久住四季特集 - 評論『幻想ミステリとしてのトリックスターズ』

著/秋山真琴


言うまでもないことだが、推理小説に超自然的な魔力を導入すべきではない。

(ノックスの十戒より)

 本論では『トリックスターズ』および『トリックスターズL』のネタを割っています。ご注意ください。

 久住四季のデビュー作『トリックスターズ』に始まるシリーズは、電撃文庫というライトノベルレーベルから発売されている。当然、読み手の大半は、日ごろからライトノベルに親しんでいる読者だろう。しかし、その一方で同作品は本格ミステリ愛好家にも好んで読まれている。何故か。本論では同作品を幻想ミステリとして評価してみたい。なお、筆者は幻想ミステリを、幻想小説の要素とミステリの要素を併せ持つ小説を示す言葉として使っていることを、最初に断っておく。
 まずは本格ミステリについてから始めよう。本格とは何か。もしくは、どのような作品が本格と言えるのか。その定義は厳密にはされていない。とは言え、おおよそ「謎が提示され、それが解明されることが主眼となっている作品」がそうであるというのは、共通感覚として持たれているだろう。ひとによっては名探偵が登場しなければならないだとか、殺人は密室で行われるのが望ましいだとか、もしくは叙述トリックは用いてはならないだとか、そういう細かい制限があるかもしれない。しかし、それらは本格ミステリにとって十分条件ではあるかもしれないが、必要条件にはなりえないだろう。
 それでは謎とは何か。謎とはなんだかよく分からないもののことだ。どうしてそうなったのか、にわかには説明できない、不可解なる現象のことを、我々は謎と呼ぶ。そしてその謎が解明されるとは、即ち、説明できなかった現象が説明できるようになることを指す。たとえば鍵の掛かった浴室で男が、胸を刺されて死んでいるとする。浴室には窓があるが、手を入れることができるほど大きくは開かない。そして浴室の内部に、男の胸を刺し穿ちうる凶器はない。この現象は極めて不可解と言えるだろう。浴室は施錠されているため、入ることはできない。唯一、窓が開いているが、そこからは腕を差し込むことさえできない。首尾よくボウガンで射殺したり、投げナイフで仕留めることができたとしても、浴室内に凶器が残されていないという事実がこの可能性を否定する。こうなると、もう幻想的な手段に訴えるしかない。たとえば水の精霊ウンディーネを召喚し、その鋭い爪で男の胸を一突きしてもらうなどだ。ところが、この謎は実は、極めて現実的かつ論理的に説明できるのだ。既におおかたの読者はお気づきだと思うが、凶器が氷であるときこの犯行は人為的に可能なものとなる。犯人は鋭く尖らせた氷を窓から投げいれ、男を刺殺したのだ。ここで氷の性質を思い出していただきたい。氷は溶けるのだ。男を殺し、凶器としての役目を終えた氷は、やがて溶け、浴室という空間にあっては不思議でもなんでもない水となる。こうして犯人は浴室という密室に足を踏み入れることなく、そして凶器を残すことなく完全犯罪を完成させることに成功する。
 とは言え、だ。この謎は面白くない。確かに一言で説明できるため切れ味はあるが、一度、知ってしまったが最後、無粋で稚拙なトリックに成り果ててしまう。なにしろ、かんたんなのだ。名探偵でなくとも、この謎を解明するのは容易い。それに尖らせた氷が凶器だなんて、リアリティにも欠ける。では、もし浴室の窓が嵌め殺しであったとしたら、どうだろうか。窓を開けることはできず、氷の凶器を差し込む隙間は存在しない。さらに浴室の内側から扉が施錠されていただけでなく、ガムテープで目張りされていたとしたら。今度は難易度が高い。そう、易々とは崩せない密室である。今度こそウンディーネに出番を乞うしかないだろう。しかし本格ミステリにおいて、名探偵はこのレベルの謎であっても、解決編において見事に解き明かしてくれるのだ。謎が謎でなくなる瞬間、もしくは幻想が現実になる瞬間。この落差が大きければ大きいほど、そして現実的かつ論理的で、説得力があればあるほどその作品は優れた本格ミステリとして評価される。
 島田荘司は『本格ミステリー宣言』において、本格ミステリは「幻想味ある、強烈な魅力を有する謎」を冒頭に示し、「論理性」と「思索性」でそれを説明しなければならないと言ったうえで、以下のようにまとめている。

 第一の「幻想味」に関しては、ミステリーのセンスからはずれない限り、とんでもないものであればあるほどよい。日常的常識のレベルから、理解不能のものであればあるほど望ましい。逆に第二の「論理性」は、徹底した客観性、万人性、日常性のあるものが望ましい。「本格ミステリー」とは、この両者に生じる格差、もしくはそこに現われる「段差の美」に酔うための小説である。

 ここで島田荘司の言う「幻想味」はあくまで「味」であって、ほんとうの幻想ではないだろうと思われる。つまり、ファンタジィ世界やSF世界を舞台とし、未知の物理法則が跋扈する異世界において横行している幻想ではなく、あくまで今現在、我々が生きているこの世界を舞台とし、既知の物理法則に縛られつつ空想のなかにのみ存在する幻想を指しているのだろう。そのことは島田荘司自身が主に現実世界を舞台とした小説を書くことや、現実世界を舞台とした小説を書く新人を支持することから分かる。
「幻想味」を表現したいのであれば、ファンタジィ世界やSF世界を舞台としてしまうのが最も手っ取り早く、また確実だが、どうして島田荘司は現実世界に固執するのか。おそらくその理由は「論理性」に因ると思われる。たとえば解決編において、実は犯人が瞬間移動や空間転移といった能力を持つ、超能力者だったとするミステリがあるとする。その結論は、確かに作中においては客観性・万人性・日常性を有し、論理的で説得力があるかもしれない。しかし、その本を読んでいる現実世界に生きる我々からしてみればどうだろうか。超能力などといった非日常的かつ幻想的な手段には「論理性」の欠片もなく、その作品がアンフェアと謗りを受けても仕方ないだろう。繰り返しになるが、島田荘司の主張は、冒頭の「幻想味ある、強烈な魅力を有する謎」は、「論理性」と「思索性」によって構築される現実世界に立脚しているからこそ「魅力」を発揮しうるのだというものだ。また、この考えは冒頭に引用させていただいたノックスの十戒や、ヴァン・ダインの二十則にも見ることができる。ノックスとヴァン・ダインの主張は、極めて明快で、それは「あらかじめ情報はすべて(それこそ作中の物理法則に至るまで)提示されていなければならない」という一文に要約できる。
 しかし、その一方でファンタジィ世界やSF世界を舞台とした作品、つまり筆者の言う幻想ミステリにも本格とは言えないかもしれないが優れたミステリがあることは否定できない。近未来の宇宙空間を舞台とした三雲岳斗『M.G.H. 楽園の鏡像』、書物が消えた世界で語られる北山猛邦『少年検閲官』、魔術師たちが活躍するランドル・ギャレット『魔術師が多すぎる』、そして、特定の音によって世界に影響を与えることのできる魔術を操る魔術師が存在し、魔術の体系や歴史を魔学という学問に昇華させた世界を舞台としている久住四季『トリックスターズ』だ。
 幻想ミステリにおいて、もっとも注意せねばならないことは、幻想小説のまま終わってはならないということだ。地球上とは異なる物理法則に拘束されるのも問題ない、舞台が遠未来や異世界であっても構わない、魔術も同じだ。しかし、宇宙空間における物理法則だとか、魔術によって物語を終わらせてはならない。なんとかして、それらを本を読んでいる我々が生きる、現実世界に繋げなければ、それは幻想ミステリではなく、ただの幻想小説になってしまうだろう。

 そろそろ『トリックスターズ』に目を向けてみたい。
 幻想世界を現実世界に繋げるには、大別してふたつの方法があると考えられる。ひとつは読者にその世界の常識を教えこみ、作中の世界に取り込んでしまうという方法だ。もうひとつは、世界観自体を現実世界と似通ったものにして、現実世界に生きる読者に歩み寄るという方法だ。『トリックスターズ』の場合は、両者をうまく組み合わせて使っている。たとえば登場人物の口を借りたり、授業のシーンなど、とにかく随所で魔学に関する設定を明かされ、読者を作中の世界に取り込もうとする作者の意思が見られる。同時に、聖徳太子や織田信長といった歴史上の人物が魔術師であったとすることで、現実世界とのリンクを作ることで、歩み寄る姿勢も見せている。特に後者の点において優れているのは、魔術を万能の概念としなかったことだろう。念動や読心といった使い方次第では、なんでも出来てしまう類の魔術は不可能命題《ロストタスク》とし可能性の幅を狭め、また魔術を扱うことのできる魔術師をそもそも世界に六人しか存在しないということにすることによって、さらに可能性の幅を狭めている。これによって『トリックスターズ』の世界は、魔術が存在する幻想世界であると同時に、根幹においては現実世界とそう差異がないように、もしくは差異がないように感じられるように構築されている。
 不可能命題《ロストタスク》や六人の魔術師という設定によって、可能性の幅を狭めるということは、論理性を高めることにも貢献している。想像してみよう、もしサイコキネシスのような念動と、テレパシーのような読心が可能であり、さらに魔術師が全国に何万人もいたとしたら。密室殺人は不可解な謎でもなんでもなく、探偵は推理する必要などなく、ただ歩き回って犯人を探し、その心を読みさえすればいいのだ。解決編において謎の解明がされていたとしても説得力は皆無だろう。では、逆に魔術師が非常に希少で、かつそのちからが有限だとしたら。精々、特殊メイクを施したかのように見た目を変化させることができたり、その場にいない誰かの居場所を探ったり、鉄棒から車椅子を作りだす程度のことしかできなかったとしたら。それは魅力的な幻想ミステリになりえるだろう。
『トリックスターズ』および『トリックスターズL』において、犯人は犯行の際に魔術を用いている。その点に関して言えば、確かに現実世界に生きる我々からすれば客観性・万人性・日常性に欠けているだろう。けれど、だからと言って説得力を覚えないかと問われればそうでもない。その理由としては、前述したように『トリックスターズ』が読者を作中の世界に取り込みつつ、現実世界に歩み寄るという方法で、読者をその世界観に馴染ませようとする努力を行っていることが挙げられる。影響を受けやすいタイプの読み手であれば、完全に物語に没頭してしまい、作中の登場人物と同じように魔術を客観性・万人性・日常性のあるものとして捉え、論理性を高く感じ、説得されてしまう可能性は大いにある。また、そこまでいかなくとも、ある程度、作中の登場人物に共感することができれば、彼らが覚えた説得力を共有することもできるだろう。
 さらに『トリックスターズ』においては偽装、『トリックスターズL』においては錬金という魔術が用いられたわけだが、それらはどちらも作中に何度も登場し、かつ説明もされている。作中の世界に数多存在するであろう魔術のすべてを読者は知りえないが、少なくとも偽装と錬金に関してだけは登場人物と同じように知っているのだ。作中の物理法則に至るまでのすべての情報が明かされているわけではないが、少なくとも謎を解明するのに必要な情報だけは提示されているのだ。歴とした公平性がここには感じられる。

 ここで冒頭で掲げた問いを振り返ってみたい。『トリックスターズ』はライトノベル読みだけでなく、本格ミステリ読みの間でも好んで読まれている。何故か。本論ではその理由を、幻想ミステリという観点から考えてみた。現実世界には存在しない魔術という概念が存在するがゆえに、舞台自体は幻想的なものだが、そのせかいで展開されている論理は、客観性・万人性・日常性を有している。ゆえに現実世界に拘泥しない本格ミステリ読みは『トリックスターズ』を快く受け入れているのだ。
 しかし、たとえば『トリックスターズL』はクローズド・サークルという観点から、『トリックスターズD』はメタミステリという観点から、『トリックスターズM』は倒叙という観点からそれぞれ分析および評価が可能だろう。
 それらについて考えるのは、またの機会に取っておきたい。もしくは、本論を読んだ方に楽しみとして進呈したい。

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