久住四季特集 - 評論『魔術《トリック》、論理《ロジック》、現実《リアル》。』

著/キセン

※この文章では久住四季「トリックスターズ」シリーズにおける重大なネタバレがなされています。


 エラリー・クイーンの『〈生き残り《ラスト・マン》クラブ〉の冒険』という作品にこんなやりとりがあった。リチャード・クイーン警視が息子エラリーの推理に感嘆して思わず叫ぶ。
「魔法だ!」
 エラリーはそれに応えて――
「魔法じゃない。論理ですよ」
 クイーン・フリークの私はこの会話にシビれていた。が、加納さんならエラリーに対してそっと反論するかもしれない。
「いいえ、やっぱり魔法です」――

(有栖川有栖「“論理《ロジック》じゃない、魔法《マジック》だ”」)

 上に引用した文章は、有栖川有栖が加納朋子の第二作『魔法飛行』によせた解説の一部である。論理《ロジック》じゃない、魔法《マジック》だ――「推理小説を模った現代の魔術師の物語」という、『トリックスターズ』の方向を運命付けた惹句は、また、こうも言い換えられたのではないだろうか。もっとも、魔法《マジック》ではなく、魔術《トリック》だが。
 事実、『L』や『C』において、一見〈論理〉的な解決は、魔術師《トリックスター》の詐術によって覆される。この構造は、深読みすればこのような皮肉ともとれる。……一般に本格ミステリと呼ばれる作品群を読むとき、読者ははたしてどれほど、探偵によって提出された〈論理的な解決〉を疑うだろうか?
(私を含めた)ある種の決して少なくない読者にとって、探偵の推理の妥当性をもっとも保証してくれるのは、自らの推理力、洞察力ではなく残りページ数である。あるいはこういった指摘がなされることがある。ある程度以上本格ジャンルの作品を〈経験した〉読者が、新作を読んで得意げに「犯人(トリック)が解った」と語るとき、ほとんどの場合彼は真の意味で推理を行ったのではない、パターンの組み合わせを自らの〈経験〉と照会して、類似した例を検索しているに過ぎないのではないか――。
 自らが従っている〈コード〉に対してもっとも思索的なジャンルのひとつである本格ミステリの作家たちは、云うまでもなくこのような疑問を評論において、あるいは作品において問い続けてきた。たとえばエラリー・クイーンは、前者の指摘――探偵の提示した〈真相〉が真の解決であるかどうかを作中では証明できない――を、『十日間の不思議』『九尾の猫』といった作品において〈探偵の敗北〉という形で描き、作中に顕在化させている。一九四〇年代のことである。
 では『トリックスターズ』シリーズにおいて特徴的なのは何か。論理を魔術が覆す構造になっている点である。『十日間の不思議』において、探偵は自ら失敗するが、結末においてなんとか真犯人を指摘する。しかし『L』または『C』の場合、魔術師である周は、作中の人物、そして読者を欺き、偽の解決を提示する。『L』と『C』では状況が違うが、いずれにせよ、真の解決が共有される現場にいるのは魔術師のみだ(微妙な表現になってしまうが)。論理ではなく、魔術の〈理〉において解決が示されているといえるだろう(あるいは、西尾維新の『戯言シリーズ』も似た構造を持っているものの、繰り返しになるが、論理より上の階層の〈理〉が存在するという点で異なる)。
 しかし、もちろん、このシリーズをたんなる〈論理の魔術に対する敗北の物語〉と見るのは間違っている。なぜならシリーズの全ての作品において過剰なまでに繰り返されるように、魔学とは現実的《リアル》かつ論理的《ロジカル》な学問であるからだ。ここまで、論理を魔術が覆す、と繰り返してきたが、実のところこの表現は誤解を招きかねない。魔術が依拠する魔学が現実的である論理的であると、ほかでもない魔術師から語られる以上、それもまた詐術でない限り、魔術もまた〈論理〉によるものであると考えるべきだろう。では、『L』や『C』の構造は何を意味するのだろう? ――こう考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、本格ミステリ的な〈論理〉と、魔学における〈論理〉は、ことなる性格を持ったものであると。
 これもまた繰り返し論じられてきたことであるが、本格ミステリにおいて振りかざされる〈論理〉とは、かなり恣意的に用いられている概念であるといえる。根本的なことをいえばそもそもがすべて、作者の意図のなかで構築された世界のなかで展開されているのである。その世界に虚無が発見されれば、本来であれば、そこで〈論理〉と名付けられたすべての推論は一瞬にして妄想へと姿を変える。そしてその世界は言葉で作られているのだから、〈書かれていないところ〉は必ず発生する。たとえばその〈書かれていないところ〉にタイムマシンや超能力や、あるいは魔法の存在を仮定すれば、虚無などはいくらでも作り出せるのである。だが読者はもちろんそんな可能性は考慮しない。あくまで〈書かれたところ〉に従うというコードのなかで読者は、本格ミステリの〈論理〉を愉しむ。『C』に登場したプロレスのように。
 しかし……作品としては『M』に顕著なように、もちろん伏線はあるものの、魔術は本格ミステリのコードの外から侵入して、そのルールをなかば逸脱しかけながら謎を作り出し、あるいは解体しているように思える。このシリーズにおいて、魔術という〈論理〉は何を果たしているのか――その答えへの道筋を私は、これまでのシリーズ内に登場する魔術師がすべて女性であることにいま、求めようとしている。

 もっとも、女性のみが魔術師になれるというわけではないのは、アレイスター・クロウリーの存在が証明している。これからの「A・クロウリー編」において、おそらくは男性の魔術師も登場するだろう。しかし、ここまでの五作に姿を見せる四人の魔術師、そのすべてが女性であること、そしてそれ以外の主要な登場人物の多くもまた女性であることに意味を求めようとすることは必ずしも無駄ではないだろう。物語の基本設定を支配する魔術師が女性であることによって、そして魔術という〈論理〉が作品を支配することによって、つまりは、(少し毛色が違う『M』を除けば)犯人と探偵もすべて女性となるのである。
 ミステリにおける女性の役割は、一九八〇年代にサラ・パレツキーやスー・グラフトンの登場により、ハードボイルドジャンルで大きな変質を迎えた。日本においても桐野夏生や柴田よしきによって同様の試みが行われたが、本格ミステリにおいてはどうだったろうか。主に探偵と他者との(会話による)関係性の変化によって物語が進むハードボイルドに比べ、本格においては探偵/犯人のほかはワトソン役を除き、脇役という「背景」に陥ってしまいがちだ。そして、「背景」でしかない他者といくら関係性を結ぼうとも、その探偵の魅力は引き出されない。本格の探偵は事件を通してのみ人物としての生命を与えられる。男性はまだいい。超人性がそこに付与され、魅力となるから。しかし女性には、か弱さや優雅さという差別めいた先入観があらかじめ植えつけられている。それらと超人性は多くの場合相反してしまう。ハードボイルドであれば、他の登場人物との会話、アクションシーンなどでそれを逆手に取ることができる。しかし本格ミステリにそのチャンスはあまり与えられない。
 桐野夏生の出現と同時期、新本格で誕生した女性探偵を見ても、二階堂黎人や北村薫の作例は、人物造形に成功しているとは云いがたいと、個人的にはだが感じる。女性作家を見ても、若竹七海のようにハードボイルド的なアプローチを採用したり、面白い例としては、松尾由美や青井夏海が「出産」という女性性が強調される現象を背景に妊婦や助産婦といった属性の人物を用いることによって探偵を女性にする必然性を生み出している。いずれにせよ、本格ミステリにおける、正統的な女性探偵というのは、驚くほど少ない。ましてやそれ以外の女性の登場人物といえば、犯人でさえ鋳型にはめたような造形になることが、特に男性作家の場合に多い(本格ミステリでの女性の造形において、重要な意味を持つ作家を持つ作家として、ここでは森博嗣と殊能将之の名前をあげておきたい。特に殊能は、「トリックによって」造形する、という大技を見事に成功させた稀有な例を二作も生み出した点で賞賛に値するだろう)。
 ここまで書いたことに首を傾げる読者もいるかもしれない。実際自分の読んだ作品に登場した女探偵を思い出し、上記のような議論を恣意的に感じるかもしれない。しかし、実際に二〇〇二年、ネット上で行われた「名探偵知名度調査」の結果を参照すれば、多少は説得力が付加されるのではないだろうか。全三百人中、上位十位までに女性はいない(猫が一匹混じっているが)。範囲を広げても、二十位までで一人、五十位までで四人。不当に少ないと書いてしまって問題はないだろう。

 結論から云えば、少なくともこれまでの『トリックスターズ』において、本格ミステリのそれを覆す存在としての魔術という〈論理〉は、それを操る存在――探偵そして犯人――が女性であるという事実と結びついて存在しているのではないか。
 第一作において、論理が魔術に覆されるのと呼応するように周が女性であることが判明するのは、おそらくそれと無関係ではない。男性が支配する(と云い切ってしまうのは問題かもしれないが)本格ミステリの世界から、魔術の世界へと、作品世界は変貌する。『L』においても同様で、論理が魔術に覆されると同時に、魔術師が男性ではなく女性であることが判明する。『D』では、本格ミステリ的名探偵を象徴する男性=衣笠たちが繰り返す論理が、すべて魔術師の掌におけるものであることが明かされる。そして『M』にいたって、衣笠と同じく本格ミステリ的名探偵であった諡は、あらかじめその座を奪われ、犯人であることを余儀なくされる(そしてそれは、魔術師の未来視によってはじめから見破られている)。表面的には〈論理〉が尊重されているのでわかりにくいが、実はシリーズにおいて本格ミステリ的な〈論理〉ほど、徹底的に敗北しているものはない。
 では『C』はどうか。この作品においては、これまでのように、(先述したような構造を除いて)あからさまに〈論理〉は敗北しない。しかし、そこに繋がる男性の優位性はあらゆる意味において無視されているように思える。『C』では恋愛感情によるものもそうでないものも含め、いくもの三角関係が描かれるが、作品内において、そのすべては、乱暴な言い方をしてしまえば〈女性のもの〉といえるのではないか。
 わかりやすく恋愛がかかわる三つの三角関係――国塚・瀬尾・蓮見/衣笠・宮野・三嘉村/園馬・午沼・智納木――を見ればあきらかだ。関係性の違いはあれど、それらはすべて一人の男性と二人の女性の物語であり、事態はすべて女性側の視点で動いている(後ろ二例において男性側の視点は描かれない。最初の一例においても、国塚視点は存在するものの、実際にこの三角関係に変化を与えるのは女性二人の対話である)。これはわかりやすく、このシリーズがまずなによりも女性の物語であることを物語っているように感じられる(また明らかに三嘉村と周のあいだに恋愛関係が擬されていることも、ライトノベル的なくすぐりという側面からあえて眼をそむければ、そのことを示唆しているように思われる)。
 本格ミステリ的な、そしてそれゆえに一方的に男性と結びついている〈論理〉への、女性と結びついた〈魔術〉というまた別の位相を持つ〈論理〉からの異議。女の子の秘密の会話のようにひそやかに共有される、魔術師たちの詐術――それは衣笠のような「さてと言い」的名探偵の虚栄心とは違った位相に存在しているものであり、そしてそれこそが、この物語のなかに生きる〈現実《リアル》〉なのではないか。
 「推理小説を模った現代の魔術師の物語」という、『トリックスターズ』の方向を運命付けた惹句はあるいはまた、こうも言い換えられるのかもしれない――「男性の〈もの〉としての本格ミステリにおける〈論理〉」を模った「女性の〈もの〉としての魔術という〈論理〉」の物語であると。そしてそれを体現した存在として周がいるのなら、『L』において、詐術に徹して解決編を描くことができず、自らを「トリックスター失格」と自嘲した彼女は、いまだそのふたつの〈論理〉のあいだにいたということになりはしないか。そして『C』における選択は、魔術という論理を押さえつけようとする、男性的な存在としてのオズへの反逆として考えられはしないか――。こう推測するのにはまだあまりにも早すぎるし、また図式的であるとの謗りも免れまいが、この物語に決着が付く時、あたかも男性を模るかのような彼女の語りに、何らかの変化が訪れるのではないだろうかと、私は想像する。

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