『呼び声』 (2)

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「――水越さん」
 はっと顔を上げると、山根圭吾が眉根をしかめながらこちらを見下ろしていた。
「大丈夫ですか。風邪、まだ直ってないんですか」
「……何でもないわ。もう平気だから。気にしないで」
「無理しない方がいいですよ。まだ納期には余裕ありますし」
「ありがと。大丈夫」
 理美の派遣先は、日によって仕事量にばらつきが大きい。評価用サンプルが何も出て来ず、ほとんど測定室の整理や掃除だけで終わってしまう日もあれば、サンプルが立て込んで帰宅が夜八時を過ぎる時もある。もっと均等にならないのだろうかと理美はいつも思うのだが、評価を依頼してくる研究員《スタッフ》の方も、突発の顧客対応やら再実験やら何やらで、サンプル量を完全にコントロールできる訳ではないらしい。
 X線回折装置《XRD》に向き直る。規制緩和云々の影響なのかどうか、今はどこの企業でも、こういう日常作業的な検査業務は正規の研究員でなく派遣社員の仕事になっている――ということを理美が知ったのは最近だ。スタッフは理美たち検査員の出すデータを見て、次のサンプルの製造条件に折り返す。今回は圭吾の言う通りまだ納期に余裕はあったが、検査の遅れが研究全体の遅延に繋がる以上、あまりだらだらと作業する訳にもいかなかった。
 本当に無理しないで下さいよ。圭吾は笑うと、お先に失礼しますと言い残して帰って行った。
 時計を見上げる。午後七時三十七分。がらんとした検査室の中、残っているのは理美ひとりだけだ。
 スタッフも今日は全員引き上げている。誰かの送別会とかで、定時を過ぎた頃には執務室には人っ子ひとり居なくなっていた。
 壁ひとつ向こうで、冷却水循環装置のポンプが唸り声を挙げている。
 知れず、理美は吐息を漏らした。先程の圭吾の怪訝な表情が脳裏をよぎった。
 ……無理をしてるわけじゃない。
 アパートに戻ったところで、眠るまでの時間を怯えながら過ごすだけだ。少なくともここにいる間はあの電話を取らずにいられる。
 始まりはいつだったのか。
 三ヶ月前? 半年前? それとも一年前? 思い出せない。以前の相手に捨てられた後、何を遊び回るでもなく、ただ職場と部屋を往復するだけの、虚しくも穏やかなはずだった理美の日々は今、暗い深海を漂ったままだ。
 気付かれなかっただろうか、怪しまれていないだろうか。最近の理美の「体調不良」は圭吾にはっきり認識されてしまっている。こんな毎日が続けば、いずれ全て露呈してしまうのは目に見えている。
 彼にだけは知られたくない。知られてはならない、決して。
 でも、どうすればいいのか。解らない。自分がどうなってしまうのかさえ全く見えない。
 モニタに映し出されるスペクトルを眺めながら、理美はもう一度重い息を吐いた。
 今の自分に見えるのは、今この瞬間だけ。測定が終わるまであと二十分。解析にもう二十分ほど。それまではここに居られる。部屋に帰らなくて済む。
 部屋に戻って、電話が鳴ったら――鳴ったら――

 電話が鳴った。

 背中が跳ねた。
 測定機器の並ぶ検査室。二十畳ほどの広い部屋の中央に、検査員の業務用の机が並べられている。その机の上のコードレス電話が、人気の失せた検査室の中、場違いに明るい電子音を響かせていた。
 短い音が続けて三回、間を置いて三回、さらに三回……外線だ。
 誰がかけて来ているのか。今ここに残っているのは理美だけだ。こんな時間帯に、しかもスタッフの執務室でなく検査室に直接、外線が入っている。
 ――まさか?
 馬鹿な、そんな馬鹿な。考え過ぎだ。こんな所にまでなんてこと、あるわけがない。
 呼出音は鳴り続けている。恐る恐る手を伸ばし、理美は受話器を取った。
「……はい」
『ああ、水越さん? 山根ですけど』
 緊張が解けた。
「何だ、君か……おどかさないでよ」
『え? 何がですか』
 あ――
「誰も居ない部屋に突然電話をかけるな、ってこと」
『無茶言わないで下さいよ』
 怖がりだなぁ、電話越しに圭吾の笑い声が聞こえた。……不審に感じている様子は無い。理美は胸を撫で下ろしながら、
「それで、どうしたの?」
『あ、いえ。大した用事じゃないんですけど――段差測定装置の電源、落ちてます? ちゃんと立ち下げたかどうかど忘れしてて』
「ちょっと待って」
 コードレスの受話器を持ったまま、理美は部屋の奥に歩み寄り、嵌め殺しのガラス窓越しに隣室を覗き込んだ。
 照明の落とされたクリーンルーム。その中央辺りで、パソコンのモニタがひとつ、淡い光を放っていた。
「PCが点いたままになってるけど」
 あっちゃー、圭吾の嘆きが聞こえた。
『水越さん、申し訳ないんですけど、電源切っておいていただけます? 』
「了解」
 クリーンウェアに着替えて中に入ってPCをいじるだけだ。十分もあれば片付く。
『すみません、お願いします』
 頭を下げる圭吾の姿が見えるようだ。『……あの、水越さん』
「何?」
『頼み事しといて言うのも変ですけど、その……あまり無理しないで下さいね。もう、夜も遅いですし』
「解ったわ。ありがと」
 それじゃ、後をお願いします――そう言い置いて圭吾は電話を切った。
 気のせいだろうか、やけに慌しい切り方だった。最後の方も妙にしどろもどろしていた。自分に雑用を押し付けるのを、それほど気に病んでいたのだろうか。
 ……気にしてなんか欲しくないのに。理美は受話器を元に戻した。
 XRDの測定終了まではまだ間がある。段差測定装置の立ち下げくらいなら、この間に済ませられるだろう。クリーンルームの更衣室へ一歩を踏み出して、
 再び電話が鳴った。
 細切れの呼出音が三回。三回、三回……また外線だ。
 圭吾だろうか。他に忘れ事でもあったのだろうか? 理美は引き返して受話器を持ち上げた。
「山根くん? また何か――」

 虚ろな声が受話器から漏れ響いた。

 全身が凍り付いた。
 声にならない悲鳴がほどばしった。
 ――あの声だった。
 アパートの自室で自分を苛む、あの声。自室にしか掛かって来なかったはずのあの声が、受話器越しに理美の耳を犯していた。
 そんな――そんな……!
「どうして!? どうして――」
 目の前が暗くなる。どうして、こんなところにまで!? しかしその疑問を探る間も無かった。
 ――――、――――……。
 受話器の声に、理美の顔から血の気が引いていった。
「……いや……」
 駄々をこねる子供のように首を振りながら、「そんなこと……できない……できない……」
 ――――――、――……。
「……そんな……」
 長い無言の後、理美は力尽きたように首を折った。
 誰かが戻ってくる気配は無い。ポンプの稼動音、そしてX線管球から放たれる高周波音が、蛍光灯に照らされた検査室の中を虚ろに響いている。
 受話器を左手に持ったまま、理美は操られたように、作業着のジッパーを引き下ろした。作業服の前をはだけさせ、両袖のマジックテープを外し、左腕、右腕と交互に引き抜く。
 Tシャツだけになった理美の上半身を、エアコンの風が撫でた。
 上着を椅子の背もたれに掛け、受話器を机の上に置き、理美は震える手でTシャツの裾を掴んだ。数十秒の沈黙。眼を固く閉じ、理美は裾を引き上げ、頭から抜き取った。
 受話器を掴み直し、乱れていく呼吸を受話器の向こうに聞かせながら、片手を背中に回し、ホックを外した。
 ぱさり、足元に衣ずれの音が響く。胸元に空気の流れを感じた。作業着のズボンのジッパーを摘み、息を止めて下ろす。ボタンを外し、裾に手を掛け、前屈み気味にズボンを下げる。
 足首辺りまで落とし、右足と左足を引き抜く。
「……お願い、これ以上は、これ以上は……」
 ―――――……。
 顔に血液が逆流する。
 瞳を潤ませ、唇を強く噛み締めながら、理美は最後の一枚に指を掛けた。荒れる呼吸を静めるように何度も息を吸い、吐く。
 そして息を止め、下ろした。
 叢の揺れる感触に、全身が一気に発火した。
 足首から抜き取る。目の前が、暗黒から薄い赤色に塗り替えられていく。
 ――――――……。
 指を伸ばし、触れる。重みを増した叢が指先にまとわり付く。
 ――――――……。
「……そんなこと、言えない……」
 ――――……。
 脳裏が真紅に染まる。立ったまま脚を開き、左手の受話器を下腹部に近付ける。
 右手の人差し指と薬指とでそこを広げると、理美は中指を潜らせた。
 先程より大きな水音が立った。喘ぎが空調の風に乗って、検査室の中を満たす。
 もう何も考えられなかった。
 冷えたリノリウムの床に仰向けに倒れ込み、脚をさらに大きく広げ、受話器をそこに押し付けながら、機械に囲まれた検査室の中、理美は右手の指で襞のあわいと尖りを嬲り、喘ぎを撒き散らし続けた。

 ……どれほど過ぎたのだろうか。
 理美はのろのろと身体を起こした。XRDの測定は終わっていた。
 視線を落とす。受話器と床の表面にぬめりが広がっていた。激しい火照りが全身を走る。机の上から器具掃除用のガーゼを取り、受話器と床とそこを拭う。手洗いの時と違う感触に、身体が小さく震える。
 緩慢に受話器を耳に当てる。待ち構えたように、雑音に似た声が耳朶に染み渡った。
 ――――――――――……。
「……言わないで……」
 ――――、――――――――――……。
「そ、そんなこと……」
 震える理美の声に力は無かった。亡霊のように立ち上がり、脱ぎ捨てた衣服を置き捨て、クリーンルームの更衣室に向かった。
 ――七分後、理美はクリーンルームの中にいた。
 クリーンウェアは身に着けている。頭の先から爪先までを、装飾性の欠片もない白い樹脂が包み込んでいる。しかし肌に直接触れるその冷たい感触は、普段の作業着越しの窮屈さとはまるで違っていた。
 着衣の状態を確認するための姿見が、エアシャワー室の扉の横に据え付けられている。その姿見の中に、身体のラインと胸の先端と下腹部の叢が、クリーンウェアの薄い生地を透かしてぼんやりと浮かび上がっていた。
 ……寒い。
 クリーンルームの室温は、外の検査室のそれより数度低く設定されている。真夏の通常作業時でさえ、数時間篭ると手が凍えるほどだ。
 姿見から目を背けると、理美は段差測定装置に歩み寄り、電源を落とした。圭吾から頼まれた用件は簡単に終わった。だが、まだ戻れない。コードレスの受話器から漏れる声が、理美を幾重にも縛り付けている。
 ――――……。
「……どういう、こと……?」
 疑問を投げたところで逆らう術など無い。クリーンウェアだけを纏った姿のまま、理美はドラフトに歩み寄った。中に伏せ置かれたテフロンビーカーに手を伸ばし、ドラフト正面のハンドルを捻る。蛇口から純水が流れ出す。
 テフロンビーカーに純水を半分だけ満たすと、理美はそろそろと口元に運び、中の水を喉に流し込んだ。
 ビーカーは洗浄してある。水もイオン交換された超純水だ。毒物が身体に入る恐れは無い。中身を空にすると、理美は再びビーカーに水を汲み、飲み干した。
 ビーカー三杯半の水が胃の中に入った。限界だった。
「もう……これ以上、飲めない……」
 ――――、――……。
 ビーカーを濯いで元に戻し、蛇口のハンドルを閉める。そのまま時間が過ぎた。五分、十分、十五分……午後八時はとうに過ぎている。
 胃の中の水分が内蔵を冷やす。効き過ぎる程に効かされた空調が、理美の体温を奪っていく。
 悪寒が全身にまとわり付いた。知らず、理美は膝を擦り合わせていた。
 ……あ……。
 意識し始めた途端、急激に感覚がせり上がった。
 身体の奥から迫ってくるその感覚が、幾秒もしないうちに理美の全身に溢れ返った。
 喘ぎが漏れた。理美は歯の根を震わせながら、
「お願い、終わりにして……もう、その……」
 ―――……。
「……そんな――!」
 血の気が引いた。感覚が加速度的に、耐えられない程に膨らんでいった。全身を悪寒が走る。両の太腿が激しく擦り合わさる。腰が左右に揺れ、絶え間ない衝動が理美を突き上げた。
 ……ああ、ああ、あああ……。
「だめ、もう、だめ……お願い、お願い、お願いっ……!」
 髪を振り乱し、全身をばたつかせながら叫ぶ。頬を涙が伝う。胸の先端がクリーンウェアの生地に擦れ、新たな感覚を呼び起こす。
 ――――……。
「いやっ!……そんなことしたら……そんなことしたら……」
 ――――――……。
「……ひどい、ひどい……」
 嗚咽を挙げながら、理美は右手を下に差し伸べた。力を抜かないよう懸命に堪え、両の膝を引き離す。クリーンウェアの上から中指を添える。
 目を固く閉じ、深くなぞった。激しい震えが全身を駆け抜ける。そのまま憑かれたようになぞり続けた。引き裂かれるような疾走感と衝動が駆け抜けた。
「もう……もう……もう……」
 歯を噛み締めながら動かし続けた。中指が滑り、ウェア越しに尖りの上を過ぎた。
 瞬間、理美の全身が硬直した。
 ――弾けた。
 奥底から湧き上がっていた感覚が身体を押し破り、一気に溢れた。
 脈動が音を立ててクリーンウェアの裏側を叩く。温かい感触が腿から膝へ、ふくらはぎへ駆け下りる。いつ途切れるとも知らない流れが樹脂製の生地に染み、太腿に張り付いていく。
 ……あああああ……ああああああ……。
 燃えるような羞恥と開放感に包まれながら、理美はあごを逸らし、腰を突き上げ、嗚咽を漏らし続けた。


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