りをしたけれど、私はやっと気づくことが出来た。

 遅くなってしまった夕食を、私の部屋で一緒に食べた。メニューは今でも思い出せる。シチューとパンとサラダ。ひとり分を何とか二人分にした、簡単なメニュー。揃いのお皿なんてなかったから、在り合せのお皿で。
 食事の間、私たちは無言だった。暖房の音と、換気扇の回る音。それと食器の触れ合う音以外は全くの無音だった。でも、雰囲気は重苦しくなくて――
 お互いに、照れ臭かっただけで。
 私は恥ずかしくて、目を合わせることも出来なかった。
 食事を済ませると、彼は一度自分の部屋に戻ってから、また私の部屋を訪れた。
 彼女と別れることになった、と簡単に告げて、その後で私に付き合って欲しいと言ってくれた。
「何だか尻軽みたいでみっともないんだけど」
 そう言って、恥ずかしそうに。

 冬になって、コートとマフラーと手袋をして部屋から出る日々が始まった。隣室の彼とは毎日のように互いの部屋を行き来していた。仕事から帰ると一緒に夕食を食べ、お風呂に入り、体を重ねて、同じベッドで朝まで眠る。朝はそれぞれの部屋で身支度を整えて、出勤。今までおはようだった挨拶が、いってらっしゃいに変わった。

 彼は自分のことを話してくれる。私も彼のことを知りたかったし、そうして話してくれることがとても嬉しかった。
 でも、どうしてだろう。自分のことを話すことは出来なかった。相槌を打つだけの会話と、問いかけるだけの会話。問われたことにだけ、曖昧に答える会話。
 自分のことを話すのは、とても怖いことなのだとやっと分かった。それでも彼はちゃんと話してくれる。そんな彼を本当に好きになるまで、それほど時間はかからなかった。

 お弁当屋さんは相変わらず忙しくて、でも仕事は楽しくて。一緒に仕事をするみんなが、私のことを明るくなったねと言ってくれて。
 彼のために食事を作って、洗濯をして、家事をして。二人の休みが重なった日には、彼の車で出かけて。
 長い日々だった。一秒一秒がゆっくりと進むような日々。時間が過ぎてゆくのを、しっかりと噛み締めることの出来る日々。
 そうやって、春が訪れた。

 用水路沿いには桜の木が植えてあった。春になれば、桜は花を咲かせる。流れる水面に桜が映る。落ちた花びらが、水路を流れる。
 私たちはアパートの窓からそんな様子を並んで眺めていた。この時期のためだけにここに住んでも良いかもしれない。そんな風に思えるほど、満たされた時間。飲みなれないお酒でぼんやりとして、じっと桜を見つめる。
 彼が不意に立ち上がり、窓から身を乗り出して視線を上げる。いたずらをする子供のような目で私を手招きする。
 夜空は澄み渡っていて、そこには半分の月が浮かんでいた。花見と月見を同時に出来るなんて贅沢だね、と彼が笑う。
 街灯でなく、月明かりに照らされる夜桜。桜が散るまで、私たちはほとんど毎晩のようにそうして過ごしていた。

 桜が散って、青々とした葉が生い茂る頃。
 彼が私に結婚を申し込んできた。高そうな指輪と、真剣な言葉で。
 嬉しくて、本当に嬉しくて、自然と涙が溢れた。でも、同じくらい怖くもあった。
 今までのことを思い出す。この歳になるまでに歩んできた日々を思い出す。彼と一緒に居たい。でも、怖い。
 怖くて、嬉しくて――
 私は、自分自身のことを全部話そうと決めた。
 嘘じゃない、本当のことを。

 夜は長くて、私のことを全部話してしまうには充分な時間があって。
 めちゃくちゃにされたこと。めちゃくちゃにしてしまったこと。逃げ出したこと。逃げ出すしかなかったこと。全部を話した。
 彼は黙ったまま、私の話を聞いていた。聞いて、聞き終わっても黙っていた。彼の顔は見れなかったけれど、雰囲気で分かった。きっと、凍りついたような表情をしている。
 私は泣いていた。涙がこぼれ続けていた。彼は立ち上がって、部屋を出て行った。気持ちを整理させて欲しいとだけ言って。
 彼のいなくなった部屋。私ひとり取り残された部屋。時計の針が動く音が妙に大きく聞こえる部屋。その中で私の涙は止まった。
 彼と一緒になりたい。結婚をして、子供を産んで、育てて、年老いて死にたい。本心からそう思った。
 でも、彼は今ここにいない。戻って来るとも思えない。
 テーブルの上には、指輪の入ったケースが所在無く置かれていた。

 二時間。私はそのままじっとしていた。何も考えられなかった。でも、もうどうすべきなのかは分かっていたし、決めていた。
 真夜中に、荷物をまとめる。大きめなバッグに一つ分だけの荷物を。
 そしてそのまま、部屋を出た。

 明け方の空気をゆっくりと吸い込む。いつもなら清々しいはずの朝の空気。一日が始まる空気も、その日は違った。
 埃とカビと下水の匂い。いつか吸い込んだ、澱んだ空気の匂い。それが、どこからか流れて来て――
 結局、私はどこにも行けなかったのだと、思い知らされてしまった。

 始発に乗って、街を離れる。特徴なんてほとんどないと思っていた街を離れる。
 記憶の中を探れば、いくらでも思い出すことは出来た。でも、思い出さないことにした。埃の舞う部屋に足を踏み入れたときの気持ちも、泣いていた彼の背中も、二人で並んで見つめた桜も。
 じっと目を閉じて、殻に閉じこもるようにして、電車に揺られる。
 居場所を変えたつもりだった。変えられたと思っていた。自分も変われたと思っていた。でも、それも勘違いでしかなかった。
 思い出そうとする自分を、抑える。我慢する。電車は揺れながら、私をゆっくりと運ぶ。

 しばらく経って目を開くと、見慣れた景色だった。コンクリートの建物が隙間なく立ち並ぶ景色。灰色の空の色と、澱んだ空気。怒っているかのように歩く人たちと、急かすようなアナウンス。
 肩から力が抜けて、無意識に席から立ち上がった。
 また、逃げ込むようにして、夜の訪れを待つことにした。


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