『濡れるのは裏側の瞼』(2)
2.
赤誠メリイ、十六歳──
開眼手術を受けてから半月。わたしは病室のベッドに腰かけ、不安と緊張と期待を胸の中で交互に出し入れしながら、レイン先生の言葉を聞いていました。
今日この瞬間に、わたしの顔に巻かれた包帯が取れるのです。
「じゃあ、赤誠さん。ゆっくり目を開けてみようか」
顔から包帯の圧力が消えました。ゆっくり開けるようにと云われて、わたしはできるだけ静かに目を開けました。
「大丈夫かい。病室の中は暗くしてあるけど、目を開けて痛みはないかな?」
ぼんやりと、視界に色と光が見えました。目を開けて瞼を動かしたのは、ほんの一瞬でした。わたしは顔をうつむきかげんにして、下を向いていました。
「鏡が分かるかな、赤誠さん。見てごらん。それが、きみの顔だよ」
わたしは右手に丸い手鏡を持たされていました。見えたのは自分の手と、病院で着せられたパジャマの色でした。
──これが、わたしの顔。
鏡に映る自分の顔を見るのは、妙な気分でした。いえ、目を開けたときから感覚がおかしくて。既視感というのでしょうか。生まれてすぐ、まだ目が見えていたときのことを忘れていても、目が見えるという感覚だけは記憶の底に覚えていて。けれど、目に映るものに現実感がなくて、まるで夢の中にいるような。
目を動かすたびに、ちらちらと鏡に映る顔が動きました。わたしが目を動かすのとおなじタイミングで鏡に映る目が動くことに気づき、それでようやく、わたしはそこに映るものが本当に自分の顔なのだと認識しました。
黒く長い髪、眉毛の上で横一線に切られた前髪、白い顔。ほぼ中央に鼻、口を開くと見える白い歯。じっくり観察しても全部はじめて見るものでしたから。わたしは自分の顔へ、すぐに慣れることができませんでした。
「どうだい、よく見えるかな?」
レイン先生に云われ、まずは目が見えることを伝えるべきだと気づき、わたしは顔を上げました。
「レイン先生……」
けれど、わたしの言葉を続けられませんでした。わたしの前に椅子が置かれ、レイン先生はそこ腰かけていました。ただそこにいるレイン先生は、わたしの想像とはまるでべつの姿でした。鏡に映るわたしの顔と比べても、あまりに違いすぎました。男女の違いとか、年齢の違いとか、そうした差ではなく。
レイン先生の顔には、目も鼻も髪の毛もありませんでした。白衣を着た身体の上に乗るのは、黒光りする球形の頭。折れたアンテナのような二本の角が額から突き出し、顔の左右が丸く膨らんでいました。白衣の下には、黒光りする固そうな皮膚。指や手は骨の形そのままで、柔らかな肉感というものがまるでなく、それは、ほそい枝のようでした。
外骨格、キチン質、昆虫の皮膚。読書で仕入れた言葉が、次々と頭に浮かびました。丸い顔の膨らみは昆虫の複眼。昆虫人間。そう、昆虫。実際に昆虫というものを見たことはありませんし、ふれたこともありませんでしたけど。云うなればそれは昆虫の姿をした人間でした。
「どうかな? 赤誠さん」
気さくな声だけは、レイン先生のものでした。けれど、レイン先生のはずがありませんでした。わたしはレイン先生の顔にふれたことがありました。そのときは確かに目や鼻にふれて、そこから普通に男性の顔が想像できました。
「どこか痛むとか、目を開けているのがつらいとか、変なところはないかな?」
──ええ、よく見えます。先生の顔がおかしな風に見えること意外は。
おかしいのは、わたしの目ではないかとも考えました。目の障害や、手術で使用した薬の副作用による幻視。あるいは本当に夢? それとも。
「レイン先生、パパとママは……」
異常を伝えることもためらわれ、わたしは誤魔化すようにたずねました。病室には両親も来ているはずでした。
見わたせば、うす暗い室内。地下ですから窓はありませんし、まだ照明は暗いままでした。病室も個室でベッドはひとつしかなく、わたし以外の患者さんはいないはずでした。
「おめでとう、メリイ。目が見えるようになったんだな」とパパの声。
けれど、どこにも姿が見えません。
「本当によかったわね、メリイ」
「ママ」
耳の感覚では近くから聞こえるようでも、視線を向けた先に映るのは異形の姿をしたレイン先生だけでした。
「どうかしたかな、赤誠さん」
「あの、いえ……」
レイン先生をまともに見ることができず、顔を下に向けました。右手の鏡をちらりと見れば、やはり映るのは目と鼻のついた自分の顔でした。
「じゃあ、少し部屋を明るくしようか」
レイン先生は椅子から立ち上がり、照明のスイッチがある出入口へ向かいました。その足もとを見れば、鋭い五本の鉤爪が生えた足。
黒い爪床にこすれ、すかすかと擦過音がしました。そんな足音、レイン先生といたときには聞こえませんでした。耳の感覚までも狂ったのでなければ。
──レイン先生じゃない……。
ふいに室内の照明がまぶしさを増し、わたしは思わず目を閉じました。
そして、目を開けた次の瞬間、わたしは「ああっ」と声を上げ、手にした鏡を放り出しベッドから立ち上がりました。
「パパ、ママっ」
出入口の横に、ふたつの人影がありました。ひとりはズボンとシャツを着た男の人。もうひとりは、スカートをはいた女の人。わたしは瞬間的に、それが両親だと判断しました。
「どうしたんだい、メリイ?」
「どうしたの、メリイ?」
けれど、わたしは近づこうとする足を止めました。パパとママの声は、出入口とはべつの方向から聞こえました。
「どうかしたのかな、赤誠さん」
わたしの前をさえぎるように、レイン先生が立っていました。そして、パパとママの声はレイン先生の位置から聞こえたようでした。
「どうも、勘違いをしたようだね。後ろのこれはただの人形だよ、赤誠さん」
「やめてっ」
レイン先生はふたつの人影に近づき、それぞれの顔に外骨格の手をのばしました。人影は動きませんでした。わたしは思わず声を上げました。
「パパとママというのは、きみを生んだ人間のことだろう? それなら、これはきみの両親ではないよ」
レイン先生がそれぞれの顔を引っ張るように手を動かすと、引きのばされた皮膚から、べりりと音が聞こえました。
「嘘……どう、して」
皮膚を剥がされたそこには、にぶく銀色に輝く金属の顔がありました。複雑にからみ合う金属の筋と、目の位置で発光する小さな光。それはロボット。
わたしは足のちからが抜けたように膝が落ち、その場に座り込みました。嫌な感じがしました。とても嫌な感じが。
「ああ、いい恐怖だね。恐怖にあぶられた脳がこうばしく焦げる匂いだ」
レイン先生は動けないわたしに近づくと、わたしの頭に顔を寄せました。
──恐怖、これが恐怖。今感じているこの嫌な感覚が怖いということ。
髪の匂いをかぐように、わたしの頭へ顔を近づけるレイン先生。昆虫の顔。その下の半分が横に裂け、ぱっくりと開いたそこには大きな空洞がありました。
ふいに読書で得たわたしの知識から、浮かび上がる言葉がありました。複眼を持つ顔、鈎爪の手足、黒光りする硬質の身体、大きく裂けた口。生きた人間を好んで喰らう、恐怖の怪物マグラ──イサク・ロイモン『黒鉛の爪』。
「ああマグ、ラ……」
よだれのような粘液をしたたらせた口の奥からキキィと、錆びた金属がきしむ音が聞こえました。それは硬質な啼き声のようでした。
「そう、いい恐怖だ。もっと激しく感じるんだ。怖くて怖くて、その恐怖で気が狂うぎりぎりのところまで」
「来ないで……助け、てっ」
足が凍りついたように動かず、わたしはおしりを床につけたまま、腕のちからで這うように後ずさりました。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか、赤誠さん。ぼくはずっと、きみをそばで見てきた。きみの身体で、ぼくの知らないことはない。きみが病気にならないよう健康にも気をつけてきた。色々なことも教えてあげた」
「どうした、メリイ?」とパパの声。
「どうしたの、メリイ?」とママの声。
わたしに話しかけるのはマグラの顔。両親やレイン先生の声が聞こえるのは、大きな牙の生えた暗い空洞。その後ろには、両親の姿をした人形。
――入れ替わったのはいつから? わたしのそばにいたのは誰?
外骨格の手がわたしの襟首をつかみ、ぶちっとパジャマの布が裂ける音がして胸のボタンが弾けました。乱れた胸もとからこぼれる白い肌。ふれる黒い爪。
──嘘、嘘、嘘、嘘、嘘、嫌、嫌……嫌っ、嫌っ、嫌っ。
「いやぁあああああ──」
*
目に映るのは、横倒しの世界でした。
まばたき。顔にかかる髪。黒いカーテン越しのような視界から、肌色をした手が見えました。それは自分の手でした。
わたしはベッドの上で、うつぶせに寝ているようでした。簡易的なソファーや手術台という感じのベッドで、サイズは人ひとりがようやく乗れるほど。
なぜここで寝ているのか。ベッドにたどりつくまでの記憶が、ありませんでした。まるで長い夢から覚めたような。目が見えなかった頃のことさえ、夢の中ですごした時間のような。
「あっ、ん、目が……」
わたしは急いでベッドから身体を起こし、片手で髪を直しました。そして、目の前に両手をかざし、手のシワを数えるように、じっと眺めました。
「わたしの名前は、赤誠メリイ」
先天性の視覚障害で、生まれてすぐ視力をなくしたこと。目の治療を受けたこと。目が見えるようになったこと。
記憶が連続性を取り戻し、色々なことが次々と頭に浮かびました。
昆虫のような異形をしたレイン先生。本の中で見た怪物マグラが、目の前で現実に存在したこと。そしてパパとママの姿をした金属製の人形。
異常すぎる光景は現実で起きたことなのか記憶があいまいで、ただ映像だけが頭に残されていました。手の感触だけで思い描いたパパとママの顔も、今では根拠のない想像でしかなく、視覚の映像にかき消されそうで。
目から絶え間なく流れる情報は、それほど強烈でした。色彩、明暗、輪郭。まだ見えるようになってから少しの時間しか経過してないはずなのに。
まるで昔からそうであるように、頭で意識する必要もなく、ただ目を開けているだけで、膨大な情報が頭に刷り込まれていきます。逆に目が見えないときはつねに意識していた耳や肌の感覚が、あまり感じられないようでした。
「ここ、どこなんだろう」
身体を見れば、身につけたパジャマは襟もとが裂け、ボタンがいくつか取れていました。足にはスリッパがなく裸足でした。やはりあれは、全部が現実で起きたことなのでしょうか。
ここが病院であることは確かでした。部屋の作りは、わたしのいた病室とおなじでした。それと部屋の匂いが。鼻を刺す薬品の匂いと、金属の匂い。
部屋には、いくつかの医療機器が置かれていました。おそらく匂いと空気の印象から、わたしが手術や診察を受けた部屋のようでした。
肌寒さはなくても、足を下におろすと床は冷たく、裸足の裏が貼りつくようでした。わたしは出入口を求めて視線をさまよわせ、医療機器のあいだをすり抜けるように奥へ向かいました。
部屋はわたしのいた病室よりも広く、ふたつの部屋をつなげた感じでした。奥に向かうほど置かれた機械が密集し、わたしは肩や腰をひねり、身体をすき間へ合わせるように進みました。
奥には部屋の照明とはべつの光源が見えました。明かりがあるということは、そこに明かりを必要とする人間がいるわけです。病院には、レイン先生以外のお医者さまや看護師さんもいましたから。
行きついた部屋の奥は、うすい壁に隔たれていました。上半分が透明なガラスで、光源は壁の向こうにありました。
それは発光する、いくつもの大きな柱でした。床から天井までとどく、円筒形をした透明なガラスの柱。おなじ形のそれが、いくつも並んでいました。
「これは、何かに使うもの?」
柱の内部は水に満たされ、水槽のようでした。中には気泡がわき、びっしりと黒いものが揺れていました。海底でただよう海草を集めて詰め込めば、おそらくこんな感じだろうと思います。
わたしはもっとよく見ようと、ガラスの壁に手をつき、顔を近づけました。
発光する水の中をただよう黒いもののすき間から、白いものが見えました。柱の天井近くに浮かぶ白い三角の。
「……え、いっ嫌!」
思わず口から、悲鳴のような声がもれました。白い三角のそれは人間の鼻。白い棒のように突き出たのは人間の腕。丸い形をしたのは耳。すき間から見える白い肌、膨らんだ乳房、目、顔の輪郭。
──ああ、ああ。
わたしは思わず目を閉じました。水の中をただよう黒く長いものの正体に気づいたのです。それは柱の中を覆うほどにのびた黒い髪の毛でした。
両目を閉じた闇の中で柱の内部に見えたパーツが組み上げられ、想像の中で女性の裸体が形成され、そして顔には最近どこかで見たパーツが使われ──
はっと目を開けた瞬間、目の前のガラスに映るわたしの顔は、ひどく驚いたように口を半ば開け、目を見開き。
「違う、嫌っ!」
柱の中身から想像したその顔は、ガラスに映るわたしの顔に似ていました。
そのとき奥に並んだ柱の内部で、ひときわ大きな気泡が生じ、弾けた気泡の揺れが密集した髪の毛をかきわけ、目を閉じた少女の顔が見えました。
「違う、これは間違い、違う……」
わたしは顔をそむけ、その場から逃げ出しました。それはただの想像にすぎません。それは柱の中身が全部おなじもので、それが人間で、おなじ女性で、おなじ顔をした少女で、わたしとおなじ。
──ああ、いったい。あれは。わたしは、何者なのでしょうか。
*
その部屋を出たわたしは、どのようにして病院を出たのか。ふと気づけばシェルターの通路を歩いていました。
「家に……うちに帰らなきゃ」
なにが起きたのか。どうすればいいのか。きちんと理解できることは、なにひとつありませんでした。
ただ足を止めると、なにか嫌なことを考えそうで、なにか怖いものが後ろから追いかけて来そうで。わたしは裸足のまま、通路を歩き続けました。
このまま歩いて家に戻れば、そこには本当のパパとママがいて、わたしのすごした部屋があって。帰ったら書きかけの小説を書いて、目が見えるようになったのだから、もっと他にできることを。
通路は広い道がゆるやかな弧を描きながら、どこまでものびていました。
いつしか肌や顔から汗がふき出し、ときおり目が汗でしみました。それでも涙をこらえて、耐えずに泣き出してしまうと、もう歩けなくなりそうで。
ふと前を見ると、通路の左側に開く穴が見えました。近づくとそれはべつの通路につながる、ほそい穴でした。ずっと上まで続くのぼり階段で、その先は明かりのとどかない闇の中でした。
わたしはふらりと、その階段に足を向けました。闇の中に怖さは感じませんでした。むしろ、どこか安らぐような気持ちがして、それがあてもなく歩き続ける淋しさに勝りました。
目が見えず闇の中ですごした時間の長いわたしは、光よりも闇に親しみを感じるのかもしれません。けれど、それだけではない懐かしさがありました。
「ここ……来たことがあるんだ」
わたしの記憶が確かなら、この階段は地上の世界へ出るための階段でした。
子供の頃、パパとママに連れられて歩いた階段。片手をつく壁の感触にも、どこか覚えがあるようでした。
*
金属の扉についた丸いハンドルを回すと固いものが外れる音がして、扉が横にずれました。光がこぼれ、空気が流れ込み、わたしは扉の重量にもどかしさを感じ、出入口のすき間に身体をねじ込むようにして外へ出ました。
扉を抜けると別世界でした。地下では感じることのない風。汗に塗れた肌を冷やす空気。そこにはまぎれもなく、地上の世界がありました。
「あったんだ、本当に」
わたしはふらふらと数歩ふみ出し、足を止め、視線をめぐらせました。
地上は夜でした。はじめてここへ来たときとおなじ夜。なにもない大地がどこまでも広がり、遠くには三角を連ねた山が影のように見えました。
わたしは一瞬だけ目を閉じ、瞼の裏側に映る光を見ました。見上げれば黒い空が広がり、月や星は雲に隠れて見ることはできませんでした。けれど、雲のすき間からもれる明かりは、地下で目にふれた人工的な光よりも、ずっとやさしく感じられました。
「ここだけは、嘘じゃなかった……」
十歳の頃、はじめて連れて来られたときに想像した世界とおなじ景色です。おなじ光と、おなじ風と、おなじ匂い。どこかくさいようで、どこか懐かしいような、吸い込むと濃い味のする空気。
わたしは見上げるのを止め、地面に寝ころがりました。パジャマが汚れるのもかまわず、固い土や石が頭や背中に当たる痛みにもかまわず。あお向けに寝ころがり、顔を夜空に向けました。
両腕を左右に投げ出し、全身で夜空を受け止めるようにして。目を閉じても、それぞれに色の違う星の光は消えることがなく、目を開けても変わることのない景色がありました。見開いた目からあふれ出した水分は行き場をなくし、わずかに涙がこぼれました。
それからしばらく、風がさらに冷たく吹きつけ、空から落ちはじめた水滴が、ぱたぱたと顔に当たりました。肌寒く感じられるほどまで気温が下がり、空から落ちる水滴は数といきおいを増し、大粒のシャワーに変わりました。
雨でした。わたしは身体が濡れるのもかまわず、全身で雨を浴びました。
地面を叩く、やさしい雨音。地面に溶け出した鉄分の生ぐさい匂い。手にふれるのは水に濡れて柔らかさを増す、土。まだ濡れていない髪をさらう風。
わたしの身体が世界に溶けるようでした。両目を閉じていても、闇の中にいても、わたしのすぐそばで全身に感じられる世界が確かにありました。
「雨の日は、お外に出ちゃ駄目って」
わたしは子供の頃に、両親から云われた忠告を思い出し、唇から流れ込む雨のにがい味に舌を刺激され、口もとに笑みを浮べました。
「駄目じゃないか、メリイ」
「パパっ」
すぐそばで聞こえた声に、わたしは反射的に目を開けました。
至近距離に、わたしを見おろす昆虫の顔がありました。瞬時の後悔。わたしは目を開けてしまったのです。
「駄目じゃないか、赤誠さん。せっかくの恐怖を忘れかけちゃ」
とっさに身体を起こそうとするわたしを外骨格の手が押さえつけ、予想以上の重量が身体へのしかかりました。
聞こえる声だけは、まだレイン先生やパパのものでした。けれど、その身体はお医者さまの白衣を脱ぎ捨て、黒光りするキチン質の肌をさらしていました。
「あなた誰なの?」
異形の姿が目の前にあるのは、とても嫌な感じでした。けれど、わたしの身体に直接ふれる異質の感触が、その不快な肌ざわりへの嫌悪感が、恐怖とはべつの強い抵抗を感じさせました。
「本当のパパとママは、どうしたの」
それはおそらく、生まれてはじめて感じるほどの強い怒りでした。
「それは、きみにも分かっているんじゃないか。きみには色々と本を読ませて、きちんと判断のできる知識もあたえてあげたし。きみも、あの部屋を見たんだろう? きみとおなじ姿をしたものが、水槽の中で育てられているところを」
わたしの脳裏に、あの部屋で見た光景が浮かびました。水に満たされた透明なガラスの中に浮かぶ姿。わたしたち。
「さあ、現実を見て考えるんだ。そのためにあたえた知識で、そのために治療した目だ。赤誠さん、きみはどうやって生まれてきたのかな?」
身体を濡らす雨水の冷たさが、ふいにわたしを襲い、がたがたと凍えるような寒さを感じはじめました。
「きみは餌なんだ。ぼくたちマグラが食べるために作り出したんだ。きみに読ませた本、『黒鉛の爪』。あれはフィクションなくて、ドキュメンタリィだよ。人間の視点で書かれた話だけどね」
──イサク・ロイモン『黒鉛の爪』。
「ぼくたちは腹を空かせていた。そこへ人間たちがディナーに招待してくれたわけさ。ぼくたちの食料が生命体の脳であることは、あれにも書かれていたかな。色々な種族の脳を食いつくしたけどね。ここに来て、ぼくらは極上の味覚を手に入れた。恐怖にあぶられた人間たちの脳だよ。きみたち人間が生で食べていた肉を、偶然から手にした炎で調理して食べることを覚えたようにね」
「そんな嘘、よ……」
わたしは本の内容を頭に思い浮べながら、反論をしようとしました。けれど、うまく頭がまわらず、声にもちからが入らず、身体が震えはじめました。
「ただ不幸なことに、人間は弱すぎたんだ。ぼくたちが外から持ち込んだ微細な菌やウイルスのせいで、ぼくたちに抵抗したり恐怖を感じたりする前に、ばたばたと死にはじめた。死んだ脳でも腹はふくれるけど、それじゃあ味も糞もない。そこで食べやすい家畜用の人間を作る計画が生まれたわけさ」
マグラは外骨格の手をのばし、わたしの胸もとにふれました。
「止めてよ、嫌……」
ほそい枝のような指がボタンの取れたパジャマのすき間から滑り込み、雨に濡れる素肌にふれました。わたしは地面に押さえつけられながら腕をのばし、その手をつかんで止めようとしました。
「きみたち人間もさあ、病気に強い種をかけ合わせて、新種の野菜や肉を育てるだろう? 味をよくするためにストレスをあたえたり、太らせたりするだろう? ぼくたちには恐怖こそが、なによりの美味だ。人間に至上の恐怖をあたえるための育て方が必要だったのさ」
いくら引き剥がそうとしても、マグラの手を動かすことはできませんでした。そして氷のような感触をしたマグラの手が、わたしの胸をつかみました。
「痛っ、痛い、嫌っ、痛い!」
一瞬、マグラの手がわたしの乳房を鷲づかみにして、握りつぶしたのです。
「飼いならされた家畜は、飼い主が殺そうとしても恐怖を感じない。きみ自身が家畜であることに気づくことなく、ぼくたちを恐怖の対象としてとらえさせる育て方が必要だった」
マグラがわたしの胸から手をはなしても、ずきずきとした痛みが残り、その痛みは心にも響くようでした。
「どうだい、赤誠さん。怒りは消えたかな? 怖いだろう? 恐ろしいだろう? きみはこの瞬間のために作られたんだ。視覚に異常を引き起こす因子を遺伝子の中に組み込んでね。ぼくたちの姿を見ることなく、余計な情報をあたえず、都合よく育てやすいように、わざわざ盲目の状態を作り出したのさ」
上下に裂けるマグラの顔が見えました。大きく開けた口の奥から、鋭い杭のようなものがせり出していました。強さを増した雨が冷たくふりそそぎました。目から流れ出した水は、もう涙なのか雨なのか分かりませんでした。
凍えるような寒さにもかかわらず、身体に妙な熱があり、吐き気がして、ひどい気分でした。頭がぼおぉっとして、もう抵抗する気力もありませんでした。
ああ、確かマグラは口の奥からせり出した鋭い突起で人間の頭に穴を開け、そこから脳を食べるのです。
「さて、味見をさせてもらおうか。まっ先に食べることができるのは、開発者の特権だね。そのぶん色々と苦労をさせられたわけだけど」
マグラは口から突き出た突起をそのままにして、さらに上からのしかかり、わたしの左耳に顔を近づけました。その一瞬、マグラの複眼に浮かぶ光が笑うようにかがやきました。
「メリイ。あなたは、なにも心配しなくていいのよ。あなたのサンプルは、もともとたくさん作れるように複製してあるの。もしあなたの脳がまずくても、今度はもっとうまく作れるわ。あなたの目が治る前のことはみんな記録されて、サンプルに移し変えもできるのよ」
「そうだぞ、メリイ。今は食べられることだけを考えればいいんだ。味を調整したら、あとはいつでも食べたいときに目を治せばいいだけさ。お前の量産品があちこちに出まわって、それこそ缶詰の蓋を開けるみたいにな」
気さくなレイン先生の声、やさしいママの声、明るいパパの声。
耳もとでキキィと金属をすり合わせるような音が聞こえました。
そして、耳の穴をふさぐように、突き刺さるものがありました。それがどんどん奥に進む感触がありました。おそらくマグラの口から突き出た、あの鋭い杭のようなものが。痛みと、恐怖。
「嫌、嫌。止めて、嫌ぁ、止めてよ」
ああ、嫌。
嫌、嫌、嫌、ああ。
助けて、助けて。
パパ、ママ。助けて。
誰か、誰か。
もういい。もう止めて。
誰か、誰か。
もういい。
こんな世界、もう止めて。
もう見たいものなんてない。
見えなくていい。返して。
もとに返して。闇の中に。
闇の中に。嫌なものも、余計なものも見ずにすんだ、あの世界に。
誰か、誰か。神さま。
ああ、誰か。
誰か。
誰か、お願いですから。もう。
わたしの目を、潰してください──
了
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