『陽炎の夏 第七回』

『陽炎の夏 第七回』

著/芹沢藤尾

原稿用紙換算30枚

→第3回 →第4回 →第5回 →第6回


 ボールの縫い目に指をかけてから、放るまでのイメージを頭の中に思い描く。ゆったりとした動作で壁当てをする時などには、それが特に鮮明に浮かんだ。
 河川敷の高架線下。直樹はコンクリート相手のキャッチボールに興じていた。
 思い描くイメージは、水とギア。前者は右腕の、後者は身体全体のイメージだ。肩口から始まり、指先にいたり、また肩へと戻る。
 水流のイメージ。筋肉と血流を一体にして、投球動作の中で指先に溜まった水滴を、最後の瞬間、切って弾く。
 水滴ははじめ、蜂蜜を混ぜたように大きく不定で、粘りついている。それを、壁当てを続けていく中で、徐々に弾く速度を、身体のギアを上げながら、形を整えていく。
 一速から二速へ。二速から三速へ。投球という全身運動の中で、腕の振りを段々と鋭く、素早く上げていき、指先で切る水滴のイメージをより球へと近づけていく。
 筋肉の収縮。緊張と弛緩。水流のイメージ。肩口から始まる水の流れが、肘を通って指先へと達し、また肘を通って肩に戻る。その流れを、滞ることなく伝えながら、水は次第に滑らかな流れを取り戻していく。
 二十球かけてトップまでギアを上げたら、そこからの十球は状態の維持。さらにそこからはギアを落とす作業だ。
 減速は加速よりも緩やかに。意識の収束を目標物の一点から、自身の内側へ。
 全身のイメージ。筋肉の流動。動作中の身体のバランス。指先の感触。
 右腕。水のイメージ。加速に際し、勢いで通していた水流を滞りなく緩やかに落ち着けていく。
 加速の際よりもさらに十球を要してギアを落とすと、直樹は一度、確かめるように肩をぐるんと廻し、そして満足げに頷いた。
 悪くない。
 春先から焦らずに作ってきた肩は上々だった。肘に付きまとう不安も、ここ最近は落ち着いている。中学時代は一つの大会に焦点を合わせて、肩を作るようなことはほとんどしてこなかったが、こういったじっくりとした調整もいいものだな、と直樹は年寄り臭い感慨を抱いた。
 ポケットの中に押し込まれた携帯電話を取り出し、時間を確認する。味も素っ気もない字面で示された時間は、これから寝なおすにも、家で優雅なモーニングを取るのにも中途半端な時間だった。
 のんびりと家に帰ってから、いつものように時間ぎりぎりに家を出ることも考えたが、高架線下から河川敷を見上げた直樹は、そこに見慣れた集団を目にして考えを纏めた。
 河川敷をランニングしていたユニフォーム姿の雪乃華野球部の先頭を走っていた山田は、進行方向に気の無い態度で現れた直樹を、まるで三途の川で愛想を振りまく老人を見るような目で見止めて足を止めた。
「よう、山田。朝っぱらからずいぶんと精が出てるじゃないか」
 臨死体験真っ只中の山田は、ああ、とかうん、とか気の無い返事をしながらも、自分の後ろで部長に倣って困惑している部員達に、先に行くように指示を出す。
「おいおい、山田。ちゃんと走らなきゃだめだろう?」
「何言ってるんだよ。止めたのお前だろ」
「俺はただ挨拶しただけだぜ。部長様がランニング中に呑気に立ち話なんてのは、いただけないと思うがね?」
 冷やかすように笑いかけると、山田は生まれて初めてサソリ料理を振舞われたイタリア人みたいな顔をした。
 四月に正式に同好会から昇格した雪乃華野球部では、前日の練習後の五キロ走で一位になった者は翌日の早朝練習を休めるという特典がある。とはいえ、団体行動が常識の運動部の中でそんなことを堂々と行える者がいるはずもなく、筋肉ダルマに熱血野球少年の魂を捏ねて出来た山田の笑顔の裏側を思えば、翌日の練習を思い悩むよりも、早朝練習で汗を流す方がよっぽど幸せな選択肢である為、実行した者はいなかったのだが。しかし、意外なことに五キロ走でもっとも多く一位になり、ほとんど唯一その特権を好き勝手に使っていたのは、前評判では自他共に認める大穴万馬券筆頭の直樹だった。
「やってられないぜまったくよ。練習嫌いのくせに長距離が得意だなんてのは反則だぞ」
 茹で上がった顔で山田は直樹を睨みつけた。言われたことが腹に据えたのか、短い歩幅でランニングを再開したが、強引に直樹の肩をつかんで併走を強要する。特に断ることもせず、直樹はそれに従った。
「苦手だとは一言も言ってない。そもそも、俺はピッチャーだぞ。ランニングが苦手なわけないだろ」
「中村のやろうは、俺が特別メニューを組んでやったのにいつもバテバテだぞ」
「年下と比べるなよ。だいいち、あいつはもともと野手だろ」
「ピッチャー経験者は確保が大変なんだよ。みんないい奴はすぐ引き抜かれていくからな」
 一ポジション一人が原則の野手と違って、試合中の交代が頻繁な投手は層を埋める要員が複数人いる。だが、それは他のポジションに比べて試合に出る回数が多いということであり、総じて他校のスカウトの目に留まりやすくなってしまう。その為、雪乃華のような創立されたばかりの野球部には、真っ当な経験者は見込めない。山田は雪乃華に部活を創立する際、地元の中学やシニアチームの中から、優秀だがコーチや監督から見向きされなかった選手を何人か引っ張ってきたが、投手に関してだけはスカウトは失敗続きだったようで、ショート出身の中村を投手に転向させてなんとか苦しい台所事情をやりくりしているというのが現状だった。
「だけど、あいつそんなにスタミナないほうでもないよな。なんで試合になるとあっさりバテちまうんだ?」
「どうにも、あいつ変な球投げるからな。その分疲れるの早いんじゃないか?」
「省エネで投げるのは、まだ無理か。だが、勝ち進む為には、あいつの力は不可欠だ」
「分かってるさ」
「なら、するべきことをしろよ。あいつに足りなくて問題なのは、スタミナよりもむしろ自覚だ」
 直樹は足を速めて、先を走る野球部の集団に近づいた。一歩遅れて気付いた山田もそれに続く。
「お前は、それで良いのか?」
「かまわねぇよ。ポンコツが持つよりも、そのほうが良い」
「俺はな!」
 後ろから伸びた太い腕が、直樹の肩を掴む。振り向いた視線の先で、苦渋の色を浮かべる山田がいた。
「俺はな、お前をポンコツだなんて思ったことは一度もないぞ」
「だとしても寸前だ」
 肩を掴む腕を振り払い、直樹は足を止めて、山田の正面に向き直った。
「そして、お前は選ばなきゃならない立場だ。うちにいるのは、タンクが容量不足の投手か、耐久性に不安がある投手かだけだ」
「地力はお前が上だ」
「いつぶっ壊れるかもわからないがな」
「蔑むなよ」
「蔑んじゃいないさ。ただ……」
 背後から自転車が走ってきたかと思ったら、いきなり軽い音が頭の中で鳴った。
 自転車に乗った望月が、中日の応援メガホンを片手に、やって来た勢いそのままに駆け抜けて、前にいた山田の頭も軽い音を立てた。
「二人揃って、何ノロノロ歩いてるんですか? もうみんな学校に着いちゃいましたよ」
「……だそうだぞ、山田。さっさと走れ」
「先輩もですよ。なに他人事装ってるんですか」
「俺は今日の朝練は休みだ。今走ってるのは、ただの付き合いだよ」
「付き合いでも何でも、練習に参加したなら最後までやってください」
「着替えがない」
「なら、さっさと家まで走って取ってきてください。こっちは先に始めておきますから」
 有無を言わさぬ態度で言い切ると、望月は山田の後ろに廻って、その後頭部をもう一度叩いた。
 山田はまだなにか言いたそうな顔をしていたが、直樹はそれを遮って、今来た道を引き返した。
 寝なおすにも学校に行くにも半端な時間だったが、確かに朝練で時間を潰すにはちょうど良いかもしれなかった。

 大会は、四日後に迫っていた。
 直樹たち三年生にとっては、最初で最後の大会を間近に控え、雪乃華高校野球部は、最後の総仕上げに入ろうとしていた。
 同じ地区に春の選抜を優勝した高校がいる激戦区であるうえ、全員が高校にあがってから初めての公式大会ということもあってか、興奮とプレッシャーを感じていたのだろう。軽く終わらせる予定だったその日の練習は、気がつけば雲ひとつなかった晴天の空が、青黒く染められるまで終わることはなかった。
 遮二無二ボールに食いついてく活きの好い新入部員達に、熱血少年の山田が感化されたのが、その主な原因だった。
 直樹はグラウンド脇にあるブルペンでのキャッチボールを終わらせると、中村にも練習を切り上げるよう促した。
「もう少ししたら、切り上げます」
「あんまり無茶するんじゃねぇぞ。大会じゃお前が先発するんだから」
 身体の調子を確認しながらテイクバックを大きくとっていた中村は、ユニフォームを脱いでプールのシャワーを勝手に使い出した直樹の言葉に目を丸くした。
「先輩、そういう冗談はあまり嬉しくないですよ、僕」
「冗談じゃないさ。これからは、お前がエースナンバーを付けて試合に出るんだ」
「強い方が付けるのがエースナンバーでしょう。僕と先輩とじゃ、投手としての格が違いますよ」
「それはお前の勘違いだよ、中村。お前ほど、このチームのエースに相応しいやつはいない」
 練習を終えた部員達が、泥だらけのユニフォームをマネージャーに渡して部室に戻っていく。下校時刻を知らせる鐘が鳴り響いた。
「なぁ、中村。心配することなんかないんだよ。お前は場つなぎの投手なんかじゃないし、お前の後ろには俺がいてやる。だから、安心して倒れるまで投げ続けろ。それにな」
 お前の実力は、言うほど俺と差はないんだぞ、と言おうとして、直樹はそれを飲み込んだ。
 蛇口を捻る。頭上から勢いよく降り注いできた水に頭を打たせると、中村は無言で近づいていたが、下を向いてシャワーを浴びている直樹には、彼がどんな表情をしているのかは分からなかった。だから、エースを付ける覚悟を受け止めた後輩の、残していった控えめな言葉だけを、素直に受け取っておくことにした。
「せんぱ~い。中村く~ん。かわいいマネージャーのマッサージが待ってますよ~。はやく戻ってきてくださいねぇ~」
 マネージャーの望月の声が、日の落ちた薄暗い空にこだまする。その途端、急に元気になって駆けていく中村の足音を耳にして、直樹は苦笑した。
 たった一つしか年が違わないはずなのに、まっすぐに青春の只中を駆け抜けている後輩が、妙に眩しく見えたからだった。

 そうしてまた、高校球児の風物詩がやってくる。
 百二十を超える高校が、その地区の頂点と甲子園の切符を懸けて争う。すべての日程で、勝ち上がることが出来るチームの倍率は二倍。それ以上にもそれ以下にも決してならない。勝ち続けるたびに息苦しさを増す厳しいサバイバルレース。
 雪乃華高校の初戦の相手は、去年まで女子高だった隣町の私立高校だった。
 同じ初出場校同士の対決ではあったが、山田が母校や近隣チームから見込んだ選手達で構成され、同好会の立場をいいことに禁止期間中も名門校のメンバーと試合経験を積んできた雪乃華と、入学したての生徒を片っ端からかき集めただけの相手校とでは、はじめから実力差は歴然としていた。
 その試合では、中村はストレートを中心とした力強いピッチングで相手打線を完璧に抑え込んでみせた。六回をヒット二本に三つの四球、九つの三振で無失点に押さえ込み、一方の味方打線も、毎回の得点で六回裏を終了時点で十四点をあげていた。
 四番を務める主砲山田と、二年生でクリーンナップの中軸を任された藤岡とのコンビが争うように長打を連発し、それに触発された打線の勢いはとどまるところを知らなかった。あるいは、相手校の応援席ほぼすべてを女子が占めているという状況が、なにかナインの触れてはいけない琴線に触れたのかもしれない。猛烈な勢いでホームに突っ込んだ三年生の和田は、クロスプレーで相手キャッチャーを吹き飛ばすや、アウトになったにもかかわらずホームベース上で力強く右拳を振り上げ、審判に注意される羽目になった。
 応援席に詰め掛けた女子の悲鳴を高笑いで受け止めて調子付くナインを、直樹は実に頼もしい青少年どもだ、とベンチで腕組して観戦していた。
 予選では七回終了時点で五点差がついていた場合、その時点で試合はコールド決着となる規定だったので、調整の意味合いも含めて、山田は七回の表に直樹をマウンドに送った。
 直樹はその一回を、無四球の無安打無失点で抑え、雪乃華は初戦を見事にものにした。
「なんか、実際任せてみると杞憂だったな」
 球場からの帰りのバスの中で最後尾席に陣取った山田は、窓の外を眺めている直樹の肩に手を置いた。
「なんだ、おまえ本気で心配してたのか?」
「不安はあったよ。自分より強い先輩からエースナンバー奪った下級生の気持ち、考えたことがあるのか? プレッシャー対策で、より強いプレッシャーをかけたんじゃないかって、内心ひやひやしてたんだぜ」
「自分が倒れたら後がないのと、倒れるまで走り続けるのとじゃ、気の持ちようが違うさ」
 中村は生真面目すぎるくらいに真面目な男だ。それはピッチングにいい影響を与えることもあるが、残念ながらそれは彼の投手としての持ち味とは噛み合っていなかった。
 それを活かすためには、細かな投球術よりも、まず打者に全力で向かっていくことの方が優先だと、直樹は考えたのだ。今日の試合を見る限り、それは正しい判断だったといえるかもしれない。
「だけど、これからの相手は今日ほど楽じゃないぜ」
「ああ、そうだろうよ。今日の相手を一回戦で引けたのは、ラッキーだぜ」
「冗談言うな。今日の相手を二回戦以降で見かけることなんか、百年経ってもありえねぇよ」
 専用バスではないので控えめに声を殺して笑う山田に、バシバシと背中を叩かれながら、それもそうだなと気の無い相槌を打った。
 球場を出て行く生徒達をバスの窓から眺めながら、直樹は無意識のうちに、黒沢夏樹を探している自分に気がついていた。
 黒沢とは去年の冬の一件以来、まともに顔を合わせていなかった。彼女の方は、それでも春頃まではマネージャー助っ人として部活に顔を出してくれていたのだが、最近では、彼女の方でも部活が忙しくなってきたのか、あるいは野球部に愛想を尽かしたかは分からないが、顔を見る回数が極端に減ってしまっていた。
 時折、直樹はあの黒沢の遠回りな告白染みた言葉の意味を考える。
 あれは、いったいどういうつもりで言ったのだろう。自分は、どう応えればよかったのだろう。
 それを答えるべき時はとうの昔に過ぎ去っているというのに、未だにそんなことを引きずっている自分の未練がましさに苦笑する。
 彼女が顔を見せなくなったことを、寂しいと思っているのだろうか?
 自問し、返される自答はいつからか決まっていた。
 それを受け入れてしまうのも、悪くないと思い始めていた。

 続く二回戦は公立の高校だったが、ここでも中村は七回途中までを散発四安打、失点はホームランの一点だけに抑えた。
 ストレートの四球がほぼ毎回出るなど、エースの風格というにはあまりに不器用な投球内容ではあったが、それでも遮二無二打者に向かっていく姿は、抑えをやらされていた春頃までとはまるで異なり、捕手の山田はそれを大いに喜んでいるようだった。
 中村の球威に衰えが見え始め、センター前にヒットを二本続けて打たれると、山田は直樹をマウンドに送った。
 場面は一死二三塁。二点をリードしているとはいえ、一打逆転。長打一つで同点とされる、油断ならない場面だったが、直樹はその場面を、三振とサードフライのわずか五球で切り抜けると、続く二回を内野安打一本に抑えた。
 創部半年。同好会から数えても三年目の野球部が三回戦出場を果たしたことに、学校も周囲も予想外の驚きに包まれた。
 大会開始時点で百以上いた参加校は、すでにその時点で三分の一にまでその数を減らしており、次の試合に勝てば初出場ベスト十六の快挙となる事態だったのだ。
「校長や教頭の奴ら、俺たちが二回戦を突破したことを本気で驚いていやがった。甘く見られたもんだぜ。これまでは練習試合で格上の相手と多く試合を組んで、苦汁をなめることも多かったが、俺たちがその気になればこれくらいのことはできるのだ」
 主将の山田は、鼻息荒くまくし立て、怒りながらも喜び狂うという奇妙な芸を部室で小一時間にも渡って披露し続け、新入部員達を試合以上に疲れさせた。
 だが、さすがに次の試合に勝てるだろうと予想を立てるものはなかなかいなかった。
 次の対戦校である青桐学園は、昨年夏のベスト四。去年の秋季大会では明口に次ぐ準優勝を果たした強豪校で、一番打率の低い九番でさえ、打率三割五分。クリーンアップ三人は実に長打率八割の打率四割〇分二厘という超重量打線だった。
 大本命のシード校として大会に参加した明口学園も、順調に二回戦を突破していた。そのグループでは明口に敵うと目されるようなチームはまるで見あたらず、下馬評ではベスト八を懸けて争われる明口対青桐が、事実上の決勝戦と思われていた。
 もし万が一次の試合に勝つようなことがあれば、北村と戦うことが出来るだろうな。
 極太の赤マジックで線が引かれたトーナメント表を眺めながら、直樹は漠然と、そんなことを考えた。
 春のセンバツの後、日本一の投手となった北村の元には溢れるほどの記者が詰め掛けており、彼らの書く記事を通じて、北村俊哉という怪物ぶりは全国に発信されていた。
 その中で、幾度と登場する「プロでも即戦力として通用する」という言葉を目にしても、直樹はなんら驚くことはなかった。もともと肉体的にも精神的にも十分過ぎるほどの素質を持っており、雑念なく野球に打ち込めるような環境にさえあれば、それくらいの評価は得て当然のことだと分かっていたからだ。
 あいつに弱点があるとすれば、橘葵くらいのものだろう。
「ふぁぁ!」
 そんな欠点まで高校球児の鏡のような男のことを考えていた直樹は、部室のドアを開けた、かわいらしい悲鳴に振り返った。
 野球部員達の泥だらけのユニフォームを持たされた望月明美は、部室に置かれた洗濯籠目掛けて倒れるように入ってくると、そのままその場に座り込んでしまった。
 一瞬、黒沢がきたことを期待している自分に気付いて、頭を抱えたくなった。
「あれ、先輩。こんなところでどうしたんですか?」
「病院で診察の予定があるから、今日は早引けさせてもらうことにしたんだよ。山田には伝えてあるから」
「夏樹なら、もうしばらくすれば来ると思いますよ」
 床に座り込んでいる望月と入れ違いで部室を後にしようとした直樹は、その言葉に足を止められる。
「あいつ、来るのか?」
「というか、毎日のように来てますよ」
「全然知らなかった。最近見てなかったから」
「ああ、そういえばそうですね。夏樹が臨時で手伝いに来てくれる間、先輩いつもランニングで学校にいませんから」
 避けられてるんじゃないですか? と無邪気にからかってくる望月の顔を見られず、そうかもな、と直樹は部室を逃げるように後にした。
 思い当たる節は、ありすぎるほどにあったから。

「入ってくるなり、女の気持ちが知りたいとは。お前も軟派になったもんだな」
「皮肉ならいつも散々聞いているだろ。たまにはこっちの世間話にも付き合えよ」
「医者には守秘義務があるんだ。モテない男に、可愛い姪っ子の秘密を打ち明けられると思うなよ」
 医者はそう言い放つと、さっさと服脱ぎやがれ、と吐き捨てた。何とか食い下がろうとした直樹だったが、射抜くような医者の視線に、しぶしぶ指示に従って服を脱いだ。
 医者は無言で、いつものように治療に取り掛かった。
 そうして、不意に。
「なあ、ボウズ」
 自分から患者を黙らせた男は、ひどく戸惑った声をあげた。
「お前は、あいつのことをどう思っているんだ?」
「……最近、それをよく考える」
「それで?」
「まだ、よくわからない」
「そのフリをしているだけじゃないのか?」
「……」
 応えず、直樹は黙って右腕を医者に診察しやすい高さに移動した。それを認めてしまうことは、自分の中で簡単に出してはいけない答えに、なし崩しで到ってしまいそうだったから。
「あいつは、親父のことが好きだった」
 それが彼女の祖父である画家のことだと、すぐには思い至れなかった。
「小さい頃は、週末になるたびに小遣い握り締めて親父のアトリエに出掛けるんだよ。全然同い年の友達と遊ばないって、兄貴たちは心配してたな」
 ひどく懐かしいものを顧みたのか、直樹ははじめて、目の前の医者が感傷で頬を緩めるのを見た気がした。
「小学校を卒業して、中学に上がってからも、あいつは親父のアトリエにこもりっきりだった。俺は知らないが、その時になんかのコンクールで賞を取ったらしい。それで特待生としていくつかの学校から誘いがかかって、あいつは親父のアトリエに近かった雪乃華を進学先に選んだんだ」
「そのアトリエ、ここからも近いの?」
「今はもうない」
 親父が死んだ後、取り壊された。と医者は無感情に告げた。
「残しておけばよかったのに」
「親父の遺言だったからな。残っていたものは、跡形もなく壊したかったそうだ」
 あるいは、医者もそれを望んではいなかったのか。つむがれる言葉には、砂をかんだような苦さが滲んでいた。
「ショックだったのかな。あいつは。それ以来、まともに絵を描いていないんだ」
 直樹は黙って、右腕を診る医者の指先に身体を任せた。
「親父が死んだすぐ後は、躍起になって絵を描いていたんだがな。腕を腱鞘炎で痛めて、アトリエを壊した後は、ほとんど筆を持つこともしなくなっちまった」
 直樹は、いつか自分が彼女にぶつけた質問を思い返していた。あのとき、「お前はいつ画をやめるんだ?」と訊かれて、すでに画から離れようとしていた彼女は、どんな顔をしていただろう。
「なあ、ボウズ。お前は、どうしてまた野球をやろうなんていう気になった?」
 その問いに、どんな答えを返せただろう。
「さっき守秘義務なんて言葉を聞いた気がしたけど、空耳だったか」
「逃げるなよ。こっちがせっかく医者の仮面剥いで、踏み込んでやったんだぜ」
 それを言われると、誘い込んだ直樹には逃げ道がない。
「……借りがあった」
「借り?」
「それを踏み倒して、あてつけてやろうと思ってた」
「それが、どうして野球をまた始める理由になるんだよ?」
「最初は、それを返そうと思ってたんだよ」
「それじゃあ、今は?」
「正々堂々、真正面から踏み倒してやりたくなった。それだけさ」
 診察は終わり、直樹は服を着て診察室を後にした。
 腕を組んで椅子に座っていた医者が、やっぱりお前じゃまるで参考にならんかったと、捨て台詞を吐いていた。

つづく

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