『そして僕は「世界」になり』(2)

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 初めて一人で出撃したとき、僕は何もすることができなかった。ただ敵から身を隠し逃げ惑うだけの存在だった。しかたがない。最初はとにかく実戦経験をつむことが重要だ。そう自分に言い聞かせるけれど無力感は消えない。挙句、退却時に転んで足をひどく擦りむいてしまった。
 情けない。

 傷が痛むので僕は保健室へ行くことにした。本格的な傷を治すところはもちろん別にある。こちらの方は小さな傷や軽い体調不良などを治療する、まさに学校の『保健室』といった場所だ。保健室に入るのは初めてだった。
「失礼します」
「ああ、ちょっと待ってて」
 若い男がズルズルとカップラーメンをすすっていた。白衣は一応着てはいるが、とても医者には見えない。
「あの、保険医の方は……」
「だから、ちょっと待っててって言ってるじゃないか」
 彼は心底美味そうにラーメンの汁を飲み干すと僕のほうへ向き直った。
「お、君はキリ君じゃないか?」
「え、ええ……そうですけど、なんで」
「なんで知ってるかって? そりゃあ知ってるさ。僕は全校生徒を覚えているからね」
 僕は露骨に怪訝な顔をした。この学校の生徒は万を超える。全員なんて覚えられるわけがない。
「そんな顔をするなよ。冗談だよ冗談」
 彼は軽い口調で言うとはははと笑った。
「本当はね、君は教師の間じゃ有名人なんだよ。カップルになるのを拒否する生徒なんて滅多にいないからね」
「ああ」
 ようやく僕は理解した。確かに、それなら納得がいく。
「みんな笑ってるぜ。英雄ツタの真似でもしようってのか、ってさ」
 やっぱりか、と僕は思った。はじめから理解されようという気などさらさらないとはいえ、気分はどうしても悪くなる。
「私は笑わないけどね」
 僕は彼の顔を見つめなおした。その言葉の中には、軽い調子に包まれながらも、真剣な響きが確かに存在していた。
「何か事情があるんだろう? じゃなきゃわざわざ自ら死にに行くようなことは人間はしない。そういう風に人間はできているからね」
「まわりくどい言い方ですね」
「どこが。ストレートで論理的じゃないか。私は論理的な考え方しかしないんだよ」
「全然論理的じゃない気がしますが」
「口答えしてると見てやらないよ。ほら、こっちに来て」
「え?」
「えじゃないよ。その足の怪我を治しに来たんだろ。近づかなけりゃ治療なんてできやしない」
「なるほど。それは確かに論理的ですね」
 僕と保険医は一緒になって笑った。
 彼になら僕の心の内を打ち明けられるかもしれない。ふとそんな考えが浮かんだ。

 英雄ツタ。
 彼の名前は軍内に伝説としてとどろいている。
 彼が伝説となっている理由。
 彼はたった一人で考えられないほどの数の敵を永眠らせたのだ。
 その動きは人間業とは思えないほど機敏。その感覚は蟻の動きを察知できるほどに先鋭。その『世界』は常人を遥かに超える強度。
 常に鍛錬を怠らず自らの力を磨き上げていくストイックさも、彼を伝説たらしめる要因の一つになっている。
 しかし、現在彼は戦場にはいない。
 教科書には「不慮の事故により亡くなってしまった」とだけ記されている。
 彼がパートナーを作らず一人で戦い抜いた理由は謎とされている。

 訓練室に入るには受付が必要だ。殆ど毎日訪れているから受付担当のおじさんも僕のことはもうよく知っていて、生徒証を見せる必要もない。初めて訪れたときは露骨に変な顔をされたものだ。無理もない。そもそもこんなゲームのような機械訓練(二十年をかけて造り上げた最新鋭の機械だと保険医は言っていたけれど)を授業以外で行いたいと思うような生徒からして稀だし、それに行うにしても普通はカップルで訪れる。一人で訓練室に入るなんてことはまずないと言っていい。
 訓練は二つ存在する。一方は体を鍛える訓練。もう一方は脳を鍛える訓練。そう僕は考えている。本当にそのとおりなのかどうかは知らない。
 一つ目の訓練が始まる。そこかしこから放たれる敵の攻撃を模したビームを僕は機敏にかわしてゆく。攻撃はしない。通常は決められたポイントを全て攻撃し尽くしたら訓練終了となる。女性に護ってもらいながらの訓練だから避けることもあまりしなくてよい。つまり本当は攻撃重視の訓練なのだ。しかし僕の戦い方はそんなカップルでの戦い方とは何から何まで違う。まず僕に求められることは永眠らないことだ。永眠れば全てが終わりだ。それだけは絶対に避けなければならない。少なくとも、目的を達するまでは。
 五感をフルに活用し、機械がビームを放つ些細な音、気配を感じる。ビームが放たれるよりも一テンポ早く動き、常に安全地帯へと身を移す。避ける隙はどこかに必ず存在している。それを一瞬でも早く見つける。実戦と全く同じ。そうでなければ意味がない。
 一時間ぴったりで訓練は終了する。今日も、一度も当たらずに終えることができた。始めたころは五分に一回は当たっていたものだ。成長を感じる。
 十分間の休憩の間には精神統一をする。目を瞑り、息をゆっくりにし、座禅をして手を御椀型に組む。そうして、できるだけ脳の内部をからっぽにしようと努力する。この後訪れる訓練のために、少しでも脳を休ませようという考えから行っているものだ。効果があるかどうかは不明だが、もはやある種の儀式として、瞑想をすることが習慣になっている。
 二つ目の訓練では、例の脳内映像化コンピューターを元に開発した機械を用いる。大きなディスプレイの前に座り、画面上に文字で表示された言葉をできるだけ早く、かつ詳細に頭の中に具体的なイメージとして思い描く。表示される言葉は様々だ。『バナナ』といった比較的容易に想像できる言葉から、『空気』といったイメージしにくい物体、果ては『冷たい』などという形容詞までが表示される。思い描いた映像は画面上に映し出される。もちろん正解はない。そもそもこんなことをして本当に自分の『世界』がより強固なものになるのかどうかはわからない。生まれ持った才能にはかなわないのかもしれない。でもやらないよりはましだ。
 訓練を終えると体も頭もへとへとに疲れきっている。心地は良い。この疲れに浸ることで、僕は自分が背負っている、あるいは背負おうとしている何もかもをつかの間忘れる。忘れてしまって、心地よさに甘えてしまって、そんな自分に気づいて失望する。そして一瞬たりとも忘れてはならないと自分を戒める。何度も何度も繰り返されるパターン。
 人間には休息が必要だ。一時も緊張を緩めずにいればいつか消耗し無くなってしまう。それはわかっている。でも、それじゃあクヌギはどうなんだ。絶え間ない苦痛を味わい続けるクヌギは。だから僕は一時も緊張を緩めないよう自分に課す。そしてそれを実行できない自分を憎む。
 部屋から出ると受付のおじさんが話しかけてくる。
「いやー、すごいね。さすが英雄ツタの再来と言われるだけはある」
「本当に僕はツタと同じ力を持っていると思いますか?」
「あ、いや、そりゃあツタはすごかったから……」
「さようなら、おじさん」
 僕はその場を去る。
 英雄ツタ。
 僕は彼のようにならなければならない。

 僕は初めて保険医と出会ったあの日から、毎日保健室へと通った。もちろん毎日怪我していたわけではない。保険医と語り合うために、僕は保健室へ赴いた。僕は保険医に好感を抱いていた。彼は他の『お堅い』教師たちとは全く違うと言ってよかった。
 それに、正直に言えば僕はクヌギが永眠ってしまってから、級友と会話するのが苦痛になっていたのだ。クラスメイトたちは今の僕にとっては生ぬるい存在でしかなかった。死に直結する戦闘に赴かねばならないはずなのに、彼らの顔はどこかふぬけていた。結局彼らは「自分が永眠るわけはない」と根拠のない自信を抱えて出撃しているのだ。おそらく彼らは自分が永眠るその瞬間でさえ、自分は助かると考えるのだろう。そのことに僕は気づいたのだ。
 いったん気づいてしまったら、彼らと会話する気力はもうわきあがっては来なかった。話をあわせる気にすらならなかった。僕にそんなことをしている余裕はなかった。友人はみな去った。クラスの中で僕は孤立した。望むところだった。
 保険医も僕に好意を持ってくれているらしく、僕を快く歓迎してくれた。彼との会話は愉快で、得るものも多かった。医学的な知識はもちろん、どの教師とどの教師が付きあっているだの、あの厳格な教師は昔不良だっただのといった内部事情、そして少し危険な軍内の秘密。彼の話は広範囲に及んだ。
 すっかり保険医と仲良くなったある日。僕は彼に、僕の抱える事情の全てを話した。クヌギとの出会い。別れ。カエデとの決別。一人で戦おうと決心したこと。今の僕が生きる目的。
 話を終えると、保険医は独り言のようにつぶやいた。
「……驚いたな。ツタとそっくりじゃないか」
「確かにそうですね。僕も一人で戦っていますし」
「いや、そうじゃない。そういうことではないんだ」
 それだけ言うと彼は黙り込んだ。何かを深く考えこんでいるように見えた。
「よし!」
 何かを吹っ切るように言うと、保険医は僕の瞳を見ながら、いつになく真剣な口調で話し始めた。
「これから僕は君に、ある一つの重大な軍事機密を教えようと思う。今まで教えてきたようなチンケな秘密じゃあない。もし私がこの機密を君に漏らしたことがばれたら、私の身は無事ではいられないだろう。もちろん君もだ。そんな危険を犯してまでこの秘密を教えようとするのは、それが君にとって有益なことに違いないと確信しているからだ」
「……なんで先生はそんなに僕に良くしてくれるんですか?」
「君は、人間としては珍しく、とても真剣に生きようとしている。見ていれば分かる。真剣に生きる人物を人間は放っておけない。そういう風に人間はできているのさ。論理的にね」
 保険医は薄く笑った。
「覚悟はいいかい?」
「はい」
 即答した。
「よし。それじゃあ行こうか」
 保険医はおもむろに立ち上がった。
「行くって、どこに?」
「ツタのところさ」
 彼はこともなげに言った。
「ツタはまだ死んじゃあいないんだよ」

 保険医は早めのペースで黙々と歩いていた。黙ってそれについて行く。いくつもの階段を降り、いくつもの扉を開けて、僕たちはそこにたどり着いた。
 物々しい自動ドアがそびえ立っている。
 保険医は何かのカードを横の機械に差し込んだ。ガスの抜ける音と共に扉が開く。
 ゴテゴテした医療機具に彩られて、二人の人物が眠っていた。一人は英雄ツタだ。教科書に載っていた顔そのままに、彼は横たわっていた。もう一人は……誰だろう? 見たことのない女性だ。にこやかな笑顔を浮かべているところを見ると、永眠っているのではなく普通に寝ているだけなのだろうか。
「彼女はツタのパートナーだよ」
 保険医は僕の考えを読んだかのように言った。
「え? だって、ツタは一人で……」
「それは彼女が永眠ってしまってからの話さ。ツタも最初はカップルを組んでいたんだよ」
 その言葉を皮切りに保険医は語りだした。
「ツタと彼女、ナツはすばらしいカップルだった。他のカップルの十倍もの敵を永眠らせ、それでいて自らが窮地に立たされることは滅多になかった。彼らは、思っていることを一瞬で相手に伝えることができた。完全に信頼し合っていたからだ。はたから見ても、彼らが強い信頼で結ばれていることは手に取るように分かった。彼らは無敵のカップルだった。
 そのはずだった。
 ある戦場でツタはナツを担いで基地まで戻ってきた。ナツは永眠らされていた。何があったのかは誰にも分からなかった。ツタ本人が一切語ろうとしなかったからだ。ツタは、ただ無表情で病棟へ運ばれるナツを見つめ続けるだけだった。
 それからツタは変わった。それまでの陽気な性格は影を潜め、一人で部屋に閉じこもることが多くなった。笑顔も滅多に見せなくなった。挙句の果てには他のパートナーと組むことすら拒否した。訓練も全て一人で行い、戦場にも一人で出ると言って聞かなかった。賞賛の対象だったツタはもはや嘲笑の対象だった。誰もがツタはもう駄目だと考えた。
 だけどそうじゃなかった。
 そこから先は君も知っているとおりさ。獅子奮闘の活躍を見せた彼は英雄として崇め奉られるようになった。本人は他人の反応なんてどうでも良かったみたいだけどね。
 ここからが重要なところだ。
 ある日、ツタが永眠るナツの隣で倒れているのが発見された。一見するとツタは永眠っているように見えた。医者たちはすぐに原因を調査した。例の、『世界』を三次元化する機械、覚えているだろう? あれをツタに使用すると驚くべきことが分かった。
 ツタの『世界』はきれいさっぱりなくなっていたんだ。
 あの、強固で広大な『世界』はどこにも見られず、それどころか一般人ですら持っているカオスのような『世界』すら発見できなかった。
 なぜこんなことになったのか。いくらツタを調べても原因は全く分からなかった。お手上げの医者たちは、今度はナツを調べることにした。ツタが倒れていたときそばにいたのだから、ナツにも何か異変が起こっているのでは、そんな風に考えた苦肉の策だった。
 異変はすぐに見つかった。
 まず表情が違った。『世界』に飲み込まれ永眠らされた者は例外なく苦しげな表情を見せる。程度の違いはあるけれど、そのことだけは間違いないはずだった。それなのにナツは微笑んでいた。以前の苦しむ顔とは正反対のやさしげな微笑みを見せていたんだ。
 それからナツは例の機械にかけられた。そこでようやく医者たちは探しものを見つけた。
 ツタの『世界』はそこにあったのさ。
 以前まで存在したはずの、敵兵士の『世界』は消滅していた。その代わりに彼女の核をツタの、強固で広大な『世界』がやさしく包み込んでいた。その上ツタの『世界』は完璧なまでに元の『世界』と同一だった。普通、相手に植え付けた『世界』はオリジナルの『世界』に比べて精度が落ちる。複製品なのだからそれは必然と言える。じゃあ、何でナツの中の『世界』は完全にオリジナルと同じものなのだろうか。
 医者たちが出した答えはこうだ。
 ツタは、自分の『世界』を複製したのではなくて、オリジナルをそのままナツに与えたのではないか。その強度でもって、通常では不可能な、植えつけられた『世界』の消去を行ったのだ。かわりに出現することとなったツタの『世界』はナツにとってとても幸せな場所だったのだろう。そうでなければ、どうしてナツはこんなにも可憐に笑うことができるのだ」
 そこまで一気に言うと、保険医は僕の瞳を、何かを確かめるように見つめた。
「それが五年前の話さ。見れば分かるとおり、彼らは今でも生き続けている。どうして一年で死ななかったのかはまだ分かっていない。でも推測はできる。多分、彼らは一切苦痛を感じていないから生きていられるんだと私は思う」
「ツタは、生きていると言えるんですか?『世界』がないってことはもう意識が存在しないってことじゃないんですか」
「『世界』はあるよ。ナツの中に」
「あ……」
「そうだよ。彼らは今も二人一緒に生き続けているんだ」
 僕は何も言えなかった。
「ただ、あと一つだけ、君には言っておかなければならないことがある」
「え?」
「実は、この手法を試したのはツタだけではない。ツタが成功したあと、多くの人が同じ事を行ったんだ。でも駄目だった。皆失敗した。だから政府はこの事実を隠したんだ」
「……彼らは、どうなったんですか」
「わからない。ただ、とても恐ろしいことになった、とだけは聞いている」
「とても恐ろしいこと……」
「あとは君が考えるんだ。私は事実を教えることしかできない。この先どのような行動を起こすかは君が決めなければならない」
 保険医は視線を僕からはずすと、微笑むナツの顔へ向けた。
成功した彼らは永遠に幸福なのだろうね」
 その言葉は僕に向けられたものではないように僕は感じた。

 クヌギの容態が悪化していると聞いて僕は急いで病室へ駆けつける。
 彼女は僕の目にはいつもどおりのように見える。静かに、顔を歪めつつ、永眠っている。
「永眠った人はみんなそうやって死んでゆくんですよ」
 看護婦はそんなことを言う。
「死ぬ際にそれまで以上に苦しむことがない。それが永眠る患者の唯一の救いです」
 その考えが間違っていることを僕はすでに知っている。

「永眠らされた人物の苦しみは死ぬまで続く、そう思うだろ?」
「はい」
「それは違うんだよ。現実はもっと酷だ。長い長い夢を見て、起きてみるとまだ眠ってから一時間も経っていない。そういうこと、君にもないかい?」
「そう言われれば確かに」
「永眠る人たちも同じさ。彼らの時間は僕らの時間とは違う。私たちにしてみれば一瞬であっても、彼らには永遠なのかもしれない。それは私たちにはわからない」

 クヌギはもうすぐ死んでしまう。
 クヌギの時間では永遠なのかもしれないけれど、僕の持つ有限な時間では確実に死んで冷たくなってこの世から消えてなくなる。
 もう僕には時間がない。

『そして僕は「世界」になり』 翌日、僕は人生最大の幸運に感謝する。
 アイツがいる。
 いざ目にしてみると想像していたよりもはっきりと認識することができる。遠目から見てもあの男がアイツであることは間違いない。
 ついに見つけた。
 鼓動が高鳴る。緊張が高まる。
 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、僕は細心の注意を持ってアイツの周囲を探る。どこかにパートナーがいるはずだ。まずは盾役を永眠らせてからのほうが安全だ。なんと言っても僕は一人だ。男との攻撃し合いになることだけは避けたい。
 程なくして僕は盾役の少女を見つける。木陰に隠れながらアイツを真剣な瞳でじっと見つめる彼女。僕にとっては運の悪いことに、彼女の背後に隠れることができるようなものはない。ここは思い切って出て行くしかない。
 そろりと姿をあらわにする。音を立てないように、立てないように。一歩一歩、ゆっくりと差し出す。丁度良い位置まで近づいて、深く息を吸う。彼女は気づいていない。気は緩めない。もう二度とあの時のようなミスは犯さない。
 集中。力を引き出す。集める。槍を形作る。しっかりと握る。
 攻撃態勢に入る。
 その瞬間不意にアイツが少女の方へ振り向いて、槍を投げる直前の僕を発見する。気づかれた。
 かまうものか。もう止められない。
 僕は思いっきり腕をスイングする。ゆったりとした直線を描いて槍が少女の体へ吸い込まれる。
 僕と、そしてアイツの見ている前でクヌギが静かに崩れる。
 クヌギ?
 しっかりしろと自分に言いきかせる。敵がクヌギに見えるなんてどうかしている。あれは憎き仇だ。絶対にクヌギであるわけがない。
 アイツがすでにこちらへ駆け出している。僕はもう一度すばやく槍を作る。相手は盾を失った。あとは相手より早く攻撃を仕掛ければ僕は勝利する。
 しかしアイツは僕のところへ来る前に足を止める。
 永眠るパートナーのそばに跪き、肩を揺さぶって少女の名前を何度も何度も叫んでいるのだ。
 僕はその光景を見た瞬間、悟る。悟ってしまって愕然とする。
 アイツも僕も同じだ。同じ人間でしかない。
 だからこそ、僕は少女にクヌギの陰を見たのだ。
 槍を消す。静かにアイツの元まで歩いてゆく。
「おい」
 僕は声をかける。アイツは反応しない。
「見逃してやる」
 それだけ言うと僕はアイツに背を向け、その場を後にする。背後から響く咆哮が僕の体を振るわせる。

 僕は病室へ向かっている。
 今日は一日部屋にこもって気を集中させていた。目を瞑り、『世界』の純度が最大限まで高まるようにと思って瞑想し続けた。
 本当は安心したかっただけだ。
 大丈夫。
 大丈夫だ。
 必ず僕は成功する。絶対に成功する。
 信じる。信じ切る。信じ抜く。
 もう僕には信じるしかないのだ。

 クヌギは僕の目の前で、いつものように苦しみながら永眠っている。
 深呼吸をする。二度。三度。何度やっても心臓の高鳴りは収まらない。ここが正念場だ。集中しろ。今までの自分が養ってきた全ての集中力を一点に集めろ。余計な雑念は捨てて、ただ自分がやらなければならないことだけを考え続けろ。そうしなければ失敗してしまうに違いないと自分に言い聞かせろ。
 瞳を閉じる。
 今この瞬間においてもまだ不安は消えない。本当にこの方法で良いのか。こうすることが一番正しいのか。自分はどうなってしまうのか。わからない。全然わからない。けれども僕はもう選んでしまったのだ。今更引き返すことはできない。
 もういい。この消えない不安だって僕の一部なのだから、しかたのないことだ。胸の鼓動だって引き連れて行ってやる。
 僕は、クヌギのことを誰よりも理解しているのだから。
 そう、それが答えだ。
 ゆっくりと僕は念じる。僕の『世界』よ。光となってこの右手を満たしたまえ。
 念じる。
 念じ続ける。
 右の掌から淡い光が漏れだす。
 念じ続ける。
 少しずつ光が強さを増してゆく。
 念じ続ける。
 光が手袋のように薄く右手を覆う。
 念じ続ける。
 右の掌をクヌギの額に当てる。
 さあ、旅立ちの時だ。
 光が吸い込まれてゆく感覚。ピリリと感じる痛み。だんだん空になってゆく頭。
 クヌギの顔から苦しそうな表情が消える。
 天を仰ぐ。成功を確信する。
 体の隅々まで安心感と喜びが広がってゆく。

 保険医は自分の部屋で俯いていた。
 本当に、あの少年にツタのことを教えたのは正しい行いだったのだろうか。
 あまりにもあの少年が賢明だったから、私は『道』を示した。
 しかし、その『道』は途中で二手に分かれている。
 片方は正しい『道』。もう片方は間違った『道』。
 失敗した者がどのような末路を辿ったのか、実は保険医は知っていた。あまりに残酷な事実だったからあの少年に伝えるのを躊躇ってしまったのだ。
 今になってそのことを後悔する。教えるなら教えるで、私は彼に全てを教えるべきだったのだ。
 保険医はツタのことを、自分の一番の親友だった男のことを思い出す。
 ツタとナツは本当にお互いのことを分かり合っていた。だからこそツタは成功した。
 では少年は?
 少年とそのパートナーは本当に理解し合っていたのか?
 保険医は祈る。願わくば、少年の進む『道』が眩い光に溢れていることを。

「ううううう……」

 聞こえるはずのない呻き声が聞こえる。はっとして僕はクヌギに視線を戻す。
 クヌギが悶え苦しんでいる。
「うがあ、ああ、ぐ、ぐええ」
 人間とは思えない声を上げてクヌギはもがき暴れる。
「な、何で……」
 思わず一歩後退する。
 できない。掌がクヌギの額にへばりついて離れない。
「何でだよぉ!」
 叫び声は病室に一瞬だけこだました後、むなしく掻き消えてもう誰の耳にも届かない。

 光が消えると同時に、僕の意識が跳ねる。

 目が覚めると僕は『世界』になっている。
 クヌギのために死力を尽くして磨き上げた僕の『世界』、しかしクヌギにとっては地獄以外の何物でもなかった『世界』と完全に同一化して、クヌギを包み込み、永遠にクヌギを苦しめ続ける。
 永遠に。


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