『世界の果ての年代記《クロニクル》── Prayer(後編)』(2)

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 そうね、わかったわ。絵描きさんは僅かなお金を持っていたの。今までそのお金でキャンバスを買って、絵の具を買って、絵を描いてそれを売って旅をしていたらしいわ。でも、いつも、元を取れるとは限らないじゃない? 絵描きさんの場合、ほとんどが上手くいかなかったらしいわ。だけど、たまに高く売れたときもあったらしいわね。あたしは彼に訊いたわ。どうしてその国に留まろうとしなかったのか? 少なくてもその国には彼の絵を高く買ってくれる人がいるはずなのに。そんなあたしの疑問に彼はあっさりとした顔をしながら、つまらないじゃないかと答えたわ。ひとつの国に留まり、絵を描き続けるよりも、どことなく旅をして、ついた先の美しい風景を目に焼き付けることが出来るのならば、どんなに過酷であろうとも、それをあえて行おうと。
 彼は、次の日には絵を描き出したわ。丘の上から一望できる〈世界の終わりの村〉を彼は三日かけて描きあげたわ。あたしは彼の作業を後ろから見ていたけれど、彼の画風は今まで〈世界の終わりの村〉にいた絵描きさんの誰とも似てなかったの。彼は目で見たものをそのままキャンバスに描こうとはしなかった。彼の絵は精密とはとても言いがたかったし、ほとんど線がぼやけていたわ。まるで濃い霧の中の村を描いているかのようだった。でも、とても素敵だったの。〈世界の終わりの村〉が太陽の光に包まれ、淡く輝いているかのようだったわ。でも、彼の絵は売れなかったわ。出来た絵をさっそく、あたしの知り合いに見せたわ。だけど、彼らは皆、絵描きさんの画風を受け入れなかった。仕方ないわ。〈世界の終わりの村〉の人々からすれば、絵とは精密な模写でなければいけないという先入観があったからよ。いくつかの人々は彼の絵を買い取ってくれると言ったけれども、その値段は元を取れるようなものではなかったわ。だから、あたしが買ったの。元の二倍の値段でね。元々、お金は有り余っていたし、誰かのために使えるというならば、あたしは惜しみなく使うつもりだったわ。でも、その値段を見て、絵描きさんは首を振ったわ。自分の絵はそんなに評価されるものじゃないと。彼の提示した価格はキャンバス代よりもほんの少しだけ高い値段だったわ。あたしは何度も彼にそれでよいの? と訊いたけれど、彼は自分の答えを変えることはなかったわ。彼は、元々持っていたお金とほんのささやかな差額でキャンバスを二つと足りない絵の具を買ったわ。彼の絵の具入れの中にはたくさんの色があったわ。その地域以外、見つからない絵の具もあったらしいわ。この〈世界の終わりの村〉でも彼は肌色と灰色を買ったわ。灰色の絵の具があるなんて珍しいと彼はあたしに言ったわ。それはあの砂漠で取れた砂で作ったものだったの。あたしがそう言うと、彼はぜひ大切に使いたいと言ったわ。
 あたしは〈世界の終わりの村〉の絵だけでも充分だったわ。だから、元々宿代なんてもらう気はなかった。だけど、彼は納得してくれなかったわ。お金を払って買ってくれたんだから、それとこれは別だと。幸いキャンバスは三つもある。幸い描きたいものもある。あたしはそれは何? と尋ねたの。彼は君たちさと答えたわ。さっそく明日から描き出したいと。あたしはあたし自身をそれまで意識して見たことがなかったわ。もちろん、あたしは隣にいるあたしを見ればあたしを見ていることと同じことなんだけれど。だけど、自分自身の容姿を見たことがなかったから、それが本当なのかあたしにはわからなかったわ。今まであたしに出会った人々はすべてあたしたちを見分けることは出来なかった。彼もまたあたしたちを見分けることが出来るとは思えなかった。一応、意味をなさないと思いながらも、あたしが姉で、隣にいるあたしが妹と紹介だけはしていたけれど。
 いざ、絵を描く段階になると、あたしは初めての体験でとても緊張したわ。あたしの家の前で描くことにしたんだけれども、いくら絵描きさんが笑ってと言っても、上手く笑うことが出来なかったの。普段は普通に笑うことが出来たのよ。でも、絵描きさんの前で上手く笑うことは出来なかったわ。それは隣にいたあたしも一緒のようで、二人で変な笑みを浮かべながら直立不動で家の前に立っていたわ。そんな姿に絵描きさんも呆れたんでしょうね。少し経ったら一度、休憩しようと言ったわ。ちらりと彼のキャンバスを見たけれど描き込まれていたのは主に背景で、あたしたちのいた場所はぽっかりと真っ白だったわ。絵描きさんはキャンバスと画材道具を片付けて、丘から〈世界の終わりの村〉を眺めていたわ。あたしたちは彼の後ろに立って、あの建物が何かを教えていったわ。彼は振り向いて、あたしに言ったわ。君たちはこの〈世界の終わりの村〉の話をしているときが一番、楽しそうだと。そのときはあまりそんなことは意識したこともなかったけれど、今思うときっと絵描きさんの指摘は正しかったんだわ。あのころは何よりも〈世界の終わりの村〉を見続けていくことに楽しみを感じていたの。
 結局、彼はその日、それ以上あたしの目の前で描こうとはしなかったわ。だけど、彼は部屋に閉じこもってその絵を描き出したの。さっき、あたしは彼は目で見たものをそのまま描こうとはしていなかったと言ったでしょう。つまりそれなのよ。彼は一度、絵を描くとき、いつまでも美しい景色を見続けることはできないと言ったことがあったわ。美しい景色とは常に一瞬である。それをここにあるような描き方で描くことはほとんど不可能だと。だから、その一瞬を心で見て、それを描くんだと。彼は結局、それから一度もあたしをモデルにしながら描くことはなかったわ。いつも部屋でひとり、静かに描いていたわ。あたしには完成まで見せたくなかったのね。部屋を掃除するときはいつも絵がなくなっていたわ。彼が再びあたしに絵を見せてくれたのは、描き始めてから一週間とちょっとが過ぎたころだったわ。
 絵はすでに完成していたわ。あたしの家の目の前で一緒に立っているあたしともうひとりのあたし。自分たちでも驚くほど笑顔を浮かべていたわ。あたしはこんな瞬間が一度でもあっただろうかと思ったけれど、思い出すことができなかった。もしかしたら、反射的に行動したのかもしれない。だけど、彼はその一瞬を逃していなかったのよ。淡い光に照らされたあたしにあたしは思わず見入ってしまったわ。すると、さらに驚くことを発見したのよ。画面の中央に立っているあたしと、寄りかかっているあたしが描き分けられているじゃない。まるでどちらが姉でどちらが妹かを知っているようだとあたしは思い、試しに彼に訊いてみたのよ。絵描きさん、あなたはあたしのどちらが姉でどちらが妹だかわかるのかしら? と。すると、彼は頷いて、あたしを姉と言い、隣にいたあたしを妹だと言ったわ。驚いたことにそれは当たっていたのよ。あたしは彼にどちらが姉で、どちらが妹かわかるの? と尋ねたわ。今まで、あたしたちを見分けることが出来た人はいないわ。だから、あたしたちはお互いは同一であるということを信じて疑わなかったわ。旅人さん、あなたに想像できるかしら、何百年もの間、自分とまったく同じ特徴を持ったものと暮らし続ける生活を。あたしたちは彼に言われて、今、目の前にいるもうひとりの自分が自分ではないことを理解したわ。だけど、何百年もの間、同一だと信じてきたものが、実はまったく違っていたなんてことが納得できるかしら? 論理的に理解したとしても、感情的に納得できないのよ。結局、あたしはこう結論付けたわ。あたしたちは同一であるけれど、彼から見れば同一ではない。それが一番、納得できる答えだったわ。
 彼は結局、〈世界の終わりの村〉で五枚の絵を描いたわ。そのうち、二つはあたしが持ち、残りの三つは元が取れるぎりぎりの値段で村の人が買ったわ。彼は一ヶ月ほどこの村に滞在した後、今度は南の〈世界の終わり〉を目指すと言い、村を出て行ったわ。まず、絵描きの話はこれで一区切りよ。旅人さん、あなたは彼をどう思った?
 とてもよい人だと思う。信念を持って行動している人だ。絵を描くことには詳しくないけれど、絵を見て、話を聞く限り、技術も、知識も持っているみたいだ。彼は重要なことを知っているよ。我々はあまりにも視覚に頼りすぎていて、本当に知るべきものを知っていない。本来ならば、私たちは五感のすべてを使ってそれを知るべきなんだ。私の訪れたことのある国に生まれつき盲目の女性がいた。私は彼女の半生を本人から聞いたけれども、盲目で困ったことがあるのはほんのささいなことだけだったらしい。彼女はそれ以外の感覚で目の前にあるものがどういうものなのか、今、どういう状況なのかの把握していた。どうしてそんなにことが出来るのか。彼女はこう言ったんだ。私たちは元々、五感すべてを使って目の前のものを把握していた。それがいつの間にか、視覚ばかりに頼るようになってしまった。だから、私たちは視覚がなくなれば、大抵の情報を把握出来なくなると思っている。だけど、それは違う。本来、五感すべてを使ってものを把握しているものにとって見れば、ひとつの感覚が失われたところで、他の感覚がそれを補完するようになるんだ。実際、彼女は私の身長や体重を当てて見せたし、どのような風貌か、彼女はまるで見えているかのように話した。それから私も五感で物事を理解しようとしている。その絵描きは絵描きであったがゆえに、五感すべてで感じるということを無意識に理解していたのかもしれない。
 確かにそうかもしれない。彼はあたしたちが瓜二つであるということにあまり捕らわれていなかったために、見分けるのが出来たのかもしれない。だけど、あたしはそうだとは思わないのよ。今まで、この〈世界の終わりの村〉にはたくさんの絵描きが訪れ、あたしは何人もの絵描きと話をしてきたけれど、あたしたちを見分けることが出来たのは彼一人だけだったわ。その中には有名な絵描きも含まれていたわ。やっぱりあたしはこれを何かの縁だと思うの。あなたがあたしたちを見分けられたように。
 次の話は若代表の話よ。あたしが若代表と初めて話したのはちょうど、この〈世界の終わりの村〉の代表になることが決まったころだったわ。それまで村がどうなりつつあったのかは初めの日に話したからわかると思うけれど、もう一度繰り返すと、あまり村はよい状況じゃなかったわ。悪いことが続いていた。この村を開拓した人々はその流れを断ち切ろうとしていたのよ。
 若代表はあたしの家に訪ねてきたわ。あたしたちはこの村を一番よく知るものとしてあたかも巫女のように扱われていたわ。でも、それは間違えなのよ。あたしはほんの少しだけ長く生きているだけ。まあ、こんなところでそんな話をしても意味がないわ。あたしは彼を何度も見たことがあったわ。だけど、それは遠目からだった。近くで見た彼はとても聡明な人間に見えたわ。とても知恵があり、人の先頭に立てる人間だった。そして何より人柄がよかったわ。決してその知恵を間違った方向へ使うような人ではなかった。それが見ただけでわかったわ。あたしは決して多くの人を見てきたわけではないけれど、後にも先にも彼ほどよい人間であると思ったのはないわ。
 そのときは、あたしたちと彼で紅茶を飲みながら、形式的な挨拶と報告をしたと思うわ。彼の仕草は優雅だった。非の打ち所なんてなかったわ。最初の印象と言えばこれぐらいだったかしら。彼はそれから三日三晩働いたりしながらも、時々あたしの助言をもらうために家に来たわ。彼はそのときに、他愛もない話もしてくれたわ。美味しい料理の作り方。野菜、家畜の育て方。あたしは今までそんなことに興味を持ったことなんてなかったわ。だって、自分で食べないものを作ろうと言う気になれるかしら? 少なくても〈世界の終わりの村〉が出来る以前は、作ろうにも作れない状況ではあったわ。彼はあたしのそんな反論にこう答えたわ。村では誰しもが自分だけのために食料を作っているわけではない。むしろ、全員に均等に行き渡るよう、作った食料をすべて村で買い取り、それから全員へ支給されるんだ。だから、食料を作った彼らは自分たちが作ったぶん、すべてを食べているわけではないんだと。それに、誰かのために何かを出来ることというのは素晴らしいことなんだ。いつか私たちは何も出来ない無力であることを知るときが来る。だから、何か出来るのであれば、やろうという気持ちが大事なんだと。
 彼の話はまるで今のあたしを見通して言っているかのようだったわ。今のあたしは無力で、誰かに何かをするということは出来ない。あたしは結局、野菜も作らなかったし、家畜も育てなかったわ。あのころのあたしは再びひとりぼっちに戻ろうとしていた。あたしの家を訪ねてくる人は貧しい旅人と彼だけだったわ。旅人さんはあたしの話し相手になってくれたけれど、すぐにこの村を出発してしまう。彼はとても忙しい人だったから、あたしから声をかけることなんて出来なかった。もしかすれば、彼は誰かのためになることで、あたしがひとりぼっちになることを止めようとしていたのかもしれない。
 彼は今まであまり交流のなかった近くの町や村、国と交流を持とうとした。諸国で戦争が起こっているなんてことは旅人さんから嫌になるほど聞いたことがあったわ。だから、あたしは彼に反対したのよ。結局、彼の意見に反対したのはこれが最後で、あたしが唯一、彼は判断を間違えた、と思っているのもこれよ。〈世界の終わりの村〉は諸国から独立しているべきなのよ。元々、〈世界の終わり〉にある村には誰も攻めて来ないわ。一番近い村からでも、五十キロはある。それも冬になればかなり気温が下がる地帯なのよ。誰が遠くまで遠征して、環境の悪い領地を手に入れようとするかしら? 確かに〈世界の終わりの村〉にはたくさんの旅人が来るわ。そこで何か商売をすれば儲かるかもしれない。だけど、それは国から見れば、本当に雀の涙程度でしかないの。でも、国、あるいは町、村と交流を持ち、同盟を結んだならば、その国と敵対している国に攻められるかもしれない。敵対するものはすべて根絶やしにしたいでしょう。もう二度と敵対出来ないぐらいすべてを奪いつくす。それが何よりも争いと言うものだったわ。少なくてもほんの数十年前まではね。
 あたしは彼に説得を試みたわ。そうね、あたしが覚えているのは三回よ。もしかしたら、四回だったかもしれないし、五回だったかもしれない。あたしは今言ったようなことを何度も繰り返して言ったわ。だけど、彼は説得に応じなかった。この国は大丈夫だ。この町は大丈夫だ。この村は大丈夫だ。どこにも憎まれるようなことをしていない。そんなことを彼は言ったわ。あたしから見ると、彼は焦っているようにしか見えなかった。一昨日も話したけれど、彼は、初めて死刑を宣告された家族の末裔ということで、責任を感じていたのかもしれない。村のみんなはどう思っているかは知らなかったけれど、あの時、あたしはもうそんなことどうでもよいことであったわ。両親の罪の血が流れていようと、彼はこれ以上ないぐらい素晴らしい人間だったのだから。
 その後は旅人さんも知っての通り。彼はあたしの説得を聞かず、ある国と交流を深め、同盟を結んだ。それとほぼ同時期にその国と隣接していた国が宣戦布告を行ったわ。元々、武力というものを持っていなかったその国はすぐに倒れ、隣接していた国はさらに同盟国にも侵略の手を伸ばしたわ。いつの間にかそれは〈世界の終わりの村〉からそんなに遠くないところまで来てしまった。そして、〈世界の終わりの村〉が攻められる前日、あたしは彼のところを訪ねたわ。
 彼は書斎の椅子に深く腰掛けて、ただ天を仰いでいた。あたしの気配に気づくと、あたしのほうを見て、一言、ごめんなさいと言ったわ。よろよろと立ち上がり、こっちに来ると、あたしの目の前で跪いたわ。どうして? 私はこの村のために頑張り続けていたのに、と彼が言ったわ。彼は毎日、この村から前線に向かった若者の戦死を聞き続け、憔悴しきっていたわ。あたしは彼の頬を思いっきり張ったわ。人間を叩くのはこれが初めてだった。あたしは彼と目線を合わせるために、跪き、彼の服の襟を掴んで言ったわ。すべてあなたが悪いのだと。あたしはあなたを止めた。だけど、あなたはあたしの説得を聞かなかった。あたしの〈世界の終わりの村〉を返してと。あたしの頬からは涙がぼろぼろと流れたわ。捩子を巻くだけの人形にも涙を流せるんだなあとぼんやり思ったわ。あたしもつらかったんだと思う。だけど、今になって思うけれど、彼もつらかったのよ。お互いに被害者だった。だけど、お互いに原因に関与していた。彼はもしかすれば、あたしを責めることが出来たかもしれない。だけど、彼はそれをしなかった。彼はやはり素晴らしい人間であったのよ。
 あたしは彼にそれ以上会うことはなかった。〈世界の終わり〉でただ、無力に〈世界の終わりの村〉が焼かれ、廃墟になるすべを見ているしかなかった。毎日のように悲鳴を聞き、血の臭いを嗅ぎ、腐った肉片を見たわ。彼はきっと殺されてしまったのだろうと思うわ。誰が言ったかはもうわからない、風の噂なんだけど、彼は最後の最後まで敵と交渉しようと、何も武器を持たず、軍隊に赴いたらしいわ。もしも、これが本当ならば、彼は最後の最後まで、素晴らしい人間であったのよ。
 さて、これであたしたちを見分けることが出来た二人との物語はほとんど話してしまったわ。どうだったかしら? きっと一昨日話したこの村の歴史よりも面白くなかったと思うわ。あたしの個人史なんて何も面白いところなんてないのだから。
 いや、ただの歴史を聞くより、ずっと面白かった。そう、とても面白かった。ただの歴史を聞くよりも、君たちがどう思って人と接したのかを知ることは、とても面白い。これで、君たちを巡る人物の物語は終わりなのかな?
 いいえ。まだひとつだけあるわ。だけど、これは蛇足なの。だから、聞かなくてもよいかもしれない。簡単に言えば、あの絵描きとの話の続きよ。蛇足であるけれど、聞いてみたいかしら、旅人さん。
 私はそれに頷く。彼女は紅茶でそっと口を湿らせると、持っていた彼女らを描いた絵の表面を指先でなぞる。まるで細かな絵の具のでこぼこを調べるかのように。私も紅茶で口を湿らせ、姿勢を正す。ふと、私は疑問に思ったことを口にした。
 君の持っているその絵のタイトルはなんていうのかな?
 彼女は目をぱちくりさせながら、再び絵に視線を戻した。彼女はまるで鈴を転がすかのように、あるいはとても大切な言葉を言うかのように、ゆっくりとした口調でそれを言う。
 Chloeよ。正式には〈Chloe and World's End〉。絵描きはこの村で描いた絵には必ず〈World's End〉という言葉を入れたわ。あなたが最初に見つけた絵は〈World's End Village〉、そして、最後にもうひとつ、〈World's End Embryo〉というのがあるわ。それは蛇足の話をするときに詳しく話すわ。蛇足の話は絵描きとこの〈World's End Embryo〉を巡る物語よ。
 Chloeとは君たちのことを指しているのかい? 絵描きは君たちをChloeと名づけたのかい?
 確かにChloeには名前の意味もあるかもしれないけれど、絵描きさんはたぶん、牧場の乙女という意味でChloeとしたんだと思うわ。だって彼はあたしたちを一度もChloeと呼んだことはないもの。絵描きさんから見たあたしたちがまるで牧場の乙女のように見えたから、Chloeなんじゃないのかしら。あたしもよくわからないわ。彼は自分の絵については深く話そうとしない人だったから。それよりも、最後のお話。蛇足の話をしようと思うわ。
 ある国の虐殺が終わった後、彼らは最後に村を焼き払い、帰って行ったわ。その火はすぐに木造のほとんどを燃やしつくし、鎮火したわ。ほとんど、草木は燃えてしまい、再び〈世界の終わり〉は白と黒の世界に戻っていったわ。それは本当にゆっくり進行していったの。それは何かを忘れさせていくように、ゆっくりだったわ。あたしたちも次第に〈世界の終わりの村〉のことを考えないようになったわ。十年間、誰とも〈世界の終わりの村〉について話さなかったわ。あたしたちは旅人さんが訪れるたびに〈世界の終わりの村〉について話していたの。その旅人さんが来なくなったら、あたしたちは誰に〈世界の終わりの村〉について話せばいいのかしら?
 でも、旅人さんはやってきたの。ちょうど十年よ。あたしたちはそれに運命にも似たものを感じたし、もしかしたら本当にそんなものがあったのかもしれない。
 旅人さんは弱っていたわ。あたしたちが彼を見つけることが出来たのは奇跡的なことだったかもしれない。彼は〈世界の終わりの村〉の狭い路地で倒れていたわ。あたしたちがその日、たまたま〈世界の終わりの村〉を散歩していなければ、その旅人さんは死んでいたかもしれない。
 あたしたちは彼を家まで運んだわ。大人の男の人だったからあたしたちは苦労したわ。だから、彼が絵描きさんだったということに気づいたのは家に運んだ後だったわ。顔が薄汚れてて、顔つきもだいぶ変わっていたけれど、ところどころあの絵描きさんに似たところがあったの。
 絵描きさんが目を覚ましたのは、次の日の朝だったわ。あたしたちは彼にあなたは昔訪れたことのある絵描きさんかしら? と尋ねたわ。彼は覚えてくれたんだと言ったわ。あたしたちも記憶が曖昧だったの。だけど、かすかにあたしたちのなかに彼の記憶は残っていたわ。彼がまず最初に行ったのは、食事を取ることであり、疲れを癒すことだったわ。だけど、あたしの家には食料がほとんどなかったのよ。彼が持っていた食料も僅かだったわ。彼は弱っていたし、充分な栄養を与えなければ死んでしまうとあたしたちは昔からの経験で知っていたわ。だけど、あたしたちはどうすることも出来なかったのよ。もう〈世界の終わりの村〉からは食料は生まれないし、白と黒の世界になりかけた〈世界の終わり〉では、長い年月をかけないと植物は育たないわ。何よりあたしたちはそのすべを知らないのよ。
 結局、彼が目を覚ましたとき、あたしたちがまずしたことは、ここには食料がないことを打ち明けることよ。だけど、それを聞いて絵描きさんは絶望したり、あたしたちを恨むようなことはしなかったわ。ただ、いいんだと言ったわ。あたしたちは、どうして? と尋ねたわ。彼は、私はもうそろそろ死ぬ頃合なんだ。ただ最後に〈世界の終わり〉で死にたかっただけなんだと言ったわ。それに付け足して、このままならあと一週間も生きることは出来ないだろう。その間、君たちの話を聞きたいと。
 あたしたちは自分の無力さを呪うべきであったのよ。あたしたちは彼の死を変更することは出来ない。一週間あれば、隣の村まで言って食料を買ってこれたかもしれない。だけど、あたしたちにはそれが出来なかった。あたしたちの役割は〈世界の終わり〉で捩子を巻き続けることだったのよ。それを怠れば、この〈世界〉はきっと端から崩れていくわ。それは誰も望んでいなかったわ。この世界で一番それを望んでいなかったのは、あたしたちだったわ。だから、あたしたちは彼を見殺しにすることを呪うべきだったのよ。だけど、彼はあたしたちの話を聞きたいと言ったわ。まるで、無力なあたしたちに出来ることがあると言っているかのごとく。
 あたしたちは覚えていることすべてを彼に語ったわ。あたしたちが生まれ、すぐにあたしたちの母たちが死に、ただひとつ教えられた〈世界の終わり〉に捩子を巻き続けることを何百年も繰り返してきたこと。〈世界の終わりの村〉のこと。絵描きさんのこと。若代表のこと。そして、〈世界の終わりの村〉の虐殺のこと。あたしたちがそれに無力であったこと。あたしたちはそれらを〈世界の終わり〉に捩子を巻きに行くとき以外、彼の傍らでずっと話し続けたわ。彼はずっと話に付き合ってくれたわ。だけど、あたしたちの語れる話なんていうのはごく僅かであったの。それらは三日で語り終えてしまった。だけど、その三日後、本来ならば、ありえないことがおこったのよ。
 旅人さん、あなたも見たでしょう。あの〈世界の終わり〉にたどり着くまでの霧を。あたしたちは何百年と見てきているけれど、あれが晴れたのは一回だけ、それも三日間だけだったわ。この時だけだったのよ。あたしたちの家から〈世界の終わり〉ははっきり見えたわ。何万と何億と重なりあう歯車、黒い塊、鉄の噛み合う音。あたしたちはそれを絵描きさんに見せたわ。絵描きさんもそれに驚いていたわ。そうでしょうね。地平線の彼方まで続く黒い塊を見たのは、あたしたちも初めてだった。それを見た、彼は最後の力を振り絞って、それをキャンバスに描こうとしたわ。物置の中から、まだ使われていないキャンバスと画材を探し出して、彼は玄関の目の前に椅子を置き、そこで三日三晩、それを描き続けたわ。ちょうどそのころは冬だったから、外はとても冷えたわ。彼は雪が降りそうだと言ったけれど、〈世界の終わり〉の冬はただただ冷たい風が吹き続けるだけなの。空から白い粉が落ちてくるような幻想的なものではなく、まさに終末的なイメージであったわ。凍えるような寒さの中、絵を描くことは確実に彼の死期を近づけていたと思うけれど、あの絵が完成するまで彼は死なないとも思ったわ。それほど彼は絵を描くことに熱中していたの。あたしたちはその絵が完成することを恐れたわ。もしも、完成してしまえば彼はそのまま死んでしまいそうだったの。永遠に未完成であればいいと考えたことは何度もあるわ。だけど、描き始めてから三日目にその絵は完成してしまった。タイトルに〈World's End Embryo〉。隣に〈二人の優しい少女へ。生涯で最高の風景を〉と書かれていたわ。彼はあたしたちの予想通り、絵を描き終わった後、体調を崩したわ。そのまま彼の容態は悪化の一途を辿り、絵が完成してから二日目。彼が〈世界の終わりの村〉に来て一週間後、死亡したわ。彼との最後の会話は今でもはっきり覚えている。あたしたちは自分たちの無力について、絵描きさんのために何もしてやることが出来なかった。ただ死期を見届けることしか出来なかった。あたしたちはなすすべが何もなかったと。
 だけど、彼はこう答えたわ。それを恥じることはない、それを悔やむことはない。自分を呪うでもなく、恨むでもなく、祈るんだと。確かに私たちは時に世界には無力かもしれない。絶望的な立場におかれているかもしれない。だけど、私たちは何も出来ないわけではない。祈るんだ。ただ祈るんだ。誰かのために。それが無力な私たちに出来る最後の手段だと。
 さて、これで蛇足の話は終わり。結局、あたしたちはすべてに負けてしまったの。いつだって世界は優位であたしたちは無力で。何もすることが出来なかった。
 私も君たちと一緒だよ。私は君たちに何も出来なかった。その絵描きのように絵を残せたわけではないし、若代表のように素晴らしい人間でもない。
 だが、彼女らは首を横に振った。彼女らの一人が立ち上がり、持っていた絵を隣にいた少女に手渡す。彼女はゆっくりと私の方に歩いてくる。彼女は私の目の前に立つと、そのワンピースの裾を自分の肩のあたりまでたくしあげる。目の前には彼女の胸と、大きな穴があった。中ではせわしなく小さな歯車が動き続けている。
 旅人さんは気づかなったかもしれないけれど、あたしたちの中では昨日の音楽が響き続けているのよ。さあ、耳を当ててみて。
 私は言われたとおり、彼女の穴に耳を当てた。そこからは歯車の音と共に、ほんの僅かだが、昨日私が弾いた音楽が流れていた。それは文字通り彼女の中で響き続けていると言っていいのだろう。流れるようなメロディーと即興の音の塊が、まるでうねるかのように響き続けている。私は彼女の身体を両腕で引き寄せ、その音をさらによく聞こうとした。そのとき、彼女は涙を流しながら、震える声で言った。
 ねえ、旅人さん。あなたは何も出来なかったわけじゃない。あたしたちにちゃんと音楽を残していったのよ。ねえ、旅人さん。あなたは本当に旅人さんなの? 本当は絵描きさんや若代表ではないの? ねえ、お願い、あたしたちに教えて。どうしてあなたも、絵描きさんも若代表もみんな同じ顔をしていたの? あなたもあたしたちと同じように人形なのかしら? それともこれはみんなあたしたちが見ている幻想なのかしら? 旅人さんが決して〈世界の終わりの村〉以外の話をしようとしないことも、絵描きさんが話した嘘っぽい国の話も、若代表が同盟を結んだ国も、〈世界の終わりの村〉を攻めた国も、本当は〈世界の終わり〉以外のものなんて、この〈世界〉に存在しなくて、この〈世界〉はもともと何もなくて、〈世界の終わりの村〉も、あなたも本当はいないんじゃないの? ねえ、旅人さん。どうなのかしら? 本当はこの〈世界〉にはあたしたちだけしかいないんじゃないのかしら?
 たとえ、そうだとしても、君たちは何も出来ない。私にも何も出来ない。君たちはただ祈ることしか出来ないんだ。君たち以外、本当は誰もいないかもしれない。だけど、誰かに向かって祈り続けるんだ。ただ、その誰かが上手くいくように、祈り続けるんだ。それが無力な私たちに出来る最後の抵抗だよ。どうしようもないほどの力を持つ〈世界〉に対する、ささやかな反抗だ。ちょっと強い風が吹けば、消し飛ばされそうになるけれども、決して消えない力、それが祈りだ。だってそうだろう? 君たちはいつだって〈世界の終わり〉に捩子を巻いているじゃないか。それが祈りなんだ。祈り続けている限り、君たちは一人じゃない。誰かと繋がっているんだ。孤独に打ちひしがれそうなとき、祈るんだ。誰かに向かって。きっと絵描きさんもそう言いたかったんだと思う。
 彼女は私の頭を抱いて、泣きじゃくった。彼女らは何百年の間、孤独で、誰かと関わっていられたのはほんの一瞬で、誰かと繋がっていたかったのだろう。彼女らは〈世界〉に対して、敗北し続け、これからも敗北し続けるであろうことを知っている。そして、死ぬまで敗北し続けるのだ。絵描きも、彼女らに祈ることを教えたのはほんの気休め程度のことであったのだろう。私もそうだ。実際、繋がっているわけでもないし、この〈世界〉に勝つことは、絶対にない。
 だけど、祈ることに必要なのは、その行為について盲目的に信じることなんだ。私と君たちは繋がっている。それを信じるだけでよい。ただ、祈れとはそういうことなんだ。
 彼女は長い間、泣いていた。まるで今まで耐えてきたものを吐き出すかのように。彼女らには泣く資格があったのに、それに気丈に耐えてきたのだ。孤独に心を押しつぶされそうになりながらも、凛と生きてきたのだ。やがて、嗚咽が小さくなり、彼女は私の頭をそっと話した。彼女の目は泣き腫らしたのだろう、真っ赤になっていたが、すがすがしい笑みに満ちていた。
 ありがとう。旅人さん。本当にありがとう。
 彼女はそう言うと、少女のもとへと行き、小さな声で耳打ちした。それが捩子を巻くことだというのはすぐにわかった。彼女らは〈世界の終わり〉に向かう準備を始める。私もここを出る準備を始めた。特に持っていくものはなかった。手風琴を持ち出そうと思い、倉庫を空けたが、手風琴はなく、そこには真っ白な砂があった。もしかすると手風琴は一晩のうちに砂となってしまったのかもしれない。
 荷物を持って、居間に行くと、ちょうど彼女らも準備が出来たところであった。私たちは一緒に家を出る。家の前で私は彼女らにお礼をした。彼女らは私を見ながら、口を開く。
 いいえ、あたしたちも久しぶりの旅人さんで、とても嬉しかったわ。
 私たちはお互いに逆の方向に向かって歩き出した。私は〈世界の終わりの村〉のほうへ、彼女たちは〈世界の終わり〉のほうへ。丘を降りる途中、私は一度だけ振り返った。空からは、灰色の雲の隙間から、〈世界の終わり〉に向かって、まるで祈りを捧げる少女たちを祝福するかのように光が伸びている。〈世界の終わり〉は太陽の光によって照らされていた。霧は晴れ、地平線の彼方に延々と伸びる黒い塊が見える。小さな音で、金属のぶつかる音、歯車がかみ合う音、〈世界〉の胎動する音と共に、小さな粒のような黒い影が〈世界の終わり〉にあった。彼女らの今日も世界が美しくありますように、そして、すべての人が無事で一日を過ごすことが出来ますようにという声が聞こえてきた気がした。
 彼女らは、いつか朽ち果てるまで祈り続けるだろう。
 私は再び、〈世界の終わりの村〉に視線を戻すと、指先から少しずつ砂になってゆく感覚を感じながら、大地に膝をつき、天を仰ぐ。体はすでに動かなかった。私が最後に見た景色は雲の切れ間から、降り注ぐ光だった。私はそれを掴もうとした。それが彼女らの祈りだと思ったからだ。
 私が腕を動かそうとした瞬間、体は本来の砂へと帰った。
 

                           

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