『ひとりぼっちの月の子は』

『ひとりぼっちの月の子は』

著/市川憂人

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 エーテルざわめく月の夜、私はそれに逢いに行く。

 廃棟の前まで来ると、私はいつものように夜空を仰ぎ、眼を閉じた。
『海』への同調強化。
 大気の気体量子計算機《エーテル》と体内のそれとが共鳴し、私の自我を『海』へ誘う。
 全身の感覚が一気に広がる。――自分と全世界とが一体になったような、奇妙な開放感。
 比喩ではない。今この瞬間、私は、エーテルの『海』を自在に泳ぐ魚となり、同時に『海』そのものになっている。
 エーテルのざわめきが見える。
 あらゆる場所からあらゆる位相へ、暗号化された信号が押し寄せ、海流となって、『海』を漂う私の意識を、そして全身を揺らす。
 遊泳《ナジュ》は月夜に限る。が程よく心地いい。日中は波の強さが桁違いで、私の能力ではあっという間に意識をさらわれてしまう。かと言って、新月の凪の死んだような静けさも、少々味気ない。
 世界がまだ光電子網でしか繋がっていなかった時代、電子情報の世界は網《トイル》の中に押し込められ、「もう一つの現実」――仮想現実――として、物質世界とは明確に切り分けられていたのだという。
 エーテルが世界に満ちみちた今、そんな区別なんて誰もしない。『海』はいつでも周囲にあり、五感で感じることのできる紛れも無い現実だ。物質世界と仮想現実の境界があるとしたら、それは『海』への同調率という、連続的で曖昧なものでしかない。
 こうして夜の海を漂うのが、ひと月前までの私の唯一の慰めだった。
 今は違う。もう一つ、楽しみが加わった。
 当初の目的を思い出す。周囲二○○哩を走査。――生体反応なし。ただひとつ、廃棟の屋上に、ぼんやりとそれの気配が感じられるだけ。
 安堵の息を吐く。良かった、今日も逃げ出さずにいてくれているようだ。周囲に人気がないのも実に都合が良い。
 眼を開く。『海』との接続が薄らぎ、物質世界の感覚が戻ってくる。星と月の光が降り注ぎ、私の肌を洗い流していく。
 軽く呼吸を整えると、私は廃棟に足を踏み入れた。

 廃棟の暗闇を抜け、淡い月明かりの屋上に出る。
 それはいつものように、屋上の隅にうずくまっていた――ようだった。足音に怯えていたのか、身を縮こませている気配がする。
「――おいで」
 その見えない気配に向かって、私は声をかけた。「ごはん持って来たよ。食べるでしょ?」
 途端にそれの緊張が解ける――のが解った。私がフードパックを床に置くのを合図に、それはためらいがちに、ゆっくりと、けれど速度を落とすことなく近寄って来た。
 それが「手」を伸ばす。フードパックの中のパンが持ち上がり、それの「顔」の方へ運ばれる。パンが端から少しずつ、やがて勢いよく消滅していく。
「もっと食べる?」
 それが頷いた――ような気がした。私は微笑むと、紙袋からもう一つのフードパックを取り出した。

 それの存在をどう説明すればいいのか、私にはよく解らない。
 姿は認識できず、走査しても黒っぽい「穴」がぼんやり空いているだけで、何のフィードバックも返ってこない。ただ、影のような気配だけがあるだけ。
 仮想生物《イルジオン》とも、エーテルに焼きついた死者の残留思念《ファントム》とも、似ているようで全然違う。それらは物理的実体を持たず、それでいて目に見えるし走査にも引っかかる。だけどそれはちゃんと実体を持ち――何しろごはんまで食べる――なのに見ることも検知することもできないのだ。
 認識阻害だろうか、と思ったこともある。けど、そんな高尚な技法を使っている様子もない。
 何なんだろう――答えようのない問いを心の隅に寝かせなら、今日も私は月夜の下、それと静かに時を過ごす。

 この奇妙な存在と私が初めて出会ったのは、今からひと月前。今夜と同じような月明かりの街角を、ひとりさまよい歩いていたときのことだった。
 ぼろぼろになり、歩き疲れ、路地裏の壁にもたれて座り込み、狭い夜空を見上げていた私のそばに、それはいつの間にか寄り添っていた。
 いるのに見えない。とっさに走査しても何も返ってこない。体積は人間の子供くらい。狭い路地裏の中、暗い影のような、ぼんやりとしたその何かと初めて対峙した時は、さすがに全身に鳥肌が立った。
 ――何。何なの!?
 身動きひとつできなかった。攻撃命令《コマンド》を使うことさえ頭から消し飛んでいた。
 それが「手」を伸ばし、私の右腕の肌に触れた。
 嫌悪感に身体を強張らせ……けれどその「手」の感触は、思いのほかやわらかく温かく、人肌にも似た滑らかさがあった。
 予想外の心地よい感触に、私は混乱した。
 それは私の腕を撫で続けている。道端に落ちていた人形の埃を払うような、無邪気で興味深げな動作。
 ――そうやって、どれほどの時間が過ぎただろうか。それに対する恐怖と嫌悪感は、いつの間にか消え失せていた。
 ――何だろう、これ
 身を軽く起こし、逆に手を伸ばそうとした瞬間、それの身体がびくりと跳ねた――ような気がした。弾かれるように「手」が引っ込められ、気配があっという間に遠ざかり、
(――待って!)
 自分でも信じられない言葉が飛び出していた。それがぴたりと動きを止める――のが解る。
 不思議な気持ちが湧き上がっていた。それの正体は全然解らない。けれど――このまま放っておいてはいけない、そんな気がした。
(怖がらなくていいから。私は敵じゃないから。……だから、逃げないで。ね?)

 ――そうして、人目に触れない場所をあちこち探して、街外れのこの廃棟を見つけてそれを連れてきたのが一ヶ月前。
 学校《リセ》が終わった後、エーテルの波が穏やかになる夜中にここを訪れるのが、最近の私の日課だ。
 月明りと星明かりに照らされた屋上で、それと何をするでもなく過ごす静かな時間は、いつの間にか、私にとって何にも代えられない安らぎの時になっていた。

 持ってきたフードパックは、二つともあっという間に空っぽになってしまった。
「おいしかった?」
 それが「喉」を鳴らす。ぼんやりした影のような身体――と私が勝手に感じているだけなのだけど――に似つかわしくない、猫のように細やかな鳴き声。
「おなかいっぱい?」
 再び鳴き声。
「そっか」
 鳴き声の意味は解らなかったけれど、喜んでくれているのは何となく感じ取れた。「今度はもっとおいしいのを持ってきてあげる。楽しみにしててね」
 もう一度「喉」が鳴る。――私の言葉が理解できるのだろうか? 何とも言えなかったけれど、懐いてくれているのは解る。自惚れではなくそう思う。
 仮想生物《イルジオン》さえ飼ったことのなかった私にとって、それは初めて胸に抱く甘やかな感覚だった。
 夜空を見上げる。蒼い月と白い星が淡い光を注ぎ、エーテルを静かにさざめかせる。
 気候と地理の賜物か、この街を含む一帯は雨が滅多に降らず、それでいて気温はさほど高くない。感覚制御の下手な私には少し肌寒いくらいなのだけど、こうして星空を毎日見上げることができるのは、他の街にはなかなか無い特権だと思う。
 ……けれど。
 この街が好きかと問われたら、私はきっと素直に頷くことができない。
 この街に私の居場所はない。学校にも、寮にも、繁華街にも。
 ――この街だけじゃない、きっと、他の世界のどこにも。
 傍らのそれを見やる。
 この子には居場所があるのだろうか。この、うち捨てられた廃墟ではない、もっと穏やかなどこかに、この子が居るのにふさわしい場所があるんだろうか?
「ねえ、あなたは何? どこから来たの?」
 返事はない。
「初めて会ったとき、どうしてあんなところにいたの?」
 首をかしげるような気配。
「私は……前に話したっけ。学校で嫌なことがあって――」
 学校で嫌なこと? 自嘲が漏れる。学校にいて、嫌でない出来事なんて一つでもあったのだろうか。「あの時間まで、ずっと……嫌なことされてて。忘れたくて、遠くへ行きたくて――」
 でも行けなかった。体力が尽き、気が付いたらあの路地裏でへたり込んでいて……そしてそれに出会った。
「あなたも、嫌なことがあってあそこにいたの?」
 応えはない。言葉が理解できないというより、問われた内容がピンと来ない、といった感じの沈黙。
 考えてみれば、出会って一ヶ月経つというのに、私はそれについてほとんど何も知らない。どこから来たのかも、正体が何なのかも……何と呼べばいいのかさえも。走査にも掛からない存在なのだ、そう簡単にほいほい解るものではないと、頭では理解しているのだけど。
 もちろん、私も何もしなかったわけじゃない。この一ヶ月、それらしい情報を求めて『海』のデータベースを泳ぎ、いくつか気になる噂を拾い上げていた。
 ……曰く、繁華街の外れに、見えない幽霊が出る。
 ……曰く、何かにぶつかって、振り返っても誰もいない。
 ……曰く、知らぬ間に、店先の食糧がなくなっている……。
『たとえ世界がエーテルに満たされても、人間がいる限りこの世から都市伝説が絶えることはない』――そう言ったのは果たして誰だったか。ただの噂に過ぎなかったけれど、私にはまたとない情報だった。
 噂が湧き上がり始めたのはおよそ三ヶ月前。そして二ヵ月後、今から一月前――私がそれと出会い、この廃棟に移した頃――にほぼ沈静化している。それのことを指しているのは火を見るより明らかだった。
 とはいうものの、噂話を吟味するうちに、妙な違和感を覚えたのも事実だ。
 噂話がそれを指しているのはほぼ間違いない。けれど記録《ログ》をよく読むと、各々の噂話の当事者は、それの存在を「全く」認知できていない。私のように「見えないけど何となくそこにいるのは解る」どころではなく、全然、完膚なきまでに気付けていないのだ。しかも誰ひとり。
 そう言えば、それをこの屋上に連れてくるときも、すれ違う誰ひとりとしてそれに目を向けていなかった気がする。人通りの少ない裏道の、ほんの二、三人程度の話でしかないのだけれど。
 そして、噂が広まり始めた三ヶ月前……それに関わる出来事が、この時に何かあったはずなのだけど、実はこれと思しき事件を全く見つけられない。第四区画西の教会で神父が亡くなって、集会場の取り壊しが決まったとか、人気騎士のヨランド・ミッテルがこのたび副騎士団長へ就任内定したとか、見つけられたのはそんな些細な日々の記事ばかり。例えば政府機関の研究所で謎の爆発事件が起こったとか、そういった「怪しい」情報は欠片も発見できていない。
 ――けれど、それでも格段の進展だった。
 それが、私以外の人間には全く認知できない存在であるらしいこと。それが、少なくとも三ヶ月前からこの世に現れていたらしいこと。それらが解っただけでも。
 今はそれで充分だった。傍らでこうして、それが静かに話を聞いていてくれるだけで。
 自分でも不思議に思う。傍から見たら気味悪いとしか思われないだろうこの存在を、どうして私は、こんなにも気にかけずにはいられないのだろうか、と。
 本当のところは解らない。けれど――
 たぶん、私たちは似たもの同士。世界から見捨てられ、誰からも見向きもされない存在だった。
「……そうだ」
 私はそれに向き直った。「この間の名前、どう? 気に入ってくれた?」
 間延びした鳴き声。……お気に召さなかったらしい。
 ここ一ヶ月間ずっと、それにしっくり来る名前を考えてはいるのだけれど、なかなかいい案が浮かばない。
 この前付けた呼び方も、たった今ばっさり却下されてしまった。……まあ確かに、『黒《ノワール》』なんて安直かつ不吉かつ猫みたいな名前は果たしてどうなのか、と後で自分でも思ったけど。
「どうしよっかなぁ……」
 ごろん、と床に寝転がる。きょとんとしたのかどうか、それがかすかに身動きする。夜空は光に満ちていて、月があんなに蒼く輝いていて――
 跳ね起きた。
 何だ、どうして気付かなかったんだろう。こんな素敵な名前があったじゃないか。
 毎日見上げてたのに思い浮かばないなんて、間が抜けてるもいいところ。
「――『リュヌ』」
 高らかに宣言した。「あなたは『リュヌ』。『お月様』って意味だよ。どう?」
 しばしの沈黙の後――
 それは、今まで聞いた中で一番高く「喉」を震わせ、私の足に「手」をぺたぺた触れさせた。
 良かった、気に入ってくれたみたいだ。
「じゃあ決定。よろしくね、リュヌ」
 それ――リュヌはもう一度高く鳴き声を挙げた。私は頬が緩むのを感じながら、
「それじゃリュヌ、私の名前は?」
 尻上がりの短い鳴き声。
「もう。『シルヴィ』でしょ? 何度も教えてるのに全然覚えないだから。……ほらもう一回。『シルヴィ』。言ってごらん?」
 うねりの付いた声。「しるびぃ?」と本当に発音しているようで、私は思わずもう一度頬を綻ばせた。

 後に私は、この他愛ないやりとりを――
 例えようのない悪夢として、何度も夢見ることになる。


 学校って何だろう。
 エーテルがまだ世界を満たしていない頃は、「第五次メテナ・メタエ大戦が始まったのは標暦七七三年」とか「細胞の主要構成要素は細胞膜、染色体、リボソーム、そして細胞質」といった事柄を真面目な顔して脳神経に記憶させるのが学校というところだったらしい。
 エーテルのヴァージョンが7・3まで進んだ今から見たら、全く無駄の極みとしか言いようがない。『海』のデータライブラリでちょっと検索すれば一瞬で解るようなことを、わざわざ何時間も割いて脳細胞に書き込むのだから。
 ――けど。
 私のような落ちこぼれにとっては、今よりよほど夢のような世界だったに違いない。
 持って生まれた才能――体質ですべてが決定されてしまう今とは、比べ物にならないほど努力の報われる余地が多く残されていたはずだから。

「――『アンチ・アンニュイ』」
 エミリーが嘲笑を浮かべながら、第二の攻撃命令《コマンド》を飛ばす。
「……っ!」
 防御障壁《シールド》を全力展開。けれど間に合わない。つぎはぎだらけの私の障壁をエミリーの攻撃命令はあっさり食い破り、
 衝撃が襲い掛かった。
 高電圧の電線を身体中にねじ込まれたような、凄まじい電撃。悲鳴が弾ける。体勢を立て直す暇もなく今度は背後から声。
「『ヒス』」
 まともに受けた。筋肉が引き裂かれたと錯覚するほどの衝撃。気付いたときには私は床に倒れ伏していた。
「――それまで」
 教官の試合終了の合図にも、立ち上がることさえできない。這いつくばる私の顔にエミリーのブーツの足の裏が叩き込まれた。視界が半回転。背中と後頭部に衝撃。顔の右半分を鈍痛が襲う。
「さっさとどきなさい。次の試合の邪魔よ、一桁女《ワノーダ》」
 肩甲骨まで伸びた巻き毛のブロンドを揺らし、エミリーが汚物を見る目で鼻を鳴らす。
 周囲から嘲笑と失笑が巻き上がる。激痛と涙を堪え、私は立ち上がり、形ばかりの礼をして、身を引き摺るように試合場から退いた。
 教官は何も言わない。ただ淡々と、次の生徒の名前を呼んでいる。
 境界《ボーダー》が再描画されるのを合図に、次の試合が始まった。たった二つの攻撃命令でいいようにあしらわれた私と違って、今戦っているふたりは、互いに互いの攻撃パターンを読み合い、防ぎ合いながら、持てる全ての攻撃命令を駆使して、緊迫した接戦を繰り広げている。
 私とは桁違いのレベルの攻防。
 ……違う、彼らが凄いわけじゃない。私ひとりが極めつけに弱いだけだ。基礎科目の一つでもあるこの模擬戦で、私は二○人のクラスメイトの誰にも、一度たりとも勝てたためしがない。
 情報検索が極めて容易になり、『知識量』が能力指標としての意味を完全に失った現在、代わって問われるのは、必要な情報をいかに速く取得するか、情報を元にいかに速く最適解を見出すか、最適解をいかに速く確実に遂行するか……ひらったく言えば「いかに上手く気体量子計算機《エーテル》を使いこなせるか」のただ一点だ。
 今、目の前で行われている模擬戦《カトゥル》も、エーテル操作能力を伸ばす効率的な教育方法として、世界中の学校で日常的に行われているものだという。
 使える攻撃命令――攻性プログラム――は四つ《カトゥル》。それをエーテルを介して相手の身体に届かせ、動きを奪えば勝利。ルール自体は単純そのもの。
 攻撃命令とはいっても、相手の体内のエーテルに干渉するだけで、それ自体が物理的な破壊力を持っているわけじゃない。相手に届かなければ意味が無い。だから、いかに攻撃命令を相手の身体に到達させるか――手持ちの攻撃命令を将棋の駒のように駆使し、相手の手を読み、相手のを無効化し、自分の駒を相手の王《身体》に叩きつけるか――が、勝利への鍵となる。エーテル操作能力を伸ばすには、まさにうってつけの競技。
 ――けれど。
 能力を「伸ばす」なんて建前だ。全ては才能――エーテルの体内定着率という「体質」で、先天的に決定されてしまう。
 世界はエーテルで満ちている。
 この世界の中で作られたモノ――食糧、服、靴、それから建物の壁、タイル、その他もろもろ――にもまた、相応のエーテルが含まれている。
 そしてそれは、私たち人間とて例外ではない。
 エーテルの海に棲む私たちは、常にエーテルを体内へ取り込みながら生きている。皮膚、筋肉、神経……体内のあらゆる個所へ取り込まれたエーテルは、同調させればそれら全部が一つの計算機として動作する。
 皮膚のエーテルは外界の情報をキャッチし、他のエーテルを媒介しながら神経細胞へ情報を送り込む。神経細胞に貼り付いたエーテルは思考を読み取り、体内の他のエーテルへ命令を送る。体内のエーテルは同調し、演算し、皮膚細胞のエーテルを介して命令や計算結果を外界へ出力する。
 言ってみれば、私たちは歩く計算機だ。そして外界のエーテルは私たちを繋ぐケーブルであり、情報を蓄積するデータベースであり――要するに世界そのものでもある。
 体内のエーテル量が多いほど、演算速度や外界との同調速度、つまり「エーテルを使いこなす力」が強いのは、だから幼児にも解る必然だ。
 明文化されているわけではない。むしろ公式にはあってはならないこととされている。けれどこの世界の現実は、コンマ数桁の単位で体内エーテル量を比較され、序列の決められる階級社会だ。――それも、努力では決して覆すことのできない類の。
 遺伝子改竄による体質改善には成功例がない。エーテル定着率を決める「体質」の正体が何なのかさえ、未だ明らかにされていない。ひところ流行った食事療法も、効果はたかが知れていた。……それは私にとって、無慈悲すぎる絶望だった。
 私の体内エーテル量は標準値の九・四パーセントしかない。
 必要最小限の機能――知覚、接続、発信、走査――をどうにかこなせるだけの落ちこぼれ。
『一桁《ワノーダ》』、それが私に付けられた蔑称だった。

 ――授業の邪魔よ、ワノーダ。
 ――何でこんなところにいるの、ワノーダ。
 ――早く死ねばいいのに、ワノーダ。

 今日も拷問のような時間が過ぎていく。
 膝を抱えながら私は嗚咽を噛み殺した。
 ……嫌だよ。
 ……やだよ、リュヌ。
 ……こんな世界になんか、居たくないよ……。

 果てしない時間の後、ようやく今日の授業が終わる。
 うつむいたまま、逃げるように教室の外へ足を踏み出したとき、クラスメイトの嬌声がエーテルをかき乱した。
「ねえ聞いた!? いま、学校にヨランドが来てるんだって!」
「ヨランド……って、あの騎士《シュヴァリエ》のヨランド・ミッテル!? 嘘!」
「嘘じゃないって。ナタリーが走査して確認したって。教官室に今いるみたい!」
「ホント!?」
「早く行かなきゃ!」
「で、でも何で!? 何でヨランドがうちの学校に?」
「知らないの!? 彼女、何年か前のうちの卒業生――」
 私を突き飛ばすように、どやどやとクラスメイトたちが走り去っていく。こういうとき、私は路傍の石のように見向きもされない。
 重い息を吐き、教室を後にした。
 校舎を出ると、校庭の一角に何十人もの生体反応があった。女子学生が輪になって固まっている。
 そしてその輪の中心を、ひときわ目立つ生体反応が占めていた。
 ――赤い髪の女性。
 思わず足が止まる。
 無意識に同調強化。『海』への意識浸透率増加。赤毛の女性の周囲を、私のとは比較にならないほど強固な障壁が覆っている。その外殻に貼り付いた認識票《タグ》を読んで、私は再度身を硬くした。
 ――ヨランド・ミッテル。
 若き美貌の英雄。ついさっきクラスメイトたちに噂されていた張本人。その名を知らぬ者のない、世界最強の騎士のひとり。
 本物だった。実物の彼女を目の当たりにするのは私も初めてだった。
 背は思ったほど高くない。女性の平均身長より少し上くらい。赤と橙を混ぜ合わせたような鮮やかな髪は、うなじの辺りでやや乱暴に切り落とされている。
 感情を凍らせた青の瞳。氷のように冷たい美貌。
 そのヨランドに向かって、女子学生の輪の中からブロンドの髪が一歩進み出た。
『お会いできて光栄ですわ、ミッテル副騎士団長殿』
 通常なら肉声の届かない距離だったけれど、『海』へ同調強化している今は、何とか聞き取ることが出来た。エミリーは頬を上気させながら、『あなたと同じ学舎で学べることを、わたしたちは誇りに思います。あなたのような騎士を目指して、これからも精一杯努力していく所存ですわ』
『期待する』
 透明な声がエーテル越しに届いた。『エミリー・シムノン、貴女のことは教官から伺っている。稀に見る逸材と。今後も奢ることなく研鍛を積むように』
 わあっ、と歓声が挙がる。ヨランドがエミリーの手を握ったらしい。エミリーはさらに頬を赤く染め、『――はいっ』と頷いた。
 ……もう耐えられなかった。
 頬を伝う涙を拭い、私は校門へ駆け出した。
 ――そのとき、どこからか強い視線を感じた。
 思わず振り返る。
 極細の仮想探査針《プローブ》が一本、集団の輪からエーテル越しに私の障壁に触れていた。
 ――ヨランドだった。
 最強の赤毛の騎士が、蒼い視線を私に投げている。――見付けた、そう囁くような奇妙な色の眼光。
 私は凍り付いた。
 ほんのコンマ数秒間の出来事だった。ヨランドは唐突に視線を外し、女子学生の輪に向き直った。私と彼女の様子に気付いた者は誰もいなかった。
 私はしばらく動けなかった。
 ……何?
 何だろう、どうしたというのだろう。
 若き最強の騎士が、ワノーダの落ちこぼれの私を、どうしてあんな眼で見ていたのだ?


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