『歓喜の魔王II GOTTOLOS KIND.』

『歓喜の魔王II GOTTOLOS KIND.』

著/六門イサイ
絵/空信号

原稿用紙換算70枚

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■序 離別恋歌──Lili Marleen.


 灰色という物は、あまり肯定的な印象のある色彩ではない。
 金属的であれば銀色になるが、そうでなければ、鼠の色、石の色、塗装の剥げた壁の色、とにかく味気なくて惨めで乾いた色という印象がある。彷徨う影が辿り着いたのは、そんな灰色がやたらと目立つ町だった。それが特別酷いという訳ではない、ゴミのような町など珍しくもない。
 ただ、この町は墓石のような灰色ばかりが印象に残る。それが特徴のように感じられるということだ。
 潰れてなお残骸を晒す遊園地と、黒煙くすぶる工場地帯。あばら家が軒を連ねる住宅街。極彩色のネオンも、ペンキも、なぜか色を失って、慎ましやかなモノクロではなく、潤いを忘れてガサつくような灰色に色褪せて見える、神経に障る町。一体この町が、どれだけ悪徳を積んでいると言うのか。
 そんな小汚い町の片隅で、彷徨う影は歌をうたった。美声という程ではないが、よく通る声で甘く切なく歌い上げ、不意に耳にした者に我知らず涙を流させた。それは、カビが生えそうな古臭いメロディで、ゆったりとした曲調の歌だった。こんな歌だ。

 ──兵舎の前に、大きな門の前に、街灯が一つ立っていた。
 今もあなたがそこにいるなら、私達はまた逢えるでしょう。街灯の下で佇みましょう。
 いつかのように、リリー・マルレーン──

『嗚呼、愛しのリリー・マルレーン。嗚呼、愛しのリリー・マルレーン』
 かつて愛した人が居た。報われない恋だった。ただ傍に居続けられればそれで良かった。
 けれど、今その人の姿は見えない。いつから見えなくなったか、もう思い出せない。その人の名前さえ思い出せない。名前だけではなく、顔も、声も、背格好も、とにかくどんな人物だったのか、まるで記憶に残っていなかった。ただ、かつて愛した人が居た。その確信だけが胸を焦がす。
 名前が分からないから、昔聞き知った歌から仮の名前をつけて呼ぶ。嗚呼、愛しのリリー・マルレーン。
 僅かに覚えているのは、血生臭い印象。そう、その人はいつも死の気配を纏っていた。常に死を撒き散らしていた。生や命という物を嫌悪していた。ならば、きっとその人は今も死の近くにいるのだ。探そう、血の中に探そう、屍の中に探そう、骨の中に探そう。
 死がなければ私が死を作ろう、何人殺しても構わない、何人死んでも構わない。この世の人間全てを殺せばあの人に逢えるのならば、全身全霊を賭けてそれを成し遂げてみせる。愛こそ全て、愛こそ私。愛に代えられるものなどこの世にありはしない。決してありはしないのだ。
 正義よりも愛が良い、天国よりも愛が良い、どれだけ罪深かろうと、決して報われなかろうと、愛することを止められはしない。愛を捨てる事は死ぬ以下の最低だ。愛は他の愛ですら、肩代わり出来ない唯一の物! 世界を引き換えにするに足る!

■一節 魔女の館で──Hexen Schwarz Garten.


 春眠暁を覚えずと言うが、初春のようにまだまだ肌寒い季節には、朝の寝床は離れがたい誘惑を発する。ぬくぬくとした心地好い布団に包まって、中々身を起こす機が掴めないでいると、腕の中で温かな枕がもがいた。詰め物と布で出来た味気ない塊ではない。
 さらさらとした金髪と、白磁の肌を備え、柔らかくて何やら良い匂いのする……。
「起きろ、朝だ! いい加減離せ外せこの変態!」
 ニコラスだ。両手両足にハンカチを巻かれた上から、毛糸でぐるぐると縛られていた。ベッドで一緒に寝ようと言うお前の提案に難色を示した我が盟友に対して、我が娘がとった情け容赦ない手段が直接拘束だった。いやーまったくひどい事をする。
「昨夜私を助ける気がサッパリなかった貴方が言いますか……」
 朝からタバスコペーストを塗った食パンを食べさせられてはかなわん。はっは。お前は手馴れた様子でニコラスの拘束を解くと、その頭を深々と自分の胸に掻き抱いた。両手を振って暴れるニコラス、さりげなく(ごきょ)腕を捻られて動きを完封される。肩は外さんように気をつけろよ。
「何よう、この衣奈ちゃんの、夢と希望で一杯に膨らんだDカップ(今も成長中)を枕にして何の不満が?」
「女は嫌いだ!」そう顔を真っ赤にして怒鳴らんでも。
「男は好きなのね」
「男も嫌いだ! 人間はみんな嫌いだ、特に貴様が嫌いだ!」
「あんたも人間のくせに。あら違った、文無しのワンちゃんだったわね」少なくとも人類の範疇ではあるぞ。
「犬呼ばわりは止めろ! それと貴様の頭では、人類が皆兄弟家族のように仲良しこよし出来るのか?」
「いいじゃないの、私と一緒に寝るって事は、お父様に添い寝してもらってるのと同じなんだし」おーいちょっと待ってくれー。
 ニコラスは訝しげに片眉をあげ、それから、憮然とした表情になった。
「別に私は、我が君と夜毎同衾していたわけではないぞ」
「……え。そうだったの?」
「違う」違う。
「ハモる所が怪しいわ」
「ええい、うるっさいぞこの痴女! いっそ悪魔に攫われろ!」
 何を言うかニコラス。我が娘の乳房とその谷間を許される男など、三千大千世界をひっくり返し、更にその外の七の七乗の七乗世界を探そうと、卿の他にはおらぬのだぞ?
「ありがたいお言葉ですが、遠慮しておきます」
「素直じゃないわねえ。あんたなら、将来下ぼ……お嫁に貰ってあげてもいいのに」
「誰が下僕か!」ふむ。ニコラスをお前の妻、もとい夫に、か……。「我が君?」
 なるほど。それは良い考えだ。
「わ、我が君ぃぃぃっ!?」
 まあ結婚に関しては、私が我が娘の体から出られなくば、初夜に地獄を見ることになるのだが。それはさておき。
 我が娘の婿と言えばな、それはもう、並大抵の男などにはやれんなあ。うむ、さしあたって、機械化一個師団に単身戦いを挑んで壊滅状態に陥らせるくらいの戦上手でなければいかん。その上で知力も容姿も一定以上の物を要求するぞ。そして最終試験で私が直々に殴り殺す。
「お父様、それじゃ私、一生結婚できないわ」
 まあ待て、ニコラスならば、試験なしで結婚を許しても私はまったく構わんぞ。
「なるほど、流石ですお父様」
「待て! 私の意思がまったく入っていない!」
 別に今すぐ婿にしようという訳ではないから、そう焦るな。あと五年もすれば、卿もその気になるやもしれんし。
「よーし、じゃあ張り切って、今から花嫁修業させてあげようかしら。まずは、これ、今日のお洋服ね」
 言ってお前は、ニコラスの腕を解放し、体を離すと、枕元に昨夜のうちに畳んでおいた服を指し示した。
 胸元に黒いリボンをつけた白のブラウスと、赤いチェックのスカート(後ろに兎の尾を模した飾りがついている)だ。ブラウスのほうも、肩や袖の辺りにスカートと同じチェック柄が施されている。傍らには、耳当てのように垂れた兎耳のついた帽子(やはり赤いチェック柄)が、置かれていた。
 ニコラスの目が細く絞られる。刺すような視線をお前に投げつけた。
「私は貴様の着せ替え人形ではない」
「知ってるわよ。あんたを人形じゃなく一個の人間(兼わんわん)だと思うから、私ってばもっと色んな服を着せたい欲望を抑えているのに」
 視線の針は、容易く解けて霧散した。変わりに、ぽかんと呆気に取られたと言うような表情がニコラスの面にとって変わる。
「お、抑えている、だと……?」
「そうよ!」お前は力強く拳を握り締め、ベッドの上で立ち上がって天井を仰いだ。激しく身振り手振りをつけて力説する。「本当はもっと姿見を何十枚も用意してあんたを取り囲んで、三時間でも五時間でも着せ替えて歩かせて一回転させて、ああもうとにかく色んなポーズを取らせてありとあらゆる角度から、何百枚も激写してやりたくてたまんないのよ本当は! でも生活に必要な一日一着だけで我慢しているの! 私のこの今世紀最高の奇跡ともいうべき鋼鉄の大忍耐にあんたはもっと感謝してもいいはずだわ!」
 そうだな……お前のリビドーが、私の背中をあぶる炎のように、闇の中で無理やり抑えつけられ燻ぶっているのが感じられる(あち、あちち)。
「とりあえず貴様が視姦癖の持ち主なのはよく分かった。私は我が君の不憫さに胸が詰まって仕方ない」
 気にするな、ニコラス。それより、そろそろ食事にせんと体がきちんと目を覚まさんぞ。

◆  ◆  ◆

 昔ながらの住人は根が生えたようにいつまでも残っているくせに、新規の住人の入れ替わりは激しい。そんな寂れ切って、どこか老いた印象のある住宅街の、更に老け込んだ外れの一角に、お前の家はある。掲げる表札の名は『黒園』。
 蔦を絡ませる鉄柵の門にぐるりと敷地を囲まれて、これまた蔦を茂らせた煉瓦造りの壁を持つ、不必要に大きく、不気味なほど古い洋館だ。背後には鬱蒼と雑木林が生い茂り、鴉がいつも辺りを飛び交っていて、幽霊屋敷という呼び名がぴったりくる。
 住み心地は、はっきり言ってあまり良くない。
 館全体がアンティークと言ってもいい古めかしさは、大声をあげればたちまち全てが崩壊するんじゃないかという危うささえある。実際、一定以上の大きさの声をあげれば、ぎしぎしと天井や柱が軋んだ。そんな調子だから、当然、雨が降ればそれが漏れ落ちて床を濡らす。
 いっそ取り壊して休ませてやったほうが慈悲であるように思える、そんな年老いた館がお前の家だった。
 不吉なひび割れのような、白い蜘蛛の巣が描かれた黒い寝巻きからブレザーの学生服に着替えて、お前は朝食の準備を始めた。通学距離や偏差値やその他諸々の要素を抜きにして、制服のデザインだけで選んだ学校も、今日から冬休みが終わって始業式だ。
 ニコラスは結局、お前が用意した兎をモチーフにしたセーラー服(下着のドロワーズ込み)を着ている。畳まれた状態では気づかなかったが、背中や腕には黒いリボンの編み上げがあり、左右の肩口で蝶を結んでいた。いやー今日も可愛らしいぞ。
「だから、貴方まで可愛いとか言うのはお止めください!」
 こら、テーブルを叩くな、衣奈がせっかく絞ったオレンジジュースが零れる。
「冷めない内に、早く食べちゃいなさーいよ。残したりしたら物置に吊るすからね」
 言って、お前はくるりとフライパンを振り、華麗に皿の上へベーコンエッグを着地させた。うむ、今朝も焼き加減は完璧。
「不思議だ」ジューシーな焼き加減のベーコンと、少し固めの目玉焼きを交互にまじまじと見て、ニコラスは心底そうだと言う風に呟く。「なぜこれだけ料理の腕前があって、レトルトを焦がしたりするのだ?」
 お前はうっと喉に物が詰まったような、バツの悪そうな声を小さく上げて肩を竦めた。
 ニコラスの前に広がる食卓は、それはもうそのまま『朝食』というタイトルを掲げて一枚の絵画に収められそうな完成度を誇っている。お前が手ずから絞ったオレンジジュースと、ベーコン&エッグ、昨日焼いた物の残りのマフィン、それに作り置きの自家製りんごジャム。
 確かにこれだけ出来て、レトルトの粥を焦がすとは普通信じられまいなあ。
「こ、弘法も木から落ちるし、猿も筆を誤るのよ! ……あ」それは逆だ。「間違える時には神様だって間違えるわ」
 だな。そういう事にしておこう。
「ニコ、今日は学校あるけど、午前中だけだから(明日はまた夕方まであるけど)帰ってきたら買い物行きましょ」
「断る」にべもない。
「何でよ、あんたと私の服選ぶのよ?」
「だから、それが嫌だと言っている。出かけるなら独りで地獄に行ってこい、貴様の仲間が山ほどいるだろうさ」
 ニコラスはこれ以上の問答を許さないと言うように、しかめっ面でマフィンを口に詰め込んだ。やれやれ、もっと味わって食べればいいものを。
「嫌って言っても、どうせ無理やり連れて行くけどね」
「(じゃあ最初から訊くな)」と、半眼になったニコラスの視線が言っている。
「可愛くないの。どうしてそんなに毛嫌いするかな、私だってあんたが大好きなお父様の一人娘よ。もうちょっとお互い仲良くしてもいいと思うけど」
 散々犬呼ばわりしておいてそれもどうかと思うが。
「貴様に私と我が君の何が分かる!」オレンジジュースで無理やり口いっぱいのマフィンを飲み下し、硝子コップをテーブルに叩きつけるように置いた。「たかだか四半世紀も生きていない小娘が……ッ!」口角泡を飛ばす勢いで怒鳴ったニコラスの大声が、食堂の天井を揺るがす。
 お前とニコラスは揃って首を竦め、ぎしっぎしっと苦しげな嗚咽が少しづつ小さくなるのを待って、恐る恐る天井を見上げた。何かの切っ掛けで館全体が雪崩のように崩落しそうなほど古臭いこの家は、しかしまだその寿命を終えていなかった。代わりに、ぱらりと埃が食堂の一角に降り注ぐ。それで終わりだった。お前と、私と、ニコラスと。我々は三人仲良くほーっと細く安堵の息を吐き出して、話を戻す。
 あー……卿の言葉は少々聞き捨てならんな。確かに我が娘は若輩も若輩、精神も肉体も未熟だが、かといって侮っていいものではない。
「私だって、生まれて十五年、ずっとお父様といたわ」
 ちらりともう一度、天井が沈黙を保っているのを確認してお前が言うと、ニコラスは露骨に嘲けった。見下すように顎を持ち上げて微笑する。
「十五年? たったの? 我が君、私が何世紀、貴方と共に過ごしたと思っておられるのですか」
 ふむ、最低でも三世紀はあったな。
「え……お父様とニコって幾つなんですか?」
 年齢か。あまり細かい数字は覚えなくなったが。そうだな、最初の世界大戦が終わった頃、「とうとう齢五百の大台に」などと、ニコラスとしみじみ語ったような覚えがあるな。振り返ってみると、百年も二百年もそう変わらんからよく思い出せんものだ。
「第一次世界大戦って、もう一世紀以上前の話じゃないですか。……じゃあニコも軽く百歳以上!?」
「少なくともお前の二十倍は年上だ。この意味がよく理解出来たら、今後は私に対する態度を改めることだな」
 お前は「むー」と唸って両の腕を組んだ。虚空を仰ぎ、考える事しばし、ぽつりと結論を下す。
「いやでも、それだけ年上だともう実感湧かないし。どうでも良くない?」
「私の待遇が変わらん限りは著しく、どうでも良くない!」
 ちなみにそろそろ食べ終わらんと、新学期から遅刻するぞ。

■二節 罰当たりっ子──Kind von der gottlos.


 そして午後。朝食の席で一悶着あったものの、結局、ニコラスは有無を言わさず街へと連れ出された。
 街には人の視線が網のように張り巡らされている。その一つ一つは引っ掛かった所で、蜘蛛の糸ほどにも気に掛かる物ではないが、ニコラスに集まるそれは糸を通り越して、鉄線か針のようだった。この時ばかりは、衣奈が用意した兎耳の帽子が役に立つという物だ。
 お前は制服を脱ぎ捨て、先週買ったまま袖を通していなかった服に着替えた。胸元にフリルを立てた黒のカットソーに白いジャケットを羽織り、これまた白黒チェック柄のフリルをふんだんにあしらったスカートをはく。右腿の位置にプリントされた十字架がアクセントだ。
「……不機嫌そうね、あんた」
 やや気遣わしげにかけるお前の言葉に、ニコラスはそっけなく返す。
「そもそも私は人に見られるのが嫌いなんだ」
 明眸皓歯、氷肌玉骨、眉目秀麗。美人を表す語は多いが、言葉ほどに足りる美人はそういない。だが、童顔なのに整ったニコラスの風貌は、そういった語を冠するに足る。幼い時分ですらそうなのだから、これから五年先か十年先か、何にせよ末は恐ろしいほどの美形となるに違いなかった。
 視線恐怖症という単語と、幾許かの罪悪感がお前の胸中を過ぎる。同時に羞恥プレイとか晒し刑とか露出とか視線責めとか不穏な単語も過ぎったが、私は何も聞かなかったし見なかったのだそうなのだうむ。お前が服飾店内の時計を見れば、店に入ってそろそろ二時間が経過していた。
(今日はこのくらいにしておこう、うん。お金も結構使っちゃってるし)
 元々服に金を惜しまないタチであるお前のこと、自分が着る分だけでも小遣いの大半を費やしている。そこにニコラスの分まで加わって、口座からも金を降ろしていたりするので、実際それは賢明な選択といえた。そもそも、既に買った分だけでも生活には充分過ぎる量であるのだしな。
 手早く勘定を済ませ、店を出たところで誰かがお前を呼んだ。
「へいゆー、衣奈ーっち」
「あ、悠美花、星乃。買い物?」
 聞き覚えのある声の主は、お前の級友達。髪をソバージュにしているのが悠美花、地味なおさげ髪の娘が星乃だ。名字は忘れた。
 多分意図せずしてそうなったのだろうが、それぞれ白と黒がメインになった服装をしている。悠美花嬢は黒いブラウスに、黒地に赤いラインの入ったスカート。星乃嬢は襟にレースをあしらった白のカーディガンに、花柄のスカートだ。お前と同じく、一度帰宅して制服から着替えてきたようだな。
「んね~、んっとね~、ボクとほっしー、お茶しに行く所だったんだけど衣奈りん今時間ある~? 午後ティー一緒しない?」
「あ、ごめん。パス」
「ぬがーんっ、釣れない! キャッチ&リリース!」
 大仰に背を仰け反らせてショックを受けたと主張する悠美花嬢と、その脇を突付く星乃嬢。
「しゃーないやろ悠美花。早くしんと席も座れなくなるし、急ご。あ、衣奈、この子連れ?」
 二人がニコラスに気がつくと、つい両者を見上げた金色の視線と彼女らの視線がかち合った。ぽかん、と二人呆けて口を開く。
「うん? ……えー!? ええー!! ねっねっねっ、衣奈っぺ何このこ、原材料:砂糖とスパイスと素敵なものいっぱいみたいな──っ」
 その場でぴょんぴょん跳ねながら、黄色い歓声をあげたのは悠美花嬢。ニコラスの眼に、暗い黄金の瞳に、なお深い暗さの闇が揺らめく。暖かな陽光の下で、地面に投げる視線は霜つく闇の温度。けれどお前達はそれを見ていない。
「ニコラって言うのよ。ママの仕事の関係で、しばらく預かることになったの。ま、当面私の〝妹〟みたいなものかなっ。ニコ、二人とも私の学校の友達よ。こっちが悠美花でこっちが星乃」
 ニコラスは男性名だから、その格好で男と紹介しても、確かに困るだろうが……ニコラ、か。
「妹!? いーな、衣奈っぺ、い~な~っ。衣奈のお母さん、いつも外国でお仕事してるもんねえ。ねねねね、うんとね、ニコちゃんはいま幾つ?」
「Ihr soll der Teufel holen.《貴様らなど悪魔に攫われてしまえ》 」
 にこりと、マネキンがその硬い面を軋ませるようにして、ニコラスは笑った。作り物のように不自然で、冷たい翳りのある笑顔だ。整っているがために、尚更人形めいて、非人間めいて見える笑い。お前にはそれが分かるだろう? けれど彼女達はまだ気づかずはしゃぐ。
「うわ、喋った!? 何々、英語? えっと、うんと……あいきゃんすぴーくいんぐりっしゅ?」
「英語ちゃう。多分ドイツ語や、悠美花」
「えーそうなんだ! じゃあドイツ人!? カッコかわいいいー!」
「Laemend, Halt's Maul……《うるさい、黙れ……》. 」
「どうでもいいけど悠美花、えー言い過ぎ」
 あの笑顔の下では、さぞかし腸が赤く黒く煮え滾っていることだろうよ。衣奈、早くニコラスを連れてこの者達から離れるがいい。ニコラスが独逸語で二人に何を言っているか、分からんお前ではあるまい。
「じゃあ、悠美花、星乃。私もう行くね」
「あーん。名残惜しいなー、お持ち帰りしたいなー、でも今日はじゃーねー。また会おうねー、ニコらっちゃ」
 悠美花嬢はニコラスの帽子に手を置いた。くしゃくしゃと、光の線のような金髪を撫でる。
「nicht zu mir beruehren《私に触るな》. 」
 お前はニコラスの手をひっぱって、挨拶もそこそこに二人から離れた。それとも、悠美花嬢からニコラスを離したと言うべきか。ニコラスは遠ざかる二人の少女に向かってにこやかに手を振って、最後の罵倒を投げつける。
「Fluch uebel dich!《呪われろ!》」
 彼女達は意味も知らず、笑って手を振り返した。

◆  ◆  ◆

 悠美花嬢と星乃嬢が雑踏に紛れて見えなくなると、ニコラスはお前の手を振り切って先を歩き出した。スカートを彩る黒と赤のチェック柄と、それを飾る兎の尾が人の波に揉まれる。そう早い足でもないので、すぐに追いついたお前はニコラスの肩を掴んだ。
「あんたね、日本語しか分からない相手に何好き勝手言ってるのよ」
 振り返ったニコラスの面には、強い嫌悪が刻まれていた。ひたすら暗い金色の眼が、燃えるように熱い激情を滾らせている。ぎり、と音がするほど噛み締められた歯が、柔らかな唇に血を滲ませようとしていた。
「私は貴様や、貴様の友人のような人間が一番嫌いなんだ!」
 息を詰まらせるお前の前で、ニコラスはとつとつと語りだす。
「可愛いから、綺麗だから。美術品でも褒めるようにちやほやして、一方で私を我が物のように扱おうとする輩が。私の心などお構いなしに独り占めにしたがって、時には玩具に、時には家畜にと好き放題だ。檻に入れ箱に入れ籠に入れ、外へ出されたと思えばハイ次のご主人様とくる。いつも、いつも、いつもいつもいつも。だから」抜かれた刃のように眼が凶悪な光を帯びた。「だから思ったんだよ、そんな輩は死ねば良い。滅べば良い、とな」
 気がつくと人の波が、我々を無意識に避けたかのように綺麗に割れて、空白を作っていた。凪いだ水面に貼りつき、さざ波を立てる朽ち葉のように、我々だけがどこか遠い街の喧騒の中で、異物として浮き上がっている。まるで、時間の流れから取り残されたような錯覚さえあった。
「いいかよく聴け、小娘」
 言葉を失ったように押し黙るお前に、ニコラスは人差し指を突きつけた。
「故に、私に触れるものは皆悉く呪われる。私に触れ、呪いを受けてなお、滅ばなかったのはただ一人。我が君だけだ」
 そうさな、これは最悪最美の魔性。人々の心奪う宝石のように、手にした者を破滅させながら幾つもの地を渡り歩き、時にはそのために国家すら破滅させた傾国の美貌。人が彼を我が物にせんと欲望を掻き立てられれば、その瞬間からその者は地獄へ落ちる定め。
「いずれ貴様も破滅する。覚えておけ」
「それは違うわよ、ニコ」
 お前は自身を指し示す白くほっそりとした指と、その指持つ金色を見て、薄っすらと笑った。囁くような声で語る。
「私はあんたに出逢うずっと前から呪われているの。お父様は悪くない、私も悪くない、でも呪われてる」
 そう、これは神も見捨てる哀れな娘、悪魔も恐れる忌むべき娘、罰当たりな娘《Kind von der gottlos. 》。
 魔女の血筋に生まれ、魔王の加護を受ける、まことに魔女たる真魔の女。そして、愛しき我が娘。父なる我は墓所にして祭壇。我が手にて聖別された騎士は我が供物として呪われた者となるように、この娘もまた我の物として捧げられた処女《おとめ》。 
「それに、私はあんたと出逢った途端、死神に殺された。首を斬られて真っ二つにされて。でも今はお父様やあんたのお陰で生きている。だからあんたの呪いも、とうに下ったんじゃなくって? 今更、そんな物怖くも何ともないわ」
 お前は笑みを深くして、ニコラスの手を両の掌で包み込むと、そっと己を指し示す指を下ろさせた。その黄金の瞳は、我が娘に如何なる魔性を見出しただろう。ニコラスは何か見てはいけない物でも見てしまったような、どこか青ざめた顔で、お前の手の動きをただ見守っていた。
 笑うお前の顔はひたすらに晴れやかだ。突然の嵐に行き会って、雨に体温を奪われ尽くされて凍えているようなニコラスとはまるで対照に、ひどく目は澄み唇は優しい息遣いを見せる。けれど、午後の陽光に照らされながら、痛々しい寒気がお前達を浸した。

「でもニコ、心配しないで。私にとってあんたは物じゃなくて、家の子なんだから」
 手を握ったまま、いつも通り朗らかな笑みを見せるお前に気を取り直したのか、ニコラスは再び語調を荒げた。
「……だから、それが物扱いだと言っている!」
「分かんないかなあ。家の子、つまり家族の一員だって言っているのよ、私は」
「家族?」嘲笑を含んだニコラスの声。「家族だと? 随分軽々しく言うな」
 だがお前は「軽くなんかない」と強く言い切った。ニコラスが思わず息を飲むほど、はっきりと。
「血の繋がりなんて知らない。私にはお父様しか家族はいないの、パパもママも知らない。娘が小さい時に傍にいない親なんて、ただの〝生みの親〟だわ。だから私には本当はパパもママもいないの。父一人娘一人なのよ」
 お前は腰を屈めて、握り締めたニコラスの手を胸元に引き寄せながら、目線を合わせた。
「ねえニコ、あんたはお父様と何世紀も一緒にいたんでしょう? ずっと一緒にいたんでしょう? 家族のように、ずっと、ずっと。だから、あんたとお父様も家族同士だわ。そして私の家族だわ。だから一緒にあの家で暮らすの」
 互いの視線が空中で交差する。何かを確認するように、何かを了承しあうように。あるいはそれは、私の錯覚か願望だったのだろうか。
「帰ろ?」
 お前はニコラスの手を離して立ち上がり、おもむろに片手を差し伸べた。
 ニコラスがその手を眺めていたのは、一秒だっただろうか、一分だっただろうか。あるいは初めから、その手を取らずに歩き出したかもしれない。だがどういうわけか、ニコラスはそっとお前の指に触れると、間違いなくその掌を自身の小さな手で掴んだ。
「犬でも猫でも、ペットは家族の一員だもんねー」
「結局その立場かこの暴慢女!」
 お前はその手を握り締めて、我が家に向かって歩き出す。我が盟友と共に。


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