『ひとりぼっちの月の子は』(2)

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「――リュヌ、どう思う?」
 リュヌは答えない。かすかに首を傾げ――たような気がした――いつかと同じ尻上がりの細い鳴き声を挙げるばかり。
「そうだよね……解るわけないよね」
 廃棟の屋上。月は今日も蒼く、どこまでも冷たく夜空を彩っている。
 吸い込まれそうな淡い輝き。けれど今は、その蒼さがヨランドの眼光を連想させて、訳もなく私の身体を震わせた。
 何だろう。何だったのだろう、ヨランドのあの視線は。
 気まぐれに目を外に向けたらそこに私がいた、というのでは絶対になかった。わざわざ仮想探査針まで伸ばして私を探っていた。
 でもどうして? 世界的英雄の彼女が、落ちこぼれの私を探って何をしようというのだろう。
 ……まさか。
 傍らのリュヌを見やる。
 そんなはずはない。私以外の誰もリュヌを見ることができないのだ。用があるとしたら、この私自身に関することのはず。
 ……そのはずだ。
 リュヌが鳴き声を挙げた。私の膝に「手」を当てて、心配そうにこちらを見上げている――気配がする。
「大丈夫」
 半ば自分に言い聞かせるように、私は囁いた。「心配しないで。私はあなたのそばにいる。あなたのことを誰にも言ったりしない。あなたに何かあったら、絶対に助ける」
 そうだ。
 たとえ私が何の力もないワノーダでも、リュヌだけは絶対に守らなきゃいけない。せめて私だけでも、リュヌのそばにいてあげなきゃいけない。でなかったら、リュヌは永遠にひとりぼっちになってしまう。
 それに、私の方が耐えられそうになかった。
 リュヌを失った後のことなんて、もはや考えることさえできなくなっていた。
 リュヌの「肩」に手を伸ばし、そっと触れた。すべすべした不思議な感触が伝わった。リュヌがさらに身を近づけてきた。

 入るとき以上に、廃棟から出るときは神経を使う。
 『海』への同調率を目一杯上げ、能力の限界を駆使して周辺を走査。何の気配もないのを充分確認し、そろそろと大通りに足を踏み入れる。
 そのまま遠回りに歩き、廃棟とは反対の方角から繁華街に入った。
 昼間に比べればだいぶ静かになったけれど、夜の街はまだ明るい光を放っている。
 六角錘の立体看板が宙を回る。桃色のイルカが頭上を泳ぐ。制服姿の店員がレストラン《ビストロ》の新作メニューの案内を投げる。街路樹が燐光を浮かべながら、季節を早回しにしたように、花を咲かせては散らせてを繰り返している。
 エーテルの海に浮かぶ、華やかな幻影の数々。
 見慣れたそれらを横目に、私は足を速めた――その時、異質の生体反応を前方に捉えた。
 ヨランドだった。
 赤毛の騎士が、正装である機能的な戦闘服に身を包み、道行く人々と街並に視線を滑らせている。
 街の警備は、騎士の重要な任務の一つだ。彼女があそこに立っているのは、だから別に何の疑問も抱くべきことではないのだけど……今や世界的英雄の、しかも副騎士団長の彼女が自らこんな街中での任務に立つなんて、滅多にあることじゃない。
 道を歩く人たちが皆、赤毛の騎士へ物珍しげな視線を投げている。ヨランドは全く表情を変えることなく、交差点の中央に佇んでいる。
 踵を返したかったけれど、今ここで方向転換するのも怪しまれる。私は軽くうつむき、道の端まで寄ると、彼女の横を足早に通り過ぎた。
 ヨランドを数メートル後方に置いたところまで離れ、ほっと息を吐いた――その時だった。
『シルヴィ・デュシャン』
 危うくのところで悲鳴を飲み込んだ。
 脳裏に直接響く、氷のような声……ヨランドだ。赤毛の騎士からのエーテル越しの機密通信《シークレット・コール》――。
『振り向くな』
 ヨランドの声が続く。『――申し遅れた。私は治安維持局特務課、ヨランド・ミッテル。――シルヴィ・デュシャン、貴女に話がある』
 話!?
 漠然と抱いていた不安が、急激に形をなして膨れ上がる。
 夕方のあれは、やはり偶然ではなかったのか。ヨランドは私を私と認識した上で見つめていたのか。
 でも、どうして。騎士の彼女がどうして私に――
『場所を指定する。詳細は三○分後にそこで。――拒否権はない。これは命令』
 目の前に地図が浮かび上がった。周りの人間に見えないよう、透明化処理が施されている。中央から少し右寄りに、丸い点が赤く明滅していた。……ここへ行け、ということらしい。
『……でも、』
『行けば後は解る。――繰り返す。貴女に拒否権はない』
 それだけ伝えた後、唐突に通信は切れた。

 拒否権はない――
 結局のところ、彼女の言葉通り、私には他の選択肢など無かった。

 指定された場所は、意外にもどこにでもあるような普通のビストロだった。
 ここでいいのかと地図を見直し、ここ以外にありえないと周囲を確認する、といったことを十回ほども繰り返し、ようやく店の扉をくぐる。
 中に足を踏み入れると、初老のウェイターが見計らったように近付いてきて、ごく自然に店の奥へ案内された。――話は通っている、ということらしい。
 一番奥、小じんまりとした部屋に通される。洒落た小さなテーブルがひとつ。前後に椅子がふたつ。
 薦められるまま奥の椅子に腰を下ろす。ウェイターは特にメニューを聞くこともなく、一礼して去って行った。
 メニューを見たところで頭に入るとも思えなかった。どうしてヨランドが私に……それだけをぐるぐると脳裏に渦巻かせたまま、私はひとりテーブルクロスの紋様を見つめていた。
 ――ヨランドが現れたのは、交差点でのやりとりからぴったり三○分後だった。
 赤い髪を帽子で隠し、服は普段着とおぼしき流行りのスーツ。障壁の認識票も別人のものに変わっている。
 帽子を脱ぐと、ヨランドは私の正面の椅子に、寸分の無駄もない動作で腰を下ろした。
「待たせた、シルヴィ。……改めてお目にかかる。私はヨランド・ミッテル」
「――シルヴィ・デュシャンです。初めまして」
 緊張感が否応なく高まる。閉ざされた薄暗い個室の中、騎士とふたりきり――しかもその騎士はかの英雄、ヨランド・ミッテルなのだ。「あの、私に話って、何でしょうか。――その、今日、学校に来られてましたよね。私のことで何か、教官から……?」
 ヨランドは首を振った。
「学校側からは貴女の話は挙がっていない」
「じゃあ――」
「回りくどい話は得意ではない。用件だけ述べる」
 ヨランドは言葉を切り、氷点下のような視線を私に向けた。

「二度とあれに近付くな」

「――え」
 一瞬、言葉が出なかった。「あれ、って」
「知らぬふりをしても無駄。貴女が廃棟の屋上で飼っているあれのこと」
 心臓が止まった。
 そんな……
 どうして? どうしてリュヌのことを!?
「三ヶ月前」
 表情を動かさずにヨランドは続けた。「奇妙な噂が挙がった。見えない幽霊の噂。貴女も知っているはず。――私はその幽霊を追っている」
「どうして……」
「知る必要はない。……いや、貴女は知ってはいけない」
 ――『騎士団』は、正式名称を「治安維持局特務課」と言う。
 気体量子計算機《エーテル》を駆使した犯罪――精神侵入、人体操作、記憶改竄、それらを用いた大規模犯罪、エトセトラ――の鎮圧と抑止、さらには区域全体の治安維持を任務とした実働部隊。その任務ゆえに、職務に就けるのは最高峰のエーテル駆使能力を持つ者、言い換えれば、エミリーのような体内エーテル含有指数二○○パーセント以上の者に限られるという。
 エーテル操作能力が社会階級に直結するこの世界で、騎士とはだから、人々の憧憬であり――大げさに言えば、人類のエリートでもあった。
 その騎士の中でも最強のひとりとうたわれる彼女が、どうしてリュヌのことを!?
 いや、それ以上に――
「どうして……あの子のことが解ったんですか。あなたには……あの子が見えるんですか」
 言い逃れは効かない。恐らくヨランドは全て把握している。彼女が今日学校に現れたのも、私の素性を調査するために違いない。『海』のデータベースを探るより、学校の関係者を直接当たる方がより詳細なデータを入手できる。
「言ったはず。知る必要はない」
「……なんで」
「脇筋を逐一述べるつもりはない。調査の結果、ようやく数日前、貴女があれを飼っていることを知った。
 もう一度言う。二度とあれに近付いてはいけない」
「だからどうしてっ……!」
 怒鳴り散らすことができないのが歯痒かった。
 沈黙が訪れた。ヨランドは私の背後の壁を見つめ、再び私に目を戻し、
「――あれは、貴女が近付いてよい存在ではない」
 え?
あれはこの世界とは相容れない存在。近付けば近付くほど、貴女の方が不幸になる」
 な――
 何を言っているのか。リュヌに近付くと不幸になる!?
 私が虚仮にされるのはいい。でも、あの子を貶めるその言葉だけは許せない。
 身体が勝手に席を立っていた。
「……ご用件は、それだけでしょうか」
 声の震えを懸命に押さえる。「夜も遅くなりました。学生の身分ですので、御無礼ですが……今夜は失礼させていただきたく思います」
 扉に向かう。ヨランドは身動き一つしなかった。代わりにただ一言。
「貴女の返答をまだ聞いていない」
「――失礼します」
 私は個室を出た。


 意外と長い時間が過ぎていたらしい。人通りはすでに絶えていた。
 敷き詰められたタイルの上を歩きながら、私は胸を押さえずにいられなかった。赤毛の騎士への憤怒が静まるのと入れ替わるように、たまらない不安が押し寄せる。
 ヨランドに歯向かってビストロを飛び出したことは、今さら後悔しても始まらない。後悔するつもりもない。懲罰などいくらでも受ける。
 むしろ、リュヌの方が遥かに気がかりだった。
 どうしてリュヌを追っているのか。どうやってリュヌがあそこにいることに気付いたのか。どうしてリュヌに近付くなと迫るのか――ヨランドは結局、どの問にも答えてはくれなかった。
 けれど、そんなことは今はどうでもいい。
 ヨランドがリュヌを追っている。
 リュヌを追いかけて……見つけて、それでヨランドは、リュヌをどうするつもりなの
 『海』への同調強化、周囲二○○哩を走査。……それらしき影が追ってくる様子はない。
 私は駆け出した。胸の鼓動が急激に加速する。
 ――あれはこの世界とは相容れない存在。
 騎士団の任務は治安維持。
 治安維持のために、この世と相容れない存在を彼女はどうするつもりなの?
 早く、はやくリュヌの所へ。
 リュヌのところへ行って、すぐにどこか遠くへ――
『どこへ行くつもり?』
 身体が急停止した。
 脇道の陰に生体反応。正体を把握するのに数秒の時間を要した。
『――エミリー――』
「消灯時間はとっくに過ぎているわよ。何をそんなに急いでるの、一桁女《ワノーダ》」
 今度は肉声を挙げながら、エミリーは愉快そうな嘲笑を浮かべる。
 どうして……どうして彼女がここに?
「……あなたこそ、なぜ」
「あら、わたしは許可を貰っているわ。どこかの落ちこぼれの不良学生を連れ戻すために、ね。――さあ、さっさと答えなさい。どこへ行くつもりなの。寮はそっちの方向じゃないでしょう」
 嫌味たらしくエミリーが口元を歪める。
 駄目だ、こんなことしてる場合じゃないのに。早く、早くリュヌの所へ――
「答えないの、ワノーダの分際で?……生意気ね。お仕置きが必要かしら」
 その一言が私を決断させた。
「――『ブランシェ』」
 攻撃命令を投げつけた。同時にタイルを蹴る。
 エミリーの障壁に攻撃命令が衝突し、幻想の火花を炸裂させる。子供だましの目くらまし。けれど今はそれで充分。一瞬でもいい、とにかく時間を稼いで、エミリーを振り切って、
「――『ヒス』」
 背中を衝撃が貫いた。
 かわす暇もなかった。走る勢いのままタイルの上に叩きつけられた。
 身体が動かない。うめきを抑えられない。昼間の授業と同じ。「激痛を与える」ことだけに特化した、エミリーの十八番《おはこ》のひとつ――
 タイルの上で喘ぐ私に向かって、次の攻撃命令が叩きつけられた。
「『バーバラ・セクサロイド』」
「――――――っ!!」
 あらぬ方向に腕が曲がった。
 エミリーは指一本触れていない。私の筋肉細胞に取り込まれたエーテルがハッキングされ、主《わたし》の意図を無視して身体を捻じ曲げている。
 操り人形のように私は立ち上がらされた。エミリーの酷薄な微笑が目の前にあった。
「随分とおいたが過ぎるじゃないの。この牝猿」
 私の右腕が勝手に振り上げられ、私のみぞおちに叩き込まれた。
「……ぁっ……!!」
「たかがワノーダの分際でこのわたしに逆らおうなんて――」今度は左腕。「百万年早いのよ!」
 左頬に自分自身の拳が襲い掛かった。頬の裏側が切れる。
 声さえ挙げられない。エミリーが顔を寄せ、これ以上ないほど愉快げに囁いた。
「夜は長いわ。いつもの五割増で可愛がってあげる。
 ――二度とわたしに逆らったり、わたしを差し置いてヨランドに会ったりしないように」
 ……そうか。
 エミリーがここにいたのは……ヨランドのことを知って……それで。
 どうでもいいことを、私は朦朧とする意識の中で考え、エミリーがさらに攻撃命令を投げ――

 ――リュヌ。
 ごめん……待ってて。
 すぐに……すぐに行くから……

 ――いつの間にか、私の意識は途切れていた。

 ……声が聞こえる。
(――御苦労様ですわ、ミッテル副騎士団長殿)
 幾ばくかの間。
(――彼女は)
(――行先を尋ねたら反抗の意思を示しましたので、やむなく。……あ、わたしの方は寮長から許可を戴いて、)
(――確認した。……彼女は後ほど私が回収する。貴女は早く自室へ戻るように)
(――え? あの――)
 ……意識が再び闇へ吸い込まれる。

 再び意識が戻ったとき、エミリーの姿はすでになかった。
 タイルが冷たい。身体が重い。激痛が治まらない。
 何とか半身を起こし、周囲を見回す。……空はまだ暗い。時刻は……無意識の要求をエーテルが読み取り、仮想時計を目の前に浮かび上がらせる。午前二時二七分……
 ――その時、
 耳障りな警報とともに、赤い仮想警告板《ボード》が次々と宙に現出した。

『現在 警備団による捕獲任務を遂行中
 対象区域: 3~7区画
 終了予定時刻: 未定
 公務執行の妨げになりますので、該当区域での外出は控えてください』

 三から七区画――捕獲――
 全身の痛みが吹き飛んだ。
 リュヌ――リュヌ!?

 息を切らしながら廃棟へ向かう。
 ――あれはこの世界とは相容れない存在。
 まさか……まさか、本当に!?
 リュヌ――リュヌ……!

 外れてくれればいいと願った。どうか思い違いであって欲しいと。
 けれど――
 ようやくの思いで廃棟の近くにたどり着いたそのとき、私は、自分の不安がこれ以上ない形で具現化してしまったのを知った。

 リュヌの鳴き声が聞こえた。
 耳を切り裂くような、初めて聞く悲痛な叫び声。

「――――っ!」
 廃棟に飛び込む。暗闇の中を駆け上がり、階上を、ただひたすらに屋上を目指す。
 星空が開けた。
 淡い月明かりの下、リュヌの朧な気配と――その手前の、赤毛の人影を認識した。
 ヨランドが右手に短剣を握り、リュヌの前に佇んでいる。
 床に散る黒い飛沫。
 目の前が暗くなりかける。まさか!?――いや、生きている。リュヌの身動きする気配が確かに感じ取れる。
 けれど、
「……手こずらせる。これが『絶対零度《ゼロ・アブソル》』――」
 感情の見えない瞳でヨランドが呟いた。「だが、それも終わり。――これでとどめ」
 右手を振りかざす。短剣の刃が月光を蒼く弾き返し――

 考える暇など、
 自分が何をしているのかを顧みる暇など、ありはしなかった。
 絶叫を挙げながら、私はヨランドに向かって突進した。

 ヨランドの意識が私の方へ逸れる。
「逃げてリュヌ!」
 視界の片隅のリュヌに叫びながら、赤毛の騎士めがけて攻撃命令を投擲。「――『サンタ・サングレ』!」
 火球を模した、目くらましではない唯一の攻性プログラム。
 ヨランドが無造作に右手を翻した。彼女の障壁にすら届く前に、私の攻撃命令はあっさり掻き消える。
 ヨランドはリュヌから視線を外すと、私に向き直り、
「――一度だけ問う」
 氷のような声を発した。「シルヴィ・デュシャン。貴女の行為は愚劣。貴女がどう足掻こうと、結果は何も変わらない。――それでも続けるか?」
「うるさい!」
 震えそうになる足を押さえつけ、私は叫び返した。「リュヌから離れて! リュヌは殺させない! あなたに――あなたなんかに――リュヌは絶対渡さない!」
 リュヌがヨランドから離れ、私の方へ近付いてくるのが感じられる。
 けれど、その動きは重い。まだ命はあるけれど、危険な状態なのは明らかだった。
「――そうか」
 ヨランドが眼を閉じ、再び開いた。冷たい美貌が月光に染まる。「ならば受けよう。――来るがいい、シルヴィ・デュシャン」
 瞬間、ヨランドの身体から、恐ろしいほどの闘気が噴出した。
「闘気が噴出した」としか表現しようのない、それは幻影だった。彼女の周囲のエーテルが凄まじい速度で演算を開始し、無数の燐光を放つ。
 外界のエーテルをも意のままに操る、凄まじい同調能力。クラスメイトの誰からも――エミリーからさえも感じたことのない、圧倒的な威圧感。
 これが――これが、世界最強とうたわれた、赤毛の騎士の力――
 奥歯の震えを噛み締める。
 考えるな――考えるな。余計なことなど考えるな。
 リュヌが危ない。目の前に敵がいる。それ以外に――それ以外に何を考える必要がある。
 恐怖を無理やりねじ伏せ、私は身体を構え、
「――『イージー・ゴーイング』」
 一気に間合いを詰めた。
 ヨランドの腹部めがけて右拳をねじ込む。
 身体に届く直前、急激に右腕が減速した。エーテル越しの視界の中で、障壁が私の右手に絡まり、拳の動きを止めている。
 驚愕が背筋を走った。ただの障壁が、私の身体の動きに干渉している――!?
「自分自身を対象とした人体操作、か」
 感心したようなヨランドの囁き。「身体もよく鍛えられている。ワノーダにしておくには惜しい」
「――っ!」
 左脚を翻す。頭部から二の腕ほど離れた位置で、脛がヨランドの右腕に遮られる。
 右腕を振り解いて外へ。加速度を上げ、激痛を堪えながらヨランドの真横へ。間髪入れず突進。左拳を顔面へ――
 入った、と思った瞬間、拳は彼女の頬をすり抜けていた。
「――な、」
 認識阻害、と気付いたときは遅かった。私の視界に書き込まれた幻影のヨランドが消え、半身ほど下がった位置から本物が現れ、
 拳が背中に叩き込まれた。
 うつぶせの状態で屋上の床に激突。身を起こそうとしたところを顔面に右足。手すりの方まで転がされた。
「……っ、あ……」
 すぐ横にリュヌの気配がした。か細く甲高い声を挙げながら、リュヌが私の身体に触れる。
「……大丈夫。だいじょうぶ、だから……」
 ……そうだ。
 約束したじゃないか、絶対に助けるって。たとえ相手が最強の騎士だろうと……こんなところで、こんなところで倒れるわけにはいかない――
 立ち上がる。身体がふらつく。ヨランドが近付く。リュヌとヨランドの間へ強引に身体を割り込ませ、私は拳を握った。
「――これ以上の戦闘は無駄」
 静かに、台詞を朗読するような無機質さで、ヨランドが宣告する。「理解したはず。今の貴女では私の障壁さえ打ち破れない」
「うる……さい……」
 無理やり呼吸を整え、私はもう一度起動した。「『イージー・ゴーイング』――」
 ヨランドが無造作に間合いに入る。残る全ての力を込め、私は右拳を彼女の頬に浴びせ――
「『輝くもの天より堕ち』」
 透明な声が響いた。
 私の右手が消し飛んだ
 激痛にも似た違和感。右腕が急激に速度を落とす。
 拳が彼女の身体に届く寸前、私は腹部に左脚蹴りを受けていた。そのまま、今度こそ私は崩れ落ちた。
 横倒しの視界の中、ヨランドがリュヌの前に片膝を落とす。
 自分の右手が視界の片隅に映る。消えてはいない。感覚もある……ただ、何かが違う。右手の周りから何かが断ち切られたような、奇妙な違和感。
 それに……なぜだろう。どうしてこんなに、右手がぼんやりとしか見えないんだろう。
貴女の右手のエーテルを自己崩壊させた
 リュヌに視線を向けたまま、ヨランドは呟いた。「先程の接触の際に解析した。貴女の自己人体操作能力は『全身』が操作対象。一部分でもエーテルが欠けたなら、プログラムを再構築しない限り二度と起動は不可能」
 そんな――
 リュヌが鳴いている。
 私に向かって泣きじゃくるような悲鳴を挙げている。
 ……立たなきゃ。
 立って、リュヌを守らなきゃ。
 約束したのに。絶対に助けるって誓ったのに――
 けれど、身体は動かなかった。
「――覚悟は出来たか」
 ヨランドが左手を伸ばし、リュヌの「喉」を掴む。「恨むな、とは言わない。せめて苦しまずに行くがいい」
 ヨランドが右手を翻す。短剣が月光を裂く。

 叫ぼうとした。けれど声にならなかった。
 リュヌの「身体」に、短剣が深々と突き立てられた。

 黒い鮮血が飛び散る。
 リュヌの声が途絶える。

 奈落のような絶望の中、
 私はさらに、信じられない光景を見た。

 リュヌの身体が輪郭をなす。
 朧げにしか認識することのできなかったリュヌの姿が、黒衣を脱ぎ落とすかのように露わになる。
 ――そして、
 その全身を目の当たりにした瞬間、私は喉の奥で絶叫を放った。

 ――人間だった。
 髪は荒れ、一糸も纏わず、皮膚は煤に汚れ――けれどそれは紛れもなく、
 私より三、四歳年下の、人間の女の子だった。

 裸の左胸に剣を突き立てられたまま、唇から真紅の血を吹きこぼし、瞳から光が消え失せ、
 やがて眠るように、リュヌの首が落ちた。

 私の意識は途絶えた。

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