『 』
1
僕は家族を殺した。
僕を産んでくれた母親は、インターネットで調べて意外にも簡単に出来た毒薬を、夕食に混ぜて殺した。
僕達家族を養ってくれた父親は、これまた意外な程簡単に手に入った睡眠薬を飲ませて、更に念のためとしてガムテープで何重にも拘束して、皮肉な事に父さんが仕事のボーナスで喜んで購入したゴルフクラブで、何度も何度も殴って殺した。
徹底的に、僕はどうしようもなく家族を殺した。
だと言うのに、動機がはっきりとしない。
殺し方は明確に覚えてる。だが、なんで殺したかは全然不明瞭だ。
世間一般の少年犯罪者どものように、カッとなって殺したとか、馬鹿みたいな理由かもしれないし、……もしかしたら、とても深い理由があって殺したのかもしれない。
分からない。自分の事だと言うのに、どうして殺したのかが分からない。
……僕はこのまま警察に捕まって、今までTVに出てきた少年犯罪者のように扱われるのだろう。
あの子、普段は大人しい子だったのにとか、とても素直で優しい子だったとか、学校の先生やら生徒やら、近所のおばさん、おじさんに言われるのだろうか。
想像するだけで吐き気がする。
僕の事を何も知らない人間達に、僕は面白可笑しくそんな事を言われるのだろうか。
ロクに交流もない奴等にそんな事を言われるのだろうか。そしてTVでは僕が家族を殺したという情報しか知らない人間どもに、恐らく彼はこう考えていて、などと説明なのかそいつの講演なのか分からない戯れ言を言われるのだろうか。
ひどく悲しく、そして苛ついた。
◆
朝がやって来た。
カーテン越しに、今まで望んでなどなかった朝日が異界となった僕の部屋に侵入してくる。二段ベッドの下で、震えてる僕を嘲笑う。朝日は、闇に包まれて見なくて済んでいた現実を、嫌らしくも見せつける。
光に照らされて見えたのは、僕の寝室──兄の太陽と同じ部屋である、床は畳が敷かれた六畳程度の兄弟共用の子供部屋、この部屋の中央でまるで泡を吹いた蟹みたいになっていた死体だった。
耳元にはイヤホンでお気に入りの「灰色の銀貨」を聴いているはずだと言うのに、その死体を見てると、声が聞こえそうだった。
何だか、とても嫌な事を思い出しそうになる。
〝何で、お前は──〟
やめろ、やめろ。
脳裏に浮かんだ映像とノイズを、無理矢理消し去る。
そんなの思い出したくない、思い出したくなんてない。
僕は逃げるように立ち上がって、兄が死んでいる子供部屋から抜け出た。
──抜け出た先には、家族の団欒の場であるリビングがあって……そこには、母さんの死体があった。
僕が殺したはずだというのに、まるで初めてその光景を見たかのように、感じる。
不思議と涙は零れなく、その代わりに僕の体は激しい地震に襲われていた。
震度は5を軽く超える。
僕という建物はいとも簡単に崩れそうになる。
僕はこの惨劇から逃れたくて、見ていたくなくて、リビングの隣の部屋へと歩む。自分がやった事なんだから、分かっていたはずだというのに、僕はまたここで失敗を起こす。
──頭部という物が、原型を留めていない状態にされた父さんがそこにいた。
2
いつもの日常のように学校へ行くという選択は、他人から見れば愚かに思えるだろうが、この時僕にとってはこの選択肢しか考えられなかった。
いや、確かに自分でも他の学生達と一緒に通学路を歩く今となって考えてみると、疑問に思う事はある。
こんな状態で学校に行くなんて、平然としているなんて出来ないのに、何をしているんだと思う事はあるにはある。
……だがその否定論を覆すような理由も、僕には確かに存在していた。
おかしな話だ。家族を殺した動機は不明瞭なのに、学校に行く理由は不明瞭じゃない。
「よぉー、おはようライトー」
校門の辺りに来た所で、僕は突如名前を呼ばれる。
聞き慣れた野太い声、聞き慣れた友人の声は、すぐに誰か特定する事が出来た。
「あ? どうしたんだよ、何か暗いぞお前。いやてか、恐ろしいくらいに顔が青いぞ。大丈夫かよ」
金髪で、制服の第一ボタンどころか第二ボタンまで外して、日焼けた顔がなお一層不良と思えるチャラチャラした男が、僕を心配して動揺するという似合わない行動を起こしていた。
この男は、藤原と言う。
僕と同じバスケ部に所属しており、そして同じクラスであり、悪友であり、この学校では一番の友達だ。
「……今日は体調が悪くてね」
自分でも驚く程に低く小さい声で呟く。
ここまで僕は病んでいるらしい。これでも必死に平然を装うとしていたんだが、その努力は全くもって、そう、まるで人生という悪夢から抜け出す事のように無駄だった。
「おいおい頼むぜ、次期キャプテン。お前がそんなんじゃ、部員の気が締まらないぜ。……まぁ、気を付けろよ、ほんと。てか、そんなんで学校とか出て大丈夫なのかよ。俺が代わりに今日は休むって伝えようか?」
珍しく僕を気遣う藤原の優しさに少し罪悪感はあるが、僕はその優しさを断る。
「いや……大丈夫。喉の調子は悪いけど、意外と体自体はそこまで酷いわけじゃないんだ」
友人の優しさを、僕は全身全霊の喜劇じみた嘘で払いのけた。
「……まぁ、お前が大丈夫だって言うならいいけどよぉ」
あまり納得はしてないようだが、どうやら引き下がってくれたらしい。
友を騙した罪悪感と家族を殺したドロドロの罪悪感に全身が包まれた状態だというのもあり、僕は普段とは違い、教室まで藤原と無言で歩いて行った。
校門から下駄箱までも、下駄箱から階段で昇って教室まで行くのも、全部無言だった。
僕も藤原も、何も話さなかった。
自称「いつでもマキシマム・ザ・ホルモン」の藤原が、ここまで無口になるのは、とても意外だった。二十四時間いつでもうるさい、この男を黙らせるくらい僕は酷い状態らしい、それは単に優しさなのか、それとも声を掛けづらかったのか、……もしそれが優しさだとしたら、何という皮肉だろう。
僕はこの学校に日常を求めて来たというのに……全然意味がなかった。
◆
非日常的な惨劇を起こした故に、今まではあまり良く思ってなかった学校を、何故だか望んでしまっていた。
そこまで日常というものに、今僕は恋焦がれているのだろう。
大空に羽ばたこうと憧れるダチョウのように、僕は今夢見がちなのか。
もしそうだとしたら、気を付けなくてはいけない。
ダチョウは、飛べないんだから。
◆
結局朝の登校から、今このみんなと食堂で昼食を食べている時間まで、僕はあまり人と喋る事は無かった。
一番の親友であるはずの藤原とさえも、二言で終わってしまう。
外見は世間ではあまりよろしくない奴ではあるが、性格は意外と優しい奴であるため、僕の事を心配して、何回か僕に答えやすい話題を振ってくれるのだが、空しくも僕はその期待に応える事は出来なかった。
「絶対さ、花田とかお前の事を好きだと思うんだよ」
今もまた藤原は、僕に話題を振る。
体調的にはそんなの答える余裕はないのだが、だが非日常から逃れるためには、今こういう日常的なものに触れ合っていたい。
「……そんなはずないだろ、俺の事を好きな女子なんているはずが」
ないだろうと言おうとしたら、僕と同じテーブルで飯を食べてる藤原含む友人に、「アホかお前」と突っ込まれてしまった。
0.1秒の狂いもなく見事にシンクロしていた。妙にショックだ。
「あのねーキミ、そういう事はバレンタインにチョコを一個も貰えない奴が言う事なんよ」
「藤原とか藤原とか」
「殺すぞこら、……いやまぁとりあえずライトみたいなモテモテ君は言えないよなぁ」
言えないだろうか。
友人達は息が合ってるのか合ってないのか分からない団結力で、語る。
「ちなみにさ、ライトよ。聞くけどよ、今年はチョコいくつ貰った?」
藤原とか藤原とかと先ほど言った奴が、僕に問い掛ける。
眼鏡を掛けており、何処か東洋カンフー次世代のヴォーカルに似ている顔だ。何だか、妙に尋問じみた台詞が似合う。
「……十個ぐらい」
「はいはい、多いよね。んじゃ次、高校入ってから今まで、何人に告られた?」
「……そんないないよ、確か……五人ぐらい」
「多いよ馬鹿野郎」
馬鹿、馬鹿と僕は何も悪い事をしていないはずなのに、何故だか罵声を浴びせられた。
そんなに多いだろうか……チョコはどうせ全部義理だろうし、告白だってどうせ一時の気の迷いだ。僕は何でこんなに馬鹿と言われるのか、んぅ、分からない。
「あーあー、頭脳明晰、運動神経バツグン、しかも女子にはモテモテ、ついでに俺等男子にもモテモテかよ。ったく、何だてめー、この完璧超人。何だか無性に泣きたくなるじゃねぇか、馬鹿野郎」
藤原に愚痴を言われて最後に馬鹿野郎と言われて、しかも最後に何故か僕のカツカレーのカツを一個奪われた。
ここまでいくと、イジリではなくてイジメの領域に思える。ちょっと腹が立ったので、お返しに藤原のハンバーグを半分切り取って奪ってやった。
「あっ、てめーこの野郎」
と、藤原はハンバーグを取られたというのに、笑っていた。
……そう、ここがこいつの良い所なのだろう。こいつは何だかんだで、友達思いなのだ。そして、他の奴等もそう、みんな、良い奴……なんだ。
〝えぇ、今日の特集は少年犯罪についてです〟
……突如、そんな団欒の中、離れたかった惨劇が迫ってきた。
それは、TVのニュースだった。
食堂の隅っこに置かれたそれなりにでかい、少なくても我が家のTVよりかはデカイと思われるTVから、それは流れていた。
画面には、白髪の中年男とおばさんのニュースキャスターらしき人が映っていた。どうやら、特集で少年犯罪について触れてるらしかった……。
……少年犯罪。
『 』
……何だか、ひどく吐き気を感じた。
「ごめん、ちょっと保健室行ってくる」
まだみんなが雑談で賑わってる中、僕は空気を全く読まないで席を立った。
あまりにも唐突だったんで、みんな驚いていた。
「え、マジかよ……大丈夫か? 送ってやろうか?」
と、まるで爺さんを相手にしてるかのように言う藤原が何か可笑しかったが、何故か笑う事は出来なかった。
僕は友達の優しさに対して、ただ「……大丈夫」としか言えなかった。
勤務中であるはずなのに眠りこけてた保険医の先生に、体調が悪いので少し休ませてもらいますと、適当に言って、二つあるベッドのうち丁度窓が枕元にある方のベッドに僕は寝る事にした。
保険医の先生はどうせ眠っていて聞いてなかったと思うが、別に大丈夫だろう。
授業に出れないのは藤原達に言っておいたし、ここのベッドは普段からあまり使われる事がないため、勝手に使っても困らないはずだ。
僕がいた中学校では、保健室というのは結構人が集まる場所だった記憶があるが、人望のせいだろうか、ここにはあまり人が来ない。
白という白に染まったベッドに横たわり、布団を掛けて、枕に頭を預けて、僕はそのまま眠りに入る事にした。
非日常からなるべく離れたいから日常である学校に来たというのに、何をやってるのだろう。
一体僕は何をやってるのだろうか。
「本当に……何やってるんだろう僕は……」
家族を殺して、家族を殺して、家族を殺して、僕は一体何をやってるのだろう。
この両手は死に染まった殺人鬼の手だ。
天井に付けられた蛍光灯に、手を翳す。
まるで太陽に手を伸ばすかのように──そう、太陽に手を伸ばすかのように、僕は手を伸ばした。
手は人を殺した手とは思えないくらいに、光に包まれていた。
……これから先は、途方もない闇に包まれる事になると言うのに、切ないもんだ。
嫌な事を考えそうになる。
脳内で絶望がヒシヒシ脈打っているのだろう、……僕はそれを感じたくて、目蓋を閉じて、必死に眠りに入るようにした。
何も考えないように、何も嫌な事を考えないで済むように、僕は眠りへと落ちて行った。
『 』
最後に、中身が空の台詞が思い浮かぶ。
それは果たしてどんな言葉だったかも分からず、誰が言ったかも分からずに、僕が眠りに陥る間に意識の中を彷徨っていた。
果たして、それは一体誰の言葉だったのだろうか。
……僕は、分からない。
3
目が、覚めた。
目というより意識が。僕は眠りから目覚めた。
と言っても、目蓋はまだ閉じた状態で、視界は目蓋の裏側で閉ざされていた。
だがその視界の中に、誰かの声が聞こえる。
あぁ、これは部活動の声だろう。
窓の向こうでは学校のグラウンドを使ってる部活が今頑張ってるんだと思う。
恐らくサッカー部だ。それらしき単語が何回も目蓋で閉ざされた僕の世界に入り込んでくる。
……そうなると、もう放課後なのか。
結局、僕は昼休みからずっと放課後になるまで寝ていたのか。
日常に浸るはずが、これではまるで意味がない。
藤原とかはもう帰ったのだろうか、出来れば一緒に帰りたかったのだが、いやもしかしたら藤原の事だから、意外と待ってくれてるかもしれない。
あいつはホント、馬鹿みたいに友達思いだから、きっと待ってくれてるだろう。
だから、僕はあいつの所へ行こうと目蓋を開けた。
開けた視界の先には、……見知らぬ女の子が僕の上に乗っかっていた。
「おっ、起きたんだ。ハロー、元気かい、ライトちゃん」
茶髪でロングヘアー。
顔は割と万人受けしそうな可愛い顔してる。制服は普通にこの学園の女子生徒が着る制服。
そして僕と同じ学年を示している赤色のネクタイを付けていた。
……いや、誰だよこいつ。
「あ、今、誰だよこいつって顔したな。ひどい、あたしの事忘れてるんだ」
頬をハムスターみたいに膨らませて怒ったというジェスチャーを伝えてくる。
いや、そんな事を言われても分からないものは分からない。
「花田だよ、花田。忘れたのー?」
……忘れてる。
「ひどっ、クラスメイトの顔を忘れるなんてひどっ、しかもあたし、君の所属する部のマネージャーなんですけどー」
……あぁ、花田って、あぁそうか。
そういえば、食堂の時にも名前が出た気がする。
花田って、あぁそうか、こいつの事か。
「……その花田さんが、何故僕の上に?」
誰か分かった所で、問題は解決されてない。
起きたら女の子が上に乗っかっていた何て、普通は起こらない。
頼むから、今この光景を誰にも見られないでくれと祈る。
今僕、物凄い光景になってると思う。
「──ん、いや、何というかさ、あたし君の事が好きなんだ」
唐突に、本当に唐突に、僕は花田から告白された。
………………………………思わず、僕は沈黙してしまった。
「おいコラ、女の子に告白させておいて、だんまりかい?」
いや、そんな事言われても。
「……いや、あの……本当にいきなりすぎて……その……」
「ここにいる事は藤原から聞いたから、……今日は何かすごい体調悪いらしくて休んでるって聞いたから来たんだ……。いや……その……告白は……確かにあたしも、唐突過ぎたかなと思ったけど」
だったら、やるなよ。
行動力ありすぎだろ。
いやありすぎて、空回ってる。
「あたしね……前々からライト君の事が好きでね。……てかそもそもバスケ部のマネージャーになったのも、君のせいなんだよ。君がいたから……君がいたからなんだよ……」
……何か、何故か知らないが、花田は両手を僕の頭の脇に置いて、そして段々と顔を近づけて来た。
……え、いや、その、何をする気なんだろ、この子。
「ほら、ライト君ってさ……格好良いじゃん。頭も良いし……運動だってすごいし……しかも外見も、カッコイイしさぁ……やっぱさ、そんな完璧超人が傍にいたらさ、女の子って見惚れちゃうもんなのよ」
彼女は段々と顔を近づける。
何も知らない僕に、段々と距離を縮めようとする。
「本当、何も欠点がなくてさ。あるとしたら、ちょっと真面目すぎる所かな。いやそれはむしろ良い所なのか。ともかくさ……そんな君にさ……あたし惚れちゃったんだよね……」
完璧……優等生。
「そんな……ライト君が……好きなんだ……」
花田はそう言って、距離を縮めて……いった。
何も知らない癖に、何も知ってない癖に、表面上の僕を眺めていただけの癖に、彼女は段々と距離を縮めていった。
……馬鹿じゃないのか、こいつ?
「──僕の名前は、ライトじゃない」
そう言って、僕は両手で彼女を押し上げた。
花田は何事かと少々戸惑っていたが、僕はそんな事気にせず、僕は、上半身を起こして彼女の目線と合わせる。
「頭が良い……それは何でか知ってるかい? 毎日ちゃんと勉強してるからさ。いつもいつも、親に監視されながらやってるんだよ。あははっ、遊ぶ暇もないくらいにね。分かる? この気持ち、分からないよね。君は僕がまるで少しの努力で優等生になってると思ってるんだから」
段々と、花田の表情は凍り付いていく。
下がる彼女の温度、だがそんなのお構いなし。
「運動だって、格好良いのなんて偶然だよ。むしろ、いらないくらいさ。そのせいで、余計なプレッシャーばっかり背負ってさ。本当は僕コミュニケーション能力が低いんだよ? ねぇ、分かる? この気持ちが、分からないよね。上の兄貴が最低野郎だからさ、その分家族の期待を背負わされてる僕の気持ち何て、君には分からないよね」
「ライト君……何を……言って……」
「だから、僕の名前はライトじゃないって言ってるだろ」
僕は、気が付いたら彼女の首を握っていた。
両手で、力強く、顔を自分でも恐ろしいものになってると分かる程に、彼女に殺意を込めた。
「ライトってのは某有名漫画が由来なんだよ、分かる? 本当の読み方はツキって言うんだよ。ツキ。おつきさまだよ? 分かる? ライトってのはあくまであだ名なんだよ、それを君は分かってるのか?」
何度も、何度も、僕は語尾に疑問符を付ける。
だが返事は無い、あるはずがない。
言おうにも、喉が塞がれてるのだから。
「僕がどんだけ苦労してたか君は分かるかい? 僕はそもそも人間関係をうまく取り繕うなんて出来ないタイプだし、プレッシャーに耐えられる人間でもないんだ。そんな僕が今までこうやって優等生でいたのは、どれ程の苦労だったか分かるかい? ねぇ、分かる? 分かるのかよ!」
僕は体内に蠢く絶望と、そして怒りを彼女にぶつけた。
両手には、また新たな死が込められる。
力強く、本当に首を折ろうとするくらいに、僕は力を込めて──。
僕は殴られた。
力強く、とても力を込められて僕は頬を殴られた。
その衝撃で僕は体ごとベッドから吹っ飛ばされる。花田の首を絞めていた両手も離してしまう。突然の出来事に思考は少しばかり停止の猶予が必要だった。
だが段々と思考は回り始める。
床に手をついてる僕が見上げると、そこには苦しそうに咳き込んでいる花田と、それを心配そうに大丈夫かと叫ぶ──藤原がいた。
「……」
「お前……何やってんだよっ! 今こいつヘタしたら、死ぬとこだったんだぞ! お前……こいつを殺そうとしたのか?」
藤原の目は、もう今朝や昼のように友達を見る目ではなく、そう──異界の者を見るような目つきになっていた。
そう、もう手遅れの場所に来てしまった僕の立ち位置を教える目。
「はははっ……、あははははははははははっ」
何だか無性に笑いがこみ上げて来た。
あまりにもの喜劇っぷりに笑いが止まらない。腹が捻切れるくらい笑みが暴走する。
あぁ、最悪。あぁ、最低。
見られちゃった。
やっちゃった。
もう完全に僕は日常から離れた。
「ライト……お前……」
その目には、ついに怒りさえこもっていなくて、そこには怯えが秘められていた。
友達を見るような目じゃない、そう、殺人者を見る目、異界の者を見る目。
恐怖、恐怖、恐怖。
「だからさ……僕の名前はライトじゃないって」
言ってるだろ。
そう言って、僕は藤原の胸倉を掴み、思いっきりこちらに引き寄せて床に叩き付けた。
動揺していた藤原は何の抵抗もなく、ただ呻きを上げるしか出来なかった。倒れてる藤原に、更に僕は何回も、何回も蹴りを加えた。
藤原とはそこまで体格差はない、それなら体力的に鍛え方が違う僕の方が勝っている。だから、こんな場合でも僕は負ける事はない。
いや……別に友達を蹴るために僕は今まで鍛え上げたわけじゃないが。
蹴りを加える度にどうにか抵抗を試みてはいたが、それも数を増す毎に弱まっていき、ついには何の抵抗も出来なくなっていた。
藤原が抵抗しなくなったのを見て、僕は蹴りを入れるのをやめる。
藤原は涙目になりながらも、僕を見上げていた。
その目には、怯えだけでなく、何でこいつがという疑問符まで見えていた気がした。
「……さようなら」
だけどそれは僕の心にはもう届かない。
心はまるで砂のように、そして悪夢のような虚無感に襲われる。もう、僕は空っぽ。
だから僕は、別れの言葉を告げて、その場を去った。
空っぽの人間は、もうここにいちゃいけない。
『 』
そう、もうここにいちゃいけない。
◆
親には感謝しなさいと誰が言ったのか。
いや誰もが言うのか。
確かに、親というのは普通に考えてみれば、そういうものなのかもしれない。
少なくても、それ相応のお金を払って、学校に行かせたり、食事を取らせたり、好きな物買ってあげたり、家に住ませてあげたりしてるのだ。
確かにそれを考えれば、その通りなのかもしれない。
社会に出て働くというのは、とても大変な事なのだ。
本来ならば、自分の事だけで精一杯なはずなのに、家族のために働いてお金を稼いでくるお父さん、そして子供の面倒を赤ん坊の頃から大人になるまで見てくれるお母さん。
確かに、普通の考えならば、感謝して当たり前の事なんだろう。
普通の考えをすれば……普通、普通、普通? 果たして普通とは何なのだろうか。普通と普通じゃないの違いは、何だって言うのだろうか。
普通とは所詮は、大勢多数の考えなだけで、大勢多数の考えじゃないのが普通じゃないというのなら、なるほど僕が考えてる事は普通じゃないのだろう。
だが、それは本当に普通じゃないと言えるのだろうか、それはただ単に、数で決めてるだけじゃないだろうか。
無駄な集団意識ではないのか。
みんながそうだから、俺もそう。みたいな。
そんな考えで決められたのが普通と言えるのだろうか。
──それが普通だと言うなら、僕は普通じゃなくていい。
親が子供を養うなんて、当然の事だろう。
当然の義務だろう。当たり前だ。法律だって決めている。そうしている。
親は立派? 親のおかげ? 親に感謝?
は? 何を言ってるんだ?
産んでくれと言ったわけじゃないのに、勝手に産んだのは、両親なんだろう?
だったら、子供を養うなんて当然の事じゃないか。
むしろ、勝手に産みやがったんだから、その後の生活も面倒みてくれてもおかしくはないんだ。
だと言うのに、ニートになったり、引きこもりになったら、世間の冷たい眼で見られる世界はおかしい。
誰が産んでくれって言った? 誰がこの世界で生きたいって言った?
お前等が勝手な性交渉をしたおかげで、運悪く僕は産まれて来てしまったんだぞ?
どう責任をとってくれるんだ?
お前等のせいで、お前等のせいで、僕はこんなにも苦しむんだ。何回も、何回も、死のうと思った。だけど死ねないんだ。死ぬのが怖くて。
お前等のせいだ。
お前等のせいだ。
死にたいのに、生まれてこなければよかったのに、お前等が馬鹿みたいに出したせいで、僕が産まれてきちゃったんだ。
ふざけるな、おかげで僕は苦しむんだ。泣くんだ。叫ぶんだ。
お前等は、お前等は、最低だ。
──僕は、僕は、僕は……。
4
兄が不登校になったのは、高校に入って数ヶ月の頃だった。
中学まで付き合っていた友人達と別れる事になりはしたが、僕等はどうにかそれなりに偏差値が高い所に行く事になったので、そこで頑張って行こうと決めていた。
だが、それはすぐに崩壊を迎えた。
昔からの友人がいなくなり、コミュニケーション能力が低い僕等兄弟は絶望を味わう事になる。僕の場合は、どうにか中学からバスケをやっていたので、どうにか部活で活躍する事で、能力の低さをカバーする事は出来たのだが、兄さんにはそれが出来なかった。
次第に、兄さんの席は空席となる日が多くなり、そしてついにはずっと空席になっていた。
僕は気付く事が出来なかったが、どうやら何回かいじめにあっていたらしい、同じ顔なのに同じ事にならなかった。
学校の不協和音は、家庭にも響く。
兄さんは学校という地獄から抜け出したくて引きこもる事を選んだはずなのに、家でさえも地獄へと変質していった。
母さんは何であんたなんか産まれたのかしらと言い、父さんはもう諦めたみたいで兄に対しては全部無関心となっていった。
それを見るのが、それを見るのが僕は辛くて、何度も──何度も──家族を取り戻そうとした。
過去に、家族という暖かさを経験した事があるから、暖かかったから、だから必死に頑張った。だけど、無理だった。
破綻は止まらない。
故障は直る。
欠陥は埋められる。
だが破綻は違う、破綻は止まらない。破滅へとまっしぐらだ。
そして、悲劇は最悪の結末を迎える事になる。
◆
家に帰ると、リビングのテーブルで母さんが倒れていた。
部活で疲れていたはずなのに、僕は急いで母さんを助けようと駆け寄ろうとする。
だけど駆け寄ると母さんの死は明確で、僕は悲鳴を上げる事しか出来なかった。
──グチャッ、グチャッ。
音が聞こえた。
何かを叩き潰す音。
まるでトマトを潰すような、そのような音。
涙が溢れる視界は、怯えながらもその音がする方へ向かう。
それはリビングの隣りにある寝室から聞こえていた。
母さんと父さんが寝る所だ。
そこから襖越しに、異質な雑音が聞こえて来る。
──グチャッ、グチャッ。
その音から何が行われているのか、分かる気はした。
だが僕は信じたくなかった。
そんな事は行われてないと、そう信じていたかった。
だからかもしれない、僕はその場から逃げ出す事もしないで、ずっと突っ立っていた。
今思えば、僕はあのまま逃げていればよかった。
そうすれば、あんな事にならずに済んだのに……。
音が止んだ。
何かを叩き潰す音も聞こえなくなり、ただ水っぽい音だけしか聞こえなくなってから、音はしなくなった。
そして、独りでに襖は開かれる。
「あ、帰ってたんだね。ごめん、全然気付かなかったよ」
おかえり、月。
まるで何事も無かったかのように、ゴルフクラブを持った血だらけの太陽がそこにいた。
恐怖で声が出ない。
見慣れてるはずの兄さんが、異界の悪魔に見える。
「なぁ、俺さぁ。もう疲れたんだよ」
だから死のうぜと、兄さんは僕に振りかぶった。
普段スポーツで鍛えてるおかげもあって、意外にも僕は避ける事が出来た。
だが余裕があるわけじゃない、あるはずがない、とても怖かった。兄さんが、悲劇が、もう壊れてしまった家族が、怖くて怖くて、仕方がなかった。
悲鳴を上げる事さえ忘れて、僕は馬鹿みたいに子供部屋へと逃げた。
そのまま玄関へと向かって外に出ればいいものを、馬鹿げてる。
動揺していたのもあって、八方塞がりになった僕は、思わずそこで立ち止まってしまった。
そんな僕の隙を、兄さんの殺意が砕く。
頭を思いっきり強く叩き付けられた。
簡単に僕は床に倒れてしまった。
「なぁ、お前と俺で何が違うんだよ」
兄さんはそのまま殴りつけて殺せばいいものを、倒れてる僕に腰掛けて、問いを投げかける。答えられるはずがないのに、問い掛ける。
「同じ顔なはずなのに、俺とお前、何で違うんだよ? お前には友達がいて、お前は頭が良くて、お前は運動が出来て、おい、何が違うんだよ。何で俺はこんな扱いを受けてるんだよ」
やがて問いは尋問、いや拷問になる。
兄さんは両手で僕の首を絞めてきた。
意識が朦朧としている僕は余計に何もする事が出来ずに、ただ黙って首を絞められていた。
「お前に俺の苦しみが分かるか? 分かるのか? 学校には友達が誰もいなくて、唯一の頼りであるお前のクラスに行ったらよぉ、友達に囲まれて雑談してるお前を見た俺の苦しみが分かるのか? 痛いか? おい、苦しいか? 俺はもっと苦しかったぞ。母さんが見る目つきが、ゴミを見るような目になった苦しみが、父さんが完全に俺を無視する苦しみが、お前には分かるのかよ!?」
やめてよ、やめてよと僕は弱々しく絞めながらも呟くが届かない。
兄さんは自分で首を絞めてるのに、何度も何度も帰って来ない問いを投げかける。
Why? 何故?
何でこんな事になったのかと、何度も……何度も……、そんなの僕に分かるわけがない。
「お前は何で……お前は何で苦しまない」
僕だって苦しんでいた。
苦しんでいたけど、頑張ったから今のようになったのだ。
どうにかマシになったのだ。
兄さんは分かっていない。
「お前も……お前も苦しめ」
お前に何が分かる。
僕だって、僕だって苦しかったのに、兄さんは……兄さんは……はははっ。
兄さんは、僕の手元を疎かにしていた。
僕を殺すのが目的なら、さっさとどうにかすればよかったのだ。
だから、こんな目に合うんだ。
僕は近くにあった何かを掴んで、思いっきり太陽を殴った。
予想もしてなかったからか、兄さんは簡単に僕から転げ落ちた。
そして簡単に床にひれ伏す形になる。
僕はそんな弱々しい兄さんを、何度も何度も手に持っていたもので、殴りつけた。
体格的には同じではあったが、鍛えてきた物が違う。
何度も、何度も、殴って殴って殴りつけて、そして僕も、最後は兄さんの首を絞めていた。
それは復讐だったのかもしれない。
途中で逃げ出した兄さんへの、僕の苦しみを知らなかった兄さんへの、家族を殺した兄さんへの、そして僕を殺そうとした兄さんへの、復讐だったのかもしれない。
結局、兄さんは蟹のように泡を吹いて死んでいった。
大切な我が家は、とてつもなく死の異臭が漂っていた。
そんな中で僕は、誰にも聞こえない、声にもならない悲鳴を上げる事しか出来なかった。
気が付いてみると、兄さんを殴った凶器は……家族が揃って笑っている写真が入っている写真立てだった。
5
結局、僕はまた此処へ戻ってきた。
母さんが毒を飲まされて死に、父さんがゴルフクラブでグチャグチャにされて死に、そして兄さんが僕に首を絞められて死んだこの場所へ、僕は結局戻って来てしまった。
家族が三人いるのに、誰もいない我が家で、僕は独り音楽を聴いていた。
外は夜になり、更にこの異界を異界へと変えて行く。
兄さんが死んでいる子供部屋の二段ベッドの下で、僕は体育座りをしながら聴いている。
意外にもあれ程嫌がっていたこの異界は、まるで気にならないものになっていた。
ひどく、今僕が聴いている曲と雰囲気が合う。
曲名はそう、灰色の銀貨の『朔-saku-』。
世界はあの時終わったと思った。
兄さんが両親を殺して、僕が兄さんを殺してしまったあの日から、世界は終わったと思った。
だけど違ってたんだ。
元から、僕等の世界は破綻を迎えていた。とっくに終わっていたのだ。
それに気付かないフリをしていただけ、僕等は遥か前から終わっていた。
──携帯の着信音が鳴り響いた。
着メロに登録されている灰色の銀貨の曲が、異界に鳴り響く。
その着信の相手は分かりきっていた。
見る必要もない、先ほど僕が蹴った相手だ。
ひどく暴力を加えてしまった相手だ。
そんな奴だ。
いつも友達想いで、誰かを助ける奴で……あぁ、そうか。
僕が学校に行ったのは、もしかしたら、あいつが原因だったのかもしれない。
そう……誰かに……僕は……。
この世界(地獄)を終わりにしてほしかった。
だけど、どんなに頑張っても世界(地獄)は終わらなくて、誰にも僕はそんな事言えなくて、家族やら学校やらそういったものに囲まれて嘆きの言葉は透明より見えないものになっていった。
携帯の着信は、まだ鳴っている。
「……はい、ライトです」
暗闇の中、僕は携帯の着信をついに取った。
何かを期待して、僕は涙を流しながら携帯を耳に傾ける。
携帯からは必死に友達を心配している親友の声が聞こえて来た。
その優しさに、改めて僕は感謝していた。
とても、ありがとうと言いたかった。
だけど、今僕が言うのはそれではない。
もっと大切な言葉。
世界(喜劇)を終わりにしたくて、僕は求めた。
今まで僕が言えなかった言葉。
だから、言おう。
今ここで、言ってしまおう。
僕は、長年囲われて言えなかった言葉を、藤原に言った。
『たすけて』
了
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