『流れる月の王国』

『流れる月の王国』

著/添田健一

原稿用紙換算35枚


 巨大な柏の樹の大きな枝ひとつに身をあずけて、左耳を押しあてたまま、妹のメイがしめやかな寝息をたてて眠っている。地面からすぐにはじまっている大ぶりの枝はゆるやかな弧を描いていて、横たわるにはあつらえ向きである。長い髪がまっすぐに垂れてかたちのよい右の耳がすっかりあらわになっている。樹木の声に耳を傾けるうちに眠ってしまったのだろう。虫の声が闇に響きわたっている。月があたりを白く照らしていた。
 狩りからもどってきたばかりのキトは荷を降ろすことも忘れて月が照らす妹の寝顔に見いってしまう。月の光を浴びた妹の黒い髪がつややかに縁どられている。長い睫毛が白い顔に影を落としていた。両腕は枝にかかっている。
 背後から白い影があらわれた。音もたてずにこちらに寄ってくる。しなやかな身のこなし。狼である。キトを認めると、鼻先を上に向け、きれいな白い喉を見せてくる。なにごともなかった合図。メイによって、グンと名づけられている。
 荷を降ろす。いいわたされた多くのことを守って狩りをしてきたので、こんなにも手間どってしまった。暗くなっても巨樹がめじるしになるので、迷うおそれはない。
 長い髪が揺れた。「もどってきたのね。お兄さん」身を起こしだす。とどめたが、メイは手を振って起きあがり、大きな枝に腰をかける。裾までの白い衣がふわりと舞う。脚が揺れた。両のすねから下は薄い白い布で幾重にも巻かれている。荷に顔を向ける。「いい香りがする」目を閉ざしたまま、香りに身をゆだねる。「ごめんなさい。わたしがいろいろ望むから、お兄さんにたくさん手間をかけさせてしまって」
「構わないさ」返した声は思いのほかあたりに響く。
 ひらりと白い影が舞う。グンが枝にあがり、メイの膝の上に頭部を乗せる。くすぐったそうに笑ってから、白い手で狼の背の毛並みをなでる。「グンもお役目ご苦労さま」狼は心地よさげに喉を震わせる。
 妹は目を閉ざしたままである。いや、不幸にも生まれてからのち、彼女は目を開くことができないでいる。ささやくに近い声で、歌うように律をとりながら、身を左右に揺らして、手はグンをなでつづける。
 荷をあらためる。狩りとはいえ、採ってきたものはいずれも植物ばかりである。この地にとどまっているあいだはいかなる生きものの命も奪ってはならない、とメイにいいわたされている。花も実もひとつのところからたくさん採ってはだめ。
 目は見えないが、代わりにメイはいろいろなものの声が聴こえる。地の霊のざわめきや涼風のささやき、草葉に宿る朝露のきらめきからも声を聴きとることができる。これまでもメイのこの力によって助けられてきた。わけても彼女が得意とするのは、樹の声を聴くことだ。大移動をはじめるずっと前から、メイはあらゆる樹の声をキトにも伝えてきた。
「樹同士は夜になると会話をはじめるのよ。声は雷の弱いものみたいにぴりぴりしていて温かいの。伝わるのはあっというま」
 グンから手を離して、柏の枝の樹皮をさする。「このひとともたくさん話をしたわ。遠い先祖はあそこに住んでいたんですって」妹のさししめす天に月が浮かんでいる。正しく指さすことができた。満月に向かいつつある月である。「いつかこのひとも月に帰りたがっている。このひとは無理でも、子どもや子孫がそうできたらとねがっている」
 帰りたがっているか。キトはつぶやく。おれたちは、もともといた邑を離れて、父の一行ともはぐれたまま、この先どこへ向かえばよいのかわからないままでいるというのに。荷をまとめる。「さあ、夜ももう遅い。洞にもどろう。先に荷をおいてきてしまうよ。グン、頼んだぞ」グンが鼻先をあげる。
 ねぐらにしている洞に荷をおくと、柏の樹木へともどる。月の光はさらにひろがり、樹木のそこかしこを白銀に照らしている。メイは枝に腰をおろし、両脚を揺らしている。近づくとこちらを向く。白い歯を見せて笑う。「さあ、もう寝るぞ」膝の裏と首のうしろに腕を添えて抱きあげる。力なく揺れるふたつの足と巻かれている薄い布の白さがあわれみを呼びさます。つい先日、父の一行とはぐれたときに妹は足を強く傷め、もはやひとりでは歩くことも立つこともかなわぬ身となった。腕のなかでメイは気にとめたようすもなくほがらかにしている。笑うと頬に大きなえくぼができる。
「この地にはあとどのくらいとどまらなければならないんだ」
「月が満ちるころになにかが大きく変わるわ。それまではここにいなくては」
「大きく変わるって、よいことなのかい、それとも悪いこと」
「わからないわ」大きく息を吸いこむ。「ただもうすぐよ」
 妹を抱きあげたままキトは天を仰ぐ。月が輝いている。父たちはどこでどうしているだろうか。
 夜になると次第に風が冷たくなる。季節は秋へと移ろうとしている。
 洞にもどる。グンもついてきた。いつもの寝床に妹の身を横たえる。こんな身体だけれども、妹は身のまわりのことはひとりでしたがった。身体を拭くことさえ、兄を寄せつけない。グンとともにいったん洞の外に出る。なかはすぐにゆきどまりだから、気にかけることはない。やがて、「もういいわ」という声がした。


 月の光が洞のなかに差しこんできた。
 キトは採ってきたばかりの草木をならべ、選りわけをはじめる。足に塗る薬を作る。メイも敷布の上に脚を投げだして坐っていた。洞の奥ではグンが身を丸めている。静かな夜だった。
 この洞で見つけたすり鉢状の石を手前におく。すり潰すための石も手もとにある。
「この草はこのくらいの量でいいかな」
「もうちょっと少ないほうがいいわね」メイはわずかに鼻をうごめかす。「白い花はのぞいて、茎と葉だけをすってね」
「わかった」
「花も捨てないで、別にとっておいて」
 手ほどきを受けながら薬を作る。すりあがると苦味のあるにおいがした。薄い白い布をほどく。今夜はいつもより遅いが、毎晩このころになると薬を塗る。どこか気恥ずかしさをおぼえながらも、白い布をほどく。踵があらわになると、妹の怪我の具合のほうが気になり、気恥ずかしさは消える。汲んでおいた水で傷口を洗う。日に日に傷はふさがっている。膿もおかしな腫れもない。ところどころ指先で軽く押したりしてみせるが、前みたいに鋭い痛みや熱は感じないとのいらえだ。
 傷口こそきれいにふさがったものの、かつては踵であったところはもとのかたちをとどめておらず、まことに痛痛しい。薬のきついにおいが鼻先に届く。
「だいぶよくなってきたな。気分は悪くないか」
「もう、熱が出ることもないし、なんともないわ」
 季節が秋に、さらには冬になったとき、寒さで痛みがぶりかえすのではないかと気がかりになる。
 風が吹く。洞のなかにはわずかしか入ってこないが、風音はしばらくつづいた。薬をつけ終わったので、新しい白い布を巻く。メイがかすかな声をあげる。
「どうした。痛いのか」
「そうではなくて、はぐれたみんなはどうしているかと思って」
「ああ」はぐれたのはむしろ、おれたちのほうなのだが。忌まわしい記憶がよみがえる。揚がる水。筏を艫綱でつないで、ゆるやかな河を下ったときのこと。この季節にどうして水が暴れたのかはわからない。移動の最後尾についていたキトとメイを乗せた筏のみが揚がる水のあおりを受けた。
 とまどいや驚きよりも先にキトはメイを抱えあげていた。妹を背負い、すばやく綱で結びつける。メイはことばもなく、察して兄の肩にしがみつく。
 筏の左端にある握りの横棒を左手でつかむ。河面が揺れる。右手は小刀を握りしめていた。すばやく動く。前の筏とつないでいた艫綱を小刀で切り離す。すぐに前方から大声が聞こえた。ふたりの安否を気にかけている。絶叫。だが、叫びも遠くなる。
 河面が大きく揺らいだ。水が持ちあがる。左手をかたく握りしめる。メイがさらに強くしがみついてくる。水しぶきが顔といい全身といい、容赦なくかかってくる。揚がる水。先ほどのよりも大きい。轟音。筏ごと持ちあがる。翻弄される。死ぬ、と覚悟した。一方で妹を死なせるわけにはいかない、と心を決める。だが、奔流は無情にもふたりをもてあそぶ。
 天と地がひっくり返った。そう感じたとき、意識が途切れた。
 目がさめると、浅瀬に横たわっていた。額の左から血が流れていた。手をあてると痛みが走る。石がかすめたのか。たいしたことはない。傷口がふさがっていないところからすると、ときはそれほど経っていないのだろう。身を起こす。あたりを見まわす。メイは。妹は。
 水音をたてないように歩く。あたりは靄がかかっていた。朝になっているはずはないのだが、気は冷たい。メイは。筏であった丸木が浮いている。この近くにいるはずだ。岸辺を探す。白いすがた。
 メイは岸辺に身を投げだして横たわっていた。意識を失っている。近寄ろうとして、歩みをとめる。両足が水面に没しており、その先は血にまみれていた。妹の名を呼びながら駆け寄る。半開きとなった口から温かい息があがっている。足は。水面下から岸辺に抱えあげる。血のにおい。目を細める。
 揚がる水に翻弄されて、投げだされたときに岩かどこかにぶつけたのだろう。両足とも足首から踵にかけて無惨に砕けていた。生半可なものではない。だが、水に浸されていたのがよかったのか、流血はそれほどひどくない。手あてするものを探す。
 白い影を見出した。狼である。こちらに寄ってくる。身構える。先ほどの小刀は携えていた。だが、白い狼は首を左右に振り、害を加える気がないことをおもてにあらわす。鼻先をある一点に向ける。かれらの荷が岸辺に転がっていた。まだ、狼に対する用心が消えたわけではないが、岸辺にあがり、荷をあらためる。ありがたいことにほとんど無傷で残っていた。敷布や手当ての白い布もある。
 岸辺の平らな石に妹を寝かしつけ、怪我の手あてをする。狼もずっとそばにいた。キトが追いはらうそぶりを見せると、遠ざかったが、またすぐにもどってきた。荷のなかに替えの衣があったので、いくつかをメイにかぶせる。
 キトも身体が疲れきっていたが、気をふりしぼって妹のそばにいた。目をさますまでこうしているつもりである。容態の変化が気がかりだった上に、狼のこともまだ気を許せない。足のことを知ったらどういってやるべきかをずっと考えていた。目が見えないぶん、メイは同じ年頃の少女よりもずっと気持ちが落ちついていて、ものごとに動じたり、あわてたりはしない。大人よりもしっかりしているくらいだ。はじめて会ったときからそうだった。でも、今度ばかりはどうであろうか。
 手を握る。身じろぎ。気を取りもどした。声をかける。名を何度も呼びかける。メイの左手を胸のあたりにまであげて、両の手で握りしめる。「お兄さん」声があがる。「わたし、生きていたのね」
 メイは足のこともわかっていた。揚がる水に持ちあげられて振り落とされ、両の踵に強烈な痛みをおぼえたところで、気を失ったのだそうだ。「運がよければ生きられる。そう覚悟していたから。お兄さんは額が軽く傷ついているけれども、ほかは無事みたいね。よかった」
 キトは額に手をあてる。血はすっかりとまっている。
「お兄さんも少しは休んだほうがいいわ。あの狼さんのことだったら、気にかけなくても平気よ。味方だから。わたし、眠っているあいだにあの狼さんとたくさん話をしたわ。このあと、わたしたちがこの場をしのげるだけの食べものがあるところと、身を休められるところに連れていってくれるそうよ。お礼に名をつけてあげたわ。グンというの。気にいってくれた。でも、話しかけてくるのは、はじめの一回の夢のなかだけみたい」声は終わりに向かうにつれて、か細くなってゆき、途切れた。キトは息を詰めたが、ふたたび眠ってしまっただけだった。
 メイのいうとおりに、狼は先頭に立って、導いてくれた。妹を背負いながらの歩きである。荷も抱えているので、歩みは遅れがちになり、息は荒くなった。メイは、いったんどこかにおいておけばよいのに、とためらいがちに案を出してきたが、荷を失えないので気力をしぼってここまで歩いた。ほどなくして、ねぐらにふさわしい洞に着く。巨大な柏の樹が近くにある。河のそばにこんなところがあったなんて。しかし、平地がつづいているから、河があふれたときはあたり一面が水浸しになるだろう。長くはいられない。荷を降ろし、メイの寝床を作り、寝かしつける。すでに夜である。丸三日ものあいだずっと起きていて、気も張りつめていたので身体がすっかり重くなっていた。
「もう休んで。おねがいだから」
 確かに心身ともに限界だった。狼も気を利かせて、すがたを消す。なにがあってもこの先の道中、妹をかばいつつ、父の一行とめぐりあわなければならない。だが、もう膝から下が動かない。目の前が暗い。いつしか眠りについていた。


 満月になる前の晩にメイは夜中に張りつめた声をかけてきた。「いますぐ、あのひとのところへ連れていって」
「あのひとって」
「柏の大樹よ。おねがい」
 グンもそばに寄ってくる。「わかった」すでにふたりとも横になっていた。寝つけないでいたので、もとより眠気はない。月明かりがまばゆいほどに洞のなかに差しこんできている。妹を抱きかかえあげようとするが、とどめてきた。
「荷もできるだけ持っていって、急いで」真剣なおもざし。
「ああっ」火急のときか。いつなにがあってもいいように、荷はまとめてある。敷布も手早くたたんで荷に縛りつける。妹を背負う。グンの背にも荷がくくりつけてある。洞の外に出る。満月にわずかに足りない月が輝いている。大きく息をついて、歩きだす。できるだけ早く大股に歩く。
 すぐに柏の大樹が見えた。月夜に見るとあらためてものものしく映る。上のほうは夜空に溶けてしまっていて輪郭がつかめない。天に届くかのようだ。
 メイがしがみついてくる。大いなるものに祈るしぐさで、キトの胸の前で両の手をかたく握りしめる。「おねがい。まにあって」
 大きく満月が揺れる。否、揺れているのは地のほうだ。それもただの地揺れではない。大地がうねるごとくに隆起している。はげしい音。地が割れる。キトの足もとも盛りあがる。なにかが噴きあがってくる。水だ。ただならない揺れは一向にやむけしきもない。
「河の水もあふれてこちらに来るわ」
「なんだって」
 水はなおも噴きでてくる。とまらない。足もとがあやうい。グンが吠える。夜闇にも白く映るしなやかなすがた。黄色い目がこちらを向いている。来いといっている。地を蹴って進む。固い地の感触。だが、とどろきの音にふりかえる。河から水が押し寄せてくる。このままでは流れに呑みこまれる。
「あのひとのところに急いで」
 メイが指さしてくる。迷いはない。「わかった。しっかりつかまっていろ」グンが先に向かう。流れが地を浸してくる。かなり速い。なんという。ありったけの力を足にこめて駆ける。柏の樹木がもう近くである。だが、冷たい感触。ゆるやかな弧を描いた枝のもと。飛びつく。力をふりしぼり、枝の上によじ登る。まにあった。
 妹を背負ったまま枝の上で息をつく。すぐ下を水が流れていた。見るうちに水かさはあがってゆく。見まわすとあたりはすっかり水浸しで、流れのなかにいる。
 もっと高いところまで這いあがってゆかないと。息を切らしながら、汗を拭う。
「少しのあいだだけ、じっとしていて。しばらくは水も急激にはあがってこないから」
 メイの鋭い声でいくらか落ちついた。彼女はいつもの声にもどっている。頭上で影が舞う。息をとめるが、グンだった。枝は九つある。いちばん下から、見あげるといくつかの枝が寄りあわさって太い幹さながらに見える。威容である。樹上のはるか上に月が輝いている。河の水かさは増してくる。流れの勢いも強まってきた。
 妹を背負いなおす。呼びかけてから、樹木をよじ登る。グンが上にいた。月を背にこちらを見つめている。月は冴え冴えと夜空にある。まるで月に向かっているようだ。グンがいたのは、いくつもの枝が寄りあわさって、平らかになっている空間だった。キトとメイ、それにグンが横になってもなおも余裕がある。枝の七本はさらに上に伸びている。
 樹上にこんなところがあるとは。これだけのひろさがあれば、転がり落ちることもない。ここにいれば身は助かる。ようやく息がつけた。メイは坐りこんで涼しげな表情でいる。あらためて、妹がこの樹と親しいことをありがたく思う。
 その樹が動いていた。腰を浮かせるが、メイは澄ましたおももちである。「あわてないで、樹が流されているのよ」
「なんだって」ここまであがってくると下の水の流れをじかには見られない。どのみち夜であり、暗がりである。ただ、樹全体が動いていることは明らかだった。
「いうならば、わたしたちはこのひとの舟に乗って河をくだっているようなもの」
「舟か。どこに向かう舟なんだ」
「わからないわ。このひともあとは流れに身をまかせるほかはないと決めているみたい。地の揺れはひとまずはおさまっているし」
 キトは深く息を吐いた。あのまま地にいたら水に呑みこまれていたのだ。さしあたっては助かったというべきか。されど、先の見とおしはまったくわからない。生き延びられて、よかったのかどうか。
「見て、月がきれいよ」キトの苦悩とは裏腹に、メイが夜空を指さす。満月に近い白い月が輝いている。われらを見守るようにあとについてきている。グンも見あげていた。
「ああ、ほんとうだ」ことばにしてから、妹を見やる。閉ざしたきりのまぶたの裏にも月は映るのだろうか。長い睫毛の先に月光がきらめき、またたいた。


 いちばん下の枝まで降りて水を汲みあげる。なるほど、柏の樹木は氾濫した河に浮かんで流されている。ここでは見晴らしはよくないので、あとで登れるかぎり上に登ってみよう。桶に汲んだ水をのぞきこむ。洞をねぐらとしていたときに作った桶である。底に泥が積もっている。水面から汲みあげたので、混じっているものもなく、見たかぎりではきれいな水である。飲み水としてもいまのところ害はない。
 蓋をして、取手に綱をかけて背にくくりつける。木登りにもだいぶなれてきた。樹坐をめざす。平らかな空間のことをメイは樹坐と名づけていた。その樹坐にもどるといるはずのすがたがない。グンもいない。不吉な考えが頭をかすめる。だが。
「お兄さんっ」ひょこり、とメイの首が飛びでてきた。にこやかに笑っている。両手を出し、振ってくる。
「ど、どうしたというんだ」
「声がぶれている」くすりと笑う。「グンが教えてくれたの。そばに寄ってみて」
「ああ」苔とも草ともつかない群生に大きな割れ目があり、奥ゆきのある空洞が下につづいている。どこまで深いのか暗くなっていてわからない。メイは割れ目のすぐ下にある、腰掛けのかたちをした木のでっぱりに坐していた。
「どこまでつづいているのかグンがいま調べにいっているところなの」メイは楽しげにくちもとを緩ませる。「このひとのなかにこんなに大きな空洞があったなんてびっくりね。このことは教えてくれなかったのよ。教えてくれなかったというよりも、このひとにしてみれば、空洞があるのがあたりまえだから、わざわざいうまでもないと思っていたみたい。グンはまだかな。そんなに深くまでつづいて。あっ、もどってきた」
 メイのことばが終わるかどうかのところで、白いすがたが躍りあがってあらわれた。舌を出している。いささか興奮してもいる。「どうだったの」毛並みをなでながら、たずねる。狼は息を吐くばかりだが、メイは「へえ」とか「わあ」とかしきりに相槌を打つ。
 みずからの目でも確かめる。妹と狼は樹坐に残ってもらう。先ほどメイが腰掛けていたでっぱりから下へつづく穴があいている。なかは暖かく、それでいて、どこからか風も吹いてくる。さらに降りる。
「こいつは」声をあげてしまう。空洞の深みには樹坐ほどではないが、空間ができあがっていた。平らで腰をおろすところもある。立ちあがり、両手を挙げ、飛びあがっても上に手がつかないくらいに高さもある。内壁というべきか、樹肌に目を向けるといくつもの枝が複雑に絡まっている。とくと見わたす。内側にこれほど大きな洞があるとは。


 樹上での暮らしはつづいた。大樹は流されるままである。ときおり、座礁かなにかによって、とまることもあった。だが、ほどなくして動きだす。いまは流れに身をまかせるしかない。河のまんなかで立ち往生にならないだけ、ましというべきか。どこかの岸辺に乗りあげてくれればよいのだが。水と食については困ってはいない。だが、ここがどこであるのかはまったくわからない。父の一行とめぐりあうことはますますもって難しくなった。
 メイはひときわ熱心に樹肌に耳を押しあてて、声を聞いていた。反対の耳がすっかりあらわれている。思いつめた表情になる。
「まもなく嵐が来るわ」不意に手首をつかんでくる。「急いで避難しないと」
 逃れるところはひとつしかない。メイを連れて樹洞に入ったことはこれまでにない。背負ってでは無理だろう。綱を枝のひとつに結びつけて、反対の端をおのれの胴にまわす。綱に余裕はあるので、下までゆけるはずだ。荷を肩にかける。妹を抱きあげる。
 合図をしたが、グンは動かなかった。先にゆけ、と促している。
 樹洞に足を踏みいれる。表皮に手をあてる。「このひとはなんといっている」
「強い風に振り落とされたくなかったら、早く自分のなかに逃げろって」腕を軽く引っ張ってくる。「急いで、雨雲が近づいてくる」
 足を滑らせないように、慎重に降りてゆく。たちまち雨が樹木を打ちつける音が聞こえた。グンを気にかける。いちばん下までたどりついた。グンが降りてきた。白い毛がすっかり濡れそぼっている。蓋をしてこないと。綱の結び目をほどいて、上にあがる。すぐにけたたましい雨の音が聞こえてくる。風も吹きすさんでいる。雷光がまたたいた。ほどなくして轟音。水が入りこんできている。樹木全体が大きく揺れた。あわてて樹肌のこぶをつかむ。河も荒れている。振動が半端ではない。これはなかにいるから安全というわけではなさそうだ。作っておいた蓋を閉め、固定させる。これも、どこまでもつだろうか。早くも音をたてて、きしいでいる。またしても大きく揺れた。
 下までもどる。すでに暗闇である。灯をともすわけにはゆかないか。なにかが樹木にぶつかった。ただならない音が長くつづく。
「お兄さん」暗闇のなかでも白い衣がわかった。黒い髪のつやも。
「一箇所に身を固めておくんだ。つかまれるところにつかまっておけ」荷を引き寄せる。グンは近くで丸くなる。ごく近くでメイの息づかいがした。轟音は絶えまない。はげしい縦揺れが起きた。不意を突かれて、身体が浮きあがってしまう。頭をどこかにぶつけた。「くっ」
「平気、お兄さん」息がかかるところから声。腕のなかにいる。
「ああ。だが、暴風雨がこのままつづくようだったら、このなかにいても、あやういな」
「嵐はまだずっとつづくわよ」神妙な声音。「いまよりもはげしくなる」
「おいっ」
「でも、ほんとうよ。空も雲も雨もそう告げている」
 衝撃。頭のなかが一瞬だけ白くなった。わずかだが、意識が途切れた。「メイっ」
「なんともないわ」だが、さすがに震えていた。
 なにも見えない暗がりのなかで上も横もなく振動がつづく。あちこちぶつけてしまう。めまいと耳鳴りがした。吐き気もこみあげてくる。次にどこから揺れが起きるのかも見当がつかず、たまらない。これは死ぬな。樹木がもちこたえてくれても、こちらの身がもたない。またしても衝撃。妹を抱き寄せる。身体が浮いた。背中から叩きつけられる。息がとまった。
 荒く息をつく。すでにどこが上か下かもわからない。グンの居所もつかめない。すがたも見えなければ、声もしない。たてつづけに揺さぶりが起きるため、グンまで気がまわらない。妹は無傷だが、ひっきりなしの揺れに息が絶え絶えになっている。なにかが割れるすさまじい音がした。樹の幹にひびが入ったのだろう。いよいよ、壊れるときがきたのか。柏の大樹も嵐には耐えきれず、最期を迎えるのか。
「それはちがうわ」きっぱりした声が届く。「このひとはむしろ喜んでいるわ」
「なにを」揺れを察して、言葉を呑む。
「もちろん嵐をおそれていて、強い不安を感じてはいるわ。でも、大自然の風雨にさらされて、自分が変われることを、たどりつけることを望んで、喜びに身をまかせている」
「なにをいっているんだ」
 奇妙な静寂がおとずれた。身体が放り投げられる。腕にすべての力をこめる。目をかたく閉じる。すぐには叩きつけられない。ときが止まったかのような錯覚。身体は宙に浮いている。背も足も頭もどこにも触れていない。まだ衝撃はやってこない。だが、この次に叩きつけられたときにこそ、死ぬ。まわした腕をかたく抱きしめる。
 それでもメイの身体は急速に浮きあがり、腕のなかから飛びだしそうになる。なにが起きているのか、わからずに目をあける。目が慣れたのかどうか、暗がりではなくなっている。いや、ほのかな月明かりがそこかしこから差しこんできてさえいる。いつのまにか雨がやんだのか。あんなにはげしかったのに。風の音も波の飛沫も聞こえない。長い黒髪がたゆたっている。離れてゆこうとする手首をたぐり寄せて握りしめる。髪が払われて白い顔があらわになる。こちらを向いている。もう片方の腕を伸ばして、宙をさまようメイの左手をつかむ。ふたりは宙に浮いていた。メイの髪がふわりと舞いあがり、衣もふくらんで、裾が心持ちあがる。樹肌の内側が月明かりに照らされている。メイの髪を、睫毛の先を、衣の輪郭を、足に巻いた白い布を、月光が縁どっている。きらめき。黒い髪と白い衣につつまれた温かみがキトの胸に飛びこんでくる。甘いにおいが鼻先をくすぐる。
 陶酔。眩惑。浮遊感。光満つるところへ向かってゆく。どこへゆくのだろう。問いかけ。月よ。短いがはっきりとした答え。遠い先祖が住んでいた月に帰るの。わたしたちも連れていってくれる。
 目くるめく影。父の顔が思い浮かぶ。つづいて、キトの亡き母の顔が。メイとはじめて会ったとき。この子は生まれてからずっと目が見えないの。あなたが護ってあげないと。眩惑はやまない。光と影が交錯する。急速に光のほうが強まってくる。
 上も下もわからない。あたりは光に満たされていた。メイの輪郭もうっすらとしかうかがえない。つないだ手の感触だけがある。温かい。この手だけは離さない。
 失墜がきて、すべてが遠ざかる。


 気がついたときは身を横たえて眠っていた。右手で身体を起こす。左手は。
 メイが倒れている。気を失っている。キトの左手はメイの右手を握っていた。息をつく。なにがどうなったのかわからない。あたりを見まわす。薄暗いがよく知っている樹のにおいがする。手を伸ばす。樹皮に触れた。あの柏の樹洞のなかだ。
 静かだった。揺れもなければ、水も入りこんできていない。さらに耳を澄ます。ここのところ感じていた河を流されているようすもない。
 メイがわずかに動く。意識を取りもどしたのだ。「お兄さん」
「気がついたか」
 起きあがる。「わたしたち助かったのね」まわりに気をめぐらせている。
 上からなにかがやってくる。白い影。グンだ。
 樹木の外側に出ていたらしい。自分も見にいこうと立ちあがる。メイが手を引いてきた。まだ手をつないだままでいたのだ。「わたしも連れていって」語気が強く、てのひらから熱が伝わってくる。
 綱は切れていた。降りたときとはちがい、メイを背負いながらでもあがれそうである。グンがふたたび駆けあがって外に出る。蓋は吹き飛ばされてなくなっていた。外がどうなっているのか、確かめるのが少し怖くてためらってしまう。深呼吸する。外に出る。
 頭上は暗かった。夜なのかどうか。星も見えない。黒一色である。枝のふたつが折れていた。嵐の爪あとともいうべき凄惨な眺めである。足をかけて樹坐にあがる。息は普通にできる。あたりは静まりかえっている。風はそよぐほどに吹いている。耳を澄ますが、風の音のほかはなにも聞こえない。
 樹坐でしばらくそうしていた。グンが樹坐から駆け降りる。いったいどうなったのだろうか。どこかに流れ着いたのか。柏の樹はふたたび地に根づいたらしく、不安定さはない。
「わたしたちも降りましょう」
 うながされて、うなずく。妹を背負ったまま、樹肌の足をかけられるところを探りながら降りる。この先に大地はあるのだろうか。グンはすでに降りている。いちばん下のゆるやかな弧を描いている枝に着く。ここまでくると地上のようすもうかがえた。柏の樹木は大地に根を張っている。暗くて見わたせないが、地はつづいており、草木も生えている。はるか遠くには地平もうかがえる。ここで生きてゆけないことはなさそうである。しかし、どこなのだろう。
 月よ。目くるめく浮遊のなかで聞いた妹の声。月に帰るの。
 大地に足を踏みおろす。たしかな感触がある。地を踏みしめるのはひさしぶりである。地は白みがかっていて、薄く光を放っている。見たこともない景色。なおもあたりから目が離せないでいる。「ここはほんとうに月なのか」問いかけともつぶやきともつかないことばが出る。いらえはない。
 胸に白い手がかかり、息をとめる。
 メイが右の耳もとに口を寄せてきていた。いつにない声音。耳の端をくすぐるようにかすめてくる。甘いにおいとともに。「わたしたちの王国が、いまここからはじまるのよ」

(了)

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