『歓喜の魔王III REGENFAELLS NUNTIUS. ~ der erste Teil.』(2)

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■三節 祝福されし屍の夢──das Heil der Seele.


「……」
 沈黙。黙殺。絶句。とにかくお前の命令にマサクが返したのは、無言と無視の二つのみだった。情状酌量の余地があるとはいえ、我が娘の命令を拒否するとは大した蛮勇だ。眉間にシワを寄せながら、お前はマサクの顔を覗き込み、そこにある命令不服従の真意を見出そうとした。
 黒、いや黒に近い焦げ茶色の髪と瞳に、のっぺりとして彫りの深くない顔。一瞬アジア系を連想するがどうにか白人の範疇に入るその顔立ちは、元々表情が読みにくい。試しにお前は肉の薄い頬を抓ったが、口端を引っ張られている以外の変化は起こらなかった。諦めて指を離す。
「…………」
 沈黙の二倍返し。どうやら何か訴えているようだな、我が娘。そうしている間にも、緩慢な動作で鎖の獣が寄って来ている。
「分かったわよ、そんなにマサオが嫌なら、こっちだって別の呼び方を考えるわ」特別に笑顔もつけてやろう。「──マーくん♪」
 ビキシッと、硝子にヒビが入るような音がした……ような気がした。無表情なまま固まったマサクの面に、隆々と青筋が浮いている。
「嘘よ」お前は頬に手をあて、首を傾げてしばらく思考を巡らせると、改めて号令をかけた。「行け! 死神!」
 駆ける寸前、ごく小さく溜め息を吐いて、マサクは戦端を切った。投げナイフで獣を牽制しつつ、距離を詰め大鎌を一閃。お前はその背を見ながら、天に突き上げよといわんばかりに、しかと拳を握り締めて決意した。獣は図体に見合わぬ俊敏さで、軽快に大鎌を上へ左へ避けて見せる。
「むぅ、前回も今回もワガママなやつ! いつかちゃんと躾けなくちゃならないわ」そこで拳を解き、両の手をしっかと握り合わせる。「大体私じゃなくてお父様の部下だっていっても、お父様と私は一心同体なんだから、もっと素直になんなくちゃいけないわ。殺人鬼だか親衛隊員だか知らないけれど、この私のつけた名前が不服だなんて許さないわよ。もう死んでるって所が残念だけど、あの無愛想な仏頂面がマサオって呼ばれて嬉しそぉぉぉ~に返事するようになるまでじっくり、たっぷり、強制的に、しっかり仕込んでやらないと……ねぇ、お父様? 好きにしちゃっていいわよねっ」
 落ち着け、彼岸から此岸に帰って来い、我が娘。まあ、お前が年長者や見目麗しい年少者を屈服させる事に無上の喜びを感じる体質はまあ仕方ないというか私にも教育の過程でなにやら落ち度があったかとは思うが、ええ、その。ほ、ほれ、卿らからも何か一言二言三言苦言を。
「この父にして……この娘あり……!」おおい!? な、何だニコラス。私は卿に何かしたか!「何かしたかですって!? ええそりゃしましたとも、しまくりましたとも、私が長年貴方にくだらない事でからかわれ続けたのをお忘れか!? 貴方が死ぬかもしれないと死に物狂いで体力も精神力も使い果たして事を成し遂げてみりゃ、『ありゃ嘘だ』の一言で一切合切済まされて、それでも貴方から謝罪の言葉なんて戴いた事がない! 嗚呼……っ、やっぱりこの魔女は貴方の娘だ! 直系の、直結の、純っ血の愛娘だとも! 間違いない、疑いようもない、魂の親子なんだあ!」
「多くの人間は普通自分の名前に愛着を持つ事が多い。が、それを剥奪し屈辱的な名前をつけ、相手がそれを受け入れるまで呼び続けるという行為は、拷問と自白に必要な屈服した精神を醸成する上で有効な手段であり~」
 あまり覗きたくない類いの花園から現実に帰還するなり、お前はヘルモルトの尻を蹴飛ばした。こやつはこやつで、何の朗読を始めておるのだ。マサクは黙々と戦って、今もトゥバルカインと大立ち回りを演じているというのに。おお、ゴンドラが落ちる。この大観覧車、倒れるかもしれんなあ。
「分かったわ、へも介。あんたの名前は今からウオノメよ」
 地面に落下し、盛大に潰れるゴンドラの破砕音が、雷鳴のようにお前の発言に重なった。背景に稲妻が走ったかのような錯覚さえ起きる。
「ごめんなさい」慣れた仕草で素早く土下座。
 さすがヘルモルト、見事な身のこなしだ(プライドが軽いとも言う。何せ地面は濡れているのだ)。身のこなしついでに、そろそろこの場を離れるぞ。支柱に随分ヒビが入った。この調子では、落ちてきたゴンドラの直撃を受けるのが先か、倒壊した本体の下敷きになるのが先か分からん。
「あっ、マサオは?」
 元気にやっとるぞ。退避しながらお前が見た光景は、ちょうどマサク・マヴディルの大鎌が、獣を頭から臀まで一刀両断した瞬間だった。
「やった!」まだだ、喜ぶのは早い。「あーん」
 まずは〝一皮〟向けて前座は終わり。さて、ここからが本番だ。
 獣の切り口から、据えた臭いのする泥のような血が流れ出す。一瞬、左右の体が流れ出した血を取り戻そうとするように、四肢を大きく震わせ、そして弾けた。汚らしい血膿と、千切れた鎖の破片が爆散する。私はマサクを呼び戻し、お前とニコラスに覆いかぶさるような姿勢で守りに就かせた。
 砕けた鉄の環が、礫のように弾丸のようにナイフのように、マサクを打ちのめし、突き刺し、叩きのめす。
「マサオ!?」案ずるな、我が愛娘と我が盟友に、みすみす私が傷をつけるものか。「でも、お父様……」
 マサクが心配か? 死者の傷を案じて何とする。こやつの体は既に屍、傷ついて血を流すのは、生前の記憶がそのような反応を起こしているに過ぎん。幻覚のような物だ。私とお前、そして〝神曲〟が健在であれば、こやつは何度でも復活する。まあ、修復には相応の時間も必要だが。
「そそ、だからお嬢様は、アタシらの心配なんてしなくていいのよ。旦那の心配は、アタシがするからさぁ」
 いつの間にかお前の傘を取り、お前達を血膿の雨から守っていたヘルモルトが、道化た調子でそう言った。然り。死者の心配は死者同士ですればよかろう。生者は死者を心配などしない、そしてこやつらには冥福さえ祈る必要すらない。我が魂の内こそが、騎士の冥土よ。
「道具と同じだと思っておけ」卿のそれは極論だと思うがな。
 さあ我が娘と我が友に降りかからんとする脅威は去った。立て、マサク・マヴディル。打たれた箇所が疼こうと、刺された傷口が痛もうと、それは貴様の夢だよ。生きていた頃の感覚だ、肉体の束縛から解き放たれた己の姿を思え。そうだ、立て、そして主の敵を見据えよ。
 血膿と鉄屑の散らばるアスファルトに屹立する赤と黒。風に翻るマントのように、広がった赤い髪が独りでに収束し、一つの房に編んでいく。完成した三つ編みを掴み、黒衣の騎士はそれを首に巻いた。白い首に嵌められた鋼鉄の輪に、ふわりと赤毛の房が被さって、襟巻きのように優しく包む。
 鉄の首輪をつけた優男は、一つしかない金色の目でお前達を見て、にやりと笑った。
『es findet《みつけた》. 』
 ベルト代わりに腰につけられた装飾鎖と、黒革の眼帯が、どこか軍人らしくない如何わしさを醸し出す優男だ。だが顔の造作に対して、なよっとした貧弱さのない筋骨詰まった長身は、むしろ猫科獣のしなやかさを備え、気負いなく伸ばした背筋の中に、油断なくたわむバネがある。
『Mutti《かあさん》……. Mutti, Mutti, Mutti. 』
 隻眼の騎士は、自らの眼帯に手を当てて、恋煩いのような熱に浮かされた口調でぶつぶつと呟き始めた。
『嵐《てんぺすとぅす》……、嵐を招く者。歓喜を寄す人《あいんへる・あん・でぃー・ふろいで》。大首嗚領殿呼、自分は貴君を殺さねばまさかならない、貴方そうだ、なのか。間違い許されない。ない。』
 ハン、私を殺さねばならない、とな。それが貴様の〝母〟から受けたお使いという訳か、トゥバルカイン?
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない」
『ハツする気か、抉る手前ェぞ! 邪から死神魔まずは野郎。』
 マサクは一歩進み出て、背後のお前達を守るように大鎌を構えた。忌々しげに敵意を向けながら、トゥバルカインも前へ躍り出る。横へ伸ばした腕の先、袖口から蛇のように三本の鎖が伸び、鞭のようにしなりながら、マサクに殺到した。鉄と錆がこすれ合う、鎖の鳴き声が風を貫き、突き進む。
『Zum Henker《くたばれ》!』
 マサク一人ならば容易く避けられるが、背後のお前達を危険に晒す事は私が許さない。重量と速度で、鞭と言うよりもしなる刃と化した、それを迎撃すべく前へ。前進の踏み込みと共に振り下ろす刃で二本を絡め、刃を環に咬ませる。そのまま捻りを加えながら一回転し、逃した三本目を回る柄で打ち据え、三つの鎖を同時に破砕。澄んだ音で鎖が砕け、破片が撒き散らされる空間の只中にトゥバルカインは突っ込んだ。
 白い手袋に巻きつく赤錆の鎖。鋼で鎧った拳がマサクの頬を殴り抜く。血の糸を引いて頭を横に流しながら、マサクは傾ぐ全身の体重を乗せた蹴りをカインの脇に見舞った。つま先から伸びた仕込みの刃が、食い込み損ねて黒衣を裂く。鼻で笑って、カインはその足を掴もうとしたが、それより先にマサクが地面を掌と石突でつき、全身を捻って跳び起きた。制帽が落ちたが、もはやそれを気にかけている時ではない。
 両者の距離が開いたが、双方そのまま動きを止め、相手の出方と機を窺う。
 ヘルモルトの差す傘の下で、雨の音が強くなるのを聞きながら、お前は不安と焦燥を覚えた。
「ねえニコ、へも介。マサオは勝つわよね?」
 短いが、はっきりと戸惑いの感じられる間が開く。お前の望む答えを、二人は即座に返す事が出来なかった。
「旦那は強いけれどね、**坊やとは相性悪いんじゃない? ……アラ」死者の名前を口にするでない。
「Xは防御を捨てて攻撃と運動速度に特化した騎士だ。戦いが長引けば、まず奴の方が不利になる。防御はないから、攻撃に対しては迎撃するか回避するかの二つしかない。当たれば、耐久性に乏しいからすぐに終わる」
「カインはねー、逆に持久力を幾らでも補給できちゃう子だからねー。粘り強いってゆーか、しつこいってゆ~かー」
 ニコラスとヘルモルトの言葉に、お前はようやくホルスターから銃を抜いた。P230の安全装置を解除。私としては、あやつが負けたら即座に逃げるが勝ちだと思うがな。マサクも一度やられてしまえば、使えるように回復するまでほぼ丸一日かかるだろう。
「……マサクの旦那も、可哀想に」
 呟きながら、ヘルモルトもどこからともなく古臭い銃を取り出した。拳銃でありながらやけに肥大した銃身が邪魔臭そうな、特徴的な形状はモーゼルC96。貴様、それを出すならP90を出したらどうだ。まあ、多少の火力の違いなどこの場合無意味だがな。
「いやあ、使い慣れた物の方がつい取り出しやすくて。申し訳ない」
「幽霊って便利ね」
 うむ、衣服に魂が宿るかどうかはともかく、裸で死んだのでもない限り、裸体の幽霊という物は滅多におらんからな。死者は生前使い慣れた物の記憶を持っている、そして衣服を着るようにそれを自分の幽霊に付随させる。武器が取り出せるのも、同様の理屈というわけだ。
 雨音の中で、不吉な軋みが徐々に大きくなっていく。ゆっくりと傾き始めた大観覧車の頂点で、ファンシーな色使いのゴンドラがまた一つ、苦しげに揺れていた。熟れ過ぎた果実が寿命を迎え、落ちる寸前のそれに似ている。恐らくあれが落ちた時、再び戦陣の火蓋は切られるだろう。

■四節 紅闇《くらやみ》──dei Blutig Graefin.


◆  ◆  ◆

 夕闇の奥底で、緋の双眸がそれを見ていた。
「そうよ、アル。死神など早くやってしまいなさい。道化は動きさえ止めておけばいい。貴方の呪わしい心臓が渇くがままに、その茨の棘と毒でもって、かの嵐を引きずり出すのよ! ああ待ち遠しいわ、待ちくたびれちゃうわ、母さんを愛しているなら退屈させないで」
 興奮と共にまくし立てながら、血のようにぬめる赤の舌が唇を舐めた。
 少女が腰かけるのは、骨董品と言ってよい機関砲。ただし普通の機関砲でなく、わざわざ銃床が滑って座席を確保する作りは、銃ではなく装甲箒《P.B.》のものだ。空飛ぶ大砲にして、火を吹く鉄の箒。従軍魔女達専用に、帝国がかつて開発した兵器の生き残り。
「Exz.テンペストゥス。私達の大首領様。貴方はもう時代遅れの存在なのよ、私だってそうかもしれない。けれど、私は生き残って見せるわ。貴方の愛娘を魔女裁判にかけ、我が鉄槌の裁きのもとに、七つの悪の剣を叩き折ってあげる!」
 夕闇の世界に広がる空には、太陽がない。雨を降らせて少女を濡らす事もなく、ただひたすら、斜陽の色に彼女を染めるだけ。彼女の世界、彼女のための異界。雨などと煩わしい物がそもそも存在する道理がない。彼女を煩わせる物が、彼女の世界に存在を許されるはずもないのだ。
 一を十とし、九は一にして、十は無なり。かくて魔女の方程式は成就せん。
 果てしない夕闇の奥底で、紅い少女は独り呟いて笑い続けた。

◆  ◆  ◆

 そしてゴンドラが落ちた。
 湿ったアスファルトで鎧われた大地に叩きつけられ、哀れな吊り篭の天地が逆転する。その体を押し潰すのは、自身の重量と落下速度を破壊エネルギーに変えた重力の鎚。残骸は鋼の臓腑を吐き散らし、屑鉄の断末魔が流れる中、吸血鬼と死神がそれぞれに戦端を切る。
 トゥバルカインの両袖から鎖が奔流となって溢れ、空中に巨大な刃を描いた。大気と雨群を蹴散らして迫るそれを死神の鎌が迎え撃つ。刃が環を咬み、環が刃を砕き、互いに喰らい合いながら無数の雨滴を更に無数の霧に変えて、けたたましい鋼鉄の協鳴を奏でた。
 大鎌が一閃し、鎖の第一陣を退けて進路を確保。津波のように迫る第二波に黒い疾風が突き刺さり火花を散らす。殺到する鎖の一本一本は速度の上で大きく遅れを取るが、それを数で補い力押しで死神を呑み込みにかかった。それでも尚、マサクの並外れた敏捷さは数の力を蹴散らしていく。
 精密な制動など考えていないのではと思う、直線距離を走り抜けるような速さの中で、繰り出される刃は針に糸を通す正確さで確実に極められていった。一秒をミリ秒単位に裁断する極限の動き。その間隙を縫い、砂利を踏む音で鎖が腕に絡む。
 血肉を握り潰し骨身を軋ませる毒蛇の縛めを、茨の幻影ごと強引に振り払った。外套の袖が裂け、布の下で抉れた肉が血をしぶいて雨を飾ったが、マサクに与えられた使命は戦闘の継続を最優先に叫ぶ。骨は折れていない、問題なし。
 だがその先に待つ十重二十重の包囲網こそが本命の罠。速度で劣るなら予測で上回れば良い道理、予め設置されていた縛鎖の群れが一斉に鎌首をもたげる。気づいた時には吸い込まれるように嵌まり込んでいた。間に合わないと思考する間に鎖達の爪牙が死神の象徴に喰らいつく。
「マサオっ!?」
 お前の悲鳴にへし折られ打ち砕かれる大鎌の鳴き声が重なった。
 だが持ち手は得物を犠牲に包囲網を突破している。帽子を失った頭は元々黒に近かった焦げ茶色の髪だったが、水分を含んで艶やかな黒に変わっていた。ぼとぼとと毛先から零れ落ちる滴が目に入り視界を奪おうとするが、それを皮膚感覚と直感で補って動く。
 自らの大鎌を捨てて、両の手にナイフを抜くマサクの首元に、私は濡れるロザリオを見た。あの神父崩れめ、まだ後生大事にそんな物を持っているのか? 哀れな奴め、莫迦な奴め。……だから貴様は他のどこにも行けないのだ。こうして、戦い続けるしかない。おそらくカインもそうなのだろう。
 ほぅ、という溜め息が漏れる。何事かと訝しげな目を向けると、傘持ち役に徹していたはずのヘルモルトが、何やらうっとりとした表情で戦況を見守っていた。熱に浮かされたよーな、というか。これにこういう形容をつけるのも何だが、恋する乙女のよーな、まあそういう表情だ。
 訊きたくないなあという思いと裏腹に、ついお前は好奇心に負けて訊ねてしまう。
「ちょっと。どうしたの」
「……え。ああ」はっと我に返った様子でヘルモルトは応えた。「どうしたもこうしたも~、旦那、綺麗じゃない」
「どのへんが」
「あの戦ってる動きが! もー、凄いでしょ!? 怖いくらい格好い……ぉうっ」
 額のど真ん中にナイフを受けて、ヘルモルトは泥水を跳ねながらひっくり返った。傘が無くなって冷たい雨に晒されたお前が、眉をしかめながら彼方を見遣ると、そこには後ろを見ぬままナイフを投げた直後のマサクがいる。はは、流石の腕前だな。対してニコラスはやれやれ、と嘆息混じりに言う。
「放って置いてもいいが、傷口に異物があると閉じんからな。それを抜いてやらんと再生せんぞ」
「うっわ、手間かけさせるわねー。私まで雨に濡れるし、ったく、もー」
 ヘルモルトが落とした傘をニコラスに渡して、お前は二度三度ナイフを引っ張った。刃は鍔元ギリギリまでしっかりと埋まっており、肉を咬んでいるのか、がっちりと突き刺さってびくともしない。舌打ちして、お前はブーツでヘルモルトの顔面を踏みつけると、それを足がかりに柄を引っ張った。
 まあ、せめて鼻骨は折らんように気をつけ……(ブキン!!)ああ、やってしまった。
「──っやだぁ、靴が汚れるじゃない!」
 靴についた鼻血を忌々しげに地面にこすり付けながら、お前は引っこ抜いたナイフを拾っておく事にした。抜き身のままでは危険なので、濡れ髪を拭いたハンカチにくるむ(血は、血糊防止の油が塗られていたおかげで、殆どついていなかった)。
「ひ、人《ひほ》の鼻《ふぁな》、折《ほ》ってほいて……」
 ヘルモルトは起き上がりながら、粘土でも捏ねるようにグニグニと自身の鼻をいじって形を整えた。一方、魂の存在として精神的な繋がりを有する私には、マサクの(外野、少し黙れ)とゆ~ドス黒い苛立ちがビシバシと伝わってきておる。生前ならもう二、三本ナイフが飛んできた所だろうな。
 肉の削げた腕から濃い血の糸を引きながら、マサクの進撃が速度を増す。その勢いに抗おうと伸びた数本の鎖が叩き落され、一本が肩の辺りを打ち据えた。滴る血は地面に落ちて雨に混じる猶予すらなく、重力を振り切って真横に流れる。それでも尚、死神の進撃は止まらない。
『Mist《チィッ》!』
 ついにカインが後退した。後ろ向きに跳びながら、大観覧車の支柱に取りつく。それにマサクが追いすがり、全長五十メートルの観覧車を舞台に追いかけっこが始まった。地上をみるみる置き去りにしながら、高度をまるで感じさせない軽快な動きで支柱を登り切り、たちまち地上二十五メートル。
「うっわー、あんな高い所でよくやるわね」
 見上げれば、百億の水滴と、雨にけぶる大観覧車の姿。その上で戦っているはずの、自らの僕の姿を探すお前にニコラスが応える。
「このくらいの運動が出来なくて何のための騎士だ。それより、そろそろ決着をつけてもらいたい処だがな」
「そうねえ、もう鎖に触っちゃったし」
 口を挟んだヘルモルトの言葉にお前は首を傾げた。
「あの鎖って何かヤバイの?」
「迂闊には触れんくらいには、危険だな」
 ニコラスはそう言った切り黙った。お前は回答を求めてヘルモルトを見遣るが、そちらはニコラス以上に観覧車上の戦いを注視しており、こちらの視線に気づいた様子は微塵も無い。あるいは、気づいていても今は無視しているのかもしれないが。お前は回答を得る事を諦めた。
 さておき、そろそろ我々は引き上げるぞ。
「えっ? お父様、マサオはどうするんですか」
 放っておけ。勝つなら勝つが負けるなら負ける。まあ、互いの実力が伯仲しとるからな、マサクが一歩上を行けるよう手は打つつもりだが、魔女の入れ知恵が気になる。奴ははっきりと、私を殺すと言ってきた。曖昧な思考しか出来ん亡霊の言葉とは思えん。奴を操っている者がいるのだ。
 我々は紅き魔女の釣り餌に食らいついた魚だ。ならばせめて、網を抜け出す算段はしておきたい。侵入口に戻るぞ、何、離れたからといって騎士が制御出来なくなる物でもない、これより我らは別行動だ。お前がすべきは、己が騎士が勝つと信じる事、そして退路を確保する事だ。
「分かりました。……がんばんなさいよ、マサオ! 負けたら名前をマーにするからね!」
 八つ当たり気味のナイフがヘルモルトの側頭部に刺さった。またか。ははは、荷物になるようなら置いていくぞ、貴様。

■附 鉄鎖連なる幕引き──Dorn von Doppelsauger.


 廃園となって長いこの遊園地に侵入するにあたって、我々は正規の入場門など使用してはいなかった。大観覧車から離れること数百メートル、ゲームセンターの裏手にそびえる鉄柵の一箇所。侵入する際に人目につかなかろうと選んだその場所に、マサクに開けさせた穴があった。
 連なる鉄棒を切り取った穴は、お前が少しばかり猫背になって、やっと潜り抜けられるほどの大きさだ。この鉄柵自体はドブ川沿いの路地に面していて、人通りもない。コンクリートで固められた川は、今は雨にかき回され、暗い灰色の水面が沸き立っている事だろう。
 まあそれも、ここを潜り抜ければすぐに確認出来る光景だ。お前は出口を前に、ヘルモルトから傘を受け取って大観覧車を見上げた。雨にけぶるほの暗い影は輪郭だけを空に写し、そこで戦っているはずのマサクとカインの姿は見えない。
 やがて、観覧車がその巨体を大きく震わせた。一度、そして二度。熟し過ぎた果実のようにゴンドラが危うげに揺れ、その内の一つが落ちる。それが潰れる音に重なって、ぢゃらららっ……と、鎖の鳴き声が凶兆めいた響きをあげた。
 踏まれる砂利の呟き、澄んだ金属の唄い、不吉を連ね不快を誘う錆と鉄の協奏。ああ、鎖だ。楕円の金属環を延々と繋げた呪縛の鉄縄が、まるで繭を作る蚕のように大観覧車の車を覆っていく。そして、直後に玉つきの大観覧車は、ゆっくりと倒壊していった。
「……マサオ?」
 まるで時間を引き延ばせば引き延ばすほど、残された結果により一層の絶望を与えられるとでも主張するような、緩慢な時間が流れる。耳を圧する大音量も、ゴムのように引き延ばされて感じられたため、それは全て静寂の中の出来事のようだった。
 先ほどまで観覧車の輪郭が映されていた空は、それが崩壊した後のぽっかりと空いた存在感を主張する。物音を吸い尽くすような万本の雨に囲まれて、凍りついたような静けさが一層、虚ろな圧力を感じさせた。ここからでは何も見えないという事実が、お前の不安と想像を掻き立てる。
「負けてたら、承知しないんだから」
 姿を確認する事の出来ない下僕に向かって、お前はぽつと呟いた。

(Fortsetzung folgt. )

作中の一部にてNSDAP党歌「ホルスト・ヴェッセルの歌」(Horst-Wessel-Lied)を参考にさせていただきました。

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