対談『文学における世界の終わりとは』

『文学における世界の終わりとは』

秋山真琴×遥 彼方

── 本日は秋山真琴さんと遥彼方さんにお越しいただきました。

秋山 このインタビューを読まれている皆さんこんにちは。本誌の編集長、秋山真琴です。回廊では毎号、作品が出揃った後に座談会の場を設けているのですが、そのときに次号の特集を決めます。第十二号の特集が「世界の終わり」となったのは、座談会参加者の多数決によってですが、「世界の終わり」というある意味でありふれたフレーズは、しかし日を経るごとに秋山の精神を刺激し、ことあるごとに文学と「世界の終わり」の関係性を考えさせられるようになりました。今日はその思考の結果を遥さんと争わせてみたいと思います。

 こんにちは、本誌に絵と小説で参加させて頂いております、遥彼方です。座談会でぱっと思いついて言った「世界の終わり」がそのまま特集になってしまいました。じつは文学の文脈の中でこれを考えたことはあんまりなくて、というか文学の文脈でものを考えたこと自体、ほとんどない人間で、どうしたもんだろうと思っていたりするのですが、この機会に色々考えてみたいと思います。はい。

── まずは、おふたりのイメージする「世界の終わり」についてうかがいたいと思います。秋山さんどうでしょう?

秋山 やはり荒廃した大地と暗雲に覆われた空ですね。何らかの理由で地球は粉塵に覆われ、日光から隔離され、氷河期の時代に戻っているような場景を思い浮かべます。もしくは縦横無尽に亀裂が走っている大地であるとか、打ち捨てられた廃墟とか、あるいはただの枯れ木であるとか、そういう映像に「世界の終わり」を見出します。

 秋山さんの仰ったようなイメージも持っているのですが、それ以上にわたしの中では、「世界の終わり」は「死」、つまり「〝わたし〟の死」のイメージに結びついています。個人的な話で恐縮なんですけど、小さい頃、自分は死ぬんだってことを認識してすごい泣きじゃくったことがあったので、そのよくわからん経験とも結びついているんでしょうけど。ものを見ることも思うことも言うこともない、真っ暗な虚無のような。あとは、それまであった全てのものが終了して、はなから無かったことと一緒になる、というような……そんなくらぁいイメージが思い浮かびます。「世界」を認識する主体の死=「世界の終わり」という感じですね。認識者がいなければ、仮に世界が続いていてもその存在を定義できない、と言い換えることもできると思います。

秋山 それは非常に主観的な捉え方ですね、また身近な存在であるようにも思います。極端な話、遥さんにとって瞬きするたびに世界は終わったり始まったりしているのではないでしょうか?(笑)

 それはまた……赤ちゃんのいないいないばあみたいな考え方ですね(笑)うん、でも、目を閉じてても何かしら考えてますからね。主体が何かしらを考えてる間は世界と交わりを持ってると言えるんじゃないでしょうか。つまり、終わってない、と。

── 内在的な世界の捉え方ですね。認識者の数だけ異なる世界が存在し、それぞれの世界に違う終わり方があるということでしょう。

 ええ、そう思います。というか、そういう考え方もアリだと思っています。



【ひとを感動させうる「世界の終わり」が「文学的な世界の終わり」】


── 一般的に、秋山さんの挙げた物理的な「世界の終わり」という表現は、メディアにおいてはSFやファンタジーの中でよく使用される手法ですね。たとえば、ゲームなどでは「世界の終わり」から救うために主人公が戦うとか。秋山さんが考える「文学における世界の終わり」というのも、SFやファンタジーといったジャンルに傾倒するものでしょうか?

秋山 違いますね、真逆と言っても差し支えないでしょう。秋山の「世界の終わり」に対する認識が一般的なものであるかどうかはさておき、一般に「世界の終わり」というのはSFやファンタジーの世界観のなかで語られることが多く、特に小説ではなく、映画や絵といった視覚に訴えかけることのできる類の芸術の影響を受けていると思います。これを踏まえて、もう一度「世界の終わり」を振り返ると、そこには「文学的な世界の終わり」と「一般的な世界の終わり」があると言えます。両者の違いは何であるかと言うと、それはもちろん言うまでもなく、片方が文学的であるのに対し、もう片方が一般的であるということです。では、文学的であることがどういうことを意味するかと言いますと、ここからは持論になりますが、文学とは「感動させることのできるもの」なので、ひとを感動させうる「世界の終わり」が「文学的な世界の終わり」と言えます。もう少し詳しく説明しましょう。感動、の種類にもよりますが、ひとは概して新奇なもの、珍しいものに感動します。その作家が世に送りださなかったら、この地球に存在しなかったであろう作品が「文学」なのではないかと考えています。対して、一般的なものというのは、まず文学と比較して単純に古い、ということが言えます。この古いというのは時間的な意味も含みますが、それよりもどれだけ人口に膾炙しているかという意味の方に重きが置かれています。結論を述べると、斬新な認識であるが故に少数にしか理解されないものが「文学的な世界の終わり」であり、何度も繰り返されているがゆえに馴染み深く、多数に許容されやすいものが「一般的な世界の終わり」ではないか、ということです。

 一般的な世界の終わり……は、たとえば、仏教の末法思想だとか、地球温暖化で陸地が沈むとか、そういう類ものでしょうか?

秋山 そうですね。そういったものも含まれます。

 「一般的な世界の終わり」は文学作品の中では主に小道具として、「文学的な世界の終わり」はコアとして用いられるもの、という印象があるのですが、どうでしょう?

日本沈没 上    小学館文庫 こ 11-1
日本沈没 下    小学館文庫 こ 11-2
日本沈没 スタンダード・エディション

秋山 小道具として用いるか、コアとして用いるかは関係ないように思います。例えば小松左京『日本沈没』下巻)は、いかにもSFと言える「一般的な世界の終わり」を扱っていますが、その姿勢は非常に文学的であると思われます。ところで『日本沈没』で思い出しましたが、昨年、リメイクされた映画においては、物語の主眼が主人公の恋愛模様に移されているようですね。どうしてそのように設定や展開を変えたのか、理由はいろいろあるでしょうが、1973年当時、斬新だった日本沈没という「世界の終わり」が、2007年現在、新しくとも何ともない、というのが要因のひとつ、かもしれませんね。

 なるほど。それと、文学だと「終わり行く世界を前に人がどうするかを描く」か「世界の終わりそのものを描く」か、大体その二種類のアプローチになってくるのかなあと思いますけれど、どうでしょう?

秋山 そんなことはないでしょう。一度、終わった後の、つまり文明が完全に途絶えた後の世界から復興する物語もありますし。世界をなにかの比喩としている作品もありますし。世界の終わりへのアプローチは、それこそ無限にあると思いますよ。

 あ、そっか、復興も。世界が比喩になってくると、いよいよ、世界って何? という問いが重要になってきますね。



【「世界の終わり」から「前に進む」展開の仕方を興味深く思ったんです】

(この項には鬼頭莫宏『ぼくらの』のネタバレがあります)


── お二人は多読な方ですから、そうした新奇な視点で描かれた作品も読まれていると思いますが、この作品の中で描かれた「世界の終わり」は凄いぞ、みたいなものありますか?

ぼくらの 1 (1) (IKKI COMICS)
テレビアニメ『ぼくらの』DVD Vol.1
ぼくらの~alternative 1 (1) (ガガガ文庫 お 1-1)
ザ・ムーン (1) (小学館文庫)

 ああ……じゃあ、ええと、鬼頭莫宏の『ぼくらの』で。てか……ごめんなさい、これ実は漫画なんですけれども……。十五人の少年少女たちがロボットに乗って敵と戦って、負ければ地球は滅亡、勝ってもパイロットは死んでしまう、つまりどちらにしろ乗っている子供自身は死んでしまう、というすごく絶望的な状況で、子供らが何を思って死んでいくのか、っていうのが描かれていまして。どう足掻いても避けられない、近いうちの死、というひどく閉塞的な状況なんですけれど、そこにだんだん、軍隊の大人が絡んできたり、「何のために闘うのか?」が明らかになってきたりするうちに、ほんの少しずつ物語が前へ進み始めるんですよね。その、ロボットが戦うのって、「平行世界の枝の剪定」のためなんです。戦闘に参加する二体のロボットはともに自分の所属する世界の代表として闘って、負けた方の世界が滅亡する、そうやって勝ち抜いた世界が残るようになってる、という。また、子供らの一人が、心臓病の友人に自分の心臓を提供するんですね。他者に生命を渡して死ぬ。そういう出来事を重ねるうちに、子供たちも少しずつ、自分の運命に対する、自分たちなりの答えらしきものを探し始める。その、「世界の終わり」から「前に進む」展開の仕方を興味深く思ったんです。まだ連載中なんで、これからどう展開するのか楽しみな作品です。たしか今、アニメもやっていたと思います。わたしは未見ですが、なかなか評判がよいようです。

── 小学館の新レーベルから小説版も出るみたいですね。

 おおお! それはしらなんだ!

秋山 ガガガ文庫ですね。ところで秋山繋がりなトリビアをひとつ。『ぼくらの』はジョージ秋山の『ザ・ムーン』に範を取ったものらしいですね。



【双方向からの世界の終わりを感じました】

(この項には平山瑞穂『忘れないと誓ったぼくがいた』のネタバレがあります)


── なかなかの好カードが遥さんから出されましたけど、秋山さんはどうですか?

忘れないと誓ったぼくがいた

秋山 平山瑞穂『忘れないと誓ったぼくがいた』についてお話します。この小説はいわゆる恋愛小説に含まれるもので、高校生同士の真っ当な恋愛が描かれているのですが、ただひとつ特性があるとすれば、彼女の方が時の裂け目に消えゆこうとしていることです。時の裂け目が具体的にどういったものであるかは不明ですが、彼女は眠りに落ちるようにときたま意識を失い、そのままこの世でないどこかに消えてしまうのです。最初のうち、彼女が時の裂け目に落ちてしまうのは月に一回程度だったのですが、これがやがて頻繁になり、またいなくなっている期間も徐々に長くなっていくのです。そして彼女が時の裂け目に落ちてしまえば落ちてしまうほど「彼女の周囲の人間は、彼女に関する記憶を失ってしまう」のです。実際、終盤になると彼女のことを覚えているのは主人公だけで、ふたりの共通の友人も彼女のことを覚えていませんし、彼女の家に行っても、両親はどうしていもしない娘の部屋が家のなかにあるのか首を捻っていたりするのです。そしてもちろん、ここが肝心なのですが、主人公自身も彼女を覚え続けていることは不可能なのです。そのころには「彼女が生きていた痕跡」というのは世界中に残ってはいるのですが、もはや主人公を除いて誰も、それが「彼女が生きていた痕跡」であると認識することができず、事実上、彼女は存在していなかったに等しい状況なのです。ここに秋山は双方向からの世界の終わりを感じました。すなわち彼女視点での世界の終わりと、彼女以外の人類視点での世界の終わりを。

 面白そうですね……うわぁ、でも切ない。

秋山 是非、読んでください。




【「全体の世界(大)」は先に言った「事象が起こる空間の全体」です。……あ、世界観が三つになった】


秋山 いきなりですが、「世界」について語りたいと思います。たとえば遥さんは最初に、「世界の終わり」が遥さん自身の死に繋がっているとおっしゃっていましたが、その点だけに注目しても「全体における世界の終わり」と「個人における世界の終わり」があるのではないかと思います。だとしたら「全体における世界」とはなんなのか?「個人における世界」とはなんなのか? まずは「個人における世界の終わり」から始めましょうか。遥さんはこれを「個人の死」と換言しました。であるならば、「個人における世界」とはなんでしょう。

 ええと。目で見たり、耳で聞いたりすることで認識できて、また言葉を話したり、手で触れたりすることで働きかけることのできる世界、だと思います。

秋山 つまり、個人にとって身近な空間、日常?

 日常、というか……「関係することが可能な範囲の世界」といいますか。例えば、その人が旅行で外国に行ったとして、その外国は非日常ですけど、個人の世界に属すと思います。身近な空間といえると思います。

秋山 なるほど、その見解は秋山と少し異なります。秋山はどちらかと言うと、日常そのものですね。ある程度のお金と時間があれば、我々はどこにだって行けます(地球の裏側から月まで)。しかしだからと言って、それらが身近な空間とは思えません。とは言え、これぐらいは単なる見解の不一致でしょう。それでは、「個人の世界」が身近な空間だとしたら、「全体の世界」はいかがでしょうか?

 なんだかテストを受けている気分です(笑)んー。広げようと思えば宇宙全体、まで広げられると思いますが……基本的に、ひととか動物とか無機物の思惑とか行動とか単純な運動等が絡み合って出来ている、何らかの事象が起こる空間の全体……ですかね。

秋山 興味深い答えですね。宇宙全体、ということですが例えば千年以上昔、まだ宇宙の存在を人類が知らなかったころ、その時代の人々にとって「全体の世界」というのは、やはり宇宙全体を意味したのでしょうか?

 いいえ。そうは思いません。ええと。何て言うのかな。宇宙全体というのは、もし広げようと思えばそこまで広げられるよってだけで、ふつうの「全体の世界」は、社会全体で共有されている世界観などの、個人的でない主体によって、規定されるかと思います。ただ、「全体の世界」は、主体が存在しない状態でも存在しますので、すると、先に言った「事象が起こる空間の全体」になります。「個人的でない主体」は、ひとまとまりの文化圏とか国とか民族などの集合体です。ある程度同じルール、習慣を共有します、たとえば、日本語を話すとか。その主体のルールや習慣に基づいて規定されるのが「全体の世界(小)」だと思います。

── 逆に考えると、我々の知る宇宙の外に存在する世界が未来で発見された場合、それは我々にとって「全体の世界」になるかということですね。

 それは「宇宙の外に存在する世界」を知る人々、あるいはその存在を単に信じる人々にとっては「全体の世界」になり得ると思います。因みに「全体の世界(大)」は先に言った「事象が起こる空間の全体」です。……あ、世界観が三つになった。

秋山 ふうむ。宇宙外を知っているひとにとっての「全体の世界」は、その時点で既に人類全体にとっての「全体の世界」とは呼べないように思うのですが。あ、それが(小)ですか?

 (小)です。ほんとの意味で人類全体にとっての「全体の世界」は(大)になるんだと思います。

秋山 そう言えば遥さんに催促するばかりで、秋山自身の考えを言っていませんでしたね。秋山にとって「全体の世界」というのは、「個人の世界」の集合ですね。したがって、無理に当てはめようとすれば秋山定義による「全体の世界」は、遥定義による「全体の世界(小)」に近いですね。

 秋山さん定義だと、「全体の世界」でも、主体はあくまでも「個人」であるということでしょうか。

秋山 その通りですね。分かりやすい例を出すと、個人の知っている歴史、つまりそのひとが生まれてから死ぬまでが「個人の世界」で、教科書に書かれている歴史、つまり人類が共有している「個人の世界」が「全体の世界」ですね。

 ああ、なるほど、世界史は言ってみれば、個人の歴史の寄り集まったものですもんね。

── 日本ではあまりないことですが、世界的に見れば国単位で人種が入れ替わる場合もありますし、そういう時間の流れから「全体的な世界の終わり」を見ることもできますね。

 民族がまるまる滅ぶことがあれば、それも充分「世界の終わり」といえるでしょうね。



【最後の一撃によって「世界を終わらせた」あと、読者自身の手によって「物語内世界観を復活させる」ことができる作品と言えるでしょう】

(この項にはエラリー・クイーン『最後の一撃』、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』、乾くるみ『イニシエーション・ラブ』のネタバレがあります)


── そうした時代ごとの認識も「文学における世界の終わり」では反映されていると思います。たとえば「世界の終わり」を扱った作品が多く生み出された時代というのもありますしね。作り手が求めるのか、視聴者が求めるのか分かりませんが、今『回廊』で「文学における世界の終わり」を特集しようという意見が出たのも、何らかの必要性があってのことかもしれませんが、そのあたりについてどうでしょうか?

 どうして、というか……いや、回廊全体でどう、というよりは、本当に個人的な好みでぱっと言ったんで、申し訳ないんですが(笑)最近、個人的に惹かれている題材が「終わり」で、フレーズとしての美しさとかビジュアル的なイメージの湧きやすさも伴う「世界の終わり」を言ってみた、と。全然文学じゃない(笑)

── 秋山さんはどうですか? 文学の中で表現される「世界の終わり」について魅力を感じる部分。あるいは自分で表現したさいに感じる魅力とか。

秋山 今回、世界の終わりを取り扱った作品を揃えたブックガイドを作りましたが、リストを制作するにあたり秋山はフィニシング・ストロークを用いている作品を何作か盛り込みました。フィニシング・ストロークというのは、エラリー・クイーンの『最後の一撃』にちなんだミステリ用語なのですが、最後の一行でどんでん返しを行うというものです。フィニシング・ストローク物においては、大抵の場合、ラスト数ページで事件が解決し、物語は終わったかのように見えるのですが、最後の一行でほんとうの真相が明かし、読者をあっと言わせるものが多いですね。秋山がフィニシング・ストローク物を「世界の終わり」と捉えたのは、物語の最後の最後で、それまでに構築されてきた世界観が、完全に瓦解し、崩壊することがあるからです。とくに秋山が優雅だと評価するのは、もうひとつの可能性を示唆するに留めているフィニシング・ストロークですね。その可能性がほんとうの真相であるかどうかを作中において検討せず、読者の手にゆだねてしまうタイプのことです。この手の作品は言ってみれば、最後の一撃によって「世界を終わらせた」あと、読者自身の手によって「物語内世界観を復活させる」ことができる作品と言えるでしょう。

 ある種、読者が物語に参加していけるんですね。ミステリ畑の秋山さんならではの「世界の終わり」解釈ですね。

夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) (講談社文庫)
イニシエーション・ラブ (文春文庫 い 66-1)

秋山 この手の離れ業を成し遂げている作品の中で、最高傑作と称しうるのは麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』乾くるみ『イニシエーション・ラブ』ですね。

 『イニシエーション・ラブ』は凄いらしいですね。

秋山 前者はフィニシング・ストロークがなされた瞬間に、それまでの解決はおろか、主人公の出生からその存在意義までひっくり返る作品です。そして後者は、まず読者の半分が、フィニシング・ストロークがなされたことに気づかず、またフィニシング・ストロークの存在に気づいても、それが何を意味しているのか、どうしてそれがなされているのか分からないひとが、またその半分だと言われる作品です。

 理解率二十五パーセント……書いた当人はめちゃくちゃ楽しんでそうですね。

秋山 読み解くのも楽しいですよ。それではもうひとつの質問、自分自身で「世界の終わり」を表現した際に感じる魅力に関してですが、「世界の終わり」そのものを書いたことは今までにあまりないのですが、「一度、終わってしまったけれど、再び復興しようとしている世界」なら今までに何度も書いたことがあります。世界の果てを模した壁に囲まれ、滅びの風が吹き荒れる世界が舞台なのですが、短編に限れば今までに二十は書いていますね。題材として、何もないところからがんばって何かを作っていくだとか、過酷な土地だけれどがんばって生きているという風景に魅力を覚えます。

── 秋山さんの作品で、たまに「世界の果てを模した壁」が出てきますけど、あれは全部共通した話なんですね。

秋山 ええ、大体は。

── 自由に「世界」を構築して、自由に「世界」を壊せる、そうしたエンターテイメントの要素も含まれるのが「文学における世界の終わり」という感じですね。これまで挙げられた、「個人の世界」や「全体の世界」という考え方とは、また違うもので。

 書く側の愉しみですねー。それに読む側の愉しみも加わるとまさに理想的ですよね。

── そうですね。「世界の終わり」という悲観的な要素も、人間は楽しめてしまうわけです。哲学的な思索のためとか、あるいは娯楽のためとか、アプローチの仕方は色々ありますけど、結局は人間のために「文学における世界の終わり」を表現する意義があるように感じられますね。

秋山 人間のために存在する、それは文学に絶対条件であると思います。



【言葉だけ見ていると悲壮な感じがしますけど、作り手として取り組むにはかなり刺激的な要素を持ってるなって、思いました】


── 最後にお二人は今回の対談の中で、何か「世界の終わり」について改めて感じたことや、新しく気づいたことはありますか?

秋山 遥さんの世界の捉え方、全体の世界(大)と(小)は興味深く感じました。秋山自身、話している最中に文学を、世界を、世界の終わりを今までとは異なる面から見ることができたので、得るところが多かったと思います。

 ずいぶん広がりのあるテーマなんだと感じました。そもそもの「世界」の捉え方や解釈とか、フィニシング・ストロークとか、言葉だけ見ていると悲壮な感じがしますけど、作り手として取り組むにはかなり刺激的な要素を持ってるなって、思いました。楽しかったです。

── なにしろ「世界」が相手ですからね。すべてを理解して、それを明確に説明できる人はいないと思います。

秋山 確かに(笑)

 ね(笑)

── だからこそ、作家はそれを表現しようと挑戦するわけですし、我々もなんとか明確にしようと議論してきたわけですが。今回の対談が、視聴者の方が「世界」ついて考えるための参考になれば幸いですし。それが将来あらわれるかもしれない「世界」のすべてを理解できる人に繋がれば、幸いですね。

 それは、頑張って後世まで伝えなきゃいけませんね。

秋山 遥さんがその実践者になればいいじゃないですか。

 そんな脳みその容量はないです……!

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