『輪廻/輪舞』 (8)
10.空を舞う
目を覚ました私は、真っ直ぐに駅へと向かった。コインロッカーから荷物を取り出して、背負う。
濁った朝だった。この街の、いつも通りの朝。良いとも悪いとも思わない。名残惜しくもないし、清々するという感じでもない。
ただ、もういいと思っていた。構わないと思っていた。
ごみ捨て場にバッグを投げ込むと、鴉が飛んで逃げた。
非常階段を上る。かん、かん、と均一な足音が、妙に響いて聞こえた。
赤い錆止めを塗られただけの、簡素な非常階段。ゆっくりでもなく、足早にでもなく、昇り続ける。
扉の鍵が壊れているのは知っていた。ノブを半分だけ回して二、三度押すと、扉は開いた。風が頬に当たって、目の前には灰色の世界。色彩の死んだ光景。
空は曇っていた。空気は肌にまとわりつくようだった。見えるのは、ビルとビルとビル。コンクリートの箱のあちこちに、華美な色使いの看板がかかっている。嫌悪感はなかった。憧憬もなかった。何もないまま、景色を眺める。
足はゆっくりと進み、フェンスを乗り越える。
何かを考えるべきだろうか。何かを叫ぶべきだろうか。何かを思うべきだろうか。
誰かに、伝えるべきだろうか。
今更になってそんなことばかりが脳裏を過ぎる。
脳裏を過ぎっただけで、それだけで――
それ以上の何かはなかった。
私は一歩、踏み出した。
回る。くるくると、回っている。
逆さまになって、景色が流れて、回っている。
でも、私は変わらない。
音がノイズになって、映る景色が線になって――
痛みとも衝撃ともつかないものが通り抜けて、黒くなった。
変われなかった私。変われないままだった私。
でも――
こうして、世界は逆さまになった。
こんなにも簡単に。
11.彼女のことを知る男の話
俺が彼女を引っ掛けたのは、三ヶ月近く前のことだったと思うよ。盆休みが過ぎて、お決まりの花火大会が終わった後のことだったから。
その日は仕事で下らないミスをして、運悪くそれで長々と説教されて、気分がくさくさしてたんだな。いつもだったらツレをつかまえて憂さを晴らすんだけど、そういう日に限って誰も捕まらなくてさ。しょうがないから、ひとりで馴染みの店に行こうと思ってた。で、またまた運の悪いことに、臨時休業の札がかかってて。仕方ないから適当に目に止まった店に入ることにしたんだよ。
初めて入る店ってのは、勝手が分からない。とりあえず酒でも飲んで気分を解そうと思ってたら、カウンター席の端っこに彼女が座ってた。とんでもない美人で、息が止まりそうになったね。今でもはっきり覚えてる。スタイルも良いし、顔も整ってる。そんな美人がひとりで酒飲んでたら声くらいかけるだろ?
で、彼女はついて来た。そりゃびっくりしたよ。簡単すぎてさ。ふらふらって感じで、俺の後ろをついて来るんだぜ? 乗り気には見えなかったし、でも嫌そうにも見えなくてさ。自棄になってる、って感じでもなかったと思うよ。
適当なホテルに入って、シャワー浴びて、聞いてみたんだ。何でこんな簡単について来たんだ? ってさ。そしたら彼女、少し考えてっから、「さあ」って答えたんだ。自分でも分からない、って感じでさ。
気味が悪い? いや、そうは思わなかったよ。綺麗な女は少しくらい変わってても許容範囲だし。逆に面白いだろ?
でもさ、何か俺が白けちまって。結局何もしないで並んで寝たんだよ。……それくらいは仕方ないだろ。金払ったのは俺だし、床で寝るのも嫌だしさ。
何時くらいかな……。時計は見なかったから正確には分からないけど、二時か三時くらいだったと思う。夜中のね。目が覚めて、隣見たら彼女が膝抱えて泣いててさ。びっくりしたよ。あんな綺麗な人なのに、小学生みたいに泣いてるんだぜ? 何とかしたい、って思うのは当たり前だろう?
恥ずかしいけど、肩抱いてさ。何言って良いか分からなくて、ずっとそうしててさ。どれだけそうしてたか分からないけど、気がついたら彼女、泣きつかれて眠ってた。
……あ、待てよ。これだけじゃないって。まだ続きがあるんだ。
朝になって、気まずかったから結局別れたんだけど、どうしても気になってさ。何日かしてまたあの店に行ったんだ。そしたら、彼女がいた。同じ席で、同じように酒飲んでた。何となく声かけそびれてその日は帰ったんだけど、やっぱり気になる。で、次の週末に思い切って声かけたんだよ。俺のこと覚えてるか? ってさ。
彼女は頷いたけど、あれは嘘だったと思う。今になって考えるとね。けど、その時の俺は舞い上がってさ、彼女を連れて店を出たんだよ。
普通にデートとかする関係から始めたいって、俺がそう思ったらおかしいか? でも、本当にそう思ったんだよ。だから車で海に行ったんだ。夜の砂浜で花火をするなんて、結構気が利いてると思ったんだ。
夜の内に海には着いたんだけど、夜の海って不気味でさ。花火しようと思ったけど、去年のだったから湿気ってて駄目で。真っ暗な中で二人並んで波の音聞いてたよ。ロマンチックって感じよりも、世界が終わりそうな感じだったな。本当に不気味だった。
それで、何つったっけ、あの……そう、夜光虫。波打ち際に少しだけ夜光虫がいてさ。彼女が座り込んでじっとそれ見てて、なんか綺麗でさ。覗き込むようにして、キスした。それが俺の精一杯だったね。
朝方帰って来て、次に逢う約束もしないで別れちまった。疲れてて眠かったし、舞い上がってたってのもある。何せ、あんな美人にキス出来たんだからさ。
それっきり、彼女には逢えなかったよ。二度とさ。
一昨日、だったよな? 確か。
彼女がその……飛び降りた、って新聞に載ってたの。
名前? ああ、あの店の店員に聞いたんだ。その店員も、本人から直接じゃなく、別の客から聞いたって言ってたな。
――それで、俺、彼女が飛び降りたってビルに行ってみたんだよ。
非常階段には鉄のフェンスが出来てて、南京錠がかけられてた。あれじゃ非常時に使えねえよな。あのビル、管理人が意外と善人でさ。花を添えに来たって言ったら鍵開けてくれたよ。屋上、風が強かったな。フェンスは全部真新しくなってて、乗り越えられないような高さだった。天気の良い日だったよ。相変わらずの白い青空、ってヤツだけど。
そしたらさ、何だか悲しくなってきてさ。ああ、彼女もこんな景色を見たのかなーって思ったら、やりきれなくなってきてさ。花持ってしばらくぼけっと立ち尽くしちまって。
地面見下ろしたら、歩いてる人の頭が見えて。小さくてさ。痛かったと思うぜ。あんな高さから飛び降りたんだから。
で、花置いて管理人と階段下りながらさ、思ったんだよ。
彼女は飛び降りて死んだけど、もしも頭から落ちたんだとしたら――
もしかして、それは――
回りながら、踊りながら、昇って行ったように、思えたんじゃないだろうか?
了
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