『LUNA, Mad Maria in the Wrong』

『LUNA, Mad Maria in the Wrong』

著/キセン
絵/遥彼方

原稿用紙換算35枚

1.

 自分が〈月の聖女〉──「ルナティック・マリア」の八十七回目の転生の結果であると瑠奈が告げたとき、僕はどんな顔をしただろう。とりあえず露骨に顔をしかめるようなことはしなかったと思うが、あまり自信はない。

「どうしてもこれは、直接伝えなきゃと思って」
 夏休みになってから二度目の登校日の夕方だった。付き合っていることになっているはずだったが、学校以外で瑠奈と会うことはなかった。電話もしなかった。ただ習慣のように、毎夜メールを一通ずつ送りあって、その日に起こったことを報告していた。愚痴は禁止だった。
 一昨日のメールで瑠奈は髪を切ったと書いていた。確かにその通りで、肩のあたりまで伸ばしていた髪は首の半ばあたりまでになっている。印象は確実に違っているのだけど、それをどう喩えるべきか、ちょうどいい言葉が見つからずに困っていた。だから、どうも瑠奈が切羽詰った調子でその台詞を発しているらしいことに気付くまでにもそれなりの時間がかかった。参ったな、と思った。
 僕と瑠奈の関係はすべてがいうならば〈ネタ〉のようなもので、確かに恋愛関係にあるにも関わらず僕らの発する言葉はすべて意図的に借り物だった。あるいはそのことに自覚的だった。自分たちが本当の自分の言葉を話せないことを知っていた。こういう風に云えばこういうシチュエーションが成立する、この言葉は暗にこういう意味を持っている、そういう〈コード〉を再現することで僕たちの関係は成り立っていた。僕と瑠奈の会話はすべてこれ以上ないほどに上滑りしたし、そこには意味の戯れがあるだけで、何も隠されていなかった。「付き合ってるって云うかさ、そういうことにしてみようよ」──僕が六月の終わりに彼女に云った、告白の言葉だ。そういう暗黙のルールを破りかねない危険さが、彼女の言葉の調子には秘められていた。慎重に言葉を選びながら、どういうことか訊く。
「きちんと聞いて欲しいんだけど……あたしは、人類の抹殺を目論んでいる〈奴ら〉の征服を阻止するために八十七回目の転生でこの地球に降り立った、〈月の聖女〉──ルナティック・マリアなのよ」
「は?」
「〈奴ら〉に正確な名前はなくて、概念だけの存在なんだけど、あ、まず、〈因果律〉ってわかる、わからないよね、〈因果〉っていうのは、この世界、人間ひとりひとりの憎悪や愛や、そういう感情の集積の世界に渦巻いている、つまり、わかりやすくいうと、原因と結果ってあるでしょ、それっていうのはあらかじめコントロールされているっていうか、うーん、違うか、なんていうか、あらかじめ決められたなかで発生しているのね、つまり、だれかが幸福になれば、だれかが不幸になるっていう、そういうの、で、そういう〈因果〉が世界を動かしているんだけど、で、そのバランスが〈因果律〉っていうんだけど、つまりそれがどっちかに偏るっていうかさ、そういうことがあると〈奴ら〉が現れるのね、その隙間、〈因果律〉のバランスの、だけど、その間にね、入り込むわけ、〈奴ら〉が、最初は実体を持たないんだけど、〈奴ら〉は、人々の精神の緩んだところへ少しずつ入り込んでって、内部から彼らを食い尽くすことで実体化を果たすんだけど、あたしは、ていうか、あたしの前の月の聖女だけど、それこそ人類が文明を築いて間もないころから〈奴ら〉と戦い続けてきたの、ある者は生まれてすぐ〈奴ら〉に食われて、ある者は老女になってまで戦って、共通しているのは、生きている間、ずっと〈奴ら〉と戦い続けなきゃいけないってこと、あたしは自分がその〈月の聖女〉だってことにこの間気付いたの」
「どうやって? 頭んなかで誰かの声がしたとか?」
 いつもの瑠奈のやり方とは異なるし、いささか唐突ではあったが、これも一種のネタなんだろうというふうに解釈して、僕はやっとのことでそう突っ込みを入れた。だが即座に、
「そう、そうなのよ」
 と来る。ネタとしてももう引っ張りすぎな気がする。彼女は僕よりもその辺の感覚に優れていたのだが。二の句が継げなくなり、厭な沈黙がその場を支配する。
「一昨日の夜なんだけど、そうちょうど髪を切った日の夜なんだけど、お風呂から出て、眠るつもりで自分の部屋に帰ったんだけど、戻る途中で、なんていうか、テルミンってわかる、楽器の一種なんだけど、そういう音が聞こえてきたのね、細くて、不安定で、揺らいでる、すごく不安な感じになるような音色が、頭のなかに、それで、その音を聞いた瞬間に、鬱血したときみたいに、身体が、手足の指先から痺れ始めて、感覚が無くなるような感じになって、なんかすごく怖くなるんだけど、なんか唐突に死ぬんじゃないかって気がして、子供のころ夜寝られなくて、眼を瞑るんだけど寝られなくて、遠くから黒くて不定形のものが迫ってきて、それがあたしには死だってわかってて、いつもいつも死がその手を伸ばして、それが触れようとするときに意識がなくなって眠ってるんだけど、そういうのが久しぶりに迫ってくるような感じがして、そのときの続きで、手が触れたときから、ゆっくりと死があたしを侵すような気がして、でも動けなくて、そのとき、痺れがあたしに語りかけたの」
「痺れが?」
「しばらく動けなくてうずくまってたんだけど、急に気付いたのね、痺れがあたしに何かを訴えかけてるんだって、それですべての感覚を指先に集中したら、わかったの、痺れが一瞬だけ途切れたり、少しだけ別の場所に移ったり、そういうのが一定の周期で繰り返されているんだって、それがメッセージだってことをわかるまでにはそんなに時間がかからなかった、焦っているのか、痺れそのものはだんだんと大きくなっていって、つらくなってたから、早く解読しないとって思ったのね、で、なんだかわからないけど、急に答えがあたしのなかに降ってきたの、意識に痺れが直結して、痺れのかけらのひとつひとつが言葉と化してあたしのなかへ流れ込んできて、それでまず、『月の聖女』って呼びかけてきて、それから何度も『奴らがやってくる』って繰り返して、少しずつ、なんていうか、それ以外には何も云わないけど、間が埋まってくるような感じがして、つまり、あたしが月の聖女であるからやってくる奴らを倒さなきゃいけないんだって悟って、だって、そうとしか考えられないでしょ、あたしが〈奴ら〉を倒さなかったら」
「倒さなかったら?」
「世界が終わっちゃうんだから」
 混乱のなかで、僕は次の一手を必死で探していた。いやに平坦で抑揚のない声の調子、それでありながら話しているうちにだんだんと自らの言葉が形作る世界に入り込んでいく感じ、すでに僕を見ていない視線。すべてが彼女が本物さんになってしまったことを示していた。一縷の望みを託して、単語を繋ぎ合わせる。
「それは大変だね──するとこれはあれかな、これからはその、〈月の聖女〉? だっけ? になって獅子奮迅の大活劇ということになるわけ、かな」
 とにかく冗談らしく聞こえるように節々のアクセントを強くして、センスのない単語選択すらもあえて行う。とにかく彼女はちょっと話の出口を見つけられなくなっているだけなんだと自らに言い聞かせながら。
「何云ってるの、他人事みたいに。浩人も〈司祭〉なんだからちゃんとしてくれないと困るよ。〈月の聖女〉と〈司祭〉は云うならば対の存在なんだから、ふたりは互いのことをもっとよく知らないといけないんだよ」
 そう云って瑠奈は無遠慮に顔を近づけてきた。さらなる混乱。どこかで聞いたような台詞──思い出す。うかつだった。〈聖女〉と〈司祭〉。それは瑠奈が好きだった少女漫画の設定に出てくる名前だった。対になる存在、〈ヒカリの司祭〉とその〈聖女〉。安易極まりない。僕自身は遭遇したことはなかったが、一昔まえはこのように自らと、物語の主人公を同一視してしまう少女(男もいただろうが)が多くいたという。まさか瑠奈がそうなってしまうとは思いもよらなかったが。
 こうなってしまった以上は距離を置くのが正解だろうと思う。このまま彼女との付き合いを続けてもおそらく何もプラスになることはない。そんなことは見え透いている。だがこれまで、付き合っているということになっていたのに、いやだからこそなのか、決してある一定の距離より近くへ来なかった瑠奈の顔が、これほどまでに近くにある。手は僕の右腕に触れている。そういえばまともに彼女に触れたことすらなかったのだと僕は気付いた。

2.

 やがて夏休みが明け、新学期が始まったが、月の聖女は特に何もしなかった。
 今はまだ〈奴ら〉は潜伏期間にあるらしく、目立った動きはとらないらしい。〈司祭〉として何か突拍子もないことをやらされるのではないかと戦々兢々としていたのだが、そういったことはなかった。ただ毎日顔を合わすたびにこういった類のことを云われるのは辟易したが──。
「いい、〈奴ら〉はそこらじゅうに偏在してるの。それは人の形をしているし、あるいは駅のベンチの形をしているし、あるいは空気のなかに紛れ込んでいる。それは悪意であり、善意であり、そういうのをひっくるめた意志であり、熱であり、冷気であり、わたしたちを取り囲む壁でもある。気を抜かないで、隙間から〈奴ら〉は忍び込んでくる。私たちを書き換えてしまうから。〈司祭〉は〈月の聖女〉と対の存在って云ったでしょう? ふたりは信じあうしかない、疑うことは許されないから、片方が書き換えられたら、もう一方もそれによって書き換えられてしまう。これはどうしようもない。だから〈奴ら〉にだけは気をつけて」
 いかにも真剣な顔をしてうなずいていたが、云うまでもなくそんな支離滅裂な言葉など本気にしていなかった。ただこういったことを云い始める前に比べて、瑠奈が物理的な意味でも心理的な意味においても僕に近付いていることを感じていた。それは荒唐無稽な妄想によるものではあるが、そういうものからは遠からず眼が醒めるはずだ。なんとか少しずつ、自分の云っていることがいかに馬鹿げたものであるかを認識させ、(できるならこの距離感を保ったまま)正常な思考を取り戻させたかった。だからといって最初から全否定して刺激しても仕方がない。しばらくは適当に話を合わせるつもりでいた。
 幸いなことに、瑠奈の妄想は日常生活に支障をきたすことはなかった。あくまで平凡な女子高生としての生活を送りながら、来るべき決戦を待っている、という〈設定〉の下に行動していたので、突然奇異な言動を発したりはしなかったからだ。だが放課後に二人きりになるとすぐ、訳のわからない発言を繰り返す。そのときに僕は、瑠奈が周りに誰もいないにも関わらず僕の耳元に寄せてくる唇にばかり意識を取られる。話している内容はまったく耳に入らない。どうせまた〈奴ら〉がどうこうとか、そんなことしか云わないのだから聞いても仕方がない。そのまま無為に時間ばかりが過ぎていった。一向に瑠奈の状態は変わらず、あるいは医者にでも連れて行くべきなのかもしれないとようやく思い始めていたが、ふんぎりが付かずにいた。

 しぶとく残っていた夏の残滓も完全に消えようとしていた九月の終わりのことだった。新学期が始まってからというもの、〈司祭〉と〈月の聖女〉は可能な限り一緒に行動しないと、隙間が出来てしまうとかで、瑠奈は一緒に帰りたがっていた(そのわりに家に入れてくれない)のだが、その日は外せない用事があるとかで先に帰ってくれと云われていた。
「いい、しつこいようだけど、絶対に気を抜かないで。いつでも〈奴ら〉はあなたのそばにいる、あなたのことを見張ってる、隙間を探してる。本当はあたしもあなたの傍を離れたくない。あなたが〈奴ら〉に喰われてしまうかもしれないと思うと気が狂いそうになる。だけど今日だけはどうにもならないから──だからどうか、気をつけて」
 こんな、小説でしか眼にしないような台詞を瑠奈は平然と、よどみなく僕に向けてくる。とりようによってはかなり際どい言葉も含まれていたが、その前後にある余計な修飾のせいで誤解しようがないので聞き流す。だが、校門の前でなおも縋るような目つきを向ける瑠奈と別れたのち、一向に消える気配のない瑠奈の妄想をどうにかできるのは自分だけではないかという考えが急に頭のなかをもたげはじめた。狂気と呼びうるかもしれないものすら孕んだ視線の残像が意識をちらつく。親は何をしているのだろう? 僕の前以外では〈月の聖女〉としての自分を露にしていないのだから気付いていないのだろうか。しかしそれでも様子が何かおかしいと思うのが当たり前だろうと憤りに似た感情すら覚えた。しばらく考えをめぐらせる。そうだ、学内に図書室があったはずだ、そのなかの資料にこの状況を打開する手立てがあるかもしれないと気付くまでに時間はかからなかった。
 もしかしたら、図書室に入るのすらはじめてだったかもしれない。本を借りることなどなかったし、勉強場所として使うこともなかった。検索システムが内蔵されているパソコンを探し、それらしいキーワードを打ち込むと何十冊もの本のタイトルが羅列される。いったいどれを読めばいいのかわからない。しばらく粘ってみたがうまくいかず、日を改め、具体的な方向性を定めてから再び調べてみることにする。溜息を吐いて、図書室を出る。再び校門をくぐろうと廊下を歩き出したとき、普段ほとんど通らない廊下の突き当たりに瑠奈を見つけた。
 七限が終わって気がつけば一時間ほどが経っており、帰宅部の生徒はだいたいが学校を去った反面、大半の部活はまだ練習を続けていて、ただでさえ校舎の隅にある図書室の近くの廊下に人影はまったくなかった。後姿だけで彼女とわかったので、近付いて声をかけようと思ったが、しばらくして様子がおかしいことに気付く。どうやら携帯電話で誰かと話しているようだ。馬鹿げているかもしれないが、それだけで一瞬嫉妬の影が意識を過ぎった。そういえば瑠奈が電話で誰かと話しているところを見たことなんてなかったなどと思いながら、影を掻き消す。それなりに近寄っていたが、瑠奈が僕に気付く気配はなかった。そんな必要はないはずだったが、電話の内容が漏れ聞こえ、なおかつすぐ逃げられる場所を気が付くと探していた。緊張と妙にねばつく罪悪感で騒ぐ胸を抑えながら最良と思われる場所に移動して、ようやく落ち着こうという意志を取り戻す。さっきまでかすかなノイズでしかなかった瑠奈の声が、意味を持って僕の耳に伝わりだしてきた。

 ──はい。──や、もちろんそれは。はい。うまくいっていま──騙され──ます、い、い──、口が過ぎました。申し訳あり──、はい、はい、その通りです。はい。計画はすべて順調──進行──え、今、なんと──

 そこまで瑠奈の声の調子にはどこか弾んでいるというか、明るさが見え隠れしていた。だが、数秒の沈黙のあと、急にその声色は焦りと困惑を含んだものになる。

 ──いえ、そんな──は聞いていません、それはちょっと、ほんとうに──いえ──不満があるわけでは──しかし、そればかりは、困ります、──わかっています。もちろん、──は信じようとしています、ですが──

 それからまた数秒の沈黙。そして突然、

 ──そ、それだけは、どうか、──許してください!

 という叫び声が響いた。その瞬間僕はパニックに陥り、後ろを振り向くことなくその場を駆け足で立ち去っていた。心臓が身体全体を揺らそうとでもいうように、高速のリズムを刻む。あの声はきっと校舎の一階全体に響いたに違いない。校門をくぐるまでのあいだに何人もの教師や生徒とすれ違った。そのうち何人かは声の主を探しているに違いないし、そうすればそのうち見つかり、問い詰められるだろう。それは少なくとも気持ちの良い体験ではあるまい。つまり、僕は瑠奈を見捨てたのということになるのだろうか? 逃げる際に瑠奈に見つかってはいないはずだが、そういう問題ではない。
 駅まで、歩けば二十分、走れば十分弱の道。不吉な名前のついた橋を越え、商店街を横切る。毎日何気なく往き来している道をいやに長く感じる。
 わかっていた。ほんとうに、まっさきに考えるべきことが、他にあることは。

3.

 僕の視界の外では間違いなく何かが動いている。なのに、なかではまったく何も起きないままだった。次の日の朝も、瑠奈は何の屈託もなく僕に〈奴ら〉の恐怖を説いた。その姿は一見昨日までと変わらないままだったが、僕は昨日までと同じように瑠奈を見ることができない。膝下に小さい痣を見つけてしまう。昨日までもそこにそれはあったのかもしれない。記憶を手繰り寄せるがよくわからない。あったのかもしれないということは、なかったのかもしれないということだ。昨日できたのだとすると、つまりあのあと教師か何かによって……いや、考えすぎだ。
 何かが動いているのは、僕のなかも同じだった。昨日まで存在すらしていなかった疑いに、いまや僕は支配されていた。断片的に聞こえてきたあの声は、何を意味するのだろう?
 ──『騙され──ます』『計画はすべて順調』『信じようとしています』
 考えるまでもない。僕に〈奴ら〉の恐怖を説いているときの、あの不安定な揺らぎを含んだものではない、理性によって支配された口調。彼女はおかしくなってなんかいないのではないか。まだまともで、僕と何の意味もない言葉をもてあそんでいた、あの頃のままでいるのではないか。そして、おかしくなったふりをして僕を騙そうとしている。そうだ、そうに違いない。意識は傾斜して、安易なほうへと僕を転がしていく。だがそれはやがて、疑問という障害物にぶつかって止まる。なぜそんなことをしなくてはいけないのだろう? 自らが〈月の聖女〉であると云い出してからもう一ヶ月以上が経とうとしている。僕といるときだけとはいえ、それだけのあいだ自らを偽り続けることは精神的にこたえるのではないだろうか。そこまでのリスクを冒して、いったい彼女はどうしようとしているのだろう。ある意味において、不可解さは増すばかりだった。だからといって結局僕は、何か、状況を変えうる行動をとることができなかった。何らかの形で破綻することを薄々感じながら、取り繕えばどうにかなるとでもいうようにそれまでと同じような対応を続けた。表面上は、それまでと変わらない日々が過ぎていった。凡庸な時間が、焦りを加速させてゆく。いま自分が何を信じているのか、それすらもわからなくなりそうだった。
 世界の果てから冬が少しずつ近付いてくるのがわかる、そんな寒い日だった。いつものように教室前の廊下で近付いて来た瑠奈の表情は、いつになく固かった。どうしたのか僕が訊く前に瑠奈は、捻じ曲げた針金のような声で、〈奴ら〉が来る、と云った。
「思ってたより早かった。〈奴ら〉も焦っているのかもしれないわ。急いで! 時間がない、今から行かないと間に合わない」
「授業は──」
 問う僕の声を無視して、ホームルームの開始を告げるチャイムの音を背に瑠奈は走り出した。周りの生徒が怪訝な表情を向けながら教室のなかへ入っていく。少しだけ躊躇してから、彼女を追って走り出した。
 校門を抜けるころにはすでに息が切れていた。日ごろまともに運動していなかったのを後悔する。いつも登下校で使っている道を走っている瑠奈には、なぜか追いつくことができなかった。そんなに運動が得意なほうではなかったのにと思う。やがて不吉な名前のついた橋にさしかかろうとしたところで瑠奈は、急に方向を転換した。さらに走るのを止めて、何かを探すように視線を彷徨わせながら、橋沿いを歩き始める。
「こんなに近くにいるの、〈奴ら〉は?」
 ふと疑いが蘇ってきて、追いついた僕はわざとからかうような調子で瑠奈に声をかけた。かつてのように。
「あんなに云ったでしょ、〈奴ら〉は偏在しているって。ここだけにいるわけじゃない。だけど、全体は一部で、一部は全体だから、ここにいる〈奴ら〉を倒すことはけっして無駄じゃない」
 最後のひとことを自らに言い聞かせるように呟いてから、瑠奈はまた歩き始めた。僕は溜息を吐きたくなるのを抑えて、彼女についていく。やがてたどり着いたのは、見覚えのある公園だった。キリンの形をした滑り台、犬の糞が埋まっていた砂場、立って乗っていたら落ちて泣き叫んだブランコ。小学校のころは毎日のようにここで遊んでいたというのに、場所すらも忘れていた。
 平日の午前中だからか、公園に子供の姿はなかった。いや、記憶の層を取り除いてみると、あらゆるものの色が少しずつくすんでいるような気がする。もしかしたらあのころの僕らのように遊ぶ子供は、もうここにはいないのかもしれない。公園じたい、記憶よりもかなり小さく感じる。
 瑠奈はどこかおぼつかない足取りで公園の中央に歩みを進めていた。そして、芝居がかった仕草で突然僕のほうに振り返ると、
「〈奴ら〉はここにいるのよ」
 と云った。周りにある動物を象った乗り物や注意書きと、彼女の大仰な仕草のあいだには埋めがたいギャップがあった。決定的に滑稽だった。それまでも確かに、彼女が正気なのではないかと疑ってはいた。しかし理由がないこともさることながら、僕に〈奴ら〉の恐怖を伝える彼女の姿は、演技によるものとはとても思えなかったのも事実だった。ただ、今は違った。彼女の真剣さと、周りを取り囲む状況は、救いようもないほどに剥離してた。本人が云ったわけでもないのに、ああ、やっぱり全部ネタだったんだと僕は確信していた。そういえば、子供のころ僕も、この公園でヒーローごっこに興じたものだ。おそらく彼女のこのネタはそういう子供のころの遊びの語りなおしというか、パロディという側面も持っているのだろう。そうか、この場で種明かしするつもりで彼女は僕をここに導いたに違いない。確かにここは、一ヶ月以上もかけて積み重ねてきたネタを破壊するにはあまりに貧相かもしれない。だがそれこそが彼女の意図なのではないか。『貧相な妄想』というネタを、貧相な公園で終わらせるというのは、イロニーとしてなかなか出来がいいような気がした。
 自らセッティングした絶好の機会であるにもかかわらず、瑠奈は一向に種明かしを始めようとしない。少しいらだちさえ覚えた僕は、思い切って自分から種明かしを始めることにした。もしかしたら瑠奈はそれを待っているのかもしれない。
「瑠奈」
「静かにしてよ、いつ〈奴ら〉が襲い掛かってくるかわからないんだから」
「瑠奈……そういうの、もういいから」
「え?」
 その瞬間、瑠奈の身体が二、三度大きく痙攣し、力が抜けたようにその場に座り込んだ。僕はあわてて駆け寄ろうとしたが、すぐに立ち上がったので機を逸した。しばらく話を再開するタイミングがつかめなかったが、元に戻った瑠奈が話を促すようにこちらを見つめるので、台詞を続けた。
「いったいどういうつもりだったか知らないけど、ずっと演技してたんだろう? 確かに完成度はすごく高かったよ。ちょっと引っ張りすぎなきらいはしたけどさ。そういう安い妄想を終わらせるために選んだ場所として、ここはちょうどいいしさ。最初に僕に話したときなんて、迫力があったよ、すごいなんか支離滅裂な話し方で。〈奴ら〉か、結構いいネタだよね、小説になんかしたら? でさ……」
「うん」
 話を続けようとする僕を、瑠奈はさえぎった。微笑んで、
「よくわかったね。ちょっと本気になったんじゃない?」
 と云う。僕は難しい問題を解いたときのような、ちょっとした、しかし逃れがたい快感を覚えた。
 だがそのとき、再び瑠奈の身体が痙攣した。

4.

 今度の痙攣は長かった。助けなければと思うのに身体が動かない僕に向かって、瑠奈は、何かを呟こうとしていた。
「ち、ちが……ひ、ろ、ちが──」
 ひときわ大きく瑠奈の身体が跳ね、ふたたびその場に倒れこむ。先ほどと違ってすぐに起き上がりはしない。やっと意識が冷静になり、身体が動くようになったので、駆け寄って、身体を起こそうとしたが、弱弱しく伸ばされた手によって拒まれる。いいようのない、鈍い衝撃が胸に触れた手のひらから静かに拡散していく。なんで……拒絶するのだろう。
「いいから、……大丈夫だから」
 大丈夫なわけない、救急車呼ぶからと云って、ポケットから携帯電話を取り出そうとした。しかし、その僕の右腕を瑠奈が掴む。どうして、と訊こうと思ったが、すぐに異変に気付く。異常なまでの握力。血液の流れがせきとめられて、数秒で手首から先の感覚が失せようとしているのがわかる。瑠奈は顔をこちらに向けていた。……瑠奈ではない、と思った。表面的なパーツはすべて彼女のものなのに、それでも何かが違った。……そう眼だ。眼が、説明できないのだが、とにかく違っていた。
 本能的な危険を感じて、『瑠奈』の手から逃れようと身体をよじる。『瑠奈』がもう片方の腕を伸ばしてくるのが見える。とっさに左手を地面に付けて、それを軸に身体を反転させようとするが滑って体勢が崩れる。掴まる、と思った瞬間に、『瑠奈』がうめき声をあげてみたび痙攣を始めた。右腕を掴んでいた『瑠奈』の手が離れる。腕を見ると、赤黒く痣ができていた。低く震える、瑠奈のものとは思えないような呻き声が公園に響く。僕はもう彼女に近寄ることができない。ただ、もう『瑠奈』ではなく、瑠奈に戻っていることは感覚でわかっていた。『瑠奈』のすべてを覆っていた違和感は、もはや消えうせていた。
 瑠奈は胸のあたりをかきむしるようにして、自らのなかにある何者かを追い出そうとしているように僕には見えた。ああ、あまりにも遅く僕は気付く。彼女は戦っているのだ、『瑠奈』と、そしてそれはつまり、
「〈奴ら〉、が、」
 搾り出すような声で、瑠奈は云った。
 いたんだ。
 ほんとうに。
 ほんとうに瑠奈は、〈月の聖女〉だったというのか。いや、眼の前にある光景を見て、信じないわけにはいかなかった。そこで確かに瑠奈は、隙間から入ってきて自らを侵す〈奴ら〉と戦っていた。そして明らかに、劣勢だった。それなのに僕は、ただぼけっと見ているだけで、何も出来ずにいた。いつか瑠奈が話した、黒くて不定形で遠くから迫ってくる、死の影。僕はそれを思い出していた。
 ……じゃあ、じゃあなんで。それどころではないと思いながらも、結局は傍観者でしかないからなのか、僕は自分のなかに疑問が生まれてくるのを意識せずにはいられなかった。じゃああのときの、電話は……。
「自分では気付いてなかったけど」
 急に明瞭な声が聞こえたのではっとする。瑠奈はひとまずのところ〈奴ら〉に打ち勝ったらしい。どうしてこちらの思考が向こうに伝わっているのだろうかとどこかで誰かが思っている。日常のなかにあると思っていたものが、僕を引き連れて非日常へと飛躍していた。僕はそれについてゆけない。
「あたしはずっと前から〈奴ら〉に侵入されてた、みたい。だから時々、口調がおかしくなったりしてたし、ある時期から、〈奴ら〉はあたしの身体を使って〈報告〉を始めてた」
 ちくしょう、とひとこと漏らした瑠奈の身体が、また痙攣する。またか、と思ったがやりすごしたらしい。
「ちょうど二重人格のような状態になって、〈奴ら〉が何を話しているかも聞こえてきた。案外くだらない痴話喧嘩みたいな内容も多かったわ。形すら存在しないというのに、本気で恋だの愛だと云ってて、可笑しかった」
 僕が聞いた叫び声も、その一部だったのだろうか。瑠奈の息は、ふたたび、絶え絶えになりはじめている。
「云ってなかったけど、〈聖女〉は〈司祭〉の考えてることが、表面的なところだけ、わかるのよ。浩人が本気にしてないのも、最初からわかってた。でも……、〈司祭〉には、できるだけ、そばにいてもらわないといけなか……ったし、それに、」
 そこまで云ったところで、また激しい痙攣が始まった。僕はもう何をしていいかどころではなく、何を考えればいいのかもわからなくなっていた。僕の考えていることがわかるのは瑠奈だけではない。自分自身もそうだった。ひどい罪悪感と、ひどい哀しみと、そして、……ひどい嫌悪感で世界が塗りつぶされていく。瑠奈の痙攣を見守りながら、僕は自分自身の思考が解読不能な文字に書き換わっていくのを感じる。
「……して」
 ひときわひどい痙攣のなかで、涎を垂れ流して、虚空を眺めながら、瑠奈が云った。
「え……」
「殺して、〈奴ら〉ごと、あたし、を、」
 あまりにも唐突なその言葉は、しかし、僕には必然の如く聞こえた。自己犠牲の物語が、いま、完結しようとしていた。その必然に、磁石にひきつけられる砂鉄のように、自分が惹かれていくのを感じていた。細かい痙攣を続ける瑠奈を、僕は見ることができない。それでも僕は一歩ずつ物語に近付いていく。そこに救いがあるような気がして。
「く、首を」
 その声を聞きながら、さらに一歩ずつ進む。物語はもう眼の前にあった。永遠に近づけないのではと心のどこかで思っていたが、そんなことはなく、距離はゼロになっていた。僕は瑠奈の前に立ち、腕を持ち上げようとした。だが、
「うっそー」
 というひどく明るい声に、その動きは中断された。瑠奈の声ではない。つまり、僕はやっと、今から殺そうとしていた相手の眼を見た。そして、気付く。
「瑠奈もゴミみたいな彼氏を持って救われないよね、巣食ってるのは私だけど」
『瑠奈』は云った。
「こんなに簡単に、こんなに大きい隙間が出来るなら、もっと早めに仕掛けておけばよかった。ひどいよね、ほんとーに。どうせアレでしょ、ここで瑠奈を殺せば、なんとなく全部がリセットされて、どうにかなるような気がしてたんでしょう? 都合のいい話があるわけないじゃない。アンタの生き方全部がそう。自分のことしか考えず、みんな人にまかせっきりで、屁理屈だけこねて自分では何もしてないのに、自らの欲望を充たすためだけに手柄を少しだけ頂戴して生きて、いかにも自分が謙虚に生きてますからって顔で、のうのうと過ごしてる。そういうのって虫唾が走るって云うの? 知らないけど。何よりね、自分が人畜無害だって思い込んでるのが気に入らない! アンタがどれだけ人を不幸にして、この世界に害を撒き散らしてると思ってるの? 私たちはこうやって世界を終わらせるけど、アンタは自分が世界をゆるやかに世界を終わらせているのに、そのことに気付いてない。無知は罪っていうけど、だったら、罰を与えないとね」
 僕は気付いていた。『瑠奈』が先ほどから、僕の胸に手を置いていることに。それとともに、意識が薄れてゆくのを感じる。『瑠奈』の手は、僕の胸を撫で回すように動いている。それが隙間から侵入するための儀式なのだろうか。『瑠奈』はあることに気付く。そして僕を蹴り上げて、「最低」と云う。その衝撃で、意識は途切れ、とりあえず僕の世界は終わる。童貞のまま。


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