『ノイエ・エイヴィヒカイト』

『ノイエ・エイヴィヒカイト』

著/秋山真琴
写/友利亜

原稿用紙換算15枚

 二週間前にせかいは滅びた。
 より正確に言うと、生きとし生けるものは、ある夜を境にして消えてしまったのだ。夏の暑い夜だった。眠りに落ちる直前まで蝉が鳴いていた記憶があるのだけれど、後に残ったのは昨日まで生きていたひとやものたちの痕跡と、すでに死んでいたひとやものたちだけだ。
 彼らは、みな、海に還ったのだとぼくは考えた。望んで飛びこんだものもいただろうし、誘われて飛びこんだものもいただろうし、期せずして飛びこむことになってしまったものもいただろうし、騙されて飛びこむことになったものもいるかもしれない。けれど、結果として、ぼくを除くすべてのものが海に還ったのだ。だから、この地上には、ぼくを除いて、もう誰も残っていないのだ。
 せかいが滅びてから、ぼくが海に入るまでの二週間。この二週間はほんとうに苦しかった。ナイフで自分の胸を刺しても、高層ビルの屋上から飛び降りても、ぼくは死ぬことができなかった。四日ばかり、水も食べ物も口にしなかったけれど、倦怠感に襲われるばかりで、命のともし火が、死神の鎌に刈り取られることはなかった。
 静かになってしまったせかいで、ぼくはひとりで考えた。満天を覆いつくす星空は圧巻で、昼間の日差しは普段よりも強いように感じられた。原初に戻ったかのような地球で、ぼくは考え、そしてせかいが海から始まったことに気がついた。
 いや、正確に言うと、思いだした、だ。
 ぼくという存在を産み落とした母親、母親を産んだ母親、その母親、その母親。ひとはあるとき勝手に、なんの脈絡もなく現れるのではなく、連鎖してその存在を開始する。だから、自分の胸に深く問いかければ、その身がこのせかいに現れることになった経緯や由来を思いだすことができる、そのはずだ。そのことに気がついたぼくは、何度も何度も、繰りかえし自らに問いかけた。ぼくはどのような時間を潜伏して、このせかいに現われることになったのか。脈々と続く、いのちの樹形図のどの線を伝ってぼくは生まれることになったのか。そうして二日ほど問いを繰り返しつづけ、ぼくは思いだした。遠い昔、ぼくの祖先が海から生まれたことを。そして、さらにそれより過去、ぼくの祖先がまだ海のなかにいて、海とまったく同等の存在で、海自体であったころの記憶をも取りもどした。
 海の記憶。
 それは何度も繰り返されているせかいを内包する、巨大な記憶だった。連綿と綴られては断たれ、また綴られては断たれる歴史の真実が、その記憶には眠っていた。海の記憶がやさしく教えてくれる。このせかいは、何度も繰り返されているということを。人々は海から生まれ、何代にも渡り、その生を地上で謳歌し、やがて海に還る。すべての生命が海に還ったところで、年代記は海からまた新たな生命が飛び出してくるまで語ることをやめる。海から新たな生命が飛び出たとき、新しい歴史が始まる、新しいせかいが始まる。
 原始の記憶と、宇宙の真理を思いだしたぼくは、早速、歩き始めた。
 海に向かって、底に還るために。
 旅は僅か一日で終わった。ぼくは都会のコンクリートの森から、本当の森を経て、浜辺に至り、波の狭間に、この身を投じた。
 波に揉まれ、海に包まれたぼくは、何度も試みようとした自殺がけして成功しなかった理由を知った。海に還ったぼくは、海になった。海のなかで、ぼくはぼくであると同時に海でもあった。けれど、海はぼくだけでなく、他のあらゆるものでもあった。そのことをぼくは瞬時に悟った、もしくは海を理解した。
 海から生まれ、やがて海に還るものものは、海によって繋がっている。そうではなかったのだ。
 すべてのものは、同じひとりのものだったのだ。すべて、そうなっていたかもしれない、もうひとりの自分だったのだ。だから、もはや海となったぼくは、ぼくであると同時にぼくの父親であり、ぼくの母親でもあったし、その父親でもいいし、その母親でもいいのだ。誰でもいいのだ。みんな同じだから。ぼくは誰になってもいいのだ、すべてぼくなのだから。
 それが海だ。

 海となったぼくは、再び地上に舞い降りるときが来るのを待っていた。無限に連続するがゆえに、その時間感覚は喪失されているも、ぼくは地上で生きるために一度、海から分離した身だった。海のなかにあろうと、ぼくは青を見ることができた、誰も見ることのない海のうえに広がる空を。
 しかし、かつてのぼくたちが地球に与えた損害は計り知れず、悠久なるときの流れをもってしても、大地はもう癒されえないほどに疲弊していた。資源は枯渇し、膜は千切れて破れてしまっていた。それらが時の手にゆだねても再生しうるものではないことは、海が知っていた。ぼくたちの回帰は遅すぎたのだ。地球に、ぼくたちが再び生まれ落ちることは、もうできなかった。
 だから、ぼくたちは、このせかいのそとに出て、次のせかいを捜すことにした。
 宇宙に出るのは久しぶりのことだ。以前に、このなにもない空間を漂ったのは、もう幾星霜も前のことだ。海はすべての記憶を完全に保持している。ぼくは正確に思いだすことができた。宇宙空間を突きすすむ海を見て驚いた異星人たちを飲みこんだときのこと、宇宙の果てで新しいせかいを作りつづけていた創造主を飲みこんだときのこと。彼らが海をどのように認識したかは分からない。すべてを飲み尽くす暗黒の穴を見たかもしれないし、不定形に這い回る液体を見たかもしれないし、幾重にも折り重なった十字架を見たかもしれないし、際限なく続く揺らぎを見たかもしれないし。それは分からない。海は飲みこんだものを、完全に認識し、把握し、吸収することができる。したがって、輝きのなかから生まれたぼくたちは、海であると同時に、地球人であり、異星人であり、創造主でありうるのだ。海は飲みこんだものすべてをひとつにする。だから、いくら経緯と由来が分け隔てられていようが、いまとなってはぼくたちは、すべてそうなっていたかもしれないもうひとりの自分であり、このせかいと並行して無限に存在する、ぼくたち自身に他ならないのだ。
 そのように年代記は書き換えられたのだ。
 しかし、これはぼくたちと、地球人や異星人や創造主が、まったく同じ存在になったことを意味しない。何故なら、仮にまったく同じ存在になっていたならば、ぼくたちはぼくたち自身が、他者から見て何物であるか、もしくは何物であるかのように見えるかも分かるはずだからだ。ぼくたちが本当に海なのか、それとも海以外の何かなのか。ぼくたちはぼくたち自身の外見に関する知識を持たない。それを見たであろう地球人たちも、海に飲み込まれた時点で海であり、海は内包するすべてのせかいの記憶を完全に記憶しているけれど、その記憶を回想するのもまた海なのだ。海が海である限り、海は自身を見ることはできないという条件が適用される。
 やがて海は打ち捨てられた星に辿りついた。
 小さい星だ。地球よりひとまわり小さい。近くに熱源がないため、海も緑もない。暗黒と冷気とに支配された、静謐な星だ。ぼくたちはかつてのぼくたちのひとりが使っていた言語を用い、この星を便宜上、絶対零度の星と名づけた。何故ならその星の表面上の温度は、限りなくマイナス二百七十三度に近く、原子の振動量がとても少なかったからだ。原子のひとつと海は接触する。彼はとても弱気で、遠慮深く、ぼくたちの存在と降臨を消極的にではあったが認容してくれた。
 大地の窪んでいたところに海が降りたつ。しかし、ぼくたちは海から出ることはしなかった。そとの環境は苛烈で、宇宙空間にいるのとなんら変わりがなかったからだ。絶対零度の星は、あの懐かしき地球とは比べようもなく、ぼくたちが海としてではなくその星のいのちとして生きることは不可能と推測された。だから、ぼくたちは海のなかから、そとのせかいを見た。
 この星にはかつて文明があったようだ。理性の欠片が、いたるところに落ちている。それはまるで盤上の宇宙をうえから見下ろすような場景だった。たとえ雲をも掴む腕を伸ばしても、けしてその手に取ることができない、誰にも盗めない宝石。それが散りばめられている。遠い昔に闇に閉ざされたはずの星が放つ、科学の、歴史の、人生の燐光、その結晶。ぼくたちは海の姿を保ったまま、少しずつ移動し、それらを飲み込んでいった。手に取って転がすのではない、ぼくたちは鯨が口を空けて無数のさかなを飲み込むようにして、それを舌のうえに転がしていった。そのようにしてぼくたちは、この星のことを知った。滅亡の危機に瀕し、この星を脱出した民のことを知った。まさしくこの星は打ち捨てられた、絶対零度の星だった。かつてこの星に暮らし、この星のうえに歴史の碑文を築いていた民たちは、宇宙の冷気によって奪われていく熱に嘆き、この星を見捨てたのだ。
 ただ、興味深く思ったのは、理性の欠片が死んでいなかったことだ。絶対零度という劣悪な環境のなかでも生きることが出来るように、理性の欠片たちの時間感覚は、極限まで落とされていた。理性の欠片たちはかろうじて生きていたのだ。ここは打ち捨てられた星だが、ここを去った民は、最後にひとつ実験を残していったのだった。仮に宇宙が無限に存続し、永遠のなかに存在したとするならばという仮定のうえに成りたつ幻想。その幻想のなかに永遠を生き延びるであろう理性の欠片を、彼らはここに残していったのだ。それはどうしてか。ぼくたちは推測する。宇宙を彷徨することを決めたこの星の民たちの明日は、不安に抱きしめられていただろう。ゆえに、この打ち捨てられた星に残されたこれらは、彼らの精一杯の抗いではなかったのだろうか。いつかどこかで宇宙のさなかで、もくずとなって消えてなくなってしまうかもしれない彼らが、この宇宙に残す、彼らが存在していたという証明。彼らは覚悟を理性の欠片に落としこんで、この星に遺していった。無言の語り部として。
 海はその理性の欠片を、飲みこんだ。
 永遠を飲みこんだ。
 その瞬間。
 歯車が噛み合った。
 海は唐突に思いだした。少し前までぼくたちがいた地球と同じように、この宇宙全体もまた幾度も幾度も繰り返されていることを。
 この宇宙に終焉など存在せず、それゆえに時間は薄く引き延ばされ、いかなる種族も文明もこの時間のなかでは進化を限界まで迎え、果てに至り、停滞し、そしてそこで時間が無意味化してしまうことを。時間の無為性を、海は絶対零度の星を飲みこむことで、思いだした。
 否、もう少し説明を試みよう。この宇宙の寿命は無限だ。あの星は熱的死を迎えたが、宇宙がその体温を絶対零度まで落とすことはない。すべてのいのちは環境に恵まれれば、進化を限界まで推し進めることが可能である。この宇宙にはその限界を許容するだけの広がりがある。ゆえに打ち捨てる必要はない、永遠にしがみついて生きつづけることが可能だ。しかし、それは緩慢な死と換言することも可能だろう。薄く引き延ばされ、進化を終えた種族と文明とが、恒久にその状態を維持する。一が零にも二にもならない、時間が永遠であるがゆえに発生する零時間、ある種の絶望。
 それがこの宇宙の未来だ。
 年代記の終わりには、そう記されている。
 それを海は思いだした。つまり、前回の繰り返しの記憶だ。そして、そのひとつ前、そのまたひとつ前の記憶。
 年代記の終わりは、いつも絶望で筆が折られている。
 それを食い止めることができるのが唯一、海である。
 遥かな過去。幾たびも連環が廻転する以前、最初の宇宙に現われた意志する海。
 それがぼくたちの発祥だ。
 年代記を絶望で終わらせないためには、それを中断させて、もう一度、やりなおすしかない。多様な種族と文明が、それぞれに意志を争わせ、宇宙という名の庭園を貪りつくそうと進化に進化を重ねている最中。宇宙とそこに生きるすべてのいのちがもっとも輝いているこの期間に、海はこれを中断させる。
 これは果たして悪と言えるのだろうか。ぼくたちは自問を繰り返す。放っておけば宇宙は無限に膨張し、そのなかで生きるすべてのいのちは限界まで進化してしまう。そうなればそこに待っているのは、せかいの果てを模した壁にも等しき絶望。これ以上、先は存在しないという儚き真実。そこに辿りついて、そしてその空虚なる零時間のなかで、永遠のときを座して過ごすならば、いっそ無に帰ってしまうべきだろう。何故なら、そこには何も何もないのだ。
 海は早速、行動を開始した。まず、絶対零度の星を飲みこむ。一瞬で、海はそれまでからは想像できない大きさとなる。しかし、それは本来の大きさから比較すると、途方もなく小さいのだ。まだまだ、こんなものではないのだ。これから幾千もの星を飲みこみ、銀河を飲みこみ、銀河群を飲みこみ、銀河団を飲みこみ、超銀河団を飲みこみ、今なお膨張しつづける宇宙に追いつくのだ。
 そのときこそ海は宇宙を飲みこむだろう。
 そして、飲みこみ終えたとき、宇宙はすでに収縮し、消滅して、すべては無に帰すことになる。
 後にはなにも残らない。
 海すら残らない。
 やがて輝きが放たれ、再び宇宙が生まれるまでに、なにも起こらない。
 だがそれはまだ先の話だ。海はまだ星をひとつ飲みこんだ程度の大きさで、今はまだ銀河を相手にすることもできない。宇宙が膨張するのと同じ速度で遠ざかる超銀河団は、いまのぼくたちにとってはまだ大きすぎる敵だ。けれど、いずれは追いつく。追いついて飲みこむ。それはけして近い未来の話ではないが、不確定な話でもない。ぼくたちは知っているのだ、年代記に記されている未来を。

 こうして、せかいは終わり。
 そして、始まる。

ende

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