『歓喜の魔王II GOTTOLOS KIND.』(2)

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■三節 呪われよ──der Fluch.

 夜の帳の奥で、闇の片隅でまどろみながら、お前の頭にずっと一つの言葉が貼りついて離れない。ぬらぬらとした軟体の生物が、頭の後ろに、首筋に、その汚らしい触手を伸ばして這いずり回るように。それが与える悪寒はただひたすら不吉で、お前の意識を暗い夢の淵へと誘なった。
 ──闇の中でひそやかに、ニコラスの声がする。不吉を告げる金色の声。美しいが温もりを持たない、貴金属のように硬質な口調。
「忘れるな、貴様の友人は私に触れただろう? 遠からず災いがあるぞ」

 最近、街にはパスタ専門店が新装開店していた。次々と新しい店が建っては、泡沫のように潰れていくのはいつもの風景だ。だが、そのお陰で以前はワンタンの皮で代用していたラビオリの皮が、ちゃんと手に入るようになったからありがたい。だから、今日の夕飯もそれで決まりだった。
「ニコ、ご飯出来たから食器出して。さっさとしないと、床の上で食べさせるからね」
「食事まで犬扱いする気か貴様は!」
 安心しろ、多分それは我が娘の冗談だ。……多分。
 脅しがきいた訳でもないだろうが、ニコラスが手早く並べた皿にお前はアボカドのラビオリを盛り付け、サーモンクリームソースをかけていった。味見の時点で出来栄えはもう分かっているが、やはり皿にきちんと盛りつけた状態が一番食欲をそそるという物だ。
 着席し、食べ始める寸前、ぽつりとニコラスが何事か呟いた。
「ミダス王の話を知っているか」
 お前は質問の意図が分からないなりに答える。
「ミノタウロスを生んだお母さんの……じゃなくて、触れたものが全部黄金になって飢えた王様?」
「そうだ。私はそやつと同じだよ、触れたものが全て壊れる」
 忘れるな忘れるな忘れるな。災いあれ呪いあれ。お前の友に死が滅びがもたらされん事を。
「──やめて、ニコ!」
 叫ぶと、そこは食卓ではなくお前の寝床だった。数時間前の夕食の夢だ。
 掛け布団を跳ね上げたせいか、布団の中からごっそりと温もりが失せてやけに寒い。お前は再び横たわると、体を縮めてそれをやり過ごそうとしたが、眠気のためか気づいていなかった。寝る前、確かに一緒にベッドに連れ込んだはずのニコラスが、お前の横にいない事に。

◆  ◆  ◆

 不吉な夢を繰り返し見たためか、お前は十年ぶりに寝坊をした。新学期二日目の学校には遅刻こそしなかったものの、実に典雅でない朝で私も頭が痛い。朝起きた時、隣りにいなかったニコラスの姿を探す暇もなく、適当に用意した朝食と書置きだけ残して慌しく家を出る始末だ。
 それでも我が娘の良い所は、身だしなみには隙がないという事だった。髪にはいつも通りの黒いリボン。縁の白いギザギザのフリルは、コミカライズされた鮫の歯のような印象がある。服装は学校指定のブレザーだが、何気に腰や胸ポケットにチェーンをつけている辺りにお前の趣味が出ている。
 この制服自体も、お前が今の学校に通う事を選んだ最大の理由で、蝙蝠をモチーフにしたような、ベストやスカートの尖った裾のデザインがお前のお気に入りだった。そのために、他校の生徒にはよく『蝙蝠学園』などと揶揄された物だが、お前はそれを気にしないどころか、むしろ喜んでいる。
 お前は自分が通う学校と、そこにいる友人達を好いていた。
「おっはよーう!」
 いつものように元気良く教室の引き戸を開けて入ると、室内の空気は驚くほど重たかった。いつになく湿っぽく、充満した湿気が今にも雨に変わって降り注ぎそうに冷たい圧迫感を持っている、そんな印象だ。級友達も、明るく入ってきたお前に気の毒そうな視線を向けた。
 これからお前が知る事となる暗い空気の原因が、間違いなくお前のその笑顔を消してしまうと知っているからこそ、向けられる視線だ。
「な、何……?」
 不安げに視線を彷徨わせると、学習机の一つに、花を生けた花瓶が置かれているのが見えた。これが悪い冗談でなければ、その意味が示すところはただ一つ。そしてその机の持ち主を、もちろん私もお前も知っている。以前からよく知っている、そして昨日も会った。
「衣奈、落ち着いて聞いて」
 どことなく乱れた髪の星乃嬢が、級友達の中から一歩歩み出た。目に泣き腫らした跡がある。
「悠美花が、な。昨日、わたしら喫茶店出た後、別れて……いつも通りだったんよ。何もおかしくなかったん」
 言葉の一つ一つが、お前の不吉な予感を、最悪の想像を確実に保証していく。
「でも、何でかな。夜、悠美花のおかあさんから電話が来て……、帰ってこないって……」
 いつもと何一つ変わらない日常の一コマ。間違いなく明日に続いているはずの今日。だがそれは錯覚だ、そういったいつも通りの自分の世界、その外側から脅威はやって来る。それが内側からやって来る脅威ではないのなら、自分の世界に何ら予兆なく悲劇が襲ってくるのは当然だ。
「ねえ、だからね、衣奈。わたし何も知らんのよ……、衣奈も、知らないよね。だって、だって、こんな嘘みたいな」
「落ち着いて、星乃」お前は固い表情で友人の両肩を優しく掴んだ。「何があったの? 何をそんなに混乱しているのよ、ねえ」
 お前は聞かずとも、もう、その先の答えを予想していた。それが外れないだろうという確信もあった。だが否定したい、その一念がそう言わせる。
「ねえ! 星乃、何があったのっ!?」
「悠美花が……」
 ようやくお前は辿り着く、どうしようもないこの現実に。
「悠美花が、ころされた」

◆  ◆  ◆

 悠美花嬢は内臓を抜かれて殺されていたという。それも腹部を切り裂かれていたのではない、体はまったく無傷なのに、内臓や心臓だけ抜き取られて辺りに放り捨てられていたのだと。噂好きな学生達の間で、そんな話が流れていた。
 他殺である事ははっきりしているが、詳しい状況を隠したがる親族達の(親としては当然の)態度が余計に噂に信憑性を与えていたが、お前はそれが事実であると知っている。我が配下たる騎士の中に、そういう殺し方の出来る奴がいたからだ。
 致死悪戯、殺人道化、騎士団のIV《フィーア》、オイレン・ヘルモルト。我らが次に相手どるのは、奴らしい。
 ひとまず授業が中止になった学校から黒園邸に戻ると、そこにニコラスの姿はなかった。名前を呼び、無節操に広い家の中を隅々まで探すが、どこにもいない。ついには十年来閉ざされた屋根裏部屋の扉も開いたが、あったのは鼠の影だけだった。
 今朝、お前が用意した服は消えているから、寝巻きから着替えはしたようだ。
「まさか……、朝にはもういなくなっていた?」
 確かに朝は慌しくしていたため、我が盟友の姿を確認している間もなかった。だがお前は気づかなかったか、夜、ニコラスは一度我らの寝床を抜け出ていた。その後戻ったかどうかまでは関知せぬが。
「そんな、ニコが夜中にどこへ行くって言うんですか」それは私にも分からん。「……ひょっとして、騎士に攫われたとか!?」
 それは実に有り得る話だ。マサク・マヴディルがニコラスの血を浴びて多少なりとも力を得ていたように、奴らにとってもあれは貴重な存在だからな。この街に新たに辿り着いた騎士が、目をつけるという事は充分可能性として有り得る。だが、仮にそうだとして両者はいつ接触したのだ?
 まさか寝床から攫っていこうものなら、私が気づかぬはずはない。私が感知出来る範囲から考えれば、少なくとも接触はこの家の外だ。だがどのみち、ニコラス自身が我らの預かり知らぬ遠方へ、自発的に行ったという前提は変わらん。
「それでは、『これ以上貴様の劣情の捌け口にされて堪るか!』って家出した、という可能性も」
 それも有り得なくはないがな……あれは私の傍以外に行く所など持たぬよ。元来人前に出ることを拒む彼が、たった一人でこの街まで旅をして、私の元に辿り着いたのだ。共に過ごした時間の中でも、あれが私の傍を離れた事など多くはない。ましてや十五年の空白からの再会だ。
「そう……。そうですよね、ニコは、お父様のためにここにいるんですよね」
 どうした、何を不安がる。ニコラスが私のためにいるならば、私はお前のために存在している。故にお前とニコラスもまた不可分だ。我らは三位一体、感情など後でついてくる。……だが、私も少し反省するべき点はあったな。
 あやつは昔から素直ではないから、照れ隠しに怒り出すことが多かった。お前のやる事にいちいちニコラスが怒っていた時も、昔の感覚と混同して、友が傷ついた事にも気がつかなかったやもしれぬ。今や彼の前に私の姿はなく、彼がいるはずの場所には見知らぬ娘の姿があったのだから。
(私は貴様や、貴様の友人のような人間が一番嫌いなんだ!)
「私……やっぱり、ニコラスにはひたすら邪魔なだけ、なのかな」
 お前とて、自分があれだけいじめておいて、簡単にニコラスから好かれるとは思ってはいまい。
 だが、どうすれば良いのかは分からない。だから、分からないなりに可愛がった。お前はニコラスを気に入っている、好いている。それは、見た目の可愛らしさにも起因するだろうが、ニコラス自身が思っているほど、それがお前の中で重要な位置を占めているわけではなかった。
 なぜなら──もう夜眠る時に一人ではない。食卓に座る時、向かい側には人がいる。家の中に、自分以外の誰かがいて、しかもそれは敵ではない。弟のように、あるいは妹のように、家族のように、共に生きる存在になりうるかもしれない者、それがニコラスだ。
 お前が彼に抱く感情はそれだけではないが、そこはさて置いて、今は肯定面の感情だけ言及するに留めておこう。
「もしかして、あの子は……」
 お前の胸に過ぎる不安が、棘のように私の胸に引っ掛かった。去り際に呪われろと声をかけたニコラスと、その直後に殺害された悠美花嬢。手を下したのが騎士でありニコラス自身ではないとはいえ、この二つの出来事にお前は厭な想像を掻き立てられずにはいられない。
(忘れるな、貴様の友人は私に触れただろう? 遠からず災いがあるぞ)
 死ねば良い。滅べば良い、と……。
(私はそやつと同じだよ、触れたものが全て壊れる。故に、私に触れるものは皆悉く呪われる)
 殺したのは騎士。だが殺される原因を作ったのはニコラス。そうであるかも知れないし、そうでないかも知れない。呪われたものに触れれば、その者もまた呪いを受ける道理。さて、呪ったのは触られた者なのか? それとも、最初からそれを呪った何者かなのだろうか? ……罵迦罵迦しい。
 だが私は、ニコラスの呪いが一国を滅ぼした様を見たこともある。しかし仮に、ニコラスに呪われたため悠美花嬢が殺されたのだとしても、私はわが盟友を責める気は毛頭ない。お前はどうだ、我が娘よ。お前はあの哀れな黄金を憎むか。友人を奪った忌まわしい鬼子と蔑むか。
 さあ、可愛い魔女よ、お前は呪われた者を愛するか?

■四節 騎士誓約──PSALTERIUM.


 惨めな臭いのする風が、乾いた音と共にトンネルを吹き抜けていく。
 どこかに逃げたがっているような風だ、地の底のような場所から、はるかな天の高みへと。それが叶うかどうかはニコラスの知った事ではない、ただ、彼が今いる場所は地の底というほど深くはなかった。人に見捨てられたという意味では、底辺という語が相応しい場所ではあったが。
 中身が空のまま立ち尽くす種々の自販機、廃墟となった売店、もはや生きていない天井の電灯達。開発途中で会社の倒産か別の理由か、工事が中止され、そのまま放置されている地下鉄のホームには、浮浪者も寄りつかない。死体の一つや二つはどこかに転がっているかもしれないが。
 その寂しい場所で、今は歌声が流れている。低く掠れた、しかし歌い手が込めた心情のためか、切ない響きの古い歌。第二次世界大戦中、何度も聞いた流行歌だ。恋人を思う一兵卒の歌、敵味方問わず兵士達の間で非公式な賛美歌にすらなった一曲。

 ──あなたの足音を知っている、あなたの澄ました足取りも。
 今日も街灯は夜を照らすのに、あなたは私を忘れて久しい。
 私を悲しませながら、あなたは誰と街灯に立つの、リリー・マルレーン──

 ホームに腰掛け、電車が通らなくなった線路の上で両の足を揺らしている歌い手の背中を、ニコラスは昨夜から何時間も眺めて過ごしていた。好きでそうしている訳ではない。何しろ体は、座らされたベンチごと数本の鉄パイプで貫かれているのだから。
 だが刺さっている訳ではなかった。痛みはないし、血も流れていなかったが、金属の冷たさが鈍い痛みを感じさせて、それが苦痛だ。衣奈が用意したズボンと、兎耳つきのパーカーは温かい作りになっているが、直接体の中から冷やされるので今ひとつ無意味だった。
 歌い手は真っ黒な闇の塊で、顔は分からなかった。どの方向から見ても、布に写した影のように平べったい。
『リリー・マルレーンを探しているの』
 不意に歌声を途切れさせて、影法師が言葉を発した。独り言かと思えるような呟きに、正直なところ暇を持て余していたニコラスは答える。
「どのリリーだ、〝IV〟。貴様は自分が誰なのかすら、分からなくなっているくせに」
『アンタなら知っているはずよ』
「なぜそう思う」
 言った瞬間、懐で動いた物のくすぐったさと愛らしさに、つい笑い声をあげるのを堪えた。それに気がつかなかった影法師は、茫洋とした声で語る。
『分からない。でも、アンタとアタシのリリー・マルレーンは何か関係があった……、アタシにも関係があった……、じゃあアンタは誰? アタシのリリー・マルレーンは誰?』
 Sch!《しーっ》 と小さな声で注意し、影法師に向き直る。
「マサク・マヴディルならここにはいないぞ」
 真っ黒な顔の中で、初めて影法師の目が瞬いた。月のように白く冷たい、およそ人間の眼球とはかけ離れた代物。ひやりとした影の手が、ニコラスの両肩を掴む。黒目のない白銀の眼球が、黄金の瞳を覗き込むように顔を近づけた。瞬間、紙風船が破裂したような、硝子の割れる音が響く。
 音はベンチのすぐ横で起きた。ガソリン臭が鼻を突いたと思えば、たちまち音源から火の手があがる。火炎瓶だ。
 影法師は舌打ちをすると、ニコラスをひっぱって走り出した。ヘソの下辺りを貫いた鉄パイプが、つるりと横に流れて脇腹から抜ける。右腕と左胸にあった鉄パイプも、同様に体から外れた。ニコラスの服にも肉体にも、何一つ傷は残っていない。
 加速をつけるその刹那、口に火のついた布を詰めたウィスキー瓶が、影法師の頭部を直撃した。悲鳴をあげて炎上する影を尻目に振り返る。
「何勝手に攫われてんのよ、あんたは~っ!」
 学校の制服のまま、火炎瓶を手に仁王立ちした衣奈がそこに立っていた。

◆  ◆  ◆

 魔術で括られた私とニコラスは、その気になればすぐに互いの位置を知る事が出来る。とはいえ、位置が分かってもそれが地下だったものだから、正確な場所を探るには難儀したが。ともかくニコラスの居る場所に騎士も居ると判断して、お前は火炎瓶や腕輪型の懐中電灯を用意して乗り込んだ。
「あんたときたら、まるで地雷犬よね、危なっかしいったらないわ。何も知らず地雷原歩かされて見事爆死しちゃう可哀相なわんこ。こりゃもう、次から首輪に鎖つけて繋がなくちゃならないわ。あ、最初はリボンの方がいいかなっ。可愛い鈴もつけるの」
 三つ目の火炎瓶を投げ、騎士とニコラスの間に炎の壁を作りながらお前はホームへ降り立った。
「そういう妄想は寝床の中でやれ!」
「あんたと一緒に?」
「貴様一人でだ、間違っても首輪だの地雷原だのを実行に移そうとするなよこの色魔!」
「うっるさーい! 帰ったら漏らすまでトイレ使用禁止にして床の上でご飯犬食いさせるんだから! 絶対よ!」
 結局は、いつも通りだ。まだ会って数日しか経っていないが、お前はすぐにニコラスに対する態度を改める事など出来はしなかった。許されるなら、まだ今の関係を続けていきたい。だが、今言ったような事を実行するのは、流石にやめてやれ。
「嘘だけどね」
 あっさり前言を撤回したお前を、ニコラスはうろんな目で見つめる。
「嘘だ……」
「何、本当にして欲しい?」
「全身全霊で拒絶する」
 話している間に、横の壁から影が滲み出た。炎の壁を迂回するため、構内の壁の中を通り抜けて来たらしい。
 壁抜け男のオイレン・ヘルモルト。壁を透り抜けるように、銃弾も刃物も透り抜ける、けれど炎からは逃げられない影法師。火炎瓶とスタンガンがあれば、大体こやつには対処できる。壁に電気が流れていれば感電するし、熱せられた鉄板を透れば火傷してしまうのだ。
『邪魔をするなァァッ!』
 黒い腕がニコラスへ伸びてきた瞬間、お前は彼を突き飛ばして両者の間に割って入ると、瓶を割らず詰め物を抜いて、中身のガソリンを浴びせた。すかさず、取り出したライターで着火させる。さっきは背後から頭部を不意打ちして瓶が割れたが、真正面から殴っては瓶を抜けられる可能性があった。
『──Ahhh!?』
 二度目の炎上を始める影。こいつの厄介な所は、壁抜けに加えて、異常な再生能力を持っている点だ。普通の攻撃が中々当たらない上、当たっても即座に治癒して復活してくる。基本的に不死の身である騎士は常人よりずっと傷の治りが早く、体が真っ二つになろうが一日あれば大体治った。だが、ヘルモルトはその中でも更に不死身を誇り、ズタズタになっても一時間とかからず全快してしまうのだ。
 お前は距離を稼ぐため、尻餅をついたニコラスの腕を引っ張って、ホームの奥へと走り出す。

 ホームの最端まで逃げ延びた我々は、ようやく足を止めた。
「で、ニコ。お父様。どうやってあいつにトドメを刺したらいい?」
 ふむ。正直な所、私がわざわざ出向くほどの輩ではない。名前に反して殺傷力はさほど持たん奴であるしな。それに私は、あまり我が盟友が血を流す所など見たくない。「それは同感」というお前の言葉に頷きながら、私はニコラスに策を促した。手なら、他にもあるのだ。
「我が君の元に戻った騎士が一人居ただろう。あれを貴様に貸してやる、手を出せ」
 お前は少し考えて、右手を差し出した。ニコラスはその手首を取って、高らかに宣言を始める。その声が、まるで開幕を告げる劇場のブザーのように鳴り響き、照明を落としたように世界の空気が厳かな物に変わった。
「誓約せよ、黒園衣奈。騎士団首領《Imperator. 》への忠誠をその名誉とし、〝魔王〟復活の成就を今ここに誓え。さすればお前に権能《ベフークニス》を与えよう。言え! 〝誓う《Testament. 》〟と!」
「……なるほど」
 衣奈は「Meine Ehre heisst Treue《忠誠こそ我が名誉》. 」と呟いて、柔らかく笑んだ。
「我、黒園衣奈は、魔王復活を必ずや成就させる事をここに誓う。──Testament!」
「ならば黒園衣奈・今より汝を騎士団副首領《Praemonstrator. 》の名に於いて、騎士団首領全権代理執行者に任じる。汝に祝福と勝利のあらん事を。──全ては我らが主のために」
 言って、ニコラスはお前の手の甲に、小さな桜色の唇でそっと口づけた。手をひっくり返し、その手首に歯を立てる。
 皮膚が切れ、血があふれ出したが、お前は眉の一筋、睫毛の一本たりとも動かさず、ニコラスの行いを見守っていた。血の一滴だけを舐めて、ニコラスはお前の血を指で掬い、掌に単純な魔法陣を描く。五つの頂点を持った星と、それを囲む円。そして幾つかの言葉。
「騎士よ! 血の進撃者よ、無尽の闘争を越えて、無限の戦場を駆ける走狗よ、沈黙の凪を破る風となって、嵐を言祝げ! 汝は主の敵を滅ぼし尽くし、その大罪を以って神曲《PSALTERIUM》を奏でよ──マサク・マヴディル!」
 まるで別の世界に通じる穴が開けたように、足元から風が巻き起こった。火傷から立ち直り、ようやく追いついた影法師が驚いて足を止める。
 青白い光がお前とニコラスの足下に広がり、線を引いて掌と同じ紋様を描いた。魔法陣は完成と同時に音を立てて燃え上がり、凍てつくような冴えを見せる炎となってお前達を包み込んだ。視界が、月の明るい夜のように青白く染まるが、熱さは感じない。
 炎の中から、新たな黒い影が立ち上がった。外套を纏い、長大な柄と刃を備える大鎌を手にしたシルエット。パイピングで前を船首のように逸らした軍帽を、銀の髑髏と鷲の印が飾っていた。外套の上からつけた赤い腕章には、悪名高き鉤十字が記されている。
「……それゆえ、主なる神は言われる」
 幽鬼めいた風貌の男は、静かな声で聖句を唱え、再び足を動かす影法師に向かって奔った。
「わたしはあなたを血にわたす。血はあなたを追いかける」
 湾曲した長大な刃が、死の海から立ち上がる津波のように弧を描く。獣が牙を剥く様にも似た動きで、振り上げられた刃が影法師の頭頂に喰らいついた。柄を引くと、輪郭が左右に割れて、ヘルモルトはバラバラに倒れ伏す。
「あなたには血のとががあるゆえ、血はあなたを追いかける」
 刃の背を地に付けて振り返ったマサクの顔を、お前は初めてまともに観察した。黒に近い焦げ茶色の髪と瞳。目つきは鋭く、鋭いというより険しく、絶えず何かを睨みつけているかのようだ。顔つきも同じく険しいもので、じっと押し黙っている様は、何か激しい憤りを腹に呑んでいるように見えた。
「あ……あんた……」
 お前の脳裏に、奴の手にかかった時の記憶が過ぎる。その胸に沸いたのは恐怖か、それとも憤りか。熱く冷たいそれに突き動かされるようにして、お前はマサクの元へ歩み寄った。息を長く吸い、ゆっくりと吐き出す。
「よっくも私の一張羅を台無しにしてくれたわね~ッ!」
 大変腰の利いた平手打ちが、マサク・マヴディルの顔を張り飛ばした。

◆  ◆  ◆

「あんたに殺された私はこうして生きているけど、服は元に戻んなかったのよ!(二発目) 結構お気に入りだったのに(三発目)、家に帰るまで(四発)私がどんっなに(五発六発)苦労したか!(七発八発九発)」
 お前はしばき倒したマサクの胸倉を掴んで、怒りのまま往復ビンタを喰らわせていた。打たれている方のマサクは、痛いとかどうとか言うよりも、何がなんだか状況が理解できていないと言う顔で、目を白黒させている。とりあえずずり落ちかけた帽子を直している間に、十発目を見舞われた。
 あー……まあ、その、もう止めてやれ。そろそろ顔が腫れる。
「むう、確かにちょっと赤くなってきましたけど。結構頑丈ね、何て言うか、鉄面皮?」
 そう言いいながら頬を抓ったりしている間に、真っ二つになったヘルモルトがごそごそと自分の体をくっつけて、起き上がろうとし始めた。はっとしたお前がマサクから手を離すと、影はゆっくりと立ち上がりながら、ほろほろと切なげに歌いだす。

 ──寂しい部屋から、うつしよの底から、あなたの愛しい唇を夢見て起きたい。
 夜更けの霧が渦を巻く時、私はまたあの街灯のもとへ向かうでしょう。
 いつものように、リリー・マルレーン──

『歓喜の魔王II』「まだ生きているわ! やっちゃいなさい、マサオ!」
 お前の言葉に反して、マサク・マヴディルはその場を動かなかった。ただ、右を見て(それは壁だ)、左を見て(そこは線路しかない)、更に後ろ(そっちにはすっかり輪郭を取り戻したヘルモルトがいる)を見て、お前やニコラスの背後を見た。ここには我らの他には猫一匹おらん。にゃー。
 にゃー?
「ちょっと、誰を探してんの。あんたよ、あんた。他にマサオなんていないでしょうが」
「……」
 マサクは無表情のまま感情を表現するという器用な技を披露した。顔のパーツは何も位置を変えていないのに、なぜかありありと不満の色が浮かび上がっているのがはっきりと伝わってくる。むう、騙し絵でも見ているような気分だ。
「何よ、ちょっとした愛称じゃない。頭の固い奴ね」
「止めておけ、死人とはいえ一応術の影響下に戻って自我も回復している。とりあえずあれを片付けて来い、X」
 ニコラスの助け舟を得て、マサクは再び奔った。心なしか哀愁のかかった背中を見ながらお前はぶつくさと呟く。
「親しみを込めた愛称より番号のほうがいいなんて、ふざけてるわ」
 マサクは逆手で大鎌を持つと、刃ではなく石突の方でヘルモルトの胴を刺し貫いた。石突は尖っておらず、とても刺突に適してはいないのだが、力技でそれを成し遂げる。マサクは柄を手放し、懐から出したナイフを手袋に包まれた十指の間に握ると、容赦ない解体を始めた。
「わたしはセイル山を全く荒らし、そこに行き来する者を断ち、その山々を殺された者で満たす」
 基本的に白兵攻撃は大概無効化出来る壁抜け男だが、その能力は受動ではなく、あくまで能動的なもの。自身の反射神経が追いつかない物には対応出来ない。不意打ちをされれば炎や電気でなくとも傷を負うし、弾丸より早いナイフならば、動体視力が追いつかず透り抜けられない。
「つるぎで殺された者が、あなたのもろもろの丘、もろもろの谷、もろもろのくぼ地にたおれる」
 マサクはそれを可能にするだけの速度と、その速さを完璧に御しうる技術の域に達している。両の手に握られた左右合わせて八本の刃は、挽き肉でも製造するようにヘルモルトの再生力を上回る速度で五体を細切れにしていった。野菜を切るような水っぽい音が、絶え間なく聞こえる。
「ねえニコ、マサオってあいつの事嫌いなの? 心なしか無表情なのに怒っているみたいに見えるんだけど」
「奴は昔から顔を見るたびヘルモルトを切り刻んでいたぞ」
 お前はニコラスの返答に考え込んだ。そうしている間にもヘルモルトは、段々と固体から限りなく液体に近い物に変えられていく。
「ふぅん……念のため聞くけど、ヘルモルトって男よね?」
 どっちかと言うとあれはオカマだ。奴が呼ぶリリー・マルレーンが誰かは、まあ、言わずもがなという処だな。
「……人類が同性生殖可能になったら、ちょっとは世界が平和に近づくと思う?」人類の何割かは幸せになるかもしれんな。「愛って偉大ね」
「結論がそれか」
 目の前に広がる現実ではない何かを見つめるような遠い瞳で、お前はそう語った。ニコラスの溜め息に重なるように、返り血で真っ赤に染まったマサク・マヴディルが、仕事の終了を告げるように聖句を唱え終わろうとしていた。
「わたしはあなたを、永遠のくぼ地とし、あなたの町々には住む者がなくなる」
『Li, Lili……Liliiiii! Mein Lili Marleen!!』
 ──そして彼は、私が主である事を思い出す。ヘルモルトの断末魔を心地良く聞きながら、私は奴の魂に手を伸ばした。お前の足下から、影の腕だけが長く蛇のように伸びて、平べったくなった血と肉と骨の溜まる場所に触れる。
 我、墓所にして祭壇。我が供物たる下僕よ、今ぞ再び我が血の供儀となれ。その呪いを汝が歓喜とするべし。

■附 刹那──augenblicklich.


「で? あんたはどうして、夜中に家を抜け出したりしたの?」
 騎士が片付くと、お前はホームに残っていたベンチの一つにニコラスを正座させて問い詰めた。だが、その疑問はすぐに氷解する。どこからか猫の鳴き声が聞こえると思えば、ニコラスが纏うパーカーの胸元から、生後一ヶ月くらいの黒猫がもぞもぞと顔を出した。にぁー、ん。とか細い声で鳴く。
「あれ、今までずっとそこに隠してたの」
「……コンビニの、ゴミ箱の横で泣いていたのだ。捨て置けなかった」
 ニコラスは眉をしかめて、ばつの悪そうな、けれど心底いとおしそうな顔で仔猫を抱きしめて頬を寄せた。要するに、ニコラスはこの仔猫の面倒を見るために、夜中にこっそり様子を見に行ったり、何がしか食べさせていたりしたが、その際にヘルモルトと出くわしてしまったらしい。
「猫、好きなんだ」
 ああ、こいつは昔から大した猫たわけでなあ。その昔、我らが本拠に使っていた古城も、そのうちこやつがどこからか拾ってきた猫と、その猫が繁殖した一族で溢れかえったものだ。やることなすこと猫本位で、配下の騎士より猫を大事にしていたぐらいだからな。
「猫は確かに可愛いけど……ばか?」
「何を言う!」
 ニコラスはお前に詰め寄ると、仔猫を掲げてぐいぐいとお前の顔に押しつけ始めた。
「仔猫の愛くるしさの前に人間は抵抗のすべを持たない! むしろ抵抗したくない! 見ろ、この全体がふわふわとして愛らしい足! これだけでそこらの見も知らぬ雑魚よりよほど価値がある。やわやわした肉球と、ちょろっと隠れた爪を備え、繰り出す動きは心をくすぐる魔性の如し!」
「分かった分かった、あんたが猫大好きなのはよく分かった!」お前は「どう、どう」と馬をなだめるようにニコラスの両肩を撫でると、(って、あんたも外見で苦労してきたんじゃなかったっけ?)と胸中溜め息を吐いて、気を取り直した。
「で……名前どうする? メランコリーとかドラバッキーとかアプゾルートとか」
 ニコラスの顔がぱっと華やぐ。お前と出会ってから初めて見せるような、活き活きとした表情になった。
「もう決めてある、Sammie. だ。旧約聖書の預言者、Samuel. の女性形だ。神に聞き届けられた、という意味の」
「意味にまで拘ってんのね。ふぅん、ザミーか」
「文句でもあるか」
「ううん、別に。狩りの魔王《ザミエル》を思い出したけど」
 お前は人差し指をぴんと立てると、意地の悪そうな笑みを作った。
「ところで。あんた、タダでその仔を家に連れ帰らせてもらえると思ってんじゃないでしょうね」
 ニコラスの顔に怯えと逡巡が走った。にわかに目を潤ませて、切なげな表情でじっと仔猫の顔を見つめる。何かこれだけで、見物人から金が取れそうな光景だ。ザミーと名づけられた黒猫の幼仔は、人間の気持ちなど知らぬげに、無邪気な瞳でニコラスを見つめている。
 たっぷり十秒ほどかけて、ニコラスは真っ赤な顔で頷いた。

◆  ◆  ◆

「は~いニコラス、次はこっちのワンピースよ」
「う、うう……」
「どうしたの? 早く着替えなさい」
「ええい、まだやるのか! もう十着以上着替えたぞ!」
 ニコラスは頬を真っ赤に染めながら、ハートのエプロンつきワンピースを床に叩きつけて、大声で怒鳴った。衣奈の寝室の天井が、がこ、と何かいかん所が傾いたような、不吉な音を立てて揺れる。お前達は首を竦め、仔猫を自分達の体で覆って、天井の揺れが静まるのを待った。
 ……ニコラスは知らない、悠美花嬢が死んだ事も、お前が彼女の葬式に行ってきた事も。今、ニコラスがとっかえひっかえ着せられている大量の少女服も、葬式の帰りに衣奈が衝動買いした物ばかりだった。笑顔の下でお前の胸を刺す無念が、私を雨のように絶え間なく打ち続けている。
 止まない雨は温もりを奪い、骨の髄まで私を凍えさせ、遂には針のような傷みになって苛んだ。だが私はそれを口にしない。お前も何も言わない。ただ笑って、新しい服を手に取り、ニコラスに着せては写真を撮る。それの繰り返し。
「ほらほら、このチャイナドレスね、あんたのサイズに合う奴探すの、苦労したんだから」
「くっ……どこまでもこういうことには手を抜かんのか貴様……!」
 ニコラスは羞恥と怒りに顔を赤らめながら、それでも仔猫のザミーを飼っても良いという許可を交換条件に、口で言う以上に従順だった。悠美花嬢の死を、今彼が知る必要はない。もしかしたらこれから先もずっと、知らなくても良いやも知れぬ。
 騎士が来るのだ、遠い道の向こうから。夜を越えて、凪を破って。その血の進撃に晒されれば、この町が修羅の巷となるのは道理。いずれ星乃嬢も死ぬだろう、その他の級友達も死ぬだろう、お前が知る者も知らぬ者も皆死ぬだろう。生き残るためにも、お前は戦わねばならない。
「はいはいはい、ニコ──っ、壁に手をついてっ、そう。もうちょっとお尻上げて!」
「貴様こういう写真を撮って楽しいか!? 楽しいのかっ! こっこの……うう……ひあっ!?」
 それにしてもこの撮影会、段々ポーズの要求が大胆になっているが……ほどほどにしておけよ、我が娘。
「やっ、ちょ、ちょっと……待……やめ、やめてええぇ!」
「あははははーっ、泣く? 鳴いちゃう? ほーらもっと大声出してもいいのよーう」
 おや…………。……もしかして、私、止めるタイミングを誤ったか?


(Fortsetzung folgt. )

 作中の一部にて「Lili Marleen」(Hans Leip)を参考にさせていただきました。

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