『NesT』(2)
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校内の様子はさらに異様さを増していた。
朝の澄んだ空気は、紙とペンを持った女子たちによって引っかきまわされていた。それはまるで有名人のお出ましといった騒ぎ。そんな光景を眺めるあなたの表情は、溺れた野良犬に対するものだった。気になるけど、どうでもいい。そんな感じ。
すると、図書室の奥の棚、バスケ部のねぐらとなっている全集のコーナーから、バイト先での先輩、ダイアレクトが現れた。小柄ながら筋肉質なダイアレクトは、ニコニコ顔で周囲を一瞥する。
「セツに会う儀式やて」
またしても、セツ。
「はあ。セツに会ってどうするんすかねぇ。来週の期末テストの解答でも聞き出すんすか」
ダイアレクトは「それはええな」と笑う。
「まぁ、あれと同じやね。……こっくりさん。呼びだすっちゅうことに意味がある」
「こっくりさんすか。たしかに通じるところはありますね」
あなたの言葉に彼はこくこくうなずくと、新人のバイトにレクチャーでもするかのように儀式の詳細を語り出した。
「儀式ゆうてもあんましオカルトやない。なんちゅうか、お友達ゲームや。いろんな人に線と名前を書いてもらってやね、お返しに自分も相手の紙に線と名前を書く」
ダイアレクトは棚から『夢野久作全集9』を取り出すと、黒い表紙にチョークで三角形をひとつ描いた。
手順はこう。
まず最初に紙面いっぱいの正三角形をひとつ作る。次にその正三角形を同じ大きさの四つの正三角形に分けてもらう。といっても三辺の中間点を直線で結ぶだけ。するとひとつだけ逆向きの正三角形ができる。それには手をつけず、ほかの三つの正三角形を同じ手順で四つに分けてもらう。また逆向きができるけど、無視。と、そうやって延々と正三角形を小分けしていく。
注意事項はひとつ。
ひとり一本しか直線を引いてはいけない。つまり、ひとつの正三角形を四つに分けるには三人の協力が必要となる。
「それで、どうやったら完了するんですか?」
「この儀式に終わりっちゅうもんはない。せやけど協力者の数が底を尽きるか、あるいは三角形が潰れてまうくらい細かく描くかしたら、しまいやね」
「じゃあ、そうなったらセツが現れる……?」
あなたの問いかけに、ダイアレクトはその短い首を傾げた。
「そういうことやない。こういうのはプロセスが大事なんや」
「プロセス……友達作りのことすか?」
「ちゃうちゃう。無限に繰り返すっちゅうことが重要なんや。せやから……おう、あれ見てみ」
そう言って彼はひとりの女子を指す。
そこには読書する生徒に紛れてプリントを折っているフリークガールの姿。
「ああやってプリントを半分に折るやろ。で、それをまた半分に折る。それを繰り返す。プリントの面積は二分の一ずつ狭くなってくわな。でもいくら折っても面積がゼロになるっちゅうことはない」
「あの、すんません。でも、それって二十五回も折れば富士山に届きかねない厚みになるって話じゃないですか。というか、その前にまず折れなくなると思うんすが……いてッ!」
あなたは結構な力で頭をはたかれる。
「せやから、な、無限に繰り返すっちゅうことが重要なんや。つまりやね、そのポイントさえ押さえとけば、あんなお友達ゲームみたいなアホなまねせんでもええわけや」
「はぁ……」
生返事を返すあなた。
フリークガールは、そんなあなたに不敵な笑顔を向けていた。
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おしゃべりの声にあなたは目を覚ます。
授業はもうとっくに終わっていた。窓の外に目を向けると、墨の混じった雨雲で埋め尽くされた空。今が昼なのか夜なのか判別がつかないほど暗い。さらに無数の雨粒が校舎の側面を撫でていくあの乾いた音。どう見ても学校にくるべき日ではなかった。けど、それを確認してようやくあなたは安堵する。
今朝のあなたは、まるで哲学者か精神病患者みたいだった。夢中夢は十五重夢を突破したあたりから数えきれなくなっていて、目覚めても「これは夢ではない」と自分自身を納得させるのに、たっぷり一時間を有した。それでもあなたは家を出てまた弱気になる。曇天のすき間から、巨大なムカデの脚が見えた気がしたから。
軽いノイローゼ状態に陥ったあなたは、夢中夢を忌避していた。だから今、普通に目覚められたことに心底ほっとしていた。
「わたしねー。そう、繰り返しよく見る夢? っていうの? うん、あるんだ」
ふと、あなたの耳にやけにはしゃいだワイフの声が飛びこんできた。
あなたはそのままぼうっと窓を見る。照明の関係で窓は半ば鏡のように室内を映し出していて、そこにいくつかのグループをとらえていた。どれも表情までは分からない。ただその中にワイフの影があった。
「それってどんな夢? どんな夢?」
だれかがワイフに訊ねる。
彼女の影は「大しておもしろい話じゃないよ」と口元に手をかざす。その薬指で輝くのは、あなたがプレゼントしたプラチナのリング。
「それは自分がぬいぐるみになる夢なの」
途端、周りから黄色い声がわく。「カワイー!」とか「あたしもなりたいー!」とかそんなの。だけど彼女は困った調子で答える。
「でも、ぬいぐるみよ。すんごく不自由なのよ。変な体形だし。全然動き回れなくてちっとも楽しくないの」
──場所は病院。病んだ活気がまじった院内で霊安室の次に静かな場所。そんな一室にワイフはぬいぐるみとして囚われていた。正確には、とある入院患者の持ち物として、いた。
ベッドに横たわる少女。彼女は気が遠くなりそうなほどの時間、眠り続けているらしい。手術のため刈られた頭は、もうすっかり黒髪で覆われていて、手術跡も分からなくなっていた。ここに訪れる人間でワイフが見たのはナースとドクターだけ。棚には作りかけのまま放置されたパッチワークキルトが色褪せていた。ナースはおよそ四、五時間おきにやってきては、彼女の体勢を荒っぽく変えてそそくさと病室をあとにする。
そんなナースのずさんな仕事にあきれていたワイフ。だけど、あるとき気づく。それは穏やかな陽気の日。開け放たれた窓から入ってきた風が、活けてあったガーベラの花弁を巻き上げた。寿命だったのだろう。ガーベラの細く小さい花弁たちは少女の上に落ちた。それを見たナースは悲鳴を噛み殺した。
ナースは少女に枯れない花でも見たのだろうか、とワイフは思った。ともかく、ナースたちが少女に畏怖の念を抱いていたことを知った瞬間だった。
「えっ、ちょっと怖くない?」
「う~ん、そう言われるとそうかもね……」
そんな会話をぼんやりと聞いていたあなたの身体がぐらぐら揺れ出す。とろんとした瞳が映すのは、覚醒と睡眠の境界。人はそんな煉獄の地を毎晩往来している。あなたもそう。みんな、そう。なのにだれも正視しない。あなただって、今、そこに立っているというのに足下を確かめようとしない。だから、あっちこっちと引っ張られてしまうというのに。
さて、窓から殴りこんできた暴風雨が、あなたのまどろみを吹き飛ばす。机やイスがなぎ倒され、カバンや書類が舞う中、大きな雨粒に見えたそれは、ガーベラの花弁だった。室内はあっという間にピンク、イエロー、ホワイトといった色とりどりの花弁に満たされ、それ以外なにも見えなくなる。
あなたはこのホワイトアウトならぬ、カラフルアウトの中であっさり孤立した。暴風の咆哮とも生徒たちの悲鳴ともつかないノイズが、鼓膜を突き破らんとしていたけど、今のあなたはそんなことにかまってなんかいられなかった。ワイフの所在だけ。あなたはそれだけを血眼になって探していた。
ようやくワイフらしき人影を見つけ、その手をとり、あなたは彼女の名を呼ぶ。
返事なし。
手から先は影となったまま。
あなたはあせり出す。そのとき、あなたは内臓が持ち上がるような震えを感じ、手を離した。花弁の中に消えていく手は、幼い子供の手のように見えた。
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あなたは飛び起きる。
息が荒い。それになぜか涙を流していた。頭の中はぐちゃぐちゃ。それが足元からベッドへ、そして床へと染み出してしまったような、自分の身体の輪郭を失ってしまったみたいな違和感に、あなたは溺れる。なにから手をつけていいか分からなくなる。あなたは顔に這わせていた手を下げ、観察する。右手の甲にある古傷は、大学のころスキーへいったときのもの。次にその両手で頬をひっぱたく。
ぱしん、という音が寝室にこだますることなく闇の中に吸収された。
「夢中夢……だったのか?」
あなたはおよそ七年ぶりにその言葉を口にする。
もうブラザーでも最近では口にしない言葉。それどころか、彼が顔を合わすたびに小言をもらす説教マシーンと化してから久しい。もっとも、この七年間であなたの周りは小言を得意とする人間ばかりとなっていたけど。
あなたは煙草を探ろうとして、ようやく隣にワイフがいないことに気がついた。
彼女は別室にいて、驚いた顔で取り乱したあなたを見上げる。
「……どうしたの?」
ワイングラスをテーブルにそっと置くワイフ。安物の白ワインが静かにたゆたう。
「お、お前こそ」
あなたは脱力した。心持ち小さく見える。
「なんか目が覚めちゃって。……久しぶりにあの夢を見たせいかな」
「ぬいぐるみになる夢か」
あなたの何気ないつぶやきに、彼女の顔色が変わる。
「え、なんで夢のこと知ってるの? あれ、わたし話したことあったっけ……?」
「なに言ってんだよ、お前が──」
と言ったところであなたは口をつぐんだ。もう少しで「高校の教室でしゃべっているのを聞いた」と言ってしまうところだった。平静さを装いつつ必死で過去の記憶をたぐるあなた。しかし、現実と夢が斑に混ざり合った記憶を前にしてできることなんてそうもない。
ワイフはあなたと初めて出会ったときのように、上目遣いで顔色をうかがっている。
あなたはいつものように彼女から目をそらす。
「お前が──ほら、神戸でべろんべろんになってさ……」
「やだぁ、あのときわたしそんなこと喋ったのぉ」
もちろんとっさに出たウソ。結婚前にふたりでいった神戸では、彼女が意外に嫉妬深いことと、日本酒に弱いことくらいしか分からなかった。ただその記憶も、今のあなたにとっては疑わしい情報だろうけど。だけど偽の情報だろうと、ぬいぐるみになる夢の話が本当だったことに変わりはない。
──三十三番目の夢中夢は未来とつながっている。
マザーグースの言葉。だとしたら、これも一種の予知夢と言えなくもない。しかし……過去にセツが校内でブームとなったのは事実だった。あなたも鮮烈に憶えている。だけど、マザーグースのその言葉については、現実のものだったか自信が持てずにいた。
「それにしても何年ぶりかしら。たしか肇さんと出会う前に見たきりだったはず」
「相変わらず目を覚まさないのか? その……」
「……せっちゃん?」
その響きにあなたは打ちのめされる。現実と夢が狂った風見鶏のようにあなたの頭上でくるくると回り出す。
「せっちゃんは……」
彼女は深刻そうな顔つきで首を左右に振った。
「でもね、なんとなくだけど、そろそろじゃないかって予感がするの」
「なにが?」
「もうすぐ目覚める。そんな気がするの。もうすぐ……」
そう言って彼女は自分の肩を抱きしめた。
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『朝っぱらから変なメールよこすな!』
結局、あのあと一睡もできず夜明けとともに家を出たあなたは、公園でブラザーからの返信メールを読んでいる。
セミナーの時間は昼過ぎ。暇を潰そうにもまだパチンコ屋すら開いていない。そこであなたはブラザーにメールを送った。マザーグースが語った予知夢について、なにか知っていないか、と。しかし返ってきたメールはというと。
『そんなことより、さっさと今のアレを辞めろ!
つか、悪いことは言わないから、あいつとは手を切れ!
嫁さんを泣かすな!』
あなたはあきれるでも苦笑するでもなくつぶやく。
「お前に言われてもな……」
あなたがブラザーの先妻に「あいつの浮気癖は治らない」と告げたのは、もう四年も前。だけど、あなたはあなたで数年ぶりに再開したリグレットをひと晩だけ相手にすると、すぐにワイフに乗り換えたりしていた。
その理由は「リグレットの水割りを作る手つきが、素人のそれじゃなかった」とかそんなの。たしかに彼女は見違えるくらいけばけばしくなっていた。でも、それは本心じゃない。彼女から発せられるヴァニラの香り。そう、これがあなたにとって一番痛恨だった。そのときすでにヴァニラの甘ったるい香りは、〈一夜の過ち〉の香りとなっていたから。
「さて、どうすっかなぁ」
あなたは二本目の煙草に火をつけ、ぼんやりと紫煙を目で追った。煙はまとわりつくかのように、向かいにある小さな雑居ビルを霞にかける。その光景をうれしそうに眺めるあなた。ビルの三階部分の窓には〈里見建築設計事務所〉というステッカーが貼ってある。あなたはいつも無意識のうちにそれを避けていた。あなたらしいささやかな抵抗。
さらに上の階、ステッカーもなにもない一見空店舗のような一室。あなたはそこがゴールデン・カントールという会社の事務所だと知っている。なぜなら。あなたはそこと販売代理店契約を結んでいるから。
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「われ、ここをどこや思うてんねや!? ゴールデン・カントールやぞ! わしらはそこいらのお遊戯マルチ会社とは覚悟がちゃうんじゃボケが! 喧嘩売る相手を間違ってんちゃうか!?」
マウントポジションから繰り出される岩のような拳が、ナイーブの顔面に幾度となく落とされる。どうにか両の腕でガードしようとするナイーブ。だけど気力はとっくの昔に尽きていた。かざした腕は外灯の明かりを遮断するのが関の山といったところで、ダイアレクトの拳は吸い込まれるかのように腕と腕のすき間をずんずんと貫いていく。
鈍く重い音とともに、血しぶきが暗いアスファルトをいっそう闇色に塗り替えていく。
「ええか、代理店契約なんて解約したかったら、なんぼでも解約したる。やめたかったら、やめえ! けどな、商材、教材の費用はキチンと払うてもらうで。六十三万。きっちりとな。もし、今度またわれが金返せとかアホなことぬかしくさったら──出るとこ出よかとかぬかしくさったら、どこまででも追いかけてくさかいな! ほ、ん、で、今度こそわれの息の根を止めたるさかいな!」
ダイアレクトが血濡れの襟首をつかむと、腫れあがりできそこないのたこ焼きとなったナイーブの頭が見えた。あなたの目には、それが意識を保っているようには見えなかったが、「分かったか!? ああ!」とダイアレクトはおかまいなしに返事を求める。しかしナイーブは、ひゅーひゅーとか細い呼吸を繰り返すだけでぴくりともしない。
「なんや!? まだ殴られ足りんのか? ああ!」
ダイアレクトが揺すったからか、ナイーブの首は彼の意思によるものか判別しにくい上下運動をした。
「ようし、ほな勘弁したるわ」
と言うと、ダイアレクトは彼の身体をまさぐり出した。
「おう、肇! こいつのセカンドバッグも探れや」
あなたは始め現金でも盗むのかと思った。
「レコーダーと携帯とメモ帳、あと財布になんやはさかってないか探るんじゃ!」
言われるがままにバッグをあさるあなた。ダイアレクトは血にまみれた手をハンカチでぬぐっていた。
「け、携帯と名刺が……」
「どれ……」
名刺を見たダイアレクトの顔が歪む。
「弁護士やないか。このどクサレは弁護士に相談しおったんか?」
ダイアレクトに睨まれ、あなたはぎこちなく首を傾げた。
「肇ぇ……お前、面倒くさいモン引っ張ってきおったな」
ナイーブは唯一あなたが勧誘に成功した人物であり、あなたとは大学のサークルの先輩後輩という間柄であった。ただ、それほど仲が良かったわけではなかった。むしろサークルでは、うれしそうに使い走りをするナイーブの笑顔を見るたびに、あなたはいつも渋い顔を浮かべるだけで、ろくに話もしなかった。
「す、すいません……」
あなたの謝罪にダイアレクトはふんと鼻を鳴らす。
「肇よぉ。ほんに落とし前つける気があるんやったら、今からこのアホ吐かせぇや」
「……え?」
「え、やない。肇、お前そういや、どうやったら俺みたいに稼げるようになるんか知りたいんやったなぁ」
立て続けのセミナーから解放されたのがつい十五分ほど前。すでに日にちをまたいでいた。その帰り道すがら、あなたはダイアレクトに代理店契約を解約したいと相談するつもりでいた。しかし、これを直前で却下し、代わってそのような質問をした背景には、いまだに自分もダイアレクトのような敏腕ディストリビューターになれるのではないか、という淡い期待があったから。
半年前、パチンコ屋で偶然再開したダイアレクトは、明らかに小金持ちな出で立ちで、ひとつひとつの動作のたびにジャラジャラと宝飾品をうならせていた。あなたはあなたで、以前の職場を入社一年目で退職して以来、日々ドラムの絵柄をそろえる暮らしをしていた。借金もあった。だから、うかつにもダイアレクトの言う、〈うまい儲け話〉とやらにのってしまった。
ゴールデン・カントールと代理店契約を結ぶと、〈あっという間に金がたまる。借金が返せる!〉という謳い文句は、実際のところ、借金が増えるばかりで、ためこむのは周囲からの非難や同情だけであることが分かった。ナイーブなんかは、大学──彼は今、大学院生だ──での人間関係が完全に破綻してしまったらしい。
彼はどこからともなく現れたかと思うと、あなたとダイアレクトとの会話に割り込み、代理店契約を解約したいと申し出た。ダイアレクトの対応は柔らかい物腰ではあったが、しっかりと彼の金玉をつかんで放そうとはしなかった。ナイーブは、どんどん口数を減らしていき、三分ほど口をつぐんだかと思ったら「もう、どうでもいいや」と吐き捨て、セカンドバッグから包丁を取り出した。そして顔全体が上に引っ張られたみたいな、泣き笑いの表情を浮かべると、奇声を上げてダイアレクトに切りかかった。
しかし動作の大きい彼の動きは、格闘技有段者のダイアレクトの前ではこけ脅しにもならず、簡単に足をすくわれてしまった。あっさりと後ろに倒れされ、受け身もろくに取れないまま地面に叩きつけられるナイーブ。その包丁を持つ右手に、すかさず蹴りを入れ凶器をふっ飛ばすと、ダイアレクトは軽々とマウントポジションをとったのだった……。
「大金を稼ぐ言うんはなぁ、一種の宗教や。銭教や。銭様はなぁ、熱狂的な信者にしか手をさしのべん。せやから、銭が欲しかったら銭様だけを見ろ、崇めろ。銭様に比べたら人間の命なんてちんけなモンやと思え。ちゅうか、そう思っとるヤツのところにしか銭様は現れん。肇ぇ、俺はお前のこと悪う思ってない。せやけどな、お前は甘ちゃんやわ。まだ別の神さん──人類みな平等とかぬかしおる神さんや──そういったモンを信じとるフシがある。そんな糞の足しにもならんモン、こいつ殴って忘れてまえ!」
あなたはダイアレクトとナイーブを交互に見つめる。そして水揚げされたマグロのように横たわっているナイーブの下へと歩き出した。近づくほどに今や彼が混濁と沈黙の住人となっていることがありありと分かる。彼の姿は暴風雨のあとの釣り橋のように、もうあと一歩でも足を踏み入れれば崩落してしまいかねない、そんなはかないもののように見えた。
「おい、大丈夫か……?」
「お前はアホか! 気ぃ使こうてどないすんねん」
「でも、これ以上は……死んでしまうかも……」
「アホぬかせ!」
「…………」
あなたは片膝を付いたまま沈黙する。
「これが借金地獄から抜け出せる最後のチャンスや。今の生活とおさらばしたいんやろ!? ほんなら、さっさとやってまえ!」
「でも、どうやって……?」
「ええ加減にせぇ!」
「だって……」
「はぁーじぃーめぇーっ!!」
ダイアレクトの怒号に、あなたは弾け飛んだ。その場からの逃亡をはかった。
無我夢中で深夜の裏通りを駆け抜け、やがて軸足がもつれ、派手にすっ転ぶ。そして、うつぶせのままめそめそと泣いた。
あたりは見えない膜にでも覆われたかのようにしんとしていて、その外側を車のエンジン音や犬の遠吠えといったものが滑り落ちていく。頭を抱かえ、初めて外の世界へ出る胎児のように怯えるあなた。その耳には、ダイアレクトの怒声やナイーブを殴る音がまだはっきりとこびりついている。
突然、携帯が吠えた。
あなたはひどく驚く。恐怖から顔を上げると、道路の隅にある〈止まれ〉の標識に目を奪われた。標識は逆三角の形をしていた。
「無限連鎖、等比級数、幾何級数、ネズミ算。理論的には無限に続く、か。……そういえばあれもそうだったな」
高校生のころ流行った、三角形を延々と作り続ける儀式。あなたは苦々しい顔で彼女たちの痴態を眺めていた。けど、いつしかあなたの方が苦々しい顔で眺められる側となっていた。
あなたは乾いた笑いをひとつ上げると、恐る恐るディスプレイをのぞいた。幸いにも相手はワイフだった。
「……もしもし?」
『肇さん、どこにいるの?』
「どこだっていいだろ」
『そう……』
電話越しに聞こえるため息。
「よ、用がないなら切るぞ」
『待って! あの……』
「なんだ!」
今のあなたにはワイフとおしゃべりをするほどのゆとりなんてなかった。
『ごめんなさい。ただ、話がしたかったの』
電話越しから聞こえるぐずついた声に、思わず舌打ちするあなた。
「切るぞ」
『またあの夢を見たの』
「知るか」
『いつものごとくわたしはぬいぐるみだった。けど、その日わたしはベッドの下に落ちてたの。埃っぽくて薄暗いベッドの下に』
「おい……」
『そこへいつもの看護師がやってきた。看護師は入口付近で視線をベッドに向けたまま硬直したかと思ったら、大声を上げて飛び出していったの。なにがなんだか本当に分からなかった。ただすごく怖かった。こんなときに限っていつも以上に身体に力が入らないし……。目だけをきょろきょろさせるけど、病室にはだれもいないの』
「おい、いい加減にしろよ!」
『せっちゃんが目覚めたの』
その言葉にあなたは絶句した。
『そのうちベッドから足が垂れ下がってきたの。小さな足。それがせっちゃんの足だと気がついたころには、彼女は室内をうろうろとしていた。なにかを探してるみたいに。……ううん、なにを探しているのかは分かってた。そう、わたし。わたしなのよ。だから見つからないよう息を殺し潜んでいたわ。でもあっさり見つかって──わたしは彼女にだっこされた。彼女は目を大きく見開いていた。あなたが身代わりになって。彼女はそう言うと、わたしのまぶたに縫い針を刺した。焼けるような痛みが走った。わたしは何度も悲鳴を上げた。そのたびに彼女はわたしの頭をやさしく撫でるの。けどわたしのまぶたを縫い合わせる作業が止むことはなかった。どうしてこんなことするのどうしてこんなことするの!? わたしは聞いた。三十三年間、夢中夢の世界にいたわ。ねぇ、あたしはそこでなにを見たと思う? 果てなき夢の中でなにを見たと思う? せっちゃんの問いは、わたしには分からなかった。答えられずにいると、彼女はぽつりともらした。〈もと〉よ、この世界の──。
……肇さん、わたしの話聞いてる? 聞いてないでしょ。
だって、あなたは今、目の前のぬいぐるみを抱いた少女に気をとられているから。
深夜の路地に佇むドレス姿の少女。下弦の月の明かりの下では黒ずんで見えるドレス。でも靴だけは鮮やかな赤色をしてる。表情はうつむいていてうかがえない。
それでもあなたは彼女がだれだか知っている。予感じゃない。分かっている。だってあなたが一番会いたかった人物だから。でも本当はあの朝に会うべきだった。そうでしょ。得意先の相手と口論になって殴ってしまったあの日の朝に。あるいはその三日前。わたしの料理に文句を言ったあの日の朝でもいい。わたしは怒って、それからご飯を作らなくなった。あなたのイライラは、あっという間に我慢の蓋を内側から押し上げるようになった。そうそう、その前日、あなたのお兄さんが交通事故を起こしたのもイライラを加速させた原因のひとつ。
だけど彼女は、今、現れた。どうしてか? それはあなたは知らず知らずのうちに彼女を呼ぶ儀式をしていたから。連鎖販売取引──つまりマルチ商法。それは〈ネスト〉の入り口。
そうでしょ、せっちゃん?』
ワイフの呼びかけに、あなたの目の前にいた少女が顔を上げる。ふたつの赤い闇に輝くふたつの月が見えた。
あなたは苦しげな形相でそんな彼女を睨む。身体はぴくりとも動かさない。瞬きさえしない。させない。
「ねぇ、どうして抵抗するの?」
セツの抱く、奇妙な形の目を縫われたくまのぬいぐるみが、ワイフの声で語りかける。
あなたは答えない。
いつの間にか街は息づくことすらやめていた。しかしあなたの呼吸はどんどん激しくなっていく。目には先ほどよりも大粒の涙。痙攣が両目を中心に広がっていき、やがて両足を震えさせた。この睨めっこがあなたにとってどれほど長い時間続いていたのかは知らない。だけど、実際には五分と続かなかった。
あなたは頬をくすぐる涙に、あっけなく目をぎゅっとやってしまった。睨めっこは終了。でも、あなたは閉じた目を開けようとはしなかった。瞬きでなければいいと考えたんだと思う。けどそれは間違い。セツは目を閉じること自体を嫌悪していたから。
そしてあなたはすぐ気づくことになる。目を閉じて浮かぶ闇の中に、赤い靴が見えることに。そして目を閉じたまま視線を上げていくと、そこにはセツの双眸が見えることに。
「うわああああぁぁぁぁぁ!!」
あなたは甲高い悲鳴を上げながら尻もちをついた。
「な、なんだ!? なんなんだ!?」
あなたは問う。
セツは黙ったままあなたを見下ろすだけ。
「見るな、見るな、見るな! 俺はお前なんか呼んでねぇよ! 俺が呼んだのは銭様だ。お前なんかじゃねぇ! 銭様だ、銭様。ぜっ、にっ、さっ、まっ! ぜっ、にっ、さっ、まっ! ぜっ、にっ……」
あなたはとり憑かれたかのように、音頭に合わせて地面に頭突きを食らわしていた。それは割れた額から鮮血が流れ出しても止むことはなかった。やがて、その裂け目から真っ赤に染まった目玉がこぼれ落ちた。あなたはそれを頭で叩き潰す。ぎしゃ、という分厚い殻の卵が割れるような音がした。潰れた眼球を見つめるあなたの瞳は、しかし空洞となっていた。
そして──。
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「そして──あなたは目覚めた」
ようやく語り終えた女の声は、それでもまだ物足りないと言いたげだった。
「ああ、目覚めた。最悪な目覚めだったよ。母親の胎内にいたころから数えて何千、あるいは何万回と繰り返してきた目覚めの中でも、一番最悪だった」
俺はぶっきらぼうに答える。
声はくすくすと笑う。
「その記録は無意味。分かってるくせに」
「ああ、でも今のところ一番だ」
俺は今、兄の部屋にある二段ベッドにいる。俺たちは中一の夏くらいまでこうやって寝ていた。だから、今は中学に入りたてのころということだろうか? 暗闇の中にぼんやりと天井が見える。女の声は兄が寝ているはずの下段のベッドから聞こえていた。
「柴田、お前はどうしてここにいるんだ?」
柴田久美子。高校三年の冬に突然行方不明となったクラスメイトで、とにかく変わったやつだった。だれとも交わらず、いつもひとりでせっせとプリントを折っていた。よく正人や美穂がおちょくっていた。そして卒業してからも、電柱や交番、地下歩道の壁や公園のトイレといったところで暗い笑みを浮かべ、俺たちの記憶の劣化を食い止めるため必死にがんばっていた。
「柴田? ふふふ、今はフリークガール。それにしても、あなた、まだ混乱してるの? わたしはあなたよりひと足先に〈ネスト〉へ落ちた。前にもそう言ったはず。でもいい。何度でも説明してあげる」
「……つまり俺はセツの〈巣《ネスト》〉へ落ちたのか?」
「ええ」
「そうか、俺は落ちたのか」
頭の中に立ちこめていた靄が急激に晴れていくのを感じた。そう、俺はあの瞬間──セツの前で目を閉じた瞬間──から、この〈ネスト〉の世界の住人となったのだ。だが、そのことになんの感慨もなかった。もう、そういう地点をとっくに通過していた。
ぎしっ。
木製のベッドがきしむ音。
ぎしっ、ぎっ、ぎっ、ぎしっ。
フリークガールが下段から身体を突き出し、顔を俺の方に寄せた。
短い頭髪。不健康な顔色。うつろな瞳。すらっとした鼻筋。吊り上がった薄い唇。フリークガールは、あのよく見た張り紙と同じ暗い笑みを浮かべていた。
「でも、ひとつ勘違いしてる。ここは永遠と続く〈入れ子《ネスト》〉の世界。彼女もその住人のひとりにすぎない」
これには少々驚いた。同時に疑問もわく。
「じゃあ、俺とセツの違いはなんだ?」
「瞬きをするか、しないか。夢を見るか、見ないか。それはすなわち世界を断続的なものとしてとらえるか、そうでないかの違い。彼女はその強靭な精神力で世界を連続させているの。だからネストを自由に飛びまわれるし、抜け出すこともできる。わたしやあなたをあっちの世界から無理やり引っ張りこめるのはセツだけ」
「ふぅん。……で、なんであいつはそんなことするんだ?」
「寂しいから、とかじゃないの?」
「ベタだけどそうかもな」
でも、それだけじゃない気がする。俺はセツが見つけたという、世界の〈もと〉とやらが気になってしょうがなかった。おそらく彼女は、なにか極めて本質的ななにかを知ったんだ。〈あらゆる物質はクォークとレプトンでできている〉とか、〈このボックスは再生紙から作られております〉とかそんなのを。そしておそらく、彼女はその真実が気に食わなかった。だからあんなことをしている。子供が駄々をこねるように──。
「ねぇ、もっと話しよ」
ふいにフリークガールが耳元でささやいた。
「いや、それより……」
俺はフリークガールの細い顎をくい、と上向かせた。彼女はくすくすと笑いながら目を閉じる……。
ひととおりお互いの味をたしかめると、彼女は上ずった声でつまらない冗談を言った。
「夢なら覚めなきゃいいのに」
了
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