『約束したはずなのに』

『約束したはずなのに』

著/水野奏美

原稿用紙換算枚数15枚

 生きていると、知らないままの方が幸せなことがある。

 私の母はとても温厚な人だ。だいたいのことは許してくれる。いや、許容範囲が広いということなのかもしれない。友達の親に比べると、私の母は怒らない人だ。
 けれど、そんな母にも例外は存在する。小さい頃、私は母の部屋にこっそりと入ったことがあった。興味があったのだけれど、そのとき母に物凄い剣幕で怒られたのを覚えている。けれど、それがどういう内容で叱られたのか今では思い出せなかった。
 過去に一度、怒られたものの、それ以外では叱られることはなかった。
 学校の定期テストで高順位をキープしている訳でもなければ、流行ばかりを追いかけるような女の子でもなく、本当にどこにでもいるような女子高生な私。母とも仲が良く、よく2人で買い物へ出かけるほどだ。

 あまり他人に話したくはないのだけれど、私には父親がいない。いたとしても、それは何人目かの父親ということになる訳で――何人目ともなってくると、嫌になった。
 母は私を出産して、すぐに父と離婚した。その後、とっかえひっかえ違う男の人が家を出入りする。
「お母さん、あの人誰?」
 と見ず知らずの男が初めて家の敷居をまたいだとき、聞いた台詞だ。
「ん? 新しいお父さんよ。言ってなかったかしら?」
 自分の今の幸せを最優先する母。男を家に入れるときだけは、私は除け者だと子供ながらに感じた。きっと私はいらない子なんだと。それでも、いつも優しい母は好きだから、嫌いにはなれなかった。

「若くていいなぁ。うちの親なんかさ、白髪とかしわ出てて、ほんと年寄りなんだから」
 クラスメイトと話をしていると、私の母は美人で羨ましいという話題がよく出てくる。そのときの私は、自分のことのように思え、優越感に浸る。「若くていいなぁ」とか「羨ましいなぁ」とか、そんな風に言われると嬉しかった。若い母でいいでしょ? 綺麗な母でいいでしょ? って、みんなに言いふらしたいくらいに自慢できた。

 お腹の痛みが酷く、学校を休んだ。
 母は「大丈夫?」と言い、私はあまりの痛みに起き上がれないことを時間をかけて説明した。言葉にするのも、うまく言えないほどだった。
 仕事がある母は私を心配したが、仕事が休めない状況だったため、出勤した。私は倒れた人のように昼過ぎまで夢を見ることもなく眠り続けた。

 昼過ぎ、目を覚ました私は囁く声を耳にした。とても小さな声で、最初は体調がまだ良くないことから耳鳴りでもしていると思っていた。だが、その声は意識がはっきりしている私の耳にも届いている。

 ――ぞくり

 身震いをし、何か羽織るものを身につけ、ベッドから出る。ゆっくりと部屋を後にし、私は台所へ向かった。やはりそこには誰もいないし、玄関に置かれた靴も私のものだけである。
「やっぱり、気のせいなんだよ」
 自分に言い聞かせるように呟き、冷蔵庫の戸を開ける。戸開きにある収納スペースに置かれたお茶を取り出し、コップに注ぐ。そのお茶を一気に飲み干し、お茶を冷蔵庫に戻した。
 カチカチという部屋の掛け時計の秒針が心臓の鼓動のように大きく響き、喉を潤したお茶は私の体内を冷やしていく。それまで気にも止めなかった家にある音が気になり、部屋中を見渡す。睨み付けるようにして、部屋の隅々まで見て回った。囁き声は聞こえなかったため、テレビにスイッチを入れ、ワイドショーを見た。ニュースでは、一昨日に都内であった放火事件の新たな真相などというタイトルで放送され、チャンネルを変えると昼ドラではドロドロとした男と女の言い合いが行われている最中だった。どちらも興味がなかったため、テレビのスイッチを切った。
 また、音のない世界に引き戻ったが、テレビを見るよりはましだと思えた。

 ――ぞくり

 部屋に戻る途中の通路で感じた冷たい空気のようなもの。憎悪に似た、静かな怒り。背筋が冷たくなるのを感じ、ゆっくりと後ろを振り向く。
 だが、誰もいない。
 身震いが止まらず、部屋に戻った私は鍵をかけ、ベッドに横になって目を閉じた。嫌な夢を見ない限り、母が帰るまで寝ている方が安心できると思えた。
 こういうときに限って、部屋の時計の秒針は私の心臓を打つ。
 カチッ…カチッ…。
 正確に鳴り響き、それに合わせ、私の鼓動も早くなる。気になってしまうと簡単には体から抜けきれず、私は布団に包まるようにしてその場を凌ごうとした。だが、目が覚めたときに聞こえる囁き声が聞こえてくる。今度は、はっきりと男の声だと分かった。

 ふと母が家に連れてきた男の顔を思い出してみる。
 私と血縁にある父について、写真や私物など、父に関する物は何も残っていない。そのことについて母に問うと、いつも困った表情を浮かべていた。
 帰宅した母の隣に初めて見る男がいた。その男は茶髪で、髭が生えていて、ワイルドな男性の一般像と一致している。服装もジーンズやジャケットといったスタイルで、狼というよりはライオンという印象を与えた。
 それから数週間後、帰宅した母の隣にまた見知らぬほっそりとした男が立っていた。後日、母に聞いてみると、ライオン男とは別れ、今はほっそりとした男と交際していることを私は知る。
 数週間だったり、時には何日か後だったりと、母は何度も違う男を家に招いた。これまで不思議と思わなかったのだが、私が目にする男はどれも初めて見る顔ばかりなのだ。数日前に来た男が再度家に招かれれば、私も初対面ではなくなるため、挨拶もしやすくなる。向こうから声をかけられたとしても、返答ひとつで何か違っていたかもしれない。

 ――ぞくり

 少しでも私が恐怖心を抱くと、背筋に冷たい刃が当たるような感覚がする。はっと後ろを振り返ったところで、部屋の白い壁があるだけだ。そう……後ろには白い壁のはずだった。
 私はまたぞくりと身震いをし、壁から離れようとしたが体に力が入らない。それどころか、その白い壁にある赤色の線のようなものがゆっくりと動き始めた。

 耳鳴り、女の悲鳴、時計の針の音。それらの音がぐにゃりぐにゃりと形を変え、音色を外し、全てが歪んでいく。
 目の前の赤い線が文字をなぞり、私は悲鳴を上げるが、声にならない。赤い線はゆっくりと確かめるように文字を描いていく。一文字ずつゆっくりと。その赤い線から視線を逸らすことが出来ず、私はその文字が『言葉』になるのをじっと待った。
 長い時間をかけ、赤い線が描いた『言葉』に私は嗚咽する。今まで縛っていた呪縛が解けたようで、私はベッドから出てすぐに洗面所へと向かう。蛇口をひねり、その勢いで水が溢れ出る。その水を両手ですくい上げ、私は口へと運ぶ。それを何度も繰り返し、私の口元にある気持ち悪い何かを吐き出さなければならないと無意識に思った。

 ひとつ息を吐き、やっと落ち着きを取り戻しつつある私は蛇口を再度ひねり、水を止めた。それから母の部屋へと向かう。見覚えのある部屋。小さい頃、私が忍び込んだときと同じ空間がそこにはあった。
 机、ベッド、クローゼット、窓には淡いピンク色のカーテンがかかっている。部屋を見渡すと、小さめなクローゼットが部屋の隅にあり、不自然に少し戸が開いている。側に行かなくとも、そこから耳鳴りに似た男の声がすることは分かっている。
「あそこにいたんだ……」
 誰に言うでもなく、私は呟いていた。
 そこにいると知っていたけれど、母に殺されたくなかったから嘘をついた。


 怒鳴るだけでは納まらず、母は私を殴り続けた。「どうして見たりしたの」「どうして開けたりしたの」と。
 殴りながら、母は声をからして泣き続けた。小さな私は、その母の殴る拳がとても痛かった。けれど、涙は出なかった。ただただ殴り終わるのをじっと待った。殴られた場所からは血が出た。母は自分の拳が痛くなると、近くにあるものを投げ始めた。それによって、切り傷をたくさん負うことになる。


 ゆっくりと部屋のドアから離れ、私はその小さなクローゼットへ近づいた。手を伸ばせば届く位置で足を止め、そこでしゃがみ込む。そう――いつも母がしているのと、同じように。
「こんにちは。そんな暗いところでいると……寂しいでしょ?」
 声をかけてみるが、何も返答はない。
 私は立ち上がろうとした。けれど、その私の足首を白い手が掴んでいた。
 死人に口はない。けれど、腕はある。そして、その手はゆっくりと私を小さなクローゼットへ引き込む。

 知らないまま生きていれば。気付かずに生活していれば。母との約束を守っていれば。
 母に殺された父の生霊と会うことはなかっただろう。

 ――殺スヨリ、オマエノ口ガホシイ。


                                                    了

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