『ひとりぼっちの月の子は』(3)

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 ――病院のベッドがこんなに寝苦しいものだと、初めて知った。

 全身の包帯に自由を奪われたまま、私はぼんやりと白い天井を見上げていた。
 静かだった。窓がこんなに明るいのに、エーテルはざわめきひとつしない。
 眼を閉じる。『海』への同調強化。外部情報検索――不能。情報遮断が効いているらしい。仮想時計すら呼び出せない。
 諦め、体内を走査。――思ったほど大きな怪我はない。肋骨に何箇所かヒビが入っているらしく、身を動かすと痛みが走る。
 ……あれから、どうなったのだろう。
 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。医師も看護員も未だに姿を現さない。
 それとも、全部夢だったんだろうか。
 わたしがここへ運び込まれたのは、大通りでエミリーに倒された直後のことで、その後の、廃棟の屋上での出来事はみんな、夢かエーテルの見せた幻だったんだろうか。
 そうであって欲しかった。あれが現実だなんて、そんなことあるはずなかった。
 ヨランドと戦って、かすり傷ひとつ負わせられずに打ちのめされたことも、ヨランドがリュヌの首を掴んで、リュヌの胸に――胸に――
 眼を固く閉じた。
 ……違う。
 夢なんかじゃない。現実だ。――私はリュヌを守れなかった。守れなかったのだ。
 自分がワノーダとか、相手が最強の騎士だとか、そんなことは関係ないはずだった。はずだったのに。
 ……最後に見たあの光景が、再び瞼の裏に浮かび上がる。
 リュヌは、人間だった。
 訳の解らない生物なんかじゃなかった。どこにでもいるような人間の子供だった。正体なんて関係ない、そんな偉そうな誓いを立てながら、私は、リュヌが人間だなんてこれっぽっちも、想像すらしていなかった……
 ドアが叩かれた。
「あ」とも「はい《ウィ》」ともつかない返事が漏れる。医師だろうか――
 ドアがスライドする。病室に足を踏み入れたのはしかし白衣の医師ではなく、赤毛の髪と氷青の瞳の騎士――ヨランド・ミッテルだった。
 ベッドに横たわる私を、ヨランドは静かに見つめる。
 激情が全身を襲った。
 彼女が、リュヌを――リュヌを――
「気が付いたか」
「……なんで」
「ここは治安維持局付属の総合病院。貴女との戦闘から、約三七時間が経過している」
「……なんで」
「貴女の学校へは、事情を伏せた上で連絡済み。夜間の無断外出およびエミリー・シムノンへの挑発の罪で、本日より十日間の停学処分が決定している。
 私に対する反逆罪は、情状およびあれを他者から隔離保護していた功績をもって、不問とされる。停学処分以外で、貴女の活動が公式に制限されることはない」
「……なんで」
「それから、貴女が『リュヌ』と呼んでいたあれは」
「――」
「昨日、再処理工場で処分された」
「――――――――――――!!」
「言ったはず。あれに近付いてはいけないと」
「なんでよ!!」
 絶叫がほどばしった。「どうしてよ! どうして……どうしてリュヌを殺したの! なんであの子が殺されなきゃいけないの!
 リュヌが……あの子が、一体何をしたっていうのよ!」
 包帯が身体を縛り付けていなかったら、私はきっと彼女に殴りかかっていただろう。鼻先三寸でかわされると解っていても、私はそうしたに違いない。
 ベッドの上でもがく私を、ヨランドは氷のような瞳で眺めていた。そして一言、
あれは存在自体が悪」
 それだけ言った。
 瞬間、何かが音を立てて切れた。
 包帯を引きちぎった。絶叫をほどばしらせ、全身に走る激痛も忘れ、ベッドからヨランドに飛び掛る。
 彼女は避けなかった。
 ヨランドの襟首を掴んで押し倒す。馬乗りになったまま、私は彼女の頭部を何度も床に打ち据えた。視界が涙でゆがみ、喉が枯れた。彼女の白い喉に手をかけ、そのまま力を込め――
 ――あまりにもあっけなく攻撃が通っていたことに、私は愕然とした。
 ヨランドは仰向けに倒れこんだまま、全く微動だにした様子もなく、上に乗った私を見つめ、
「気が済んだか、シルヴィ」
 思いがけないほど透明な声で呟いた。
 放心する私をヨランドは静かに押しのけ、機械のように無駄のない動きで立ち上がった。私を責めるでもなく、感情の見えない視線を投げたまま言葉を紡ぐ。
「――確かに、あれは厳密には悪と呼べるものではない。あれはあの場所で、生けるものの本能に従って生を繋いでいただけ。
 しかしあれは、この世界とは相容れない法則に生きていた」
「……なによ、それ」
 虚ろな声で私は返した。「世界と相容れないって、どういうことよ……それだけのことで、どうして……どうして殺されなきゃいけないのよ……」
 無言が訪れた。ヨランドは瞼を閉じ、再び開けた。

あれの体内には、気体量子計算機《エーテル》の一分子も存在しなかった」

「――え」
「ごくまれに、そういう子供が生まれる」
 感情のこもらない声でヨランドは続けた。「貴女もよく知っているはず。エーテルの体内定着率には個人差がある。食生活の変更などである程度増量は効くが、それでも持って生まれた才能――体質による限界以上の改善は決して望めない。
 あれは『絶対零度《ゼロ・アブソル》』――エーテル体内定着率ゼロパーセントの子供だった」
 ――そんな。
 それじゃあ、それじゃあリュヌは――
「……今の我々は、世界認識と相互認識の双方を相当な割合でエーテルに依存している。エーテルを介して外界の情報を取得し、他者と意思疎通する際も、音声ではなくまずエーテルを介して接触を図るよう慣らされている。
 あれにはエーテルが無い。どんなにエーテル入りの食糧を摂取しても、一分子たりともあれの中には定着しない。
 我々からの意識接触を受理することもできず、またあれの方から我々に接触することもできない。『海』への接続などもっての他。だから誰もあれの存在に気付かない。
 エーテルを介した接触に対し無反応な物体は無意識のうちに我々の認識から切り捨てられる。あまりにエーテルに依存するあまり、我々は五感ですらエーテル無しでは機能しえなくなっている。
 これが、今の我々の世界」
 ……ようやく、私は理解した。
 私がリュヌに気付けたのは、私がワノーダの落ちこぼれだから――体内エーテル量が少なく、エーテルへの依存度が弱かったから。
 私がリュヌを見ることが出来なかったのは、それでも私がエーテルに縛られた存在だったから。
 あのときリュヌの本当の姿が見えたのは、私が意識を失う直前で、体内のエーテルが機能停止状態に陥り始めていたから。
 どうしてリュヌが殺されなければならなかったのか。
 それは、あの子が、あの子が――
あれの存在を感知できるのは、貴女のようなワノーダか、私のような、それ相応の認知訓練を積んだ人間だけ。ほとんどの人間は知覚すらできない。あれが武器を持って襲い掛かっても、対処など不可能に近い。
 見ることもできず、誰かに害をなしても捉えることすらできない。亡霊のような存在。この世界にとってあれはあまりに危険すぎる。
 だから処分した」
「……なんで!」
 再び、頬に涙が伝っていた。「だからって……だからって、どうして殺さなきゃいけなかったの……どこかで保護するとか……どこか遠くに離して暮らさせるとか……なんでそんなこともできなかったの……!」
 私が……私なら、ずっとあの子のそばにいてあげられたのに。
「――『処分』を命じられたから」
 ヨランドの声はどこまでも無機質だった。「ただそれだけ。命令に疑義を唱える自由も、拒絶する自由も私にはない。
 ……あれがなぜ、どうやって今まであそこで生きていたのか、詳細を私は知らない。
 三ヶ月前まで、第四区画西の教会で匿われていたらしいこと以外は、何も把握していない。それ以上の調査の権限も、その理由も無い」
 ヨランドは踵を返した。病室を出る直前、私に向けてもう一度最後の一瞥を投げる。
「私は忠告した。あれに近付くなと。あれを失って貴女が哀しいのなら、その哀しみは貴女自身の責任。
 ……だが、あれを失って貴女が我々を憎むのなら、その憎しみは貴女の権利」
 え――?
 言葉を返す前に、病室のドアは閉じられた。

 その後の一週間を、私は病室のベッドの上で過ごした。
 十日間の停学処分期間の使い道としては、それなりに有意義と言えたかも知れない。

 治安維持局の付属病院ということもあってか、担当医は事情に通じていたようで、特に何を触れることもなく治療に専念してくれた。エーテルの消えた右手に、わざわざ手袋を填めてくれさえした。
 見舞いには誰も来なかった。友人も、家族と呼べる人たちも、私にはいない。
 ヨランドが病室を訪れたのは、結局、最初の一度きりだった。

 退院日の帰り道の夜、私はあの場所に寄った。
 リュヌといくばくかの時を過ごした――リュヌと最期の時を過ごした、あの廃棟の屋上。
 青い月明かりが満ちていた。封鎖は解かれ、周囲には人の気配も無い。
 リュヌの気配も、もうここにはない。
 いつもここで待ってくれていたはずの、私の最も近しい存在。ひとりぼっちでこの世界をさまよっていた、いるのに見えない新月のようなあの子は、もう、どこにもいなくなってしまった。
 黒い――エーテルのない――血痕が床にこびりついている。私はその前にかがみこみ……嗚咽が溢れて止まらなくなった。

(おいで。ごはん持って来たよ。食べるでしょ?)
(じゃあ決定。よろしくね、リュヌ)
(心配しないで。私はあなたのそばにいる)
(あなたに何かあったら、絶対に助ける――)

「……ごめん、ね……」
 指の隙間から涙がこぼれる。
 私が強ければ――ほんの少しでもいい、あなたを逃がせるだけの力があれば、こんなことにはならなかった。あなたを死なせることもなかった。なかったはずなのに……

 そのとき、
 背後にいつの間にか、何かの気配が出現していた。

 思わず振り返る。
 屋上の中央に、リュヌが立っていた。
 あの時と……最後の一瞬、初めて認識したあの時の姿と同じ、あどけない少女の形。
 残留思念《ファントム》だ。エーテルに書き込まれた、死者の意識のコピー。――エーテルを持たない彼女の残留思念が、どうしてここに――
 リュヌの幻影が微笑みながら、青白い身体を揺らして近付く。唇を柔らかく開け、聴こえない声をひとつ挙げる。
 私の目の前まで来ると、リュヌの残像は歩みを止めた。首を少し傾げ、かすかに淋しげな笑みを浮かべたまま、もう一度無音の言葉を呟く。
 ……聴こえない。
 聴こえないよ、リュヌ……
 頬を濡らしながら、私は腕を伸ばした。触れようとした指先が、けれど空しく空を切る。私の左手が、リュヌの幻の右手と重なり合い――
 瞬間、瞼の裏が白く染まった。
 左手から暖かい何かが流れ込む。言葉にならない言葉、言語化されない声――リュヌの原始的な意識情報が、奔流となって私の中を渦巻く。
 そして、
 混沌とした渦の中、私は確かに、リュヌの声を聴いた。

 ――ちがう、よ。
 私の脳裏に、高く柔らかい声が響き渡る。
 ――しるびぃがつよかったら、さいしょから、りゅぬにきづいてくれなかった。
 ――しるびぃがつよかったら、さいしょから、りゅぬをまもってくれなかった。
「……で、でも! 私は――」
 何も知らなかった。あなたを人間とすら思っていなかった。手慰みの仮想生物を飼うような、そんなひどい感情しか持っていなかった。
 いいの、リュヌが首を振る。
 ――それでも、うれしかった。ごはん、とってもおいしかった。
 ――りゅぬになまえつけてくれて、とってもうれしかった。
「だけど……だけどっ……!」
 ――しるびぃにあえて、よかった。
 ――だから、しるびぃはつよくならないで。
 ――りゅぬみたいなこをみつけたら、りゅぬのときのように、いっしょにそばにいてあげて。
 ――それで、きっとりゅぬもそのこもうれしい。
「……いやよ……っ!」
 私はわめき散らした。
 あなたのような子供がいたら、一緒にそばに、だって?
 それで……また、おんなじことを繰り返せというの? またあなたを失って、あなたを守れなくて……それで……
 ――だいじょうぶ。
 ――しるびぃならまもれる。
 ――つよくなくても、きっとまもれる。
「でも――でも――」
 リュヌの身体が消えていく。
 青白い燐光が急激に薄まり、月明かりの中に掻き消えていく。
 ――ありがと、しるびぃ。
 ――さよなら。
「リュヌ――」
 声は届かなかった。
 今度こそ本当に、リュヌの存在はこの世から消え失せた。

 それから数日間のことは、よく覚えていない。
 朝になって陽が昇り、夕闇とともに陽が沈み、夜になって月が出る、その繰り返しだった。脳裏に浮かぶのは、わずか一ヶ月ばかりのリュヌとの日々と――最期のリュヌの言葉だけだった。

 ――りゅぬみたいなこをみつけたら、りゅぬのときのように、いっしょにそばにいてあげて。
 ――それで、きっとりゅぬもそのこもうれしい。

 どうしろって言うの、リュヌ。あなたを守ることさえできなかった私に、一体何ができるっていうの。
 あなたのいないこんな世界に置き去りにされて、それでもあなたを探せというの? 永遠に誰にも勝てない、ただのワノーダでしかない私に、それでも闘えというの?

 ――だから、しるびぃはつよくならないで。
 ――しるびぃならまもれる。
 ――つよくなくても、きっとまもれる。

 強くならないで、どうやって守るの。ずっと逃げ回っていろと言うの? あなたを否定したこの世界から、永遠に逃避しろとでも言うの?
 ……そうなの?
 それがあなたの言いたかったことなの? そうしろって、あなたは言うの?
 でも……
 答えは出なかった。手袋に包まれた右手を見つめ、新しいプログラムを手慰みに組みながら、私は寮のベッドの上で膝を抱えていた。

 十日ぶりの学校は、以前にも増して居心地の悪い雰囲気だった。

 校門をくぐり、教室に向かおうとした矢先、耳障りな声が響いた。
『あら、久しぶりね一桁女《ワノーダ》』
 振り向くと、校舎の壁の陰から、エミリーが邪悪な笑みを浮かべていた。「少し話があるのだけれど、いいかしら?――私の方から声をかけてあげてるんですもの、まさか嫌とは言わないわよね」
 不敵に顎をしゃくる。言われるままにエミリーの後を歩く。
 人気のない裏庭まで来ると、舌なめずりせんばかりの顔でエミリーは向き直った。私の右手の手袋に一瞬だけ視線を落とし、すぐ興味を失ったように私を見やる。
「噂は聞いたわ。あなた、あのヨランドに盾突いたんですってね」
「……」
「どこかの屋上で気味の悪い生き物を飼っていて、それを処分されたくないばかりに、泣きながらヨランドに噛み付いたとか。……まったく、何て愚かなのかしら。我が校の恥さらしだわ」
「……」
「まあ、あなたやその化物がどんな処分を受けようが、別に知ったことではないのだけど……ワノーダの分際で、私を差し置いてヨランドと手合わせすること自体、不遜極まりないのよ。物事には順番があるってことをよく教えておく必要がありそうだわね」

 ああ――
 リュヌ、ここにはいない。
 あなたのことを考えてくれるひとも、あなたの死の意味を解ってくれるひとも、ここには誰もいない。
 この世界にとって、私たちの存在や死なんて、大して意味のあることじゃない。

 だから――いいよね?
 こんな世界になんか、もう、居る必要ないよね?
 あなたのところへ行っても、いいよね?

「あの時の挑発の詫びもまだ聞いていなかったわね。覚悟は出来ていると思――」
「言いたい事はそれだけ?」
「――な」
 私の反応がよほど思いがけなかったのだろう、エミリーはぽかんと口を開けた。
「それだけなら、私は戻るから」
「ちょ――待ちなさい!」
 エミリーの顔が、瞬く間に真紅に染まっていく。「あなた……学校を離れている間に、自分の立場をすっかり忘れてしまったようね? 私を一体、誰だと思っているのかしら」
「私に嫉妬している御山の猿。違う?」
「――――!!」
「それと、一つ訂正して。
 あの子は――リュヌは化物なんかじゃない。あんたと違って、あの子はちゃんとした人間だった」
「……そう」
 こめかみを震わせながら、エミリーが引き攣った笑みを浮かべる。「知らなかったわ、あなたがそんなに死にたがりだったなんて。……精神崩壊程度で済ませてあげるつもりだったけど、予定変更だわね。
 ――いいじゃないの。お望み通り、今この場で八つ裂きにしてあげるわ!!」
 エミリーが地面を蹴った。
「『大天使のように』――!」

 リュヌ――
 私は今、この世界から死ぬ。

 ――だから、しるびぃはつよくならないで。
 ならない。
 強くなんかならない。
 あなたを拒絶したこんな世界の強さなんか、もう、永遠に求めはしない。
 私は眼を閉じ、体内のエーテルに最後の命令を送り込んだ。

「『アラウンド・ザ・シークレット』」

 瞬間、これまで感じたことのない感触が全身を駆け上った。
 自分の身体に穴が空いていくような、
 世界との一体感が――自分と世界とを繋ぐ無数の糸が――身体から根こそぎ引きちぎられていくような、
 ――おぞましい開放感。
 自己殲滅命令。
 私の右手のエーテルを消し飛ばした、ヨランドの攻撃命令の模造プログラム。
 私の体内のエーテルが、身にまとう服のそれごと、最後の一分子に至るまで自己崩壊していく。
「な」
 エミリーの顔が驚愕に染まった。「き、消える――!?」

 攻撃命令が私をすり抜けた。
 エミリーの身体が私の横を通り過ぎ、着地に失敗してたたらを踏んだ。

 顔を強張らせたまま、エミリーは次の攻撃命令を投げた――ようだ。
 何も見えない。私の目にはもう、エミリーの吐き出す攻撃命令のひとつも認識できない。
 見えない私に向かってエミリーがやたらめたらに腕を突き出す。時折、私の方にも掌が向けられるけれど、すでにそれは下手な鉄砲のレベルでしかなくなっている。
 効かない。
 そんな攻撃など効くものか。
 エーテルを介さなければ届きもしないそんな幻の攻撃など、小虫の羽ばたきほどにも感じるものか。
「――っ、認識阻害!? そんな――そんな高等技術、お前なんかが使えるわけっ、」
 エミリーが必死の形相でわめき散らす。
 愚かな舞踏を続ける彼女を眺めながら、私は胸の中で呟く。
 リュヌ。
 私はあなたになる。あなたの孤独を、あなたの哀しみを受け止める。
 あなたのような子を、今度は必ず救ってみせる。
 あなたになって――この腐ったエーテルまみれの世界に、必ず復讐してみせる。
 だから見ていて。
 これは、その始まりだ。
「ど――どこへ、どこへ消えたの卑怯者! いるならさっさと姿を見せなさい!」
 滑稽なほど慌てふためきながら、エミリーは周囲に攻撃命令《コマンド》を撒き散らす。
 その肩を真横から掴む。エミリーが身体をびくりと震わせる。
 その彼女の鼻柱めがけて、私は全身の力を込めて右拳を叩き込んだ。
 彼女の身体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。そのままずるりと壁を滑り、彼女の身体は動かなくなった。

 手袋を右手から引き抜き、エミリーの方に放り投げる。
 そして誰に見咎められることもないまま、私は校門を出た。振り返ることもなかった。

 街を歩く。
 誰も私に目を向けない。道をすれ違う誰ひとりとして、私の存在に気付きもしない。
 あの夜、確かに見えていたはずの幻影――浮遊看板、仮想生物《イルジオン》のイルカ、移ろう街路樹――を、今はもう、全く見ることができない。
 エーテルによる虚構を剥ぎ取られた繁華街は、まるで崩壊寸前の廃墟のように、危うい実体を晒している。
 『海』は――
 かつて、あれほど心地よさを感じていたはずの『海』はもう、私の周囲から枯れ果ててしまっていた。
 ――リュヌ。
 これが、あなたの見ていた世界なんだね。
 あなたがひとりぼっちで見ていたのは、こんな壊れかけた、淋しい世界だったんだね――

 交差点の中央に、見覚えのある人影が立っていた。
 ――赤毛の騎士、ヨランド・ミッテル。

「突破したか」
 すれ違う寸前、ヨランドが口を開いた。
 誰もいない空間に話す彼女を、道行く人が怪訝な顔で見つめ、そのまま歩き去る。
「おかげさまで」
 私は足を止め、彼女の青い瞳を見返した。幾つもの言葉が胸に渦巻いて、けれど唇から滑り出したのはただの一言だった。「――どうして?」
 どうして、リュヌを殺す前に、わざわざ私に忠告したの?
 どうして、他の騎士のひとや、警備のひとが一緒にいなかったの?
 どうして、わざわざ私の右手のエーテルを消したの?
 リュヌの残留思念を焼き付けたのは、あなたなの?
 ――どうして、私を殺さなかったの?
 沈黙が訪れた。
 ヨランドを見据え続ける。彼女は瞳を閉じ、また開き、
「貴女が知る必要はない」
 それだけを口にした。
 赤い髪に包まれた氷のような美貌に、そのとき、一瞬だけ笑みが浮かんだような気がした。
「……そう」
 私は視線を外した。息を軽く吸い、正面の人波に目を向けた。「けれど覚えていて。リュヌを殺したあなたを、私は絶対に許さない。いつか必ずあなたを倒す。……今、この場であっても」
「――いや、止めておこう」
 今度は確実に、ヨランドの微笑みを感じ取った。「純粋な体術ではさすがの私も分が悪い。もう少し鍛え直してからにさせてもらう」
 私も微笑み、再び歩を進めた。
「どこへ行く?」
「――あなたが知る必要はないわ」
「……そうだな」
 ヨランドの苦笑を背中に受け止め、私は歩き続ける。
 それきり、ヨランドからの言葉は無かった。後はただ、エーテルの囚人たちの足音とざわめきが響くばかりだった。

 一度だけ振り返った。
 赤毛の騎士の背中はもう、雑踏の中に紛れて見えない。

 私は再び向き直り――私とリュヌの世界を、歩き始めた。

【了】

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