『私の英雄』(3)

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 寝不足で足元がふわふわしている。廊下の壁に沿って歩きながら、玄関へ。
「今日は高志君の家に行く日だからね」
 お母さんに気のない返事を返して、家を出た。


 眠気と戦いながら、お昼休みになった。真保は会議がないらしく、久し振りに一緒にお昼。
「主役、やるんだって?」
「何故か、ね……」
 世の中にこうして理不尽が増えてゆくのだろうなとか思った。
 真保が食後の歯磨きに行っている間も、私の目は台本を追い続けていた。台詞を丸暗記することは、とっくに放棄している。それなら、前後の流れを覚えてしまおうと苦戦している最中だ。でも、内容が突拍子もないので、流れも何もあったもんじゃない。おかげで頭が破裂しそうだ。それに、必死になって覚えようとしている内容がコミカルすぎて、気合が抜けてしまう。他の役者さんたちは良く覚えられたものだと思う。私は今にも逃げ出してしまいたいというのに。


 結局、午後の授業の最中も、私と台本との格闘は続いた。


 帰りのホームルームが済むと、他のみんなと同じように教室を飛び出した。鞄は置いたまま。目指す場所は屋上。鍵を持っているのは部長で、あの人は最後まで授業を受けるほど殊勝な人じゃない。案の定、屋上への扉は鍵が開いていた。多分ホームルームを抜け出したのだろう。実に部長らしい。
「お千代、早いね」
「今日、ちょっと用事があるんですよ。だから最後までいられなくて」
「何か質問ある?」
 部長の手には、台本。私の物よりもずっとくたびれた、付箋やら書き込みやらでぼろぼろになった台本だ。他のことはともかく、こと演劇となると本気を出す。プロでいられる人っていうのは、やっぱりどこか違う。社会適応力は果てしなく低いけれど。
 他の役者さんたちが揃うまで、部長の演技指導は続いた。


 読み合わせを途中で抜け出して、足早に坂道を下る。残る練習日は、明日と明後日の二日だけ。まだ不安が残るけれど、何とかなるだろう。本当は、今日も最後まで残って練習をしておきたかったけれど。
 足取りが、急に重くなった。先週の金曜日、高志に向けて放った言葉が思い出される。あのときの気持ちも、高志の惨めな姿も。でも、明後日には叔母さんが退院してくる。その前に、ある程度は家を掃除しておきたい。退院した叔母さんの苦労が、少しでも減るように。
 腕時計を見て、時間を計算する。スーパーに寄って、高志に食事を作って、家事を済ませて……。
 どうやら今日も、帰りは遅くなってしまいそうだ。


 手にした鍵を、鍵穴に差し込む。回すと、乾いた音がして鍵が開いた。鍵を抜いて、扉を開ける。冷蔵庫の稼動音が、小さく聞こえている。いつもと同じ、代わり映えのしない、高志しか暮らしていない家。こんなことになる前は、ほとんど足を運んだことがなかった。私の家に高志が来ることはあっても、だ。自分から遊びに来ようと思ったこともなかったし、誘われたこともなかった。
 さて、と思う。どんな顔をして高志に逢ったら良いだろう。いままで通り、そっけなく対応すれば良いだろうか。それとも、この間のように厳しく向き合うべきだろうか。自分では決められないまま、玄関に上がっていた。買い物袋をそこに置いて、階段を上がる。きっと高志はベッドの中にいるだろう。起こしさえすれば、顔を見なくても済む。そもそも私は、通子叔母さんの苦労を減らすために、こうして高志の面倒を見ているのだ。だから、別にアイツをどうこうしなくても何も問題はないはずで――
 するすると、引き戸を開く。いつもなら薄暗いはずの部屋は、カーテンが開け放たれていた。朱色の夕陽が差し込んで、ほんの少し目が眩んだ。
「……高志?」
 気まずさを堪えて、名前を呼ぶ。起きているのだろうか。――ベッドの上にはいない。部屋の中を見回す。机の前にもいない。もう一度名前を呼んで、一歩部屋に踏み込んだ。ぐるりと周囲を見回す。
 入り口からでは死角になる場所。部屋の隅に、高志は座り込んでいた。だらしなく足を伸ばして、首を垂らして。打ちひしがれた人がそうするように、体の力を全て抜いて。
 だから、すぐには気づかなかった。高志の右手に握られていた物に。左手を伝って流れているものにも。
 一気に、頭に血が上った。
「バカ!」
 自分でも驚くほどの大声を上げて、高志の下に屈み込む。左手を――深く横に切られた左の手首の、その少し上をしっかりと押さえる。
「バカじゃないの!? 何でこんなことしてんのよ!」
 頭の中は真っ白で、とにかく流れ続けているこの赤いものを止めなくちゃいけないと、そのことだけで必死だった。
「ねえ、返事しなさいよ!」
 震える声で、意識を確かめる。目の前がにじんで、高志の顔が見えない。こんなにも部屋は明るいのに。夕陽はあんなにも綺麗だったのに。
「俺は、ダメだなあ……」
 久し振りに聞いた高志の声は、薄く、弱くて、隙間風のようだった。
「頑張っても頑張っても、無駄にしちゃうんだもんなあ……」
「うるさい! 黙りなさい!」
 止まらない。どうしても止まらない。手で押さえてるだけじゃダメなんだ。ハンカチ……ポケットから出して、縛ろう。傷口を心臓より高くして、脇の下を押さえて……。
「嘘をつきたくなかっただけなんだけど、上手くいかなかったなあ……」
 ブラウスの袖で、目元を擦る。掌についた液体が、異常に熱い。
「救急車、すぐ呼ぶから……」
 鞄、は……階段の下だ。この部屋には電話はないし、取りに行くしかない。立ち上がろうとすると、腕をつかまれた。
「こんなことで、死ねるはずないんだよ。分かってるんだ。でも、どうしても……」
「血が止まらないの! 止まらないんだってば!」
「良いんだ。聞いて」
 弱々しい声で、今にも意識を失いそうな目で、私を足止めする。もう一度、目元を擦った。
「後で聞くから。ちゃんと聞くから。だから死なないで……」
 もう立ち上がることも出来なかった。足に力が入らない。顔も上げられない。いつかの、子供の頃のように、高志の腰に抱きついて、ただ泣くことしか出来なかった。
「受け持ってたクラスの子が、死んだんだ。自殺したんだ。いじめられてたって、遺書まで書いてた。僕は知らなかった。他の先生たちは、みんな知ってたんだ。でも、誰も何もしなかった」
 高志の心臓は、ちゃんと動いている。ゆっくりだけれど、ちゃんと動いている。
「僕は、しかるべき方法で公表しようとしたんだ。でも、みんなが反対した。その子の両親まで反対した。みんなで口をつぐんで、なかったことにしようとしてたんだ」
 高志の右腕が、私の背中に回る。強くなく、弱くなく、ただ優しさだけが感じられるような、そんな抱擁。
「僕はひとりでも、何とか公表しようとした。そしたら、いじめていた方の生徒の親が、僕に言ったんだ。『いくら払えば良いですか』って」
 高志の言っていることが、全然頭に入ってこない。分からない。抱きしめられた温かさが、鼓動を続ける心音が、途切れないようにと願っていた。
「教師も親も、子供のお手本になるべきなのに……どうして、みんな自分のことばかりなんだろう。都合の悪いことは見なかったことにして、忘れて、それでまたいつか同じことをするんだ。それが悪いことだって知ってるはずなのに、何度も、何度も……」
「もう良いから……! 病院行こうよ!」
 顔を上げた私を見下ろす高志の顔は、幸せそうに微笑んでいた。
「僕も、同じことを繰り返すんだ。自分のことばかりで、助けを求める声に気づかないで、後になって騒いで……でも、それじゃ遅いから、だから……」
「お兄ちゃん!」
 無意識に叫んだのは、あの頃の呼び方。今の私たちと同じ距離でいられた、子供の頃の呼び方。自分でも、どうしてそう呼んだのか分からなかった。分からないまま、声を上げる。
「お兄ちゃんはずっと私を助けてくれてたのに! ずっとお兄ちゃんみたいになりたかったのに! 私は、お兄ちゃんを助けたいのに!」
 小さい頃、泣き虫だった私。いつも慰められていた。高志は優しく頭を撫でながら、私にたくさんの言葉をくれた。傷つかないように、自分を守れるように。そしていつか、その言葉で誰かを守れるように。
「だからお兄ちゃん、死なないでよ……!」
 顔を、高志の胸に押し付ける。洩れる嗚咽を押し込むように、注ぎ込むようにして、圧し掛かる。
 たくさんの言葉をもらったはずだ。慰めの言葉も、勇気づける言葉も、元気を出すための言葉も。でも、そんな言葉の全部をどこかに置き忘れてしまったみたいに、私の頭は空っぽで。泣きながら、気持ちを言葉に変えるしかない。
「私が守るから! 今度はお兄ちゃんを、私が守ってあげるから! 何度でも守るから!」
 だから、死なないで。
「千代、守るってことは、そんなに簡単なことじゃないんだよ。それに、守るのが良いことだとは限らないんだ。傷つかないと分からないことだって、あるんだよ」
「やだやだやだ! 痛い思いなんてしないで! 何もしなくても良いから、生きててよ!」
 高志が溜め息を吐く。それから、私の背中を二回、優しく叩いた。
「血、止まったよ。もう大丈夫だから」
「え……?」
「千代のお陰だよ。ありがとう」
 そう言って頭を撫でてくれる掌は――大きくてたくましい、男の人の掌だった。


 中学校の頃。高志がこの町に帰ってきた頃のこと。高志は、私の自慢のお兄ちゃんだった。先生になって忙しいはずなのに、時々は家にも来てくれた。大人っぽい顔つきになって、雰囲気も変わった私のお兄ちゃん。少しでも意識して欲しくて、自分を変えようと思った。化粧を覚えて、運動をして、勉強を頑張って、服装に気を遣って。下着まで全部買い換えたりした。
 それなのに、お兄ちゃんは部屋から出て来てはくれなかった。私の話を聞いてはくれなかった。
 料理を覚えて、家事を覚えて、もっともっと勉強をして――気がつけば、私は変わっていた。いじめられることもなくなったし、自分を守る方法も身につけていた。
 でも、それでも――
 本当は、高志お兄ちゃんに、守ってもらいたかった。赦されるなら、ずっと――


 傷口を消毒して、軟膏を塗って、ガーゼを当てて、包帯を巻く。手当てをしている間、二人とも無言だった。冷静になって考えてみれば、手首を切ったくらいでは死ぬことはないのだ。手首には筋があるのだから、そうそう深く切れるはずもない。
「ありがとう、千代」
 救急箱の蓋を閉めると、高志がそう言った。低く沁み込む、眠気を誘うくらい穏やかな声で。
「バカじゃないの」
 私は顔を伏せて、そう言い返すだけで精一杯だった。気を緩めたらまた泣いてしまいそうだったから。
「でも、もう大丈夫だから」
「知らないわよ」
 うつむいたままの私の頭に、また掌が乗せられる。ゆっくり、ゆっくりと、頭の形を記憶するように、掌が往復する。
「ご飯、食べたいな」
「……すぐ作る」
 救急箱を持って立ち上がる。そういえば、買い物袋を玄関に置きっぱなしだった。買ってきた材料を頭の中で整理して、何を作るかを考える。
「レバー、食べられるようになったの?」
「随分前にね」
「じゃあ、レバニラ炒め作る」
 私の背中に、高志の声が届いた。
「ひげ剃って待ってるよ」


 家に電話をして、夕食はいらないと伝えた。二人で、居間のテーブルで、夕食を食べた。会話はそれほど弾まなかったけれど、ご飯は美味しかった。顔を上げると、高志の顔が見える。二人とも随分と変わってしまったけれど、何だか懐かしい感じがした。何より、嬉しかった。
「本当に病院行かなくて良いの?」
「大丈夫だよ。もうそれほど痛くないしね」
 私を安心させるための強がりなのは分かっていたけれど、追求はしなかった。男の人は、いつだってやせ我慢をする。きっとそれを受け入れるのも、女の役目なのだろう。そんなことを思った。
 一通りのことを済ませて、帰り支度。玄関で、靴に足を滑り込ませる。
「本当に送らなくて良い?」
「大丈夫。もう子供じゃないんだから」
 笑顔で返す。笑顔が返ってくる。手を振って、「おやすみ」の挨拶。
 玄関を出て、扉を閉めて、深呼吸をする。また少し目の周りが重いけれど、お風呂に入れば治るだろう。時間も遅いし、早く帰らないと。
 でも、私の足取りは、とてもゆっくりとしたものだった。


 文化祭まで、残り二日。午後の授業は中止になって、どこの部活もクラスも、準備にかかりきりになっている。もちろん、私たち演劇部も。
 一度台本の読み合わせをして、最終確認。今日以降、変更はしない。本番のアドリブは別として。そこで、私は部長にひとつの提案をした。
「うん、まあ、良いんじゃない」
 私の提案は、思っていたより簡単に通った。全員が台本にペンを走らせて、修正をする。
「じゃあ、立ち稽古をしましょう」
 みんな揃って部室を出る。これから夕方まで、体育館で繰り返し稽古が行われる。外廊下を歩いているときに、部長が話しかけてきた。
「お千代も、役をモノにしたね。どんな心境の変化?」
 この人は本当にそういうところは目ざとい。でも、深くは追求しないのも良いところだ。
「別に、大したことじゃないですよ。ただ、お姫様が本当に欲しかったものが何となく分かっただけで」
 私がそう言うと、部長は気のなさそうな返事をして、少し考えた。
「私は、ただの喜劇がやりたかったんだけどね。お千代のお姫様も、高校生の文化祭っぽくて良いと思うよ」
 言い方は雑だけれど、これは部長なりの褒め言葉なのだと分かる。
「来年、よろしくね」
「その前に、明後日の本番ですけどね」
 微笑み合って、体育館に足を踏み入れる。このとき初めて、舞台に立つのが待ち遠しいと感じたのだった。


 雑に散らした髪の毛が、吹く風に乱される。前髪をかき上げると、夕陽が真っ直ぐ目に入ってきた。学校からの帰り道は、風の通り道。道の両脇に立ち並んだ木々も、そろそろ葉の色を変えようとしている。
 下り坂を小走りに、家路を急ぐ。体はくたくたに疲れているけれど、気にはならない。今日もアイツの家に行って、ご飯を作ろう。約束はしていないから、驚いて、それから喜んでくれると思う。そう考えただけで、気分が軽い。私にしては、らしくないほどに。
 団地の中を進んで、昨日も来た家の前に立つ。昨日までとは違う気持ちで、鍵を開ける。出来るだけ音を立てないように階段を上がって、そっと部屋の引き戸を開ける。
「……あれ?」
 窓が開けられている部屋。綺麗に片付けられた部屋。布団はベッドの上にきちんと畳まれている。でも、誰もいなかった。昨日とは違う。本当に無人だ。どこかに出掛けているのだろうか?
 まあ良いかと思い直して、とりあえず家事を済ませてしまおうと階段を降りる。階段の真ん中に差し掛かったところで、玄関が開いた。
「千代、来てたのか」
「あ、うん。おかえり……」
 高志が、帰ってきた。髪の毛を切り、スーツ姿で、脇に鞄を抱えた姿で。
「えっと、その格好は何?」
 思わず別人と見間違うほど、しっかりとした格好。顔色だけが青白いけれど、表情から弱さは見えない。
「色々回ってきた。今まで休んでた分、これからやらなきゃならないことは多いからね」
 革靴を脱いで、下駄箱にしまって、玄関に上がってきた。私は階段を全部降りて、高志と向かい合う。向かい合って初めて気づいた。高志は、こんなにも背が伸びていたんだ。
「お風呂、入りたいな。それから、ご飯を食べながら話でもしよう。話したいことが、たくさんあるから」
 そう言って、私の頭に一度手を置いて、ネクタイを緩めながら階段を上がって行った。その背中を、呆然と見送る。
「……何か、格好が違うと別人みたい」
 思ったままのことを言うと、高志は足を止めて振り返って、微笑んだ。憎たらしい笑顔だった。
「外面は良いんだよ。これでも元教師なんでね」
 分かった。私の性格が少し歪なのは、絶対コイツのせいだ。


 日が暮れると、虫の鳴く音が聞こえて来る。時々聞こえて来る話し声は、近所の人たちのものだろうか。夕食時の、穏やかな空気が辺りからも感じられる。
「昨夜、大学時代の友達に電話したんだ。それで、塾講師の仕事を紹介してもらったよ。面接も問題なく終わったし、来週から働かせてもらえることになった」
「へえ」
「今朝一番で床屋に行って、一応医者にも行った。お風呂場のドアにひっかけたって嘘ついてね。それから面接を受けて、友達とゆっくり昼を取って、夕方まで母さんのところにいたんだ」
「ふーん」
「……話、聞いてるか?」
「うん」
 何というか、腹立たしかったりするのだ。私があれだけ泣いて叫んだのに、高志は気にも留めず、あっさり社会復帰を果たしている。それに、今気づいたのだけれど、高志が引き篭もらなくなったら私がここに来る理由もないのではないだろうか。もっとも、明日には通子叔母さんが退院するのだけれど。
「焼き茄子、ちゃんと食べてね」
「ああ、うん。大丈夫。食べるよ」
 複雑な顔をして、高志が苦手な茄子に手を伸ばす。私は黙々と箸を動かしていたおかげで、今は食後のお茶を飲んでいる最中だ。
「明日は母さんを迎えに行って来るよ。荷物持ちが必要だろうから」
「へえ」
「そういえば、トイレットペーパーの買い置きが終わってたな。シャンプーとかも、もうすぐ終わりそうだ」
「ふーん」
「……千代、怒ってないか?」
「うん」
 私の淡白な対応に、さすがの高志も少しひるんだみたいだった。それでも頑張って話しかけてこようとしている。律儀な男だ。
「料理、上手なんだな。何食べても旨いよ」
 今更何を言っているのか。この男は。半年間、毎週食べさせてあげていたというのに。言うのが半年遅いというのだ。
「えーと……ごめんな?」
「それは、何に対して謝ってるの?」
 三年近くも引き篭もっていたことだろうか。それとも、昨夜のバカな行動に対してだろうか。もしくは、ここ半年の私に対する失礼な対応に関してだろうか。
「良い男になれなくてさ」
「……はあ?」
 思わず声が裏返ってしまった。高志が箸を置いて、真っ直ぐに私を見つめている。
「もっと良い男になって、頑張って、千代を傷つける全部から守りたかったんだけど、そんな必要もなくなったみたいだし」
 言いたいことの意味が良く分からないので、黙っていることにした。
「教師になったのだって、最初はそういう理由だった。でも、結局ダメだったし。それでも辞めずに続けてれば、同じ失敗だけはしなかったかもしれないのにな」
「過ぎたことは、もう良いんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないだろ? 昨夜のことだってそうだ。自棄になってあんなことして、でも、分かったことがあった」
 左手首に巻かれた包帯を、右手の指でなぞりながら、高志が言う。
「痛いときは、助けてくれる人がいるってこと」
「別に助けた訳じゃないし、アンタが痛いのなんて知らないわよ」
 バカらしくなってきた。要するに、高志はひとりで懺悔をしたいだけなのだ。私は牧師じゃないから、そんな告白は聞いていられない。それに、私だって高志には謝らなくてはならないことがあるのだから。こういうのは、お互い様なのだ。
「でも、千代がいた。誰かがいてくれるってのは、心強いよな」
 照れくさそうに笑う高志の顔を、まともに見られない。
 話題を変えようと、私は頭を巡らせる。今日あったこと。明日あること。その先にあることを考える。
「あのさ、今度の土日が文化祭なんだけど、来る?」
 割り当てられたチケットは、まだ余っているから。


 お姫様は、自分を奪い合って争う六人の王子たちに、それぞれ質問を投げかける。最後の質問は、自分の夫となった後、どういう風に振舞うのか。王子はそれぞれに答え、姫はそれぞれにダメ出しをする。途中で王子たちは小競り合いを始めるが、姫の前で剣を抜く訳にはいかない。なので、それぞれが頭を捻って決闘の方法を決める。出来るだけ暴力的でなく、かつ自分の良い部分がアピール出来るような決闘方法。
 それに勝ち残った最後のひとりに、お姫様が問う。貴方は、どんな妻を望むのか。
 王子は、ただ在るがままにいて欲しいと答えたが、姫はその王子すらも選ぼうとしなかった。
「私は今在るがままではなく、自分を誇れるように生きたい」
 選ばれなかった六人の王子は、落胆したままそれぞれの国へと帰ることになる。
 そして、話のオチは――
 まあ、笑えるだけなので良いだろう。


 舞台を見終わった高志は、笑い切れない笑顔で私に向かってこう言った。
「お姫様は、強いんだな」
 そう。英雄なんていなくても、女の子はひとりで生きていけるのだ。
「少しは見直した?」
 悪意に涙していた頃の私とは、もう違う。私は、変わったのだから。
「降参」
 そう両手を力なく上げた高志の背中を、私は力いっぱい叩く。
「ほら、まだ時間あるんだから。何か奢ってよ」
 今日は文化祭。いつもは息苦しく感じる学校も、今日だけは浮かれっぱなしの軽い空気が漂っている。カラフルで、騒々しくて、色々な音楽の聴こえる学校。
 私たちは人ごみの中を、はぐれないようにして並んで歩く。
「あ、お千代! 劇面白かったぜ!」
「お千代ー! その服似合ってねーぞー!」
 すれ違う男友達の声に、適当に答えながら。
「なあ千代、せめて着替えてからにしないか? 目立って仕方ないだろ」
 舞台が終わってすぐだったので、私は着替えていない。ひらひらの、幅を取るスカート。肩口が大きく開いたドレス。小物はさすがに置いてきたけれど、この服を脱ぐのは結構面倒なのだ。
「明日も舞台はあるんだから、宣伝しなきゃね」
 来年は、私が部長。明日の舞台は、伊藤部長の最後の仕事。せめて華を持たせたい。
 みんなは知らない。このお姫様がどんなことを考えて、思って、六人もの王子たちを袖にしたのか。でも、それで良い。気づいてくれなくても構わない。
「明日も、ちゃんと見に来なさいよね?」
 後ろを振り向いてそう言うと、高志は少し驚いた顔をして、しっかりと微笑み返してくれた。


 これは後日談になるのだけれど――
 文化祭で大盛況だったおかげで、私たち演劇部員は一躍有名人になった。
 そして、そのせいで私は似合わないあだ名で呼ばれることになってしまったのだった。

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