『私の英雄』

『私の英雄』

著/星見月夜

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 玄関の鍵を開けて、無言で家の中へ入る。わざと足音を立てて階段を上がって、二階へ。廊下を進んで突き当たりの部屋。この扉の向こうが、アイツの部屋だ。
 大きく息を吸ってから――強引に、力いっぱい、憎しみを込めて、引き戸を開けた。
「起きろバカ!」
 私の大声に、ベッドで寝転んでいたアイツがもぞもぞと動く。動いたけれど、起きるつもりは一切ないみたいだ。いつものことながら腹が立つ。
 ずかずかと部屋を進んで、窓辺に。勢い良くカーテンを開けると、外はもう夕暮れの朱色に染まっていた。まばらな家々と、そこかしこに立ち並ぶ木々。この町のどこにでもある風景。
 澱んだ匂いと滞った空気を入れ替えるために、窓を目いっぱい開ける。やっと涼しさが感じられる季節になってきた。そろそろ朝晩は毛布が必要になるだろう。そうなれば、すぐに木々は葉を落とし、長い冬が訪れる。
 視線を部屋の外から、中へと戻す。薄暗い、散らかった、埃臭い部屋。埃の匂いだけじゃない。汗やら何やら分からない匂いの充満した、男の人の部屋。溜め息を吐くために息を吸うのですら鬱陶しい。
「さっさと起きて、少しは部屋片付けなさいよ!」
 ベッドの縁を、苛立ちを込めて蹴り飛ばす。ゆっくり十数えるくらいの間があって、やっとアイツが――高志《たかし》が、顔を上げた。
 無精ひげも髪の毛も伸び放題。寝癖で酷いことになっている前髪をやる気なくかき上げて、高志が言った。
「千代《ちよ》か」
 かすれたような、寝起きの声。意味のない、名前を呼ぶだけの、確認するだけの言葉。
「私以外に誰がアンタの面倒見てくれるってのよ! 叔母さんに頼まれてるんだから、仕方ないでしょうが!」
 高志は焦点の合わない目を私に向けて、何かを言おうとしていた。けれど、結局は何も言わず、喉の奥を「ん」と鳴らして済ませた。
「叔母さんだってそろそろ退院するんだから、アンタしっかりしなさいよね!」
 面倒臭そうに顔を背ける高志に、思わず奥歯を噛み締めた。言ってやりたいことは、いくらでもある。
 女手ひとつで高志をここまで育てた叔母さん。倒れるまで働いたのに、高志はその間部屋に引き篭もっていただけだった。警察官だった叔父さんは、高志が小学校に上がった年に事故で亡くなった。私が生まれた年のことだ。今でも居間の仏壇には写真が飾られている。この家は、その叔父さんが残してくれたもの。
 高志は都内の大学を卒業してすぐに就職して、すぐに退職した。ここから離れた街の公立高校で、現代文を教える教師だった。それが今ではこの様だ。
 そういったあれこれを考えれば、私が言いたいことなんて山のようにある。こんな男と子供の頃からの付き合いだなんて、情けなくて涙も出ない。
「家のこと、全部やってくるから。せめて自分の部屋くらい掃除しなさいよね」
 掃除、洗濯、夕食の準備。叔母さんが入院している間、週に一度はこうして様子を見に来ている。学校帰りの貴重な時間を使って、制服のままで、だ。
 油の切れたロボットのような動きでベッドから這い出る高志を見て、私は踵を返した。やらなければいけないことは、本当に山積みなのだ。それよりも、何より――
「アンタ、まずお風呂入って、ひげ剃りなさいよ。すぐ用意するから」
 不衛生な男は、大嫌いだ。


 一通りのことを済ませて帰宅すると、もう夜の九時を過ぎていた。「ただいま」の声に、お母さんが「おかえり」と返してくれる。いつも通りの、当たり前の会話。
「お父さんは?」
 廊下から居間を覗き込んで、キッチンにいるお母さんに声をかける。
「お風呂入ってるわよ」
 何となく悔しい気分を味わいながら、自分の部屋に。鞄をベッドに放り投げて、その上に制服を脱いで放り投げる。部屋着に袖を通して、お母さんの手伝いをするために、また部屋を出た。


 夕食は、家族三人揃って食べる。子供の頃にお母さんが決めた、家族のルール。ちなみに、このルールを一番多く破っているのは当のお母さんだったりするのだけれど。
「高志君、元気そうだったか?」
 私は溜め息混じりに「相変わらず」とだけ答えておいた。お父さんはそれ以上踏み込んでこなかった。
「通子《みちこ》さん、早ければ来週にも退院なんでしょう?」
 高志のお母さん、通子叔母さんは、お父さんの従妹に当たる人。昔はこの近所に住んでいたらしい。
「今週末に検査をして、その結果次第だけどな」
「やっと私の仕事も終わる訳ね」
 叔母さんが入院していた間、毎週あの家でアイツの世話をしていた。それももうすぐ終わるとなると、清々する。本気ですっきりする。
「けど、高志君の様子を見るって言い出したの、千代本人じゃなかったか?」
「あれは……お父さんとお母さんが半ば強制的に決めたんでしょうが」
 うちは両親共働き。通子叔母さんには近くに親戚がいない。家政婦さんを頼むような余裕はないし、私もアイツもひとりっ子。叔母さんが入院した当初、アイツをうちで預かるという話が出たこともあった。この家にはいくつか空き部屋があるし、ひとりくらい家族が増えても負担にはならない。でも、その話を断ったのは高志本人だった。理由は知らないけれど、どうせ大した理由でもないのだろう。あんな奴の考えていることなんて、理解したくもない。
 ということもあって、何故か私にお鉢が回ってきた。当然断った。そして、当然却下された。多数決って酷い文化だと思う。
「一通り家事を仕込んでおいた私に、少しは感謝して欲しいわね」
「いっそ家事なんて出来ない方が良かったかもね」
 重い視線を向けても、お母さんはにこにこと微笑むだけ。どんな母親だ。
「それにしても、もうどれくらいになるんだ?」
 お父さんが言ったのは、アイツが引き篭もるようになってから、ということ。
「もうすぐ三年」
 アイツは私の七つ年上で、今は二十四歳。引き篭もり始めたのが、私が中学校二年の秋口で、今の私は高校二年生。
 三年間。あまり短い時間じゃない。私の身長が二十センチ伸びて、体型が別人のように変わるくらいの時間だ。あれほど気になっていたニキビも、今じゃすっかり消えたし。
 代わりにアイツは青白くやせ細り、言葉を忘れたのかというくらい、無口になった。
「健康ならそれだけで構わないんだが、少しは体も動かさないとなあ」
 お父さんは悠長に構えている。何でも、結婚する前に今のアイツと似たようなことをやっていた時期があったらしい。もっとも、当時は学生闘争だの何だの社会的な風潮があったので、今のアイツと全く同じ理由ではないのだろうけれど。
「酒も飲まず、煙草も吸わず、運動もせず、勉強もせず、か」
 食後のお茶を啜ってから、明後日の方向を見ながらお父さんが呟いた。
「羨ましいなあ」
「ときどき、お父さんの娘ってことが恥ずかしくなるよ」
 本音をばっさり言う大人は、はっきりと教育に悪いと思う。
「私にとっては、最高の旦那様よ? 浮気するほどの甲斐性もないし、へそくり出来るほど器用でもないし」
「分かった。両親が非社会的だと、子供が自衛のために成長するんだわ」
 半ば悟ったような心境で、うめくようにして声を絞り出した。
「まあ、それはそれとしても。高志君は、何を考えてるんだろうなあ」
 湯のみを置いたお父さんの一言は、私もずっと疑問に思っていたことで。でも、それを知ったところで面白い話じゃないのは目に見えている。
「全く……」
 溜め息を吐くだけでは、問題は何も解決しないのだけれど。


 私が物心ついたときには、アイツのお父さんは亡くなっていた。アイツは、まるで私の本当の家族みたいにいつも家に来て。宿題をしたり、一緒に遊んだり、おやつを食べたりしていた。小学校に入るまで、本当にお兄ちゃんなのだと思っていたくらいだ。
 だんだんと顔を合わせなくなったのは、確かアイツが高校受験を控えた頃だったと思う。
「先生になるんだ」と言ったアイツは、当時の私よりもずっと子供っぽい目をしていた。きらきらと、夢見る少女のような眼差しだった。
 県内でもそれなりに名前の知れた高校に何とか合格して、顔を合わせる機会が更に減った。勉強で忙しかったのもあるだろうし、叔母さんを助けるためにバイトをしていたから、というのも理由のひとつだろう。でも、それでも家に来れば私の話し相手や相談相手になってくれたし、勉強を見てくれたりもした。
 今となってはどうでも良い話だけれど、当時の私はちょっとしたいじめに遭っていた。暴力を振るわれることはなかったけれど、言葉でだって人は傷つく。そんな私にとって、高志みたいな人がいてくれることは、とても嬉しいことだった。
 けれど、高志は変わってしまった。それも、良くない方向に。
 大学を卒業したアイツは、すぐに公立高校へと通い始めた。今度は教師として、だ。電車で片道一時間半かけて、この町から通っていた。ぴしっとしたスーツとネクタイ。髪の毛までしっかりと決めて、革靴で駅までの道を歩いて。
 そんなアイツが、ある日突然部屋から出てこなくなった。最初はみんな心配して部屋に顔を出していたのだけれど、アイツは何も語ろうとしなかった。もちろん、教師の仕事も退職した。あれだけ真っ直ぐに夢を語って、その夢を叶えたのに、一年もせずに自分で壊してしまった。
 あの時期、一度だけ高志の顔を見に行ったことがあった。でも、何も話してはくれなかった。ただ、知らない人を眺めるような目を私に向けていた。それが、とても怖かったのを覚えている。
 丁度その頃から、私はいじめられなくなった。驚くほどあっさりと。まるで、最初から私に悪意を向けていた人なんていなかったかのように。
 中学三年になると、すぐに高校受験の準備が始まった。緊張感と気だるさを両方詰め込んだ、教室の空気。一年間が、本当に長く感じられた。
 無事に高校に受かった私は、一番気楽そうな部活に入った。特にやりたいことはなかったし、うるさいことを言う人のいないところが良かったから。
 そして今年、高校二年になって少し経ってから、通子叔母さんが倒れた。過労と心労が原因だった。もちろん、心労というのはアイツのことだろう。過労だって、アイツのせいだ。何もかも全部、アイツが悪い。
 それで、入院することになった通子叔母さんの世話を、お父さんが。相変わらず引き篭もっている高志の面倒を、私が見ることになった。
 私だって部活があるし、勉強だってある。とても面倒なんて見られやしない。そう反論すると、「それなら週一回で」ということになった。というのも、お父さんから聞いてしまったからだ。通子叔母さんが泣きそうな顔で、何度も頭を下げて「高志をお願いします」と言っていた、と。世の中の不条理を、強く感じた。
 週に一回の「出張家政婦」は、半年近く続いている。その間、高志と私はまともな会話をしていない。たったの一度も。
 でも、それも当たり前なのかもしれない。私が何か言おうとすれば、必ず酷い言葉になる。それを我慢して会話なんて出来ない。高志も、私に何かを言えば酷い言葉で返されることを知っているのかもしれない。それはそうだ。あんな男の言い草を黙って聞いてやれるほど、私は人間出来てない。そもそも、何の相談もなく勝手に引き篭もってしまったのは、アイツの方なのだ。愚痴だろうが弁解だろうが、そう簡単には聞いてやる気になれない。
 全く……。


 眠る前にどんなことを考えていようが、朝になればすっきりしている訳で。少し肌寒い朝の空気をゆっくり吸い込んで、徐々に目を覚ます。朝ご飯を食べない私は、いつもぎりぎりの時間までこうして眠っている。二度寝をするかしないかの、ぎりぎりのライン。今日もその線の上を漂いながら、深呼吸を繰り返す。
「起きてるー?」
 廊下の向こうから聞こえてくる、お母さんの声。この声が、一番正確な目覚まし時計だ。転がるようにベッドから出て、「起きてる!」と返事をする。
 今日もこうして、慌しい一日が幕を上げる。


「おはよう」と、通学路で挨拶を交わす。何人かの友達と、何人かの後輩。それと、顔見知りの先輩たち。耳に入ってくるのは、文化祭の話題。クラスごと、部活ごとの出し物は、大抵が「ああ、文化祭だわ」というレベルのものだけれど、中には目を見張るようなものもある。どうせなら、と意気込む人たちと、どうせ、と諦める人たちが半々くらいのようだ。
 たくさんの人たちの会話に聞き耳を立てるのは、悪い癖かもしれない。悪い癖というより、惨めな習性と言った方が正しいかもしれない。まあ、便利なのでそれなりに活用しているけれど。
 そんな感じで、今日も一日学校で過ごす。


 大人しく授業を受けて、仲の良い友達と一緒にお昼を食べて、眠気と戦って午後の授業をやり過ごして、放課後。惰性のように、部室に顔を出してみた。「演劇部」と書かれたプレートが、妙に哀愁を誘う。
 気楽に挨拶をしながら、ドアを開く。採光窓から差し込む光と、予算をけちったとしか思えない照明が、雑多な物置となって久しい部室を映し出している。
「ああ、お千代。ちゃんと来たか、偉いぞ。そろそろ文化祭の演目を決めるからな」
 にっこりと笑う副部長の鈴木先輩に、どっと疲れが出た。見た目だけなら柔道部と言われても納得しそうな体格の人がこんな人懐こい笑顔を浮かべると、どうしても違和感がある。どうせなら怒鳴り飛ばしてくれた方がそれらしいというものだ。
「お千代先輩、お疲れ様です」
 一年生の広瀬君と、三年生の伊藤部長が向かい合って、いくつかの紙束を手にしていた。どうも脚本の草稿らしい。床に置いてある畳の上にべったりと座って、眉間にしわを寄せている。何故畳が置いてあるのかは、未だに良く分からないけれど。
「宮河さんは?」
 誰にともなく聞くと、律儀な鈴木先輩が「今日は手芸部」と教えてくれた。
 総員五名。精鋭揃い、と言えれば格好もつくのだけれど、実際のところ廃部寸前の部活。それが、この演劇部だ。大会に出る気もなければ、部員を増やすつもりもない。なくならなければそれだけで良い、というのが顧問の斉藤先生の方針だ。
「それで、どこまで進んでるんですか?」
 部長の手元を覗き込みながら、それとなく聞いてみた。すると、部長は黙って首を横に振った。要するに、全然ダメということなんだろう。
「一応、いくつかのジャンルで書いてはみたんですけどね……」
 広瀬君は手にしていた紙束を畳の上に放り投げた。
「そもそも、指示が曖昧すぎますよ。『何か面白そうなの』って言われても困ります」
 まあ、部長の口からそれ以上の指示を聞いたことがないのだけれど。耐性のない一年生にはちょっと辛いかもしれない。苦労して捻り出したアイデアを片端からダメ出しされれば、普通拗ねる。
「だいたい、今更演目から決めようなんて遅すぎますよ。聞いてますか、部長」
 広瀬君の苦情は、あっさり無視された。部長が半分眠ったような目を私に向けて、言う。
「お千代ー、何人くらい集められそう?」
「部長、スカート……」
 だらしなく足を広げる部長と、それを見て呆れる広瀬君。そろそろ部長のこういう大雑把な性格にも慣れる頃だと思うのだけれど。それはそれとして。
「鈴木先輩は何人いけます?」
「集まって五人。でも、セット作るのに人手が要るからなあ」
 鈴木先輩は見た目の通り、大道具担当。実家が配管工で、ときどきバイトで現場を手伝っているらしい。そういうこともあって、セットの製作はかなり手際良く進む。
「役者決めてから当て書きしよう。そっちのが楽だし」
「だから、どういうジャンルでどういう劇にするのかを決めてからじゃないとですねえ……」
 広瀬君の抗弁ももっともだ。でも、この人が部長なのは揺るがない事実。頭の中で暇そうな人間をリストアップして、尚且つ演技が出来そうな人間を抜き出す。
「十人は集まると思いますよ。剣道部、バスケ部、バレー部、弓道部、美術部に吹奏楽部ってトコですかね。さすがに生徒会からは抜けないでしょうけど」
 指折り数えると、大体それくらいになった。
「剣道部、弓道部、それと吹奏楽部から男子を二人ずつ借りてきて」
 珍しく具体的な指示を出して、部長はまた草稿と睨めっこに戻った。多分、頭の中ではもうある程度の方向性が決まっているのだろう。広瀬君は隣で盛大な溜め息を吐いていた。
「鈴木先輩、ついて来ます?」
「俺は放送部と打ち合わせ」
 効果音と音楽の件だろう。それも本来は脚本が決まってからなのだけれど。
 とりあえず、言われた通りにしないと部長の機嫌が悪くなるので、部室を出た。


 交渉は意外と簡単に進んだ。というより、そもそも交渉するようなことでもなかったのだけれど。それというのも、私の普段の「部活動」はあちこちに顔出しをして交流を深める、言わば広報兼営業な訳で。文化祭の準備期間が始まる前に、ある程度話は済んでいるのだ。これも部員の少ない演劇部が生き残る、苦肉の策。私が入学する前の年は、あまりに役者が集まらなかったので、顧問の斉藤先生が用務員さんまで舞台に上げたらしい。それはそれで好評だったそうだが。
 部室に戻ると、広瀬君と部長があれこれと言い合いを続けていた。二人とも、真剣な顔つきでメモ用紙にペンを走らせている。
「役者の確保、終わりましたよ。一応、他にも裏方要員に何人か声かけておきました」
「次、生徒会に予算申請と舞台使用許可申請」
 こちらに目も向けようとしない上、命令口調。さすがの私も、少しだけ帰りたくなった。
「あと、帰りに飲み物買って来て」
「ついでに僕のもお願いします」
 ……脚本家という人種が心底嫌いになれそうな気がした。


 だんだんと早まってきた、夕暮れ。校舎の窓から差し込む光が、斜めに廊下を照らし出している。あちこちの教室から、話し声が聞こえて来る。文化祭前の、ちょっとした相談だろう。本格的に慌しくなるのは、週末くらいからだろうか。廊下を行き交う人たちの間を縫って、生徒会室へ向かう。
 と、丁度生徒会室から出てくる人影があった。プリントの束を両手に抱えて、こっちに向かって歩いてくる。彼女は、私の友達だ。
「真保《まほ》、お疲れさん」
 軽く手を上げて挨拶をすると、小走りに近寄って来た。笑顔を浮かべて、私に挨拶を返してくれる。
「千代ちゃん。珍しいね、こんな所で」
「部長に頼まれちゃってさ。文化祭関係の書類」
 真保は生徒会で会計を担当している。さすがに生徒会室に顔を出すのは億劫なので、助かった。「ちょっと待ってて」と言って、プリントの束の中から何枚かを取り出してくれた。
「さんきゅ」
「ううん、いいよ。丁度顧問の先生たちに渡すところだったし」
 ということは、別に焦って取りに来る必要もなかったんじゃないだろうか。
「演劇部は最優先で使用許可が下りるけど、あまり長時間使用すると他の部の迷惑になるから、気をつけてね」
「ま、部長次第だわね」
 もっとも、それほど長い劇が出来るほど、稽古する時間はない。長くて三十分といったところだろうか。
「それ、運ぶの手伝おうか?」
 一応、聞いてみる。どうせ答えは分かっているのだけれど。
「いいよ。私の仕事だし、ひとりで出来ることだから」
 思った通りの返答に、私は微笑みを返した。真保のこういうところは、本当に好きだ。
「じゃ、行くわ。ありがとね真保。また明日」
 手を振る私に、真保は笑顔を返してくれた。


 外廊下を歩いて、部室長屋の隅にある演劇部の部室へ。右手にはプリントが何枚か。左手には缶ジュースを三本抱えて。
 扉を閉めて、改めて室内を見ると――部長が、凄い勢いで紙にペンを走らせていた。
「ああ、解決したのね」
 広瀬君に缶を手渡す。彼は複雑そうな顔で「どうも」とお礼を言って、すぐにプルタブを開けて、大きく喉を鳴らしてジュースを飲む。部長の分の缶を机の上に置いて、私も一息。
「後はもう問題ないでしょ?」
 椅子を引き寄せて座って、軽い調子で広瀬君に声をかける。
「僕のプライドが粉砕されたことを除けば……」
 それはそうだろう。広瀬君が何年くらい脚本の勉強をしてきたのかは知らないけれど、部長は現役のプロなのだから。こういうことは、毎日休まず続けている人の方が圧倒的に強い。
「で、どんな話になるの?」
「喜劇ですよ喜劇。それもファンタジーの。良いんですかね、年に一度しかない演劇部の出番なのに」
「部長が良いって言うんだし、良いんじゃない?」
 人格に問題があっても、部長の感性が確かなのは実証済みだ。去年の文化祭で痛感した。
「それともシャイクスピアの悲劇とかがやりたい訳?」
「シェイクスピアとか、面白味が分からないんですよね」
「奇遇ね。私も」
 時代背景も国も倫理観も社会常識も現代とは違うのだから、分からなくても仕方ないと思う。その内、例えばあと二十も歳を取れば面白く感じるのかもしれないけれど。
「あの企画書、冗談だったのに……」
「後悔しても遅いわね。それに、選ばれたくなかったら見せなければ良かったのよ」
 相当打ちひしがれているみたいだ。背中に哀愁が漂っている。とても十代の青少年の放つ雰囲気とは思えないくらいに。
「じゃ、私帰るから。書類、部長が正気に戻ったら見せておいて」
「ええ、また明日」
 ひらひらと手を振って、部室を出る。部長は多分、私が戻ってきたことに気づいてすらいないだろう。そういう人なのだ、全く……。


 文化祭の準備が、本格的に始まった。
 私たちのクラスの出し物は、無難に屋台ということになった。人数が少なくても回せるから、というのが一番の理由。やっぱり、他の出し物を見れないと面白くないし。
 お昼休み。いつも一緒にお弁当を食べる真保は、今日も生徒会室に行っている。紙パックのオレンジジュースをちるちるとすすりながら、ぼんやりと教室を眺める。こうして第三者の視点で眺めていると、人間関係が垣間見れて面白い。特に女の子同士が面白い。表面上は穏やかにしていても、ちくちくとした悪意が見え隠れしている。目の粗いやすりを少しだけ押し付け合っているような、そんな悪意だ。
 耳の後ろを、爪でかりかりと掻く。どうしてこんなにも悪意に敏感になったのか。その理由を考える度に、惨めな気持ちになる。最初は自分に向けられた悪意しか分からなかった。でも、気がつけば他の人に向いている悪意まで分かるようになっていた。分からないのは、その対処法だけ。ひとつの問題が解決しても、次から次へと問題が出てくる。砂漠に水を撒くようなもので、キリがない。だから私は、傍観するだけ。それに、悪意というのは意外と長続きしないものなのだ。
 そう。悪意によって傷つけられた人の痛みとは違って。
 掌を、耳の後ろから首の後ろに滑らせる。じくじくと鈍い痛みが、頭を刺している。どうせなら、悪意なんて気にもせず好きなように生きられたら良かったのだけれど。
 チャイムが鳴って、みんながそれぞれの席に戻り始める。空になった紙パックをごみ箱に向けて放り投げた。理想的な放物線を描いて、パックはごみ箱に吸い込まれた。小さく拳を握る。
 何だかんだ言っても、今日は調子が良いのかもしれない。


 放課後、私たちは屋上に来ていた。申請すれば、簡単に使うことが出来る場所のひとつ。特に演劇部は発声練習もあるので、屋上使用は常連だ。
 今日は宮河さんも顔を出している。手芸部と掛け持ちの彼女は、主に衣装を担当している。役者さんのサイズを測るのも、彼女の仕事だ。
「それじゃ、まずは発声練習から」
 部長が珍しく真剣な面持ちで、集まってくれた役者さんたちに声をかける。
「私に続いて」と言って、部長が声を出す。良く通る声が、校庭の向こう側まで木霊した。続いて、役者さんたちも。さすがに体育会系だけあって、ちゃんとお腹から声が出ている。部長は特に何も言わず、続ける。
 私たちの隣では、宮河さんがひとりずつ順番に体のサイズを測っている。慣れた手つきで、順序良く。あの様子なら、すぐに終わるだろう。
「それじゃ私は帰りますね」
「だめ。お千代も混ざるように」
 部長の冷酷な指令に、私は黙って従うのだった。


 次の日には、台本が出来上がっていた。部長が手書きしたものを、広瀬君がパソコンで清書したらしい。夜遅くまでかかったらしく、目の下が少し黒くなっていた。
 部室に集まってくれた役者さんたちに、台本を配る。
「それじゃあ、まずは配役から――」
 部長がゆっくりと名前を読み上げ、それぞれに簡単な役割の説明を付け加えていく。ちなみに、鈴木先輩は数人の有志を連れて体育倉庫でセットの製作。宮河さんは手芸部で衣装の製作に当たっている。
 こうなると、私はやることがない。とはいえ、逃げ出せる空気でもない。仕方なく、台本を斜め読みする。斜め読みして、すぐに脱力してしまった。
「何よこれ……」
 タイトルだけはそれっぽいのだけれど、内容が問題だ。簡単に説明するなら、ひとりのお姫様を奪い合って、各国の王子様たちが戦う話。実力行使に出た竹取物語のような感じだろうか。――シリアスな部分がほとんどないことを除けば。
 私の呆れ顔と溜め息混じりの言葉を察したのか、広瀬君がそっと隣に寄ってきた。
「面白いんですけど、面白さの方向性はこれで良いんですかね……」
 根が真面目な彼には、ショックが大きかったのかもしれない。目の下のくまは、ひょっとしたらそのショックのせいだったりはしないだろうか。
「まあ、文化祭だしね……」
 そんな私たちの苦悩をよそに、部室内には台本に目を通した役者さんたちの、腹の底からの笑い声が響いていた。

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