『呼び声』 (3)

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 ……目を覚ます。
 カーテンの隙間から薄ぼんやりと光が漏れている。アパートの自室だった。
 あれからどうやってここに戻ってきたのか。朧げな記憶しか残っていない。サンプルは外しただろうか。X線回折装置は落としただろうか。クリーンルームの床は、クリーンウェアは……
 薄紅色の渦が脳裏を巻いた。
 起き上がる。畳の上に昨日の衣服が散らばっている。ブラウス、スカート、靴下、下着……胸元から下腹部に視線を落とし、視界がさらに紅く染まった。
 結局、昨夜もあれだけでは終わらなかった。部屋に帰り着いた直後、狙い済ましたように電話機が鳴った。何を命じられ、どんな格好でどんなことをさせられたのか、もう記憶に残っていない。
 散らばった衣類を洗濯籠に投げ入れた。部屋の隅のパジャマを拾い上げ、素肌の上から身に着ける。
 チェーンを外し、ドアを開けた。部屋は一階、アパートの玄関横の郵便受けまでは十数歩だ。
 他の部屋から出てくる者も、目の前の道を歩く者も無い。住人は自分ひとり。いつ取り壊されてもおかしくないような老朽化したアパートだった。
 郵便受けの中を探ると、切手も貼られていない真っ白な封筒が一封、いつものように放り込まれていた。
 封筒を握り締め、周囲を見渡し、足早に自室に戻る。チェーンを掛け、封筒を破ると、折り畳まれた一枚の紙が中から滑り落ちた。
 A4サイズの中央に、何度見ても見慣れることの出来ない、一枚の画像が印刷されていた。
 ――タイル張りの浴室の壁に身を寄りかからせ、脚を広げ、片手で左胸を掴み、片手を脚の間に添え、顎を心持ち上げ、目を半閉じにしながら、何かを叫ぶように口を開けるひとりの女。
 どこから撮られていたのか、画像は驚くほど鮮明だ。額に光る汗も、胸の突起を押し潰す指先も、広げられた下の唇の皺も、内腿を伝う流れも――感覚の虜になった虚ろな表情も、はっきりと確認できる。
 血が滲むほど唇を噛んだ。
 画像の下の空白に、味気無い明朝体で、今回の命令が印字されていた。それを視線で三度追った後、理美は紙を半分に裂き、封筒ごと丸め、目を背けながら台所の脇のごみ箱に放り込んだ。
 奥の間へ戻り、パジャマを脱ぐ。プラスチック製の収納ケースからTシャツを取り出し、纏う。
 ケースの上に置かれた紙製の小箱から、卵状ののっぺりした物体を摘み上げる。
 息を整え、左手の指で広げながら、理美は唇を噛んだまま、卵をゆっくり沈めていった。

                          ※

 昼休み開始のベルが鳴った。
 他の検査員がひとり、またひとりと席を立ち、昼食に向かっていく。X線回折装置の前に座る理美の背後から、いつもと同じ穏やかな声が歩み寄ってきた。
「まだ終わらないんですか水越さん。弁当、冷めますよ」
「……うん。これが済んだら行くから」
 理美たち派遣社員はいつも、社員食堂でなく階下のプレハブの休憩室で昼食を摂っている。弁当は、あらかじめ注文しておいて業者が毎日運んでくる仕組みだ。
 派遣社員は社員食堂を利用できない――という規則があるのかどうか理美は知らない。この職場に配属された時からこういうシステムだ。隔離政策の一環なのかどうかは解らないが、かと言って不満があるわけでも無かった。片道十分の手間をかけて工場の反対側の社員食堂へ行くよりは、遥かに楽だ。
「――水越さん」
 圭吾の声が不意に硬くなった。
 思わず振り返る。圭吾は真剣な表情で理美を見つめていた。心臓が軽く跳ねた。
「あの、本当に無理しないで下さいよ。昨日も遅かったじゃないですか」
「……大丈夫。夕べは終夜運転にしてすぐ帰ったから。今、その分の解析をやってるだけ」
 結局、朝来てみたら、X線回折装置もサンプルもそのままになっていた。忙しい時、XRDのサンプルを測定にかけた状態で帰宅するのは茶飯事だ。疑われる心配は無いと解ってはいたが、それでも気は落ち着かない。
 クリーンルームには痕跡は残っていなかった。あの後の自分の行動を、理美はようやく思い出し――午前中の間、逃げ出したい思いで一杯だった。
 圭吾の視線から顔を逸らし、理美はモニタに向き直った。
 お願い……そんな目で見ないで。
 朝からずっと振り払おうとして振り払えなかった下腹部の奥の違和感が、急激に増していく。
 目を落とすと、脇のごみ箱に昨夜のガーゼが捨てられたままになっていた。胸が破裂しそうなほど脈打つ。
 短い無言の後、圭吾の溜息が聞こえた。
「……じゃ、先に下りてます」
 何か言いかける気配がしたものの、圭吾は結局何も言わず、検査室を出て行った。
 気が付けば、検査室には人気が無くなっていた。
 ……自分は何をやっているのだろう。理美は瞼を拭った。

 数十分後、ろくに解析も進められないまま階下へ下り、裏口から外へ出ると、休憩室のドアの内側から話し声が聞こえた。
「山根くんってさ、絶対二股とかかけてそうだよねー」
「見える見える」
 思わず足を止める。
 全数検査班の女の子達の声だった。顔を思い出せる程度には知っているが、あまり話したことはない。同じ建物内でも、全数班は一階、理美たち抜取班は二階、と仕事場が違う。自然とふたつの班は疎遠になりがちなのだが――理美と同じ抜取班の圭吾を語る彼女達の声は、明るすぎるほどに明るかった。
 足を動かせないまま佇んでいると、
「どういう意味ですか、それは」
 やれやれと言わんばかりの圭吾の声が、中から響いてきて、理美は飛び上がりそうになった。
 三人の他に気配は無い。十二時も半分を過ぎようとしている。他の検査員はとうに昼食を済ませてどこかへ行ってしまったようだった。
「だってさほら。いかにも『泣かせた女は数知れねぇぜ』って顔してるじゃない。あ、もちろんいい意味で、だけど」
「実際のところどうなのさ。うりうり、お姉さん達に白状しなさいてば」
「止めてくださいよ、もう」
 溜息。「そりゃ、恋愛経験は無いでもないですけど、数知れずなんてレベルには程遠いですよ。第一泣かせたことなんか全くありません。むしろ泣かされてばかりです。前の彼女にもあっさり振られましたし」
「ありゃ、そうなの? 意外ー」
「……というかお主、実は相当のヘタレと見たな。どれどれ、吾輩が鍛え直して進ぜようか」
「あ、だったら私も。どう今夜? お姉さんと極上の一夜を共にしない?」
「遠慮します。大体、お二方ともちゃんとお相手がいるんじゃないですか」
 あはは、能天気な笑いが扉越しに響いた。
「まぁそうなんだけどね。色々あるのよ付き合いが長くなると。解る?」
「というか山根くん、振られたって言ったけど、今は付き合ってる人とかいないの? じゃなければ気になる人とか」
「……いませんよ」
 圭吾の返答に、一瞬の間があった。
「んんっ? 本当かなぁ? 匂うなぁ」
「あ、解った。もしかして抜取の水越ちゃんとか?」
 心臓が高く音を立てた。
「だから、違いますって」
「あ、頬をほんのり赤らめてますよこの人。図星か?」
「初心《ウブ》なんだから全く。なるほどねぇ。派遣のアイドル山根くんが水越さんをねぇ」
「違うって言ってるじゃないですか」
 圭吾の声色は普段と同じ調子で、彼女達の言葉が事実を言い当てたものなのか、からかっているだけなのかは解らない。だが、理美の胸を暴れさせるには充分だった。
 圭吾が自分を――自分を?
「ま、それじゃ、そういうことにしといてあげるとして――」
 女の子の片割れの声が、不意に真剣味を帯びた。

「止めといた方がいいよ、水越さんは」
「うん――私もそう思う」

 背中が静かに凍り付いた。
「……どういう意味ですか」
「いや、さ。ひとのことあんまり悪く言いたくないけど……実は、良くない噂があるの」
「確かに、山根くんが気にするのも解るよ。水越ちゃん綺麗だし、スタイルも悪くないし、性格もまあ、ちょっと暗いかなってとこあるけど、人当たりはいいし、仕事してる分には全然優秀だと思うし。……でも、さ」
「だから、何なんですか」
 圭吾の声が、初めて苛立ちを帯びた――ような気がした。
 十数秒の間。

「……テレクラしてる、って噂あるの。彼女」

 胃の中を、鉛色の何かが落ちていった。
「その手の雑誌に、水越ちゃんの顔写真が載ってたことがあったんだって。声も割とそっくりらしいって」
「現に水越さん、何かいつも疲れたような顔してるでしょ? 夜にそういうことしてるからだって、全数班《うち》の男共が話してたのを聞いた事あるよ」
「仕事終わった後も、うちらと一緒に呑んだり遊んだりって全然しないでしょ、水越ちゃん? いつも最後まで残業してるか、さっさと帰っちゃうかのどちらかじゃない。派遣の送別会も忘年会も、ずっとご無沙汰だしさ。家に帰って何してるのか全然解んないもの」
「それに、男共が言ってたけど、水越さんのとこに夜電話かけても絶対繋がらないんだって。何か怪しくない?」
 最初の前置きとは裏腹に、最後は誹謗中傷以外の何物でもなくなっていた。
 胸の上の両手が激しく震えた。今すぐ扉を開けて、中の彼女達を血が出るほど叩きたい衝動に襲われた。
 違う、違う。自分はそんな人間じゃない。そんな女なんかじゃない。そんな淫らな女なんかじゃ――
 唐突に衝動が止んだ。
 ……何が違うというのか。
 毎夜毎晩、顔も見せない相手の声を電話越しに聞きながら、決して人に見せられない恥ずかしい格好で悶え、喘いでいるのはどこの誰だというのか。
 つい昨日、あろうことか二階の仕事場で、あんな痴態を演じたのは誰だ。
 今朝からずっと、今もこの場で、人には言えない器具を入れて、下着に溢れさせながら震えている自分は、いったい何だというのか。
 こんな自分をもし圭吾に知られたら、いったい何と言い訳すればいいのか。脅されたから? 顔も見ない相手に電話で命じられたから? 言えない。言えるわけない。そんなのテレクラと同じじゃないか。
 そうだ。彼女達の言った事の、どこが嘘だというのか。昼間から疲れているのは、夜に仕事仲間を避けているのは、電話が繋がらないのは、いったいどうしてだ?
「――いい加減にしてください」
 圭吾の声が、今度は明らかな怒気を孕んでいた。「何か証拠でもあるんですか、今の話に」
 女の子達の声が、急にうろたえたものに変わった。
「いや、その、だから。さっきの話はその、ただの噂で――」
「私達もその、全然信じてるわけじゃないんだってば。み、水越ちゃんがそんなことしてる訳ないじゃない。だからほら、山根くん、落ち着いて、」
「さっき『水越さんはやめた方がいい』と仰ったのはどなた達ですか」
 女の子二人の声がぴたりと止まった。
「……先程の話をお二方が教えてくれた、ということは覚えておきます」
「や、山根くん!」
「お、お願い、そんなにむきにならないで。ごめん、謝る。私達が悪かったから、」
「――失礼します」
 立ち上がる気配がした。
 全力で踵を返した。裏口から本館に滑り込むのと、背中から休憩室の扉の音が響くのが同時だった。
 解っていた。自分はそういう人間なのだ。こんなことになったのだって自業自得じゃないか。以前の相手に捨てられた後、身体の奥底から湧き上がる囁きに負けて、浴室であんなことをして、それを写真に、写真に――
 涙を堪えながら、何でもない振りをしようとして――歩を進めるたびに、下腹部から甘い感覚が責め立てた。
 ……あ、あ、あ――
「水越さん!」
 足が止まった。
「……何、山根くん?」
 なるべく自然に振り返ったつもりだったが、圭吾の顔にはいぶかしげな表情が浮かんでいた。
「どこ行くんですか」
「どこ……って、階上よ。もう、お昼休みも終わっちゃうでしょ」
「お昼ご飯は? まだ弁当取りに行ってないですよね」
「……間違えて、自分でお弁当作って来ちゃったの。ドジね、君の言う通り、少し休んだ方がいいのかな……」
 冗談交じりの照れ笑い、のつもりだった。
 理美の顔を覗き込まんばかりに近付けていた圭吾は、瞬間、はっと表情を変えた。
「――まさか、聞いてたんですか」
「何の、こと」
「……聞いてたんですね」
 圭吾は視線を落とし、しかし数秒後に固い口調で向き直った。「水越さん、あんな人達の言うことなんか気にしちゃ駄目だ。俺は絶対信じません。信じたりしない。あんな酷い噂を平気で喋る人達のことなんか。
 俺、ここに来てまだ半年も経ってないし、水越さんの事も良く知ってるとは言えないけど、少なくともあんな人達よりはよっぽど、水越さんを解ってるつもりです。その――ずっと、見てきたから。
 だから、その、噂なんて気にしないで下さい。俺、水越さんの味方ですから」
 圭吾の言葉が、理美をゆるやかに奈落へ突き落とした。
 圭吾は、そういう女を心の底から軽蔑している。理美がそんな人間ではないと信じ込んでいる。
 彼に真実を知られたら。知られてしまったら、自分は――
 圭吾が理美の両肩を掴んだ。
「……水越さん、俺、」
「だめ、山根くん――」
 廊下には誰も見えない。先程の女の子二人も追ってくる気配は無い。圭吾の身体がゆっくり迫って来た。何もかも投げ出してしまいたくなって、瞼を――

 何の前触れも無く、卵が振動を開始した。

 背骨を衝撃が突き抜けた。声を挙げずにいられたのは奇跡だった。
 ……あ……いや……あ、あ……ああああ……。
「水越さん――?」
「……や、山根、くん……だめ……だめなの……だめぇっ!」
 声を震わせながら圭吾を押し退け、理美は逃げるように駆け出した。
「水越さん!?」
 圭吾の声が背中に突き刺さる。
 ――どうして!? どうして!?
 角を曲がる。女子トイレへ飛び込む。誰も入っていない。スリッパに履き替えるのももどかしく、個室へ入って鍵をかける。
 計ったように上着の胸ポケットの業務用PHSが鳴り出した。卵は震え続けている。誰、誰!? 喉を突き上げる喘ぎを懸命に堪えながら、理美はPHSを繋いだ。
 ―――――――――、――――――……。
 灰色にくぐもったあの声が、PHSから滲み出した。
「――っ! ど、どうして……」
 社内業務用のPHSへは、外線からも直接ダイヤル出来る。抜取検査室の電話にまで掛けてきた相手が業務用PHSに掛けられないはずがないと、頭では理解していたが、それでも問わずにいられなかった。
 ―――――――――……。
「……いや……とめて……おねがい……とめて……」
 唇を震わせ、腰を揺すりながら懇願する。返って来たのはしかし声ではなく、さらに大きな懲罰だった。
 卵の振動が激しさを増した。
 悲鳴が漏れた。慌てて片手で口を塞ぐ。指の隙間から嗚咽が噴き出る。
 外の廊下を誰かが近付く気配がする。冷たい汗が背中を伝う。お願い、入って来ないで、入って来ないで……願いが通じたのか、足音は女子トイレの横を通り過ぎる。
「……やめて……やめて……もう、やめて……」
 ――――――、――――……。
 ぶるぶると首を振る。だが逆らうことなど出来ない。昨日と同じように、理美は腰に手を伸ばし、作業着のズボンのジッパーを下ろした。裾を掴み、眩暈を堪えながら引き下ろす。
 下着は穿いたまま、ズボンだけを膝に絡ませた格好で、理美は和式便器に腰を落とした。普段と違う脱ぎ方に、腰の周りを違和感が包む。圧迫された下腹部の奥で、卵がさらに激しく震えている。
 目を落とす。叢が透けていた。頬に血を上らせながら、理美は下着越しに指を当て、擦った。
 さほど時間もかからなかった。
 PHSを握った手で口を押さえ、理美は座ったまま背中をのけぞらせ――数秒後、下着の繊維の隙間から堪え切れなかったものが滲み出し、一部が弧を描いて溢れ出した。
 便器の手前奥の水溜めに音が立つ。後ろの部分にまで染み渡っていく感触に、理美は何度も身を震わせた。


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