『傘』

『傘』

著/星見月夜

原稿用紙換算40枚

1.傘を差す理由

 子供の頃の私。
 傘を差すのが好きだった。傘を差して、雨の中を歩くのが好きだった。
 傘を叩く雨粒の音。路面を濡らす雨粒の音。濡れた路面を踏みしめる、長靴の音。
 穏やかに降る雨の中、傘を差して歩くのが、大好きだった。

 地表を、この街を等しく洗い流す雨。
 夏を越えてなお、力の限り葉を広げている木々。木々の力強さを称えるかのように声を上げる、小さな虫たち。空を舞う鳥は、暑い日差しにも負けず、口々に歌を唄っている。
 そんな景色を灰色に塗りつぶして、雨は穏やかに降る。
 空色の、花柄の傘が私のお気に入りだった。小さな頃。まだ私の中に、それほどたくさんの言葉も感情も詰め込まれていなかった頃。それらが生まれ出る前のこと。体に不釣合いな、大きな傘を差して歩くのが好きだった。
 傘を差していれば、雨に濡れることはない。灰色の雨も、傘の花柄までは塗りつぶせない。
 空の色の傘。花の柄の傘。幼い私。
 まだ、自分の中から湧き出る感情の意味すら考えなかった頃。まだ、自分の中のずるい感情にすら気付いていなかった頃。
 針のような雨が真っ直ぐに降り注ぐ日には、傘を差して散歩に出るのが楽しかった。
 雨はいつの日も、必ず上がってくれたから。

2.今の私

 教室の窓から、何の気なしに外を眺める。
 入学してから、もうすぐ半年経とうとしている高校。足元が落ち着かないような感覚も薄れて、制服も体に馴染んできた時期。空の青さは、日差しの強さで濁って見えた。遠くに見える山裾に引っかかっている入道雲だけが、真っ直ぐに見詰めることの出来る夏の残滓。それ以外は、目を逸らしても強引に視界へと入り込んで来る。それと、とにかく暑いのだけは何とかして欲しいところではあった。
 夏休みが終わって、二学期が始まって、まだ二週間しか経っていない。夏はまだまだ残っているようだ。
 窓の外を眺めていたのは、ほんの数秒のことだったと思う。先生が黒板にいくつかの英文を書き記すだけの時間。先生の説明が始まって、私は授業に意識を戻した。
 夏はまだ終わらなくても、授業はもうそろそろ終わりの時間を迎えるはず。小さく深呼吸をしてから、ノートにペンを走らせた。

 チャイムが鳴って、一日の授業の終わりを告げる。帰りのホームルームを済ませれば、今日の学校も終わり。部活に入っていない私は、家に帰って眠って、また明日に備えることになる。
 鞄に教科書を入れていると、机の前で誰かが足を止めた。顔を上げて、相手を確かめる。
「や」と軽く手を上げて、短い挨拶をしてくる相手。数少ない私の友達。
 短く揃えた髪の毛を、そのまま適当に散らしたという外見が、性格に良く合っていると思う。銀縁の眼鏡も、良く似合っている。名前は、千代《ちよ》ちゃん。響きは可愛らしいけれど、どこか古風な名前。性格と名前が必ずしも一致する訳ではないという、ある種のお手本のような子だ。
「今日も暑い日だったね。ホント、いい加減にして欲しいわ」
「そうだね。もっと都会だったら、教室にもエアコンとかつけてくれるんだろうけど」
 少し前のニュースで、そんなことをやっていた。都会は温暖化の影響で気温が高くなってしまったから、と。
「羨ましいことねえ」
 腰に手を当てて、溜め息を吐きながら首を振る。少しオーバーな動作が嫌味に感じないのは、才能だと思っている。
「で、今日はどうするの?」
 いつもと同じ、帰り際の会話。少ない友達の中で、千代ちゃんだけは飽きることなく毎日私に声をかけてくれる。誘ってくれる。
 でも、今日も私の答えは同じ。
「家のことやらなきゃいけないし、少し疲れちゃったし」
 それに、お金もあまりないしね、と冗談めかして付け加えておいた。
「そう。じゃ、また誘うわ」
 気にした風もなく、いつもと同じに返してくれる。
 彼女はそのまま踵を返して、自分の席へと向かおうとした。
「あ」と声を上げて、窓の外を見る。私もつられるようにして、視線を外へ向けた。
 日差しは強いまま、何かに遮られていた。校庭に、大きな影が落ちている。
「今日も夕立ちが来るわね。これ」
 呟くようなその声に、私は短く「うん」と小さく返事をしておいた。

 ホームルームで先生が言っていたことは、良く覚えていない。千代ちゃんの言った通り、雨が降り始めたから。
 粒の大きな雨が、校庭を、中庭を叩いていた。残暑の厳しい日差しに照りつけられた地面は一気に冷えて、白い煙を吐き出していた。涼しくなった空気が教室に入り込んで、心地良かった。
 傘を差して歩いている。学校から家への、下り坂。雨は激しさを忘れて、嘘のように静かに降り続いている。夕立ちが穏やかになってきたということは、そろそろ秋も深まるということ。空が高くなって、風が強く吹きつけるようになれば、この街に短い秋が訪れる。駅前の街路樹が色づけば、あっという間に冬だ。冬になれば、雨は降らない。だから、この時期の雨が一番好きだった。ゆっくりと静かに振り続ける、優しい雨。
 雨で洗われたアスファルトの上を、花柄の傘を差して歩く。子供の頃とは違うけれど、私は今でも花柄の傘を選ぶ癖がついていた。今では体にちゃんと合った大きさの、傘。雨の日は雨傘を。日差しの強い日は日傘を。一年中、毎日傘を持ち歩いている私。おかげで、友達の間では体が弱いということになってしまっている。実際、それほど体が丈夫ではないのだけれど。
 交差点で足を止める。この横断歩道を渡って少し下れば、坂道は終わる。そうすれば、私の家まではもうすぐだ。車が水を飛ばしながら、交差点を通り過ぎて行く。私は濡れてしまわないように、歩道の端まで下がって待つ。
 そんな私の前を、誰かが駆け抜けて行った。

 見えたのは、口元。楽しそうに緩められた、口元だった。歩道から一段下がった、車道との間。本来なら、自転車が走るべき場所。そこを、誰かが駆け抜けて行った。
 まるでスローモーションのようにゆっくりと、口元だけがはっきりと見えた。
 振り続ける雨の中を、傘も差さずに。
 信じられないような気持ちで、その人の背中を目で追う。同じ学校の制服。男の人が着る開襟シャツとスラックス。少し長めの髪の毛が、細い体に良く似合っていた。でも、そんな全部が雨でびしょ濡れになってしまっていて……。
 水溜りに踏み込んだのだろうか、大きく飛び跳ねたりして。見える横顔は、やっぱり笑っていて。
 ――信じられないものを見てしまった私は、信号が変わってもしばらく、その背中をぼんやりと眺めていた。霞んで見えなくなるまで、ずっと。

 夕立ちは夜になる前に上がった。雨上がりの日は、いつもより日暮れが遅くなる気がする。それと、夕暮れの色も濃くなるような。
 夕食の準備を済ませて、お風呂の掃除を済ませて、私は居間から外を眺めていた。
 看護婦のお母さんと、タクシーの運転手のお父さん。二人とも帰る時間がまちまちだから、家のことはほとんど私がやっている。お婆ちゃんが生きていた頃、お手伝いをしながら家事を教えてもらった。おかげで、今ではひとりでもある程度のことは出来るようになっている。
 外は薄暗くなって、雨に濡れた庭木もだんだんと見えなくなってきた。代わりに、虫の鳴く声が響いてくる。網戸の向こうから、ひんやりとした風が居間に沁み込んでくる。
 どうしてあの人は、傘を差さなかったのだろう? どうして笑っていたのだろう?
 そんなことばかりを、ずっと考えていた。
 雨が降ったら、濡れないように傘を差すのが当たり前だと思っていた。まして、雨に濡れるのを楽しそうに笑うことなんて出来なかった。雨に濡れれば、必ず体調を崩してしまっていたから。
 体調を崩せば、お父さんもお母さんも仕事を休まなければいけなかった。二人に迷惑をかけるのは、とても悲しかった。お婆ちゃんでさえ、辛そうに私を見下ろしていた。
 あの人は、雨に濡れても風邪をひかないのだろうか? もしそうだったとしても、あの濡れた制服はどうするのだろうか? もしも雨に足を取られて転んだりしたら? そこに車が来たりしたら?
 考えれば考えるほど、信じられなかった。
 子供の頃の私。お父さんとお母さんとお婆ちゃんの三人が、世界の全てだった頃の私。傘を差さなければ、雨の日に家から出られなかった。お婆ちゃんが傘を買ってくれて、一緒に雨の中を歩いてくれて。夏の暑い日は、二人で並んで日傘を差して歩いて。たくさんのものを見て、聞いて、感じて。
 体調を崩して寝込むことも、目に見えて減って。お父さんもお母さんも安心してくれて。お婆ちゃんも褒めてくれて。
 雨はちゃんと上がる。雨上がりの虹は、あまり見ることがなかった気がする。でも、時々は見ることもあった。ちゃんと覚えている。川沿いの道から、橋の向こうにかかった虹。七色、とか言うけれど、私には三色にしか見えなかった。後で学校の先生が、七色よりもずっと細かく分けることも出来ると教えてくれた。虹。
 考えることを諦めて、答えが出ないまま投げ出して、私は濡れた傘を乾かそうと玄関へ向かった。

 朝になって、学校に向かう。帰りとは違って、朝はたくさんの人が坂道へと集まる。今日も私は畳んだ傘を持って、出来るだけ焦らないように坂道を歩く。息が上がると、貧血を起こしてしまうこともあるから。
「おはよ」と、私の背中をぽん、と叩いて、千代ちゃんが声をかけてくれた。私と違っていつも元気な彼女は、駆け寄って来ても呼吸を乱したりしない。
 私は「おはよう」と返事をして、顔を向けた。二人並んで、坂道を歩く。周りからは、たくさんの笑い声や話し声が聞こえてくる。朝の、見慣れた光景。
「傘を持っているってことは、今日も夕立ちが来るの?」
「うん。朝の天気予報で降るって言ってたよ」
「ま、夕立ちなら少し待ってれば止むから良いけどね」
 言われて、思うことがあった。そう、夕立ちはすぐに上がるのだ。
「あのね」と、私は昨日の帰り道でのことを話した。
「へえ、誰だろ? そんな頭悪いことする奴、多すぎて逆に分からないわ」
 ストレートな物言いに、私は苦笑を返す。
「どうして笑ってたのかなって、思って」
「そんなん、楽しかったからじゃない? 私じゃないから分からないけど」
「んー……」
 少し考えてみたけれど、あまり楽しそうには思えない。確かに、自分のことじゃないし良く分からなかった。
「何? 気になる男の子だった訳?」
「え、あ、そういうんじゃないんだよ? そういうのじゃなくて……」
「冗談」と言って、千代ちゃんは笑った。肩を落として、私も笑顔を浮かべる。
「ま、変わり者であることは確かね」
「うん。少し変わってるよね」
 わざわざ、雨に濡れるなんて。

 放課後、やっぱり雨は降り出していた。
 あまりに強い雨足だったので、私は少し玄関で待つことにした。今朝の話じゃないけれど、強い夕立ちは少し待っていれば弱まる。傘を差しても濡れてしまうなら、濡れなくなるまで待てば良い。これが台風とかであれば、合羽を持ってきただろうけれど。
「まだまだ止みそうもないわね」
 今日は、千代ちゃんも一緒。遊びに行くことは出来ないけれど、途中まで一緒に帰ることはたまにあった。演劇部員の彼女は、練習日以外は時間が空くらしい。
 私たちが玄関から外を眺めている間も、何人かの人たちが傘を差して出て行った。きっと急ぎの用事とかがあるのだろう。嫌そうな顔を浮かべて、溜め息を吐いてから、足取りも重そうに歩いている。身を屈めて、足元を気にしながら。
「田舎はこれだから……」
 千代ちゃんも、眉間にしわを寄せてぶつぶつとぼやいている。田舎かどうかは、夕立ちにあまり関係ない気もするけれど。
「靴下に泥が跳ねると、洗っても落ちないのよね」
「すぐに手もみ洗いすれば、ちゃんと落ちるよ?」
「そういうの面倒でさ」
 何気なく雑談を続けていると、笑い声が聞こえた。
「……頭悪い連中がいるわね」
 げんなりしたような彼女の声。その視線の先を追うと、サッカーボールを追う男の人が何人か。土砂降りの雨の中で、泥だらけの校庭で、大きな声で笑いながら、ボールを追いかけていた。
「小学生でもやらないわよ、あんなこと」
 そうこうしていると、職員室の先生が声を張り上げて何かを言っているのが見えた。多分、「風邪引くから止めろ!」とか言っているのだろう。雨の音で聞こえてはいないだろうけれど。
 何というか、本当に不思議なものを見ている気がした。わざわざ雨が一番強いときに外に出て、どうしてサッカーなのだろうか? それも、あんなに楽しそうに。
「あ、転んだ」
「……笑ってるね」
「頭悪いにも限度があるわよ、あんなの」
 そう言う彼女も、呆れながら笑っているようだった。声を張り上げて怒っている先生ですら、どこか楽しそうに見える。
 じっとその状況を眺めていて、気付いたことがあった。
「あ、あの人。今朝話した人がいる」
「どれ?」
「今ボールを蹴った人……ほら、あの髪の長い」
「あー……あのバカか……。アレなら納得……」
 額に手を当てて、大きな溜め息を吐いた。
「知ってるの?」
「羽田《はた》ってバカよ。同じ中学校出身なの。昔からあんなことばっかして、目立ってたわ。おかげで怖い先輩たちに睨まれてて、今もあんまり立場が良くないんだけどね」
 そういう話になると、彼女はとても詳しかったりする。本人が言うには、「悪意に関して、どうも私は鋭いらしいのよね」だそうだ。
 それを聞いて、私は少し怖くなった。でも、同時に当たり前だとも思った。目立ってしまえば疎まれるし、自由に振舞っていれば嫌われることもある。傘を差さなければ、雨に濡れてしまう。雨の日にサッカーなんてすれば――
「あ、また転んだ」
「転んでも笑うって、どんだけバカなんだアレは……」
 千代ちゃんは、呆れて笑うしかない、という感じで苦笑いしていた。先生は止めさせるのを諦めたらしくて、窓を閉めてカーテンまで閉めていた。
「アホらしくなってきた。帰ろうか」
「……もうちょっと待ってれば、きっと止むよ」
「そう?」
 雨は降り続いている。校庭からは、相変わらず笑い声が聞こえてくる。
 雨足は、だんだんと弱まってきていた。

3.分からないこと

 それから何日か、雨は降らなかった。それでも私は傘を持ち歩いていたし、帰り道で日傘代わりに開くこともあった。
 そんな私に奇異の視線を向ける人がいなかったのは、多分千代ちゃんのおかげだと思う。私の体がそれほど丈夫じゃないと知っている彼女は、誰かに訊かれる度にそう答えてくれていたから。口下手な私の代わりに。
 遊びに誘ってもらっても付き合えない理由を、彼女にだけは話していた。他の子は理由を話さなくても、何度か断ってしまえばそれっきりだった。でも、彼女だけは理由をちゃんと話しても変わらずに誘ってくれる。時々一緒に帰るようになったのは、一学期の中間テストが終わった頃からだったと思う。
 私の、数少ない友達。あまり自分のことを話したがらない、それでも親身になってくれる友達。彼女は、たくさんのことを知っていた。

「アイツ、やっぱり先輩たちに殴られたみたいよ」
 ある日の昼休み、そんなことを言って来た。アイツ、と言われて思い当たるのは、雨の中でサッカーボールを追いかけていた、あの人のことだった。念のために確かめると、彼女は黙って頷いた。
「羽田と同じ部活の先輩が好きになった子が、羽田のこと好きだったんだってさ。頭悪い理由よね、ホントにさ」
「それって……」
 酷いし、理由になっていないと思う。殴ってどうなる問題でもない気もするし。
「先輩たちにしてみれば、理由なんて何でも良かったんでしょうよ。これでアイツが大人しくなるなら、優越感に浸れて良いんじゃない?」
 呆れ果てて笑うことすら出来ない、と言外に示しながら、彼女は机に頬杖をついている。
「大人しくなれば、ね」
 でも、彼女はそう言うと、口の端を持ち上げた。にやり、と笑うようにして。
 そんな彼女の視線の先には、校庭でボールを追いかける彼がいた。何人かの友達と、あの日のようにサッカーをしている。顔に絆創膏が何枚か貼ってあった。腕には包帯まで巻いてあった。でも、笑っていた。元気にはしゃぎ回っていた。
「殴られた程度で大人しくなるなら、先生たちも苦労しないって話よね」
「……なんだか、本当に変わってるね」
 腫れた唇で笑う彼は、何一つとして負い目がないようにすら見えて。傷跡がなければ、先輩たちに殴られたことに誰も気付かないようでさえあって。
 彼はきっと知っているのだろう。自分に悪意を向ける人がいることも、自分が目立ってしまうということも。でも、知っていても気にしない。気にせず、変わらず、在りのままに笑って日々を過ごしている。
「好きになった?」
 からかうような、彼女の声。視線は楽しそうに細められている。
 私は今のこの気持ちをどう説明しようか考えた。でも、説明出来る言葉が見つからなかった。はっきり言えることは――
「好きになるほど、良く知らないよ」
 正直な気持ちだった。

 その日、夕立ちは降らなかった。
 乾いたままの傘を手に持って、私はひとりで帰路に就いた。

 毎日は私にとって穏やかに過ぎていった。暑さも和らいで、夕立ちも降らなくなって、空が高く遠く澄み渡るようになっていった。衣替えの時期が来て、冬服を着る人がだんだんと増えて来ていた。でも、日中はまだまだ暑くて、授業中にはみんな上着を脱いでいた。一度、日曜日に千代ちゃんと買い物に出かけた。演劇部で使う化粧品を買いに。彼女は部活用の他に、自分用の化粧水と乳液を買った。私はリップクリームと、やっぱり乳液を買った。この街の秋は、空気がとても乾くから。
 彼は――雨の日にサッカーをしていた、先輩たちに殴られた彼は――変わらずに毎日を過ごしていた。
 どうして二学期になるまで気付かなかったのだろうと思うくらい、彼は目立つ人だった。常に数人で連れ立って行動していたし、聞けば彼のことが好きだという女の子も多いという。そして、私は――
 未だに彼と話すことがないままでいた。

 昼休みに、千代ちゃんと二人でお弁当を食べる。自分でお弁当を作るのは、結構気楽だったりする。食べ切れなかったら残せば良いし、誰かのためでもないので気張る必要もない。千代ちゃんは、毎朝コンビニでパンを買って来ている。両親共働きなのは、お互い様だ。
「ま、クラスが違えば接点もないけどね」
 不満そうにそういう彼女は、私をからかうように続ける。
「けど、ライバル多いからね。誰かに取られてから泣くなんてこと、ないようにしてよ?」
「だから、そういうのじゃないってば」
 苦笑いして、空になったお弁当箱をしまう。彼女は缶のコーヒーをごくごくと飲み干すと、教室の隅のごみ箱に向かって空き缶を投げた。
「よし、ストライク! ……でも、ああいうのがタイプだったとは、意外よね」
「だから……」
 タイプとかタイプじゃないとか、本当にそういうのじゃないのに。
「私が紹介してあげよっか? 面倒だけど、恋の橋渡しっていうのも一度やってみたかったし」
 このままだと本当にそういうことにされかねない。私は苦笑と溜め息を返して、席を立つ。食後に歯磨きをするのは、毎日の決まりごと。
「いってらっしゃーい」と、ひらひら手を振る千代ちゃんは、そのまま教室に残る。食後はだらだらするのが決まりごとだと言っていた。その通りに、だらしなく椅子にもたれかかっている。私も手を振り返してから、廊下の水飲み場まで歩いた。

 歯磨きを終えて教室へと戻る途中で、彼を見かけた。廊下の窓の下、中庭の芝生に寝転んで、目を閉じていた。木の下で、木漏れ日を受けて、とても気持ち良さそうに。珍しくひとりみたいだ。耳にはイヤホンが伸びている。
 顔を見ると、絆創膏は全部綺麗に取れていた。腫れていた唇も、元に戻っている。腕の包帯は取れていて、青痣も随分目立たなくなっていた。傷はちゃんと快方に向かっているみたいだ。
 でも――
 外で眠るのは気持ち良いかもしれないけれど、風邪でも引いたらどうするのだろう? それに、中庭とはいえ芝生の上じゃあ服が汚れてしまう。虫だっているし、もしかしたら物が落ちて来たりするかもしれない。この前のように、先輩たちに殴られるようなことだってあるかもしれない。外に出なければ。目立たなければ。雨の下に駆け出さなければ。それなのに……。
 どうして、あんなに気持ち良さそうにしているのだろう?
 視線を廊下に戻して、私は歩き出す。教室の、私の席に戻るために。
 日差しを遮るカーテンのある、部屋の中に戻るために。
 いつものように。いつもと同じように。

 午後の授業が始まって、みんなが席に着いている。古典の先生が教科書を読み続けている。眠そうな顔をしている人や、熱心に授業の内容をメモしている人。折りたたんだ手紙を回している人もいるし、先生に見つからないように隠してマンガを読んでいる人もいる。私はそんな中で、ときどき外に目を向けていた。
 日差しの満ちている景色。午後になって風が出てきた景色。季節ごとに移ろっても、それほど大きく変化することのない景色。
 私の生まれ育った街の、目に馴染んだ景色。
 変わらない景色を眺めながら、理由の分からないもやもやとした気持ちが浮かんで来るのを、どうにかやり過ごそうとしていた。

4.傘を

 もやもやとした感覚は、日ごとに強くなってしまっていた。楽しかったはずの、好きだったはずの静かな雨の日も、今日は何故だか気が重い。
 昨夜から降り続いている雨は、朝になっても上がらなかった。
「朝から雨で鬱陶しいわね」
 そう言う千代ちゃんに、いつもなら何か反論したかもしれない。でも今日は、「そうだね」と正直に同意をしていた。
 視線は靴を追いかけている。濡れないようにしていても、いつも靴だけは少しだけ濡れてしまっていた。今日は、濡れている靴を見ても何とも思わない。濡れているなと、見たままに感じているだけ。
「具合、悪いの?」
「ん……」
 上り坂の途中にある正門から、学校へと入る。校庭を抜けて階段を上がれば、玄関だ。教室に行けば、こんな気分も少しは薄れるかもしれない。そう思うと、自然と足取りが速まる。
 顔を上げたとき、並んで歩く私たちの脇を、誰かが駆け抜けて行った。上着を脱いで抱えて、傘も差さずに、汗とも雨ともつかないものに濡れて。
「羽田のバカ、本当に頭悪いわね。年中無休で」
 千代ちゃんのそんな言葉が、遠くに聞こえた。
 何故だろう? そんな彼の姿を、例のあの人の後姿を――羨ましいと、そう思ってしまったのは。
 玄関で傘を畳んで、傘立てにしまう。その手が、しばらく固まっていた。濡れた傘を、じっと見詰め続けていた。

 授業の間ずっと、彼のことが頭の隅に引っかかっていた。
 今朝も走りながら、濡れながら、やっぱりそれでも笑っていた。ひとりきりでも。誰かと一緒でなくても。
 あの人は今、授業を受けながら何を考えているのだろう? 何を思っているのだろうか? 濡れた制服と髪は、ちゃんと乾かしたのだろうか? 風邪を引いたりしないだろうか?
 そう思うのと同時に、傘立てにしまわれた花柄の傘のことも考えていた。

 雨は昼前には上がって、柔らかな日差しが校庭と中庭を、この街を照らし出していた。夕暮れは鮮やかで、だんだんと色が朱に近づいているように見えた。
 眠る前の短い時間。真っ暗な部屋に、デジタル表示の時計の灯りだけが見える時間。寝つけずに、寝返りを繰り返していた。
 傘を差すのが好きだった。傘を差して、雨の中を歩くのが好きだった。でも、今朝はあんなにも気分が重かった。
 傘を叩く雨粒の音。路面を濡らす雨粒の音。濡れた路面を踏みしめる、靴の音。そのどれもが、私を責めているようにすら聞こえた。
 穏やかに降る雨の中、傘を差して歩くのが、大好きだった。嘘じゃない。つい最近まで、ずっとそうだった。
 あの人のことを考える。
 傘を差さずに道を走り抜けていた。笑顔を浮かべて。
 雨に打たれながら、ボールを追いかけていた。笑っている友達の中で、楽しそうに笑っていた。
 先輩に殴られて傷を負っても、気にせずに日々を過ごしていた。中庭で日差しを浴びて、気持ち良さそうに目を閉じていた。
 傘を差して歩く人たちの間を縫うようにして、制服を脇に抱えて駆けて行った。やっぱり、笑顔を浮かべていた。
 傘を差す私。差さない彼。
 雨に濡れないようにする私。濡れてもなお、笑っている彼。
 どうしてこんなにも違うのだろうか? 一体、何が違うのだろうか?
 寝返りを打ちながら、それでも眠れず、腕で目を覆う。大きく息を吸って、ゆっくりと深く吐き出す。
 雨に濡れたくなかった。濡れなければ、誰にも迷惑をかけずに済んだ。傘を差していれば、雨に濡れることもない。他の全てのものが等しく洗い流されても、私は雨に濡れることはない。
 それなのに、あの人は望んで雨に打たれる。服も髪も、ぐっしょりと重く冷たく濡れてしまうのに。風邪を引いてしまうかもしれないのに。苦しい思いをして、辛い気持ちになって、悲しくなってしまうかもしれないのに。
 傘を差すだけで、平穏に過ごせるのに。目立たなければ、目立たないように気をつけていれば、傷つくこともないのに。
 でも――
 現実には、こんなことを考えている私の方が、ずっと苦しい気持ちになってしまっている。対して、彼は今日も楽しそうに過ごしていた。多分、明日も笑顔で過ごすだろう。私と彼の違いというのは、結局のところ、それだけで――笑っているか、いないかの違いだけで――
 羨ましいと、そう思った。私も、毎日を笑って過ごしたいと思った。

 天気予報は、昼過ぎから雨が降ると告げていた。
 当たり前のように傘を手にして、家を出る。傘はいつもより重く感じられた。
 教室に行くと、千代ちゃんは他の子たちと週末の予定について盛り上がっていた。私は椅子に座って、ぼんやりと外を眺める。薄暗くて、いつ泣き出してもおかしくないような空。肌にまとわりつくような粘度の高い空気に、溜め息を吐いた。

 今日最後の授業は、数学。機械的にノートをとりながら、ちらちらと外に視線を向ける。雨がぽつぽつと、降り始めていた。粒の小さな、銀の針のような雨。夕立ちとは違って、冷たく沁み込むような雨だ。
 ホームルームが終わって、図書室に本を返して、自販機で温かいお茶を買って、教室でゆっくりと飲んで。それでもまだ、雨は降り続いていた。
 重い足取りで、玄関まで向かう。
 靴を履き替えて、傘に手を伸ばして。
 視線を向けた先は、雨の降り続ける校庭。ところどころに出来た水溜りが、雨粒で波紋を立てていた。灰色に塗りつぶされた景色。
 傘を見る。空色の、花柄の傘。一番のお気に入りの傘。雨に濡れても、色を失うことのない、空と同じ色をした花の柄の傘。
 私の代わりに濡れてくれた傘。私を守って、私を楽しい気分にしてくれていた傘。
 でも、どうしてだろう? それがとても、恥ずかしいことのように思えていた。
 別に、傘を差さないのが正しいとは思わない。濡れれば気持ち悪いし、風邪だって引く。でも、それでも――
 私は、今の私には、笑うことが出来ない。
「どうしたのかな……?」
 多分、分かってしまったのだ。今頃になってやっと。
 傘を開く。昨夜ちゃんと乾かして畳んだので、しわひとつ残っていない。ぴん、と気持ち良く張り詰めた布が、灰色でない空の色を映し出している。
 辺りを見回してみる。中途半端な時間なので、誰もいなかった。帰宅部の人たちは帰ってしまっただろうし、部活のある人たちは熱心に活動しているはずの時間。取り残されているのは、私ひとりだけ。
 校庭には、誰もいない。サッカーをしていたあの人も、今日は見つからない。音もなく降る雨は、怖くなるくらいに静かに、他の音を全て吸い込んで降り続いている。
 見上げた空は灰色だったけれど、雲の切れ間が見え始めていた。少し待てば、この雨も上がるかもしれない。
 そう。雨はもうすぐ、上がるのだ。
 でも――
 気がつけば、私は駆け出していた。
 傘を畳んで、鞄と一緒に胸元に抱えて。

 子供の頃の私。傘を差して歩くようになる前の私。
 友達と一緒に、何も考えずにはしゃいで。悩まずに笑って。恐れずに駆け回って。時には転ぶこともあって。傷だらけの泥だらけで家に帰ることもあって。
 でも、そんなとき、お婆ちゃんもお母さんも、笑っていたような気がする。
「しょうがないね」って顔をして、微笑んでくれていたような記憶がある。
 病気がちになって、友達と遊ぶことが減ってしまったときのことを思い出してみる。もしかしたらあのとき、私から距離を置いてしまったんじゃないだろうか? 例えば今の私が、千代ちゃんの誘いをもっともらしい理由を付けて避けてしまっているように。
 友達とはしゃぎ回ることがなくなって、私は体調を崩すことがなくなった。毎日を、家の中で過ごしていた。閉ざされた部屋の中で過ごしていた。
 外の世界に目を向けることになったのは、雨の音だった。
 窓を叩き、屋根を叩き、草木を叩く雨の音。それがまるで、「遊びにおいで」と誘ってくれているようで。
 だから私は外に出た。傘を差して、長靴を履いて。
 傘を差してさえいれば、雨に濡れることがないから。
 それは確かに素敵なことかもしれないけれど――
 雨に濡れた街の景色も、綺麗だったけれど――
 降る雨に打たれなかった私は、小利口な振りをしていただけなんじゃないだろうか?
 だって……。

 雨に濡れるのは、こんなにも気持ち良いのだから。

 喉が焼けるくらいに息が弾んでいる。心臓が破裂しそうなくらいに鼓動が高鳴っている。足はふらふらだし、目の前は歪んで滲んでぐちゃぐちゃになっている。
 でも、それでも、肌に直接当たる雨粒は、こんなにも優しい。
 熱を帯びた肌を洗って冷やして、包んでくれている。
 濡れた服は重い。靴だって、踏み出すたびに気の抜けた音を立てている。髪の毛はべっとりと額から頬、頬から首筋に張り付いて、背中まで水滴を流し込んでしまっている。
 嫌なはずなのに、この後で風邪を引いてしまうかもしれないのに、転んで泥だらけになってしまうかもしれないのに――
 自然と、頬が緩んでしまう。
 千代ちゃんが言っていた言葉が、頭を過ぎった。
「楽しかったからじゃない?」
 頬が緩むのは、笑顔が浮かぶのは、楽しいから。当たり前のこと。そんな当たり前のことですら、私は忘れていた。
 言い訳を並べて、もっともらしい理由で自分を納得させて、誤魔化して、私は今日までを過ごしてしまった。
 でも、きっとこれからは――
 急に変われるとは思えないけれど、それでも――
 変わってみたいと、そう思った。

 降る雨粒から私を守ってくれた、花柄の傘。
 大好きな傘に、「ありがとう」。
 そう、心の中で呟いて。

5.結局

 ――結局その夜、私は熱を出して寝込むことになってしまった。

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