『NesT』

『NesT』

著/痛田三
絵/藤堂桜

原稿用紙換算70枚

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 たった一夜。たった一夜のうちに、あなたの現実は崩壊した。

/ / /

 スクランブル交差点の真ん中でじっと空を見上げているシニアがいる。
 青空があまりにも美しかったから立ち止まった。そんな感じ。シニアは見事に蓄えたあご髭をしごきながら、くるくると表情を変えている。
 そんなシニアの姿が気になってしょうがないあなた。
 あなたは好奇心に勝てず、シニアに声をかけてしまう。
「なにを見てるんですか?」
 すると、シニアは髭をしごいていた手を柔らかく掲げた。
「雲です。雲を読んでました」
 たしかに空には綿のような雲がもくもくと浮いている。だけど、〈読む〉というのが分からない。
 あなたは首をかしげた。
「雲って一見複雑そうですが、雲の〈もと〉はというと、非常にシンプルなんです。そしてそれが外因と交わることで様々なバリエーションを作り上げる。環境が個を作るという意味では人間も同様です。つまり雲を読むとは、人間の一代記を読むということなんです」
「はあ……」
 あなたはやはり首をかしげたまま雲を指す。
「じゃあ、あの雲も?」
「あれですか? あれの〈もと〉は……わたしにそっくりですね」
「へぇ、なにが書かれていますか?」
「トラックに敷かれて死ぬ、と書かれています」
 ──ああ、なるほど、と呟くあなた。すぐさまシニアの手をとると、交差点を一気に渡る。信号は赤から青へと替わり、先ほどまでシニアがいた場所を大型トラックが猛スピードで走り抜けていった。
「命を粗末にしちゃいけない!」
 あなたは声を荒げる。
 するとシニアの口からくぐもった笑いがもれた。
「どうやったって筋書きを破ることは不可能です。セツでもない限りは」
 あなたはあきれ果てた。そしてシニアから立ち去ろうと背を向けかけた。
 瞬間。
 空から大きな〈音〉が降ってきた。あなたはつま先から頭まで、ぐわぁしゃんっ! という音に飲み込まれ、視界をもふさがれる。
 それから。
 シニアがトラックの下敷となってしまったことに気づくのに、およそ三十秒。
 さらにもろもろ合わせて計三分ほど。あなたはその場で固まっていた。
 頭上あたりには高速道路が走っていて、その側壁の一部が抉られなくなっていた。
 シニアの雲はすでに拡散し、消えうせていた。

/ / /

 あなたは飛び起きる。
 息が荒い。心臓がばくばくと音を立てている。乱れ散り散りとなった心が、月明かりに照らされる。あなたはそれをかき集めながら、今がまだ夜中であることに思い至った。
 しんとした六畳ほどの仏間。ここは父方の実家であり、家族で訪れる際は決まってこの部屋で雑魚寝をする。
 ふと、りん……という鈴の音が障子の向こうから聞こえた気がして、あなたはそちらを見やる。
 そこにはシルエットがひとつ、障子紙に浮かび上がっていた。
 あなたは枕元にあった眼鏡をかけると、それを観察する。
 毛羽立った雪だるま。そんな感じのぼやぼやしたシルエット。だけど、その輪郭のあいまいさは、繊維的なほつれではないように見えた。
 あなたはさらに観察を続ける。
 雪だるまは、大小様々なひっつき虫がびっしり規則正しく並べられているようにも見える。さらにそのひとつを詳しく観察してみると、棘の先端は絡み合った薇《ゼンマイ》のような形をしていて、葉に当たる部分はまるでドレスを着た少女たちが螺旋状に延々と手をつないで〈かごめかごめ〉をしているようにも見えるけど、その中心にいるのは雪だるまであって、その輪郭にはやはりひっつき虫やら薇やら〈かごめかごめ〉をする少女たちがいて、しかも彼女らにあしらわれたリボンの先には鈴がついているので、一歩踏み出すとともに、りん……という音色を響かせるのだけど、そのボリュームは雪だるま式に増幅され、ついには地面を揺るがすほどの轟音となり、あなたは今しがた見たトラックの夢でも思い出したかのように絶叫した。

/ / /

「ぅわっ!」
 自分の声であなたは目が覚める。
 少女が、心配そうにあなたの顔を覗き込んでいる。彼女はリグレット。中学時代、あなたとひと月だけ付き合っていた女子。
「肇《はじめ》ちゃん、声したけど大丈夫?」と言う彼女に、あなたはいくらか落ち着きをとり戻す。
 電車は駅から出発しようと警笛を鳴らしていた。
 あなたは小さく伸びをすると、指定席の座り心地をたしかめる。
「うとうとしてたから、いきなりでかい音がしてびびった」
「そう……」
 と、うつむくリグレット。彼女のうなじからじわっとした緊張感のようなものが漂ってくる。
 あなたはこれからの逃避行に暗い影を落としてはならないと、気丈に振舞ってみせる。
「なあ、それより見てみろよ。いい景色だぜ」
「そう……」
「ほら、あの建物。変わったデザインしてる」
「ふぅん……」
「マジで変なデザインだぜ。多分、黄金比とか無視ってるよ」
 あなたは彼女の気を引くためにわざと〈黄金比〉という言葉を使う。
 でもそれは失敗だった。おもむろにスポーツバッグを叩きつけるリグレット。バッグは服やマニキュアやビューラーやコンパクトや化粧水や香水や頭痛薬やブーツや手帳やライターやタバコやカントリーマアム、それとたくさんの巻貝を通路にぶちまけた。
 あなたは中腰のまま固まっていた。だってこの逃避行の行く先は、フィッシャー邸だったから。それに〈黄金比〉という言葉だって、建築士を目指す彼女から教わった。なのに、バッグの中には定規も分度器も入っていなかった。
 あなたは激しく混乱した。ドアの方へ向かうリグレットを追いかける足取りもおぼつかないほどに。
 リグレットはドアの前に立つと、目を大きく見開く。そして「なにあれ」と口の中で呟いた。
 窓の向こう、オフィス街の一画。そこにロック鳥の翼が幾重にも重なったかのような奇妙な建物。それは生命活動を終えたものが徐々に朽ちていくような、ゆっくりとした時間の中にあった。
 見ると、リグレットから涙があふれ出していた。
 あなたはその涙を見極めようとする。
 けど、彼女はただその場で泣き続けるだけだった。

/ / /

 おせっかい君が大声で朝を告げる。
 普段のあなたならここでおせっかい君の頭を叩いて止める。だけど今朝のあなたは、上半身を起こしたまま微動だにしない。おせっかい君も拍子抜けしたのか、ややボリュームを抑えた。
 今、あなたが必要としているのはあとわずかの惰眠、ではない。だってようやっと悪夢の王国から解放されたのだから。とはいってもあなたの気分はちっとも晴れない。直前に見たリグレットの夢。これがこたえた。
 彼女の存在は、今でも未解決な問題としてあなたの心の奥底でわだかまっている。普段はそれが浮上することはない。だけどあなたのムイシキという悪戯好きは、気まぐれに夢というマドラーでそれをかき混ぜる。
 そんな日は……そう、悲劇の主人公みたいな表情で朝を迎えることになる。
 それにしても外はいい天気。
 けど彼女の存在がふたたび沈殿するまで、あなたの切れ長の瞳がお天道さまをとらえることはない。
「はああぁぁ……」
 朝日があなたのため息を青春色に変えた。

/ / /

 教室ではブラザーが酷な溌剌さを振りまいていた。
 あなたはでろんでろんとイカロスの翼を溶かしながら自分の席に着く。目の前には毒々しい笑顔のブラザー。
「よう肇。お前、テス勉とか始めてる? つかさ、超ヤバイよ俺。とくに英II? 分からんってレベルじゃねぇよ、あれは。つか岡田だよ。やくざだよアイツ。授業してるのか借金の取立てしてんのか分かんねーよ。舌巻きすぎだよ。ま、それとはあんまり関係ないけどさ、昨日コンビニの前でスダ高の奴らに絡まれてよー。もう散々だった……」
 出会い頭から一気にまくし立てるブラザーに、あなたは二日酔いのイソギンチャクみたいな顔をする。本当に気の毒な光景。あなたの席を彼の真後ろにした運命の女神も、あなたを憂鬱にさせたあの悪戯好きのムイシキも、少しは反省していることだろう。だけど彼に至っては、そのくだらない愚痴を止めようとはしなかった。まったく、迷惑な男。でも、あなたにはぴったりな友人。
 だからこそあなたは、一等当選の宝くじさえ平気でシュレッダーにかけてしまいそうな無関心さで、ブラザーを無視してみせた。
 でも彼もそうバカではない。あからさまなあなたの態度に野生的な勘を働かせる。
「ああん? もしかしてお前、またあの夢でも見ちゃったか?」
 彼の言葉に、つい頬に手を這わせるあなた。まるで自分の顔に〈リグレット〉の五文字が刻まれていると思いこんだみたいに。でも彼の言う〈あの夢〉が、リグレットの夢を指していないことくらい、あなたには分かっていた。
「ん……まあ、見た」
 ごしごしと頬をさする。
 ほぅ、という声がブラザーからもれた。
「で、今日の成績はどんなもんよ?」
「あー……どうだろ。憶えてる範囲でいうと、夢の中の夢、の中の夢、の中の夢を見たって感じかな」
「なんだ。久々の夢中夢だってのに三重夢かよ。ふつーだな」
 ブラザーは折りたたまれていない薬指と小指を名残惜しそうに見つめながら呟いた。
 あなたはそんな嫌味を軽くあしらう。それよりも、彼の埋まりかけたピアスの穴の方が、あなたにとっては気がかり。
 ──ピアスの(痛くない)空け方を教えてほしい。そう言い出すなら、今が絶好の機会かもしれない。そんなことをぼんやりと考えていたであろうあなたの思考は、しかし、突然の声に乱される。
「おは! ねえ、なに? ふたりでなんの話してんのさ?」
 このよくとおる低音の持ち主こそ、ビ×チ。彼女は今朝も気合の入ったメイクをしていた。合わせて、むせてしまいそうなフレグランス。髪の毛はブラウン。短いスカートの下はルーズソックス。と、だいたいの校則違反を蹂躙した格好で、あなたに胸焼けにも似た焦熱感を味あわせる。
 たまらず天を仰ぐあなた。その仕草はやっぱり悲劇の主人公並みの貫禄。
 ブラザーはそんなあなたを指さし言う。
「ああ、こいつの夢の話だよ」
「ゲ……」
 ビ×チの口からガマガエルの断末魔の叫びがもれる。
 その〈ゲ〉は芸術的なまでに下品な〈ゲ〉であり、極限にまで洗練された全否定だった。サンドバックに詰めこまれたあなたの〈冷静さ〉は、この彼女のハードパンチによって大きな弧を描いてぐわんぐわんと揺れた。つい下唇に歯が食いこむ。
 しかしそんなあなたをよそに、ブラザーは我がことのように続ける。
「いや、それがただの夢じゃないんだよ。こいつは夢中夢を見るんだ」
「ハア? なに言ってんの?」
 ビ×チは外国人を相手する税関職員のような態度で突っぱねる。まるで「ニホンゴデハナシテクダサイ」と言わんばかりに。
 これにはブラザーも多少ひるんだ。だけどすぐに落ち着きを取り戻すと、懇切丁寧に夢中夢の説明を始めた。
「睡眠中に見る夢。こいつには実にいろんな種類がある。ただの夢から、悪夢、淫夢、初夢、正夢、明晰夢……などなど。あと白昼夢や、金縛り、体外離脱なんかも夢と関係があるらしい。で、夢中夢もそんなバリエーションのひとつってわけ。
 夢中夢をひと言で言えば、〈夢のマトリョーシカ〉かな。そう、ロシア土産の。人形の中に人形があって、その中にも人形が……ってアレ。つまり、夢から覚めたと思ったら、これも夢の中だった……みたいな、夢が夢を内包する、入れ子的な構造になっている夢のことを夢中夢と呼ぶと」
 ブラザーは一気にまくしたてると、ひと呼吸おいて言葉をつけ足す「肇はその達人なんだよ」
 それを受けてビ×チはあなたを流し見る。値踏みの目。あなたのサブイボが起つ瞬間。
「ああ、夢中夢って、夢の中で夢を見るってことなのね」
 そう言うとビ×チは近くの席に腰を下した。
「それなら占い師やってる従姉からそんな話を聞いたことあるわ。だいぶ昔のことだけどね。ある男がひと晩の間にどれだけ繰り返し夢中夢が見られるかに挑戦したんだって──」
 ──最初のうちはうまくいかなかった。だけど何年も続けているうちに、男は夢中夢をコントロールする術を憶えた。それからは、つまらないテレビ番組をスイッチひとつで切り替えるように、夢の中で別の夢へと目覚めることができるようになった。
「で、その男は最高五十一回連続で夢中夢を見ることに成功したってわけ。……ちなみにあんたの記録は最高何回って?」
 そう言って髪を後ろに撫で払うビ×チ。
 あなたは端から彼女の話を信じてはいなかったけど、ブラザーは「肇なんて八重夢が限界だぜ」とうなだれた。
「なぁんだ。じゃあ、予知夢にも届いてないわね」
 ビ×チは満面の笑みを浮かべて言う。
「なんだよ、予知夢って?」
 ブラザーの嗅覚が〈予知夢〉という単語に反応した。
「その男はね、挑戦中にある発見をしたの。三十三番目の夢中夢──そこが未来の世界につながってることに」
「また始まった……」
 あなたは鼻で笑う。
「ふん、負け惜しみ?」
 すかさずビ×チが食いつく。
「三十三番目の夢中夢が予知夢だって? だったらそいつは大預言者だよ。つか、そんなやつがいたらメディアはほっとかないぜ。ノストラダムスを蹴飛ばしながら追いかけてくるはずさ。でも、そんなやつの話なんてこれっぽちも聞いたことがない」
「お生憎さま。その男は予知夢を発見してすぐに死んだの。自分の死を正確に予言してね!」
「自分の死って。どうせ自殺だろ」
「バカね! そんなわけないでしょ。事故死よ、事故死。その男はね──空から降ってくる大型トラックにぺしゃんこにされて自分は死ぬ、って予言したのよ。それから数日後、高速でぶっ飛ばしすぎて曲がりきれなくなったトラックが、側壁突き破って高架下にダイブを決めるって事故が起きた。その巻き添えで男性ひとりが死亡。そう、ちょうどその真下に男が居合わせたってわけ。人間が一瞬で草加せんべいになる奇跡の瞬間よ。そんな自殺できっこないわ」
 ビ×チの話にあなたは強烈な眩暈に襲われる。腕が、自然と震え出してきたので机の下に隠した。あなたはあまりにも狼狽しすぎて「本当にそんな事故があったのか?」という反撃のタイミングを失してしまった。それどころか、ふいにのびてきた手に肩をつかまれて、飛び上がりそうになった。
「肇ぇーっ! 大預言者目指そうぜ! ああ、お前ならできる」
 血の気が引いたあなたを見つめるブラザーの目はキラキラと輝いていた。
 曖昧な相槌を打って、どうにかその場をやりすごそうとするあなた。けど、それを許さない少女がひとり。
「危険よ、やめた方がいい」
 あなたたちの注目を集めたのは、あなたの後ろの席に座るフリークガール。
 声の主が彼女だと分かると、あなたたちは銘々のやり方で落胆ぶりを示した。
 しかしそんなことにはお構いなしに、彼女は手元に集中したまま、抑揚のないひとり言に努める。
「夢中夢にはセツが潜んでいる。ううん、夢中夢だけじゃない。共鏡、ハウリング、海岸線、羊歯、ペルシア絨毯、稲妻、コピー機、あらゆるところにセツはいる。セツに会ってはダメ。〈ネスト〉に落とされてしまう……」
 もちろん、誰もついてこられなかった。ビ×チなんかは、先人の流し忘れがあるトイレに当たったような顔をしていた。
「バッカじゃない。なによセツって……」
 その言葉を待ってましたとばかりに顔を上げるフリークガール。笑みなんかも浮かべている。
「セツは十歳くらいの烏羽色の綺麗な髪を持つ少女。鮮やかなドレスを着ていて、胸元にはいつもくまのぬいぐるみ。目は常に見開いていて、閉じたことがないの。だって目を閉じるのはくまの役目だから──」
 と、そのあたりでビ×チとブラザーの腹筋は限界を迎えた。堰を切ったように笑い出すふたり。
「ダメだ。くまがツボった。変すぎる、痛すぎる」
「ここまでとはねー。そら友達できないわけだわ」
「言えてる」
「違うッ!」
 弾かれたようにフリークガールが声を荒げる。
「できないんじゃない、作らないだけよ!」
 そこには十七歳相応のパッションがあった。わなわなと震える唇が、青紫からみずみずしいピンク色になる。
 ──フリークガールといえど、内にはどこにでもいる普通の女子高生が隠れている。
 それはあなたにとって目を背けたい事実だったはず。なぜなら、彼女はあちら側の存在でなければならなかったから。そうやってあなたは精神のバランスを保っていたから。
 だけど、ビ×チとブラザーにとっては嬉しい誤算だった。ふたりはもう彼女の一挙一動が愉快でたまらなくなり、フリークガールは蟻地獄にかかった蟻のごとく、もがけばもがくほど深みにはまっていった。
「もういい! あなたたちにセツの話をしたのが間違いだった!」
 短く刈られた頭髪を掻きむしると、彼女は教室をあとにする。
 ビ×チとブラザーは手を振って見送る。
 あなたはもぬけの殻となったフリークガールの席を見やる。
 机の上にはくしゃくしゃに丸められた、折りかけのプリントがひとつ転がっていた。

/ / /

 あなたは膝を抱いて眠っていたことに気づく。
 見覚えのないだだっ広いダイニング。その壁にもたれるようにあなたはいた。頭上にはゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』。そこに描かれているのは、首のもげた子供の身体を両手で持ち上げ、食らいつくサトゥルヌス。暗闇に浮かび上がるその双眸は、止めがたい衝動を孕んでいた。
 あまりの迫力にあなたが視線をそらすと、テーブルに置かれた食べかけの料理が目に入った。でもだれもいない。料理はあるのにまるで人気がない。これでは暖色の照明も、悪戯に人恋しさを刺激するだけだった。
 あなたはあたりを見回す。すぐ左と向かいの壁にドア。サトゥルヌスから遠ざかるように、向かいのドアに近寄るあなた。ドアを開けると、そこは近代的な幾何学形態をしたインテリアが静かに並べられたリビング。しかし、ここにも人の気配はなかった。それに。
「なんか狭い……」
 リビングとしては十分すぎるほどの広さだけど、先ほどのダイニングルームと比べると、とても小ぶりなスペースに思える。あなたは違和感を抱きつつ、今度は左の部屋に通じるドアに手をかけた。
 ほぼ正方形の廊下。そしてその奥の左側に、やや小さめのドア。
「ここはフィッシャー邸か……?」
 ノブに手をかけながら、あなたは何気なくつぶやく。核心が持てないのは、実物を拝んだことがないから。あなたが持ち合わせているフィッシャー邸の知識は、そのすべてがリグレットからの伝聞によるものだった。
 近代建築の巨匠ルイス・カーンのフィッシャー邸──あらゆる配置、間取りが黄金比によって定められた住宅。それと、ある長方形の図。「これが黄金分割っていうの」リグレットが指さす。黄金比によって分割された長方形は、螺旋状に相似図形を延々と作り出していた。そう、この屋敷の間取りは、まるであの黄金分割そのもの。だからあなたはフィッシャー邸だと思った……。
 廊下の先はトイレだった。ただ奇妙なことに、洋式便器の左側(座って右手側)にまたドアがあった。短い逡巡のあと、あなたは引き返そうと閉めたばかりのドアに再び手をかける。
 直後、背後の部屋からくぐもった物音が聞こえた。
 あなたは振り返ると、貯水槽がもたれる壁を睨む。その向うはおそらくダイニング。と、食器が割れる音とともに重く巨大な足音が響いた。瞬く間にあなたの頭の中は、絵から抜け出たサトゥルヌスのイメージでいっぱいになった。
 生唾を飲みこむあなた。もう後戻りはできない。
 あなたはお子様サイズのドアを開けた。半畳ほどのスペースにベビーベッドと小さなクローゼット。そして、左側には中型犬サイズのドア。あなたはそのドアをくぐるように抜ける。そこに待ち受けていたのは、ミニチュアサイズのバスルームと虫籠大のドアだった。

/ / /

 そういったわけで、今朝も悪夢の王国から開放されたところから始まる。
 シーツの中、あなたはいつものように昨夜見た夢中夢の反芻をする。
 ──多指症ばかり生まれる病院で指の間引きのバイトをする夢、から始まって。
 ──落下しながら溺れる夢。
 ──人間の形をした樹が生い茂る薄暗い森で、パントマイマーを探す夢。
 ──ゲームが違法になると知り、慌ててプレステを隠そうとする夢。
 ──黒いバケツの夢。
 ──虚《うつろ》さまの生贄となるため、村人らに啄木鳥《きつつき》の巣へ無理やり詰めこまれそうになる夢。
 ──肉塊が太陽となる夢。
 ──お婆さんの姿をした「にゃあ」と鳴く生き物に恋する夢。
 ──へたくそなフルートの『仔犬のワルツ』が延々と奏でられる螺旋階段で、ガタガタと女を引きずる夢。
 ──首なしに命令されて、斬首台に並べられた首の味を端から説明する夢。
 ──そして、さっきの夢。
「十二重夢か。マジか。記録更新だな……」
 あなたは皮肉まじりにひとりごちた。

/ / /

 校内は夢の続きさながらだった。
 空気が、さざなみのように世話しなく揺れていた。
 さざなみの正体は、女子たちによる吐息のような密《みそ》か声。
「セツに聞けば──」「セツは答えを──」「セツと会ったら──」「セツの目は──」「ぬいぐるみを──」
 セツ、セツ、セツせつせつ……。
 あちらこちらでセツが増殖していた。
 午前の授業が終わり昼休みを迎えても、その質量は増すばかり。そんな状況にあなたが困惑していると、ビ×チが屋上までやってきた。
「昨日言ってた従姉にセツの話したらさぁ……。いるって言われちゃってマジびっくり」
 どうもこのビ×チ改めマザーグースがうわさの種を蒔いた張本人らしい。
 マザーグースは鉄柵に寄りかかると中庭を見下ろす。その先にはナプキンを細かく折るフリークガールが、今日は違った意味で浮いていた。
 それからマザーグースは一服ついでにセツの話をひとしきりして、誰かに呼ばれ消えていった。
 去り際、彼女は「ねえ、煙草《ヤニ》の臭いする?」とあなたに身体を寄せる。
「ぜんぜん」
 嗅いだふりして答える。
 あなたはいつもマザーグースの前では深く呼吸をしない。口臭を気にする中学生じみた考えもあったが、それ以上に彼女の安っぽいヴァニラの香りが苦手だった。それに今はなによりも、別の息苦しさを感じていた。
 その原因は、マザーグースの話。
 ──セツ。十歳くらいの子供。おかっぱ頭と、くりくりした黒い眼が愛らしい女の子。それがいつのころからか目を閉じるのをやめてしまった。日本には「秘するが花」という金言があるけど、自慢の眼ならばやはり適度に閉じるもの。それに瞬きには瞳を保護する役割もある。これをやめてしまえばどうなるか、そんなことは子供でも分かる。目に悪い。それは望遠鏡で太陽を覗くことよりも明らかだった。
 そんな無茶を続けたセツは、最終的になにを手に入れたのか。それは痛ましい容貌とひとりの友達、それとすべてを視とおす力。
 セツの頬には何本も溝が刻まれている。それは涙が長い時間をかけて作った運河。瞳の乾燥を防ぐため絶えず流される涙は、瞬きをしないかぎり全体に水分が行き渡ることはない。そして黒目は紫外線にやられ白くにごり、それを取り囲むように毛細血管が白目を縦横無尽に走りまわる。それは深紅のテーブルクロスの上に皿が一枚、といったありさま。
 だれもがセツを直視することにためらいを感じた。そんなセツにとって、唯一の友達がくまのぬいぐるみ。だけどこのぬいぐるみもセツ同様に奇妙で痛々しい。ふとっちょなハートをひっくり返えした胴体。そこに乗っかっているのは、タンコブのような王冠を被った頭。閉じられた目は、さらに血のような赤い糸でしっかりと塞がれている。
 目を閉じない少女と、目が開けられないぬいぐるみ。
 もし、そんなふたりに出会ってしまったら、注意すべき点がひとつある。
 ──セツの前では夢々瞬きすることなかれ。
 もししてしまったら……どうなるかは分からない。フリークガールが言うように〈ネスト〉に落とされてしまうのかもしれない。だけど瞬きさえしなければ、セツに助言を求めることだってできる。すべてを視とおすことができるセツ。彼女に分からないことはない。
 そして、最後にマザーグースはこうつけ足した。
「従姉はセツに会ったことがあるんだって」
 それを聞いたあなたは、猛烈な眩暈に襲われた。
 下弦の月、暗い路地、電話の声、赤い靴、ドレス、ぬいぐるみ、黒髪、眼、眼……おそらく、そういったイメージがあなたの中で爆発したんだと思う。それらは──自分はどこかでセツに会っている、という思いの発露だった。

/ / /

 朝起きてあなたがまずつぶやいたこと。
「そんなにセツに会いたいのか?」
 十二重夢を見たあくる日、つまり今日。あなたは十六重夢を見た。そんな悪戯好きのムイシキにあなたは問いかける。けれどそれは自分自身への問いかけでもある。答えはもちろん返ってこない。ただ、いがらっぽい乾いた声が部屋の隅で砕け散るだけ。
 あなたは病的に気だるい身体をどうにか立たせる。キッチンへと向かう途中、階段を踏み外してあやうく転げ落ちそうになった。まるで生まれたてのカモシカの赤ちゃんのような足取り。つまらない映画を何本もぶっとおしで観せられたあとのような平衡感覚の狂い。
 ふと、振り返る。
 あなたの目には、高さがまちまちとなった階段が映っていた。

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