『輪廻/輪舞』 (7)
9.違う夜
初めて訪れた街。でも、どこかと似たような街。昼間は湿気っぽい風が肌に纏わりつく。夜は原色の照明で路地が彩られる。混乱し続けているような喧騒の途切れない街。
コインロッカーに荷物を入れると、いつかどこかで同じことをしていたような感覚に捕らわれた。既視感。
それは当たり前の感覚なのだろう。場所と時間が違っても、前にも似たようなことを繰り返していたのだから。
駅の化粧室でメイクをして、夜の街に足を踏み入れた。
骨と肉を引き剥がそうとするような喧騒。足元を照らすには弱々しい照明。呼吸をするのにも困るほどたくさんの人間。
世の中がどんなに変わって進んでしまったとしても、こういう場所だけは変わらないんじゃないかと思った。
カウンター席に座って、ゆっくりと時間を過ごす。安らぎなんてない。痛みもない。でも、他に行くべき場所が見当たらない。
ずっとひとりで生きて行くことも出来なかった。誰かを欲しくなって、誰かに与えたくなって、そしてまたひとりに戻ってしまった。後悔じゃないけれど、それにとても良く似た気持ちだった。
昔とは少し変わったこと。声をかけてくる男の人が減ったこと。確かに私は歳をとっていたし、他の若い子に比べるとピント外れの服装をしていた。声をかけられ、連れ添って席を立つ女の子たち。そんな姿を見る度に、妙な気持ちになった。声をかけて留めてしまいたくなることさえあった。
でも、そんな私にも声をかけてくる男の人はちゃんといて。流されるように、湿気っぽいシーツに包まっている自分がいて。
一晩だけ、私の隣にいる人。一晩経てば赤の他人に戻る人。そんなことばかりを繰り返していた。
気がつけば、肌を焦がされるような真夏も過ぎ去っていった。
どこでおかしくなったのだろう。
そんなことを考える日が多くなった。
カウンター席にも慣れてしまったし、お酒の味にも慣れてしまった。毎日少なくない量のお酒を飲んで、思考を鈍らせる。考えるのが嫌だった。でも、他に考えることもなかった。考えたくないからお酒を飲んでしまう。その繰り返し。
何日か振りに、男の人に声をかけられた。年上の、聡明そうな男の人だった。
短い会話の後で、店を連れ出される。手を引かれるようにして連れて行かれたのは、ホテルではなく落ち着いたレストランバーのような店だった。
私が黙って座っていると、その人はウエイターに幾つかの注文をした。まずはミネラルウォーター。それからサラダが出て、パスタと肉料理。男の人はコーヒーを飲むだけ。私は半ば押し付けられるようにして並べられた料理を、時間をかけて全部食べた。
食事が済むと、また夜の街に。遠回りをしたけれど、やっとそういう場所に行く。そう思っていた。
けれど連れ込まれたのは普通のビジネスホテルだった。男の人は二部屋を取ると、片方の鍵を私に手渡して言った。
「明日の朝、九時くらいに部屋に行くよ」
どんな意図があるにせよ、眠る場所があるのは悪いことじゃない。私は黙って頷いて、鍵の番号の部屋に向かった。
部屋は神経質なまでに清潔で、ベッドはきちんと角が立っていた。ゆっくりとシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かして、バスローブで眠る。静かな夜だった。時間はあっという間に過ぎて、朝が訪れた。
ドアをノックされ、開く。昨夜の男の人が立っていた。
「多少は顔色が良くなったね」
そう言われたけれど、どう答えて良いか分からなかったので微笑んで返しておいた。
男の人は部屋の中に入って来て、立ったまま煙草に火をつけた。ゆっくりと部屋に煙の匂いが満ちる。私はベッドの縁に腰を下ろして、何か言われるのを待っていた。彼は何も言わずに煙草を一本吸い終えてしまった。
「外で話そう」
それだけ言うと、振り返らずに部屋を出て行こうとする。その背中を、いつもより軽い足取りで追いかけた。
連れて行かれたのは喫茶店。大通りを少し逸れた辺りにある、宝石の名前の喫茶店だった。彼はモーニングセットを二人分頼むと、また煙草に火をつけた。そう言えば昨夜は吸っていなかったな、とその時になってやっと気づいた。
運ばれてきたセットメニューを、時間をかけて食べ終えた。コーヒーの強い香りで久し振りに意識がはっきりしたようだった。サラダにかかっていたドレッシングがおいしかった。
男の人が口を開く。私の名前を聞く。私は少し考えてから、自分の名前をちゃんと名乗った。名前を聞かれたのなんて何ヶ月か振りだったので、思い出すのに少し時間がかかってしまった。
男の人は伝票を取ると、机の上に何枚かの紙幣と、一枚のメモを置いて立ち上がった。
「今日の夜に、ここで待ち合わせよう」
そう言うと、さっさと立ち去ってしまった。不思議な口調だった。まるで、私が拒まないのを知っているような口調で、その割に自然な感じがした。
お金を残していった意味が少し分からなかったので、私は久し振りに服を買い換えようと思い立ち、喫茶店を出た。そろそろ、コートの必要な季節になろうとしている。
待ち合わせの場所は、ホテルだった。やましいことをするのではなく、ちゃんとした使い方をされるホテル。ラウンジに入り、コーヒーを注文する。窓の外に見えるのは、歩く人たちの姿。流れている音楽は、流行歌をピアノアレンジしたもの。特別なところのない、清潔で実直なだけが売りのホテルなんだなと思った。
買ったばかりの服は、体にまだ馴染んでいない。袖口を時々引っ張って、何とか違和感を誤魔化す。カップを口に運ぶ度に、背中の辺りが引っ張られる気がした。
男の人が現れたのは、通りを行き交う人の種類が変わった頃だった。家路に就く人から、夜の街へと繰り出す人へと変わった頃。
何も言われずに食事を注文され、また無言のまま食べ終えた。
何故か思い出したのは、小学校の頃に飼われていたウサギのことだった。校庭の端に大げさな檻があって、その中にウサギがいた。家に帰るのが嫌なときは、時々檻の前に座ってウサギを眺めていた。ウサギは私を気にせず、黙々と与えられたエサを口に運んでいた。
「部屋に行こう」
そう言われて、手を取られた。驚きはあったけれど、意外なことではないなとも思った。遅いか早いか、回り道をするかしないかだけの違い。結局はいつもと同じことの繰り返しなんだと思った。
連れて行かれた部屋は、普通のツインルームだった。
お酒を飲みたいと思ったけれど、ルームサービスを頼んで良いものかどうか分からなかったので、部屋のポットでインスタントのコーヒーを淹れた。男の人はシャワーを浴びている。
有線で流れているのは、私たちよりも前の世代の曲。世界的に有名な四人の作った曲。民族音楽のような楽器の調べが、ゆっくりと聴こえてくる。
落ち着かない気持ちを誤魔化そうとして、ゆっくりと服を脱いだ。バスローブに袖を通して、脱いだ服をハンガーにかける。二杯目のコーヒーを飲み終えても、落ち着かないままだった。男の人はまだシャワーを浴びている。
どうしてここにいるんだろう。なんでこんなことになっているんだろう。私はどうしたかったんだろう。
何ヶ月か振りにはっきりと覚醒している意識は、私自身に問いかける。
答えなんて分からないし、答えがあるとも思えない。けれど、頭は考えるのを止めようとしない。
男の人が浴室から出てくるまで、ひとりきりでそんな苦しさと向き合うことになってしまった。
薄暗い部屋の中。一通りのことが済んだ後の部屋の中。同じベッドで、並んで天井を眺めていた。
男の人は、驚くほどに寡黙だった。何も問われなかったし、何かを求められもしなかった。ただ体を重ね合っただけ。そんな淡白な感じがした。
疲れているはずなのに、私の意識は途切れそうもなかった。眠るにはまだ早いと、無意識がそう言っているようだった。
男の人の腕が、私の頭を抱きかかえる。そのまま自然な仕草で、胸元にまで抱き寄せられた。心臓の音が、はっきりと聞こえて……。
気がつけば――
私は、自分の今までのことを全て、話してしまっていた。
話の途中、男の人は煙草を何本か吸い、コーヒーを私にも淹れてくれた。スーツのポケットから爪切りを取り出して、爪を切り揃えていた。
長い長い話になってしまったけれど、男の人はそれでも最後まで聞いてくれていた。決して真剣な態度ではなかったけれど。
そして、男の人は一言口にした。
「それは、君が男を滅茶苦茶にするんだよ」
言われて、意味が分からず、呆けてしまった。
半分だけ口を開いたまま、どんな表情を浮かべたら良いのかも分からないまま、男の人を見詰める。
「君に関わった男は、滅茶苦茶になる。そういうことだと思う」
私じゃなく、男が滅茶苦茶になる。
頭の中で何度繰り返しても、意味が分からなかった。
「君が男をおかしくする。男がおかしくなるから、君自身も滅茶苦茶になる。それをただ繰り返して来ただけだろうね」
ゆっくりと、諭すような口調。穏やかで、沁み込むような声。話す口振りそのものは優しいのに、言っている言葉はこれ以上なく厳しくて……。
否定することも、肯定することも出来なかった。
男の人はしばらく黙ったまま、煙草を吸っていた。私が何も言えないのを悟ると、立ち上がって服を着始めてしまった。その仕草と背中を、じっと眺めるしかなかった。
ひとり残された部屋。ひとりで寝るには広すぎる部屋と、広すぎるベッド。大きなベッドの端で小さく丸くなって、私はじっと目を閉じていた。
違う。そうじゃない。私が悪かった訳じゃない。私は何もしなかった。
でも、そうかもしれない。私が何もしなくても、私の周りは簡単に変わってしまう。
嘘も本当も、簡単に作り変えられてしまう。
嫌になった。苦しくなった。哀しくなった。悔しくなった。
何が悪いのか、初めから決まり切っていたのだとしたら。
私が悪いのだと、幼いあの頃から分かり切っていたのだとしたら。
もう、取り返せない。
私を取り巻く世界が、どうしようもなく滅茶苦茶に思えた。間違っているように思えた。悪くないのに、悪い。何もしていないのに、何かをしている。
それなら――
そう。それなら、逆さまにしてしまえば良いのだと、やっと私は分かったのだった。
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