『私の英雄』(2)

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 お風呂から出て、机に向かう。ささっと宿題を終わらせて、台本を開いた。そこには既にいくつかの書き込みがされている。台詞やト書きの修正だ。役者さんたちに合わせた台詞回しや演出を、その場その場で部長が変更する。当日には、この台本もぼろぼろになっているだろう。
 部室では大うけだったシナリオに、改めて目を通してみる。良くもまあ、こんな下らないことばかり思いつくものだと感心する。思わず頬が緩んでいることに気づいて、誰もいないのに咳払い。
 落ち着いて読み直してみると、確かに面白い。笑えるだけじゃなくて、ちゃんと締めるべきシーンは締めてある。人物の役割としては、お姫様が主に場を締める役目を担っているようだった。それと、話の最終的なオチも。
 しばらく読み進めていると、気になる台詞があった。何てことのない台詞。コミカルなシーンの隙間にある、物語を進めるためだけの台詞。それが、何故か頭に焼きついた。
 繰り返し、その部分だけを読む。それは、お姫様の台詞。クライマックスを目の前にした、ほんの一時の凪のような台詞。多分、実際に舞台で演じたとしても、誰も深く意味を追求しようとはしないだろうと思う。
「全く……」
 そのページを開いたまま、椅子の背もたれに体を預ける。部長も、どういった思惑があってこんな台詞を書き込んだりしたのか。
 シナリオの脇には、文化祭のチケットが数枚置かれている。あってもなくても基本的に出入りは自由だけれど、一応形式上発行される、生徒以外のための入場券。
「憧れるだけの英雄なんていりません、か……」
 そんな台詞が、頭に焼き付いてしまったのだった。


 私が、今の私になる前のこと。いじめを受けていた頃のこと。理由は簡単。太っていたから。それに皮膚も弱くて、顔が酷いまだら模様になっていた。背も低くて、運動も出来ない。何か言葉を喋ろうにも、声はしゃがれ声。友達も満足に作れなかったし、学校も休みがちだった。
 物心ついたときから、私は迫害されるのが当たり前になっていて。でも、家にいるときだけは穏やかな気持ちでいられて。それでも、学校には出来るだけ通いたかった。お父さんとお母さんを心配させるのは、嫌だったから。
 そんな私にとって、アイツは――高志は、特別なひとりだった。
 私をいじめない。私に優しくしてくれる。大きくて、元気で、賢くて、強かった。高志と一緒に遊んでいるときは、穏やかさとは違う感情で満たされていた。幸せな、涙が溢れてくるくらい幸せな、時間。その感情が恋だと気づく前に、高志はこの町を離れていった。
 別れ際の言葉を、覚えている。
「寂しくなったら呼びなよ。飛んでくるから」
 七つ年上の、優しい幼馴染のお兄さん。いじめられっ子だった私にとって、高志の言葉は特別な言葉で――
 いじめられても、馬鹿にされても、無視されても、高志に泣きつくような真似だけはしないと、そう決めたのだった。


 照明を落とした部屋、ベッドの上で、眠れないまま寝返りを繰り返していた。
「全く……」
 溜め息と共に吐き出した声は、しゃがれた声じゃない。体が成長するにつれて、ちゃんと女らしい声も出るようになってきた。肌も強くなったし、背も伸びた。でも、肝心なところは全く変わっていないのかもしれない。
 あの頃、私が部屋で泣いていると、高志がいつも慰めてくれた。たくさんの言葉で、私を支えてくれた。考え方も、話し方も、使う単語のひとつでさえ、高志が教えてくれたようなものだ。だから、今の私がこういう風になったのは、ほとんど高志の影響なのだろうと思っている。
 けど、だからこそ、赦せないこともある。それはとても醜くて惨めで、自分勝手な感情で――
「全く……」
 いつも夕方まで眠っているアイツは、今頃何をしているのだろうか?


 朝から曇っていた空は、昼過ぎには雨を降らせていた。憂鬱な天気に、思わず溜め息が漏れる。窓の外を見ないようにしながら、午後の授業をやり過ごした。
 ホームルームが終わると同時に、教室からみんなが飛び出して行った。文化祭の準備も、そろそろ本格的に始まってきている。浮ついた気分は、天候なんかに影響されないようだ。
 私はといえば、昨夜あまり良く眠れなかったせいもあって、どうも気分が良くならない。
 ぐちゃぐちゃな頭の中を整理するように、鞄に教科書を詰め込む。いつもよりも重く鈍い指先を、ぼんやりと他人事のように眺めながら。
 誰もいなくなった教室。廊下から聞こえてくる、笑い声や怒鳴り声。浮ついたトーンの声。溜め息を堪えられなかった。席についたまま、一歩も動けずに窓の外に視線を動かす。雑に塗りつぶした灰色に、ノイズが混じっている。細く短い、不揃いな線。
「――さん」
 誰かの声が聞こえて、それが私を呼ぶ声だと理解して、その声の方向に顔を向けた。誰もいなかったはずの教室に、私の席のすぐ隣に、男の子が立っていた。
「あの、俺のこと知ってるかな?」
 忙しなく定まらない視線。私に向けられているのか、それとも私を取り巻く世界に向けられているのか、どっちともとれる視線。
「吉野君」
 同じクラスになったことはないけれど、同じ中学校出身。高校に入ってからは帰宅部。駅近くの楽器屋でバイトをしている。友達はそれほど多くないけれど、特別仲の悪い人もいない。良くも悪くも目立たない、地味な子。そんな一通りのことが、頭にぱっと浮かぶ。普段の「部活動」で仕入れた、それなりの情報だ。
「ああ、良かった。それでさ、急なんだけど――」
 定まらない視線。落ち着かない足元。上気した頬。途切れがちな言葉。時々私の目を覗き込む視線に込められた、悪意と正反対の感情。何を言うのかは、聞かなくても分かる。この子もまた、私に告白しようとしているのだ。それも、よりによって同じ中学校出身のこの子が、だ。
 吉野君はあれこれと言い募って、熱心に私の気を引こうとしている。私が黙ってぼんやりとしているので不安なのだろう。言っていることに嘘はないし、悪意も感じられない。でも、少しお喋りが過ぎる。言葉は重ねれば重ねるほど方向性が乱れてしまうというのに。
「ごめんね、部活あるから」
「あ、その、返事は……?」
 申し訳なさそうな笑顔を浮かべて、角の立たないように「さよなら」と挨拶をする。多分、これで諦めてくれるだろう。足早に教室を離れる。
 階段を下りながら、また溜め息がこぼれてしまった。
「好き、ねえ」
 それならどうして、と思ってしまう。
 どうして、好きなだけでは我慢出来ないのだろう。
 どうして、相手にその感情を押し付けようとするのだろう。
 どうして、綺麗な部分しか見ようとしないのだろう。
「酷いわね、私は」
 私と彼は、違う人なのに。


 部室に行くと、誰もいなかった。みんなの荷物が置いてあるということは、多分体育倉庫だろう。大掛かりな作業をするので人手がいる、と昨日話していた。
 いつもは部長が占領している畳の上に、ぺたんと座り込む。鞄の中からお菓子とパックのジュースを取り出して、ごろりと横になる。どうにも気分が乗らない。傘を差して雨の中を歩くことを考えると、帰ることですら面倒に思えてくる。
 お菓子を一口。ジュースを一口。雨の音と、外から聞こえるたくさんの声。楽しんでいる声、努力している声、苦労している声。愚痴も、悲鳴も、叫び声も聞こえてくる。もっと耳を澄ませば、車が塗れたアスファルトの上を駆け抜ける音も聞こえてくるだろう。木々の枝葉を叩く雨粒の音すらも聞こえるかもしれない。
 目を閉じると、心臓の音が聞こえた。我ながら気弱な音だな、と自嘲的に思う。
 ジュースを口にする。鞄の中でマナーモードにしておいた携帯が鳴っている。体を起こして鞄に手を伸ばして、携帯電話を開く。
 相手はお母さんだった。話の内容を聞いて、少し気分が軽くなって、それ以上に重くなった。そういう内容だった。
「……分かった」
 反論する気力もなく、携帯を鞄に放り込む。一度だけ深呼吸をして、お菓子を一気に口に入れて、乱暴に噛み砕いて、ジュースを飲み干す。
「全く!」
 声を上げて立ち上がって、部室を出た。
 みんなには申し訳ないけれど、今日はこれで帰らせてもらおう。フォローは後ですれば良い。無理矢理に歩幅を広げて、足音を立てて、奥歯を強く噛んで、玄関を目指す。
 すれ違った人が、私の顔を見て怯えたように体を強張らせていた。


 アイツの住む家は、団地の一角にある。狭い路地で入り組んだ、車で入るには少し苦労しそうな場所。ブロック塀の何か所かは、角を擦った跡がある。そういう場所だ。
 早足で歩く。傘を差していたって、多かれ少なかれ雨には濡れてしまう。それなら、少しでも早く目的地に着いた方がマシだ。呼吸が弾むのにも構わずに、歩く。
 スカートのポケットから鍵を出して、玄関を開ける。相変わらずの留まった空気の匂いと、それに混じる湿気の匂い。おじゃましますも言わずに玄関に上がり、階段を上がる。わざと足音を立てて。
 アイツの部屋の扉を、勢い良く開ける。それからベッドを見て、アイツがいることを確かめる。
「起きてるんでしょ?」
 そんな気がしたので、声をかけてみた。じっと睨みつけていると、高志は面倒臭そうに体を起こした。喉の奥だけで声を出して、私の方を見る。
「叔母さん、来週の金曜日に退院だって」
 お母さんからの電話の内容を、簡潔に伝える。伝えて、奥歯をかみ締める。そうでもしないと、色々言ってしまいそうだった。どうして電話線を抜いているのか。どうして毎日ひげを剃らないのか。服を着替えないのか。部屋を片付けないのか。ご飯はちゃんと食べているのか。訊きたいことなんて、いくらだってある。
「そうか」
 久し振りに聞いた高志のまともな台詞は、決してまともとは言えない内容だった。かみ締めていた奥歯から、力が抜けてしまうくらいに。そして、淀んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでしまうくらいに。
「アンタね、結局一度もお見舞い行かなかったでしょ? 心配じゃないの? 通子叔母さんはね、働きすぎて倒れたんだよ?」
 高志は黙っていた。黙っていたから、私がしゃべり続けるしかない。
「いつまでこんなこと続けるのよ? いつになったら気が済むのよ? 何がしたくてこんなバカみたいなこと続けてるの?」
 声が、震える。震えて、詰まった。言いたいことなんて、いくらだってあった。ありすぎて、言葉にならないくらいに。
「あれだけ偉そうなこと言ってたのに、全部嘘だったって訳? 何か言いたいこととかないの?」
 高志は黙って聞いている。顔を伏せて、指先ひとつ動かさずに。
 目の奥が、滲む。
「途中で投げ出すなら、夢なんて語るな! 嘘にするなら、優しくするな! 被害者ぶってたって、誰も同情なんかしてくれないわよ!」
 高志がどうしてこんなことになっているのか、私は知らない。聞いても教えてくれなかった。話そうとしてくれなかった。だからこそ、余計に頭にきた。
 私はずっと、腹を立てていたのだ。
「バカ!」
 言葉が刺さるなら、刺さってしまえば良いと思った。そう思って、叫んだ。叫んで、部屋を飛び出した。
 泣いてなんかいない。泣いてなんかやらない。悔しくもないし、哀しくもない。だって私は、変わったのだから。もう、いじめられっ子の、背の低い太った私じゃないのだから。
 あの台本にあった台詞が頭に浮かぶ。吉野君が私に向けた感情が思い出される。アイツの、惨めに丸められた背中が脳裏をよぎる。
 泣いてなんかいない。雨のせいじゃない。傘も差しているし、鍵も閉めてきた。何も問題はない。来週には叔母さんも退院するし、そうすれば私が高志の世話をする必要もなくなる。文化祭も近いし、それが終われば三年生は引退。自然と私が演劇部の部長になる。進路のこともある。自由になる時間なんて、どんどん少なくなる。高志のことなんて、思い出せなくなるくらいに。
「ちくしょう……!」
 どうして私は、あんなことを言ってしまったのだろう。高志は、私をずっと守ってくれていたのに。
 後悔が早く終わるように、家路を急いだ。


 土曜日。学校は休みだけれど、文化祭一週間前なので登校は許可されている。もちろん、演劇部だって集まって作業をする予定になっている。昨日から降り出していた雨は、朝にはすっかり上がっていた。空はいつもよりも濃い青さで、徐々に高さを増している。暑さが温かさに変わる。吹く風が少しずつ強くなる。朝晩の冷え込みも厳しくなっている。また、季節が変わる。
 土曜日。本当なら、今頃私は学校で部員のみんなとあれこれ作業をしているはずだった。現に、携帯電話には何度も着信があった。全部無視して、今では電源を切ってある。
 ベッドから起きる気になれず、枕に顔を押し付けたまま、目を閉じる。考えるべきことはいくらでもあった。やるべきことだって山積みだ。でも、何もしたくない。考えたくない。眠り続けられるものなら、ずっと眠っていたい。
 土曜日は、そうやって一日を過ごした。


 日曜日。お母さんは時々様子を見に来てくれる。私は「頭が痛いから」と答える。我ながら弱々しい声だ。
 何もしなくてもお腹は空くし、何も食べなくてもトイレには行きたくなる。そんなことを、この歳になって初めて知った。
 携帯電話の電源を入れる。メッセージがいくつか残っていた。そのまま一括削除する。着信履歴も、ついでにメールも全部削除。バッテリーを外して、握り締めてみる。別に私が充電される訳でも、私で充電出来る訳でもない。意味のないことをしている。
 お風呂に入って、少しだけご飯を食べて、ベッドに戻って、無理矢理目を閉じる。気がつくと、眠りに落ちていた。


 月曜日。今日からまた一週間、学校が始まる。顔を洗って、制服に着替える。鏡の前でふと思った。自堕落になろうと思えば、いくらでもなれるのだな、と。でも、時間が過ぎただけで、時間を過ごしたという実感がなかった。
 高志はずっと、こんな日々を送っていたのだろうか。


 朝から日差しが強い。まるで、夏が一瞬戻ってきたかのようだ。忘れ物でもしたのだろうか、と下らないことを思って前髪をかき上げる。そろそろ、いつものペースに戻らなくてはいけない。「お千代」は、こんな陰気なキャラクターじゃない。もっと皮肉っぽく笑って、それでいてみんなの手助けが出来なくてはいけない。それが、悪意を向けられない秘訣。いじめられず、邪魔者にされず、無視されない。みんなのことを良く知っていれば、悪意を避けることだって出来る。目を逸らして、逃げ出すことも。
「お千代、おはよう。大丈夫なん?」
 背中をぽん、と叩いてきたのは、伊藤部長だった。
「おはようございます。土日、すみませんでした。ちょっと具合悪くて寝込んでました」
「まだ調子悪そうね」
 眠気が丸々残ったような目で心配されても、苦笑するしかない。
「寝すぎて頭が鈍ってるだけですって。部長の方がしんどそうですよ」
「締め切り前ってのは、何故か部屋が綺麗になるのよねえ」
 テスト前日に部屋を掃除したくなるのと同じ理屈なのだろう。
「本調子じゃないなら、今日は顔出さなくても良いから。その代わり、明日からは休む間もないけど」
 切り口上でそう言うと、部長は早足で先に行ってしまった。あの見た目に似合わず、健脚なのだ。もっとも、この坂道を毎日歩いていれば、誰でも足腰が丈夫になりそうなものだけれど。
「ふう……」
 溜め息を吐くために吸い込んだ空気が澄んでいて、複雑な気分になった。


 教室に向かう廊下で、吉野君とすれ違った。彼は何か言いたそうな顔で立ち止まっていた。私の「おはよう」には答えてくれなかった。
 席に着くと、何人かの友達が私の周りに集まる。話の内容は、いつもと同じ毒にも薬にもならない話。標準的な高校生が話すこと。相槌を打ちながら、予鈴を待つ。
 朝のホームルームで触れられたのは、文化祭の話。それと、文化祭のすぐ後にある中間テストの話。良い話と悪い話がセットになっているのは、世の常。それが終われば、今度は何度目かの進路希望調査だ。考えただけで気分が重い。
 午前中の授業、午後の授業は、いつもよりもぼんやりとしていた気がする。おかげでノートを取り損なってしまった部分が何か所かあった。後で誰かに写させてもらおう。
 放課後。部室に行く気にもなれず、帰る気にもなれず、かといって教室に残る気にもなれなかった。仕方ないので、いつもより遠回りをして家に帰った。


 夜。考えがまとまらない。というより、考えられない。
 あまりにたくさんのことがありすぎて、私には対処することが出来ない。会社員が鬱病になるのはこういうときなのだろうか、とふと思う。どうにもならないのに、どうにかすることを求められる。助けは求められない。頼れるのは自分の身ひとつ。
 違う。そうじゃない。助けなんて求めてしまえば良いのだ。出来ないことは、出来ないのだから。出来るようにするためには、誰かに教えてもらったり、助けてもらったりするしかない。でなければ、失敗を繰り返して、教訓を学び取るしか。
 私は誰に助けを求めれば良いのだろう。誰なら私を助けてくれるだろう。思い浮かんだ顔に、胸がきしりと音を立てて痛んだ。高志だ。
 でも、私が抱えている問題のひとつは、紛れもなく高志のことで。その張本人に、私は啖呵を切ったばかりで。そんな相手に助けを求められるほど、私の面の皮は厚くない。
 どうにか――どうにか、したいのだろうか。どうにかしなくてはならないのだろうか。そもそも、私はどうしたいのだろうか。もっと突き詰めるなら、これほど悩むだけの問題なのだろうか。
 きっかけは、部長の書いた脚本だった。その中の、たったひとつの台詞だった。でも、その台詞が私に衝撃を与えたのは、高志がああいう状況になってしまっているからで。そんな不安定なときに告白をされて、相手が中学校時代の同級生――私がいじめられていたことを当然知っている人で――
「勝手だわね」
 何も語らない高志も、好意を一方的に押し付けようとした吉野君も、何てことない台詞のひとつで私をここまで追い詰めた部長も――私自身も。
 みんながみんな自分勝手で、でも、足掻いている。それは分かっている。赦さなきゃならないのに、受け入れなきゃならないのに、ちゃんと向き合わなきゃならないのに、それが出来ない。
 ベッドから手を伸ばして、鞄を探って、台本を取り出す。寝転んだまま、ページをめくる。
 剣の国の王子が、姫に言う。貴女のお父上は本当の英雄でした。私は亡き王に憧れ、剣の国を率いる者として、技を磨き上げました。今では私も英雄と呼ばれるようになりました。この剣と技で、貴女をずっと護り続けます。貴女のお父上が貴女を、そしてこの国を護り続けたように。
 姫は答える。貴方にとって英雄でも、私にとってはただの父親でした。傷つくこともあれば、悩むこともありました。それを見ず、知らず、ただの偶像としてしか捉えない貴方を、どうして愛せましょう。憧れるだけの英雄など、私にはいりません。
 ここで照明が落ちる。そして、姫がボケる。剣の国の王子は退場。次の、水の国の王子に場所を譲る。
 ――私に必要なのは、どんな人なのだろう。このお姫様は、ボケなかったら何と続けていたのだろう。
 思わず、頬が緩んでしまった。部長が書いた脚本に深い意味を求めても仕方ない気がしてきた。あるがままに受け入れて、何も考えずに楽しむ。それが部長の書く物語だ。深読みしようなんて、面白くなくなるだけだ。
 明日は部活に出よう。きっと、今日よりはマシな気分で朝を迎えられるだろうから。


「さて、こうして無事に全員揃った訳ですが」
 珍しく真面目な口調で、部長が切り出した。嫌な予感がした。
「主役のお姫様役をやるはずだった私が、急遽降板することになりました」
 部員全員から不満のブーイングが上がる。文化祭までもう日がないのに、今更降板だなんて、どう考えても無茶だ。
「理由は聞かないで下さい。答えられません」
「……面倒になったんじゃないでしょうね?」
「それもある」
 広瀬君のツッコみにもめげず、部長が続ける。
「で、主役はお千代に交代ということで。よろしく」
「はあ!?」
 思わず本気で声を出してしまった。どういう流れでそうなるのだ?
「大丈夫。台詞は好きに変えて良いから。役者さんたちにも了解取ってあるし」
「でも、だって、そんな、えぇぇ……」
 あまりの展開に、正しい反論が思い浮かばない。というか、どう考えても無謀だ。
「嫌なら誰か代役連れて来なさい。この時期になってやってくれるような子がいれば、だけど」
「ひょっとして、最初から私に主役やらせる気だったんですか?」
 そんな気すらしてきた。部長の突拍子もない悪戯は、今日に始まったことじゃない。でも、これはいくら何でもやりすぎだ。
「ま、来年は部長なんだしね。顔売っておけば?」
「そんな他人事みたいに……」
 というか、他の部員はどうなのだろう。私が主役をやることに反論はないのだろうか。反論してはくれないのだろうか。
「まあ、お千代先輩なら……」
「衣装のサイズも、それほど変わりませんしね」
「さすがに俺がやる訳にもいかんしな」
 酷い。酷すぎる。
「さ、役者さんが待ってるから舞台へ行こうね」
 部長に首根っこを捕まれて、部室から引っ張り出された。
「だ、台本! せめて台本を!」
「良いよ台詞なんて適当で。むしろもう全部アドリブで」
「そんなの劇じゃない!」
 抵抗は無駄だと分かっていても、諦めきれないこともある。舞台に上がるなんて、冗談じゃない。
 ばたばたと足掻く私を、他のみんなが生暖かい視線で眺めていた。


 幕を閉めたままの舞台にセットを仮置きして、稽古が始まった。小道具と衣装はもう出来上がっているので、それなりに雰囲気が出ている。今日は効果音と音楽の調整も併せて行うので、放送部の人たちもいる。結構な人数が、舞台に意識を集中させている。
 そんな中、私だけが台詞のひとつも入っていないまま、稽古が始まった。
 正直、昨日までとは違うタイプの憂鬱さで押し潰されてしまいそうだった。


 物語自体はコメディということもあり、主に役者さんたちの動きのある演技が主体になっている。ときどき入る滑稽な台詞が、それにアクセントを加えている。私の演じるお姫様は、それぞれのシーンの間にしか台詞がない。それが救いだった。コミカルな動きを要求される訳でも、難しい台詞を要求される訳でもない。
 とはいっても、まともに舞台に立ったことのない人間が主役級の扱いを受けているというのは、プレッシャーが半端じゃない。王子様役の役者さんたちがこっちを見るだけで、体が強張ってしまう。
 それでも、部長の的確な指導のおかげで、物語の流れを止めない程度の演技は出来るようになった。我ながら逆境に強いと感心してしまう。もっとも、もらった台本を真剣に読んでおかなかったのが悪いのだけれど。
「今日はここまで。明日は舞台が使えないから、部室で細かい演出の打ち合わせをします。出来るだけ都合をつけて参加して下さい」
 さすがの部長も、助っ人役者さんたちにはちゃんと礼儀正しく接するらしい。私はといえば、その場にへたり込んで、立つ気力すら残ってはいなかった。
「お千代先輩、大丈夫ですか……?」
 心配そうに顔を覗き込んできた宮河さんに、笑顔で答える。
「無理」
 疲れているときこそ、本音は隠せない。恨めしい視線で部長の姿を探したけれど、さっさといなくなっていた。


 夕食を済ませてお風呂から出てすぐ、台本を開いた。今日の稽古で分かったけれど、確かに適当な台詞でも劇は進む。でも、ちゃんとした台詞と、ちゃんとした演技。そのふたつがなければ、私が、お姫様があの舞台にいる意味がない。
 他の役者さんたちは、助っ人とはいえちゃんと自分の役柄を理解し、変更やアドリブを織り交ぜながら、キャラクターそのものに成りきっている。キャラクターを作り上げている。そんな中で私ひとりがただ突っ立っているだけでは、劇じゃなくなってしまう。
「全く……」
 部長を呪いたい気持ちを抑えながら、台本にペンで覚書きを書き加えていった。

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