『ささやくこえ』

『ささやくこえ』

著/島田詩子

原稿用紙換算10枚

[月曜日 20:34:18]


 女はベランダで泣いていた。
 部屋の中では、別れ話を切り出した男が平然と煙草をふかしているのだろうか。
 勝手すぎる。
 自分の浮気が原因なのに、偉そうに開き直って。
 ベランダのフェンスに突っ伏して、女は声を上げて泣いていた。
 『………か』
 耳元でひっそりと響いた声に、女は顔を上げる。
 『………そうか』
 小さいがはっきりと、鼓膜に同じ声が響く。
 後ろを見たが、ガラス戸は閉まっていて、テレビの音や男の声は聞こえない。道路を挟んだ対岸のマンション群は遠く、かなりの大声でないとこちらまで声は届かないだろう。
 あちらこちらを見回しているうちに、建物の隙間から覗くちっぽけな三日月が目に止まった。
 『手を貸そうか』
 今度は明瞭に聞き取れた声に、女は思わず頷く。見慣れたものなのに、月から目が離せない。
 するすると三日月は女の目の高さに近寄ってきて、くるりと回転するとナイフに姿を変えた。その柄は、持てと言わんばかりに女の方を向いている。
 まばたきをひとつ、ふたつした後に、女はそれを手に取った。そして、猛然と振り返ると空いている手でガラス戸を開き、部屋に駆け込んだ。
 ナイフを両手で握りしめて、きょとんとする男めがけて身体をぶつける。豆腐を切るくらいあっけなく、ナイフは男の身体に刺さった。
 女は荒い息を吐きながらナイフから手を離した。そのまま座りこんで動けない。
 ナイフはひとりでに抜けて、再びくるりと回って月に戻る。その際に、先端が女の首をかすめた。もともとが鋭利な上に、回転の勢いがついた月の切っ先の前に、ひとの身体は脆弱だった。
 やがて空に戻った三日月は、ひとふたり分の血の名残りもなく、くまなく輝いていた。

[木曜日 01:56:49]


 男はひたすらに走っていた。
 ビルの間を巧みに縫ってゆく足どりに迷いはなく、平然とした表情とあいまって、夜間のこうした作業が初めてではないことをうかがわせる。
 背負ったバックパックの膨らみは大きく、重たげだが、慣れた動きでひょいひょいと狭い空間を通り抜けてゆく。
 『ねぇ』
 不意に聞こえた声に、男はぎょっとして足を止めた。見回しても、誰もいない。
 そもそも、こんなところに自分以外の人間がいれば、気が付かないわけがない。男は苦笑して再び走りはじめた。
 『あそんでよぉ』
 再び聞こえた声に腹を立てながら、男は疾走を続ける。今は遊んでいる暇なんかない。
 『おにーさんだけ、ずるいよぉ』
 舌足らずなこのしゃべり方は、テレビ番組か何かのものだろう。どこかからその音声が漏れているのだ、きっと。
 『あそんでってばぁ』
 自分の仮説にうなずきながら、男はひたすらに声を無視する。
 『おにーさんだけ、おにごっこしてるのに。ずるぅい』
 男は思わず足を止めてしまった。
 これは、偶然だと聞き流せない。
 背後を見直し、頭上までじっくりと確認してしまう。それでも、薄暗いなかで目に映るのは、コンクリートの外壁やパイプ類、ゴミ箱などだけだ。表通りから車やバイクの走行音が時々響いてくるくらいで、静かなものである。
 男は頭を強く振って、再び走り出した。あまりぐずぐずしてはいられない。
 『なかまにいれてよー。いっしょにおにごっこしたいよー』
 それでも、声は追ってくる。「黙れ」と言い返したくなるのを男はこらえて、いっそう足に力をこめる。
 『あそんでよー。あそんでってばー』
 男はひたすらに走る。額にも背にも汗が激しく伝う。
 『おにーさん、まってよー。おにごっこするのー』
 ビルの隙間を右に左にがむしゃらに走り回り、声を振り払おうとする。それでも声は離れない。男の呼吸が乱れ、口を大きく開けてあえぎながら走る。
 突然、男は足を止めた。
 どう道を選んだものなのか、最初に走り出した地点に戻っていた。こんな無様な真似は、今までしたことがない。男は呆然と立ちつくした。
 不意に、光が目に突き刺さる。男を囲むようにパトカーが数台止まり、そのうちの1台のヘッドライトが男に向けられたのだ。
 男はその場に膝をついた。バックパックの中で、盗んだ金塊たちがごとりと揺れる。男と警察の「おにごっこ」は終わった。
 パトカーが去り、いつもの夜に戻った街のなかで、再び声がした。
 『だれもいなくなっちゃたー。つまんなーい。いっしょにおにごっこしたかったのにー』
 ビルの合間で、半月が不満そうにぶんぶんと上下に揺れていた。

[次の木曜日 23:15:52]


 『………おつきさま………』
 空をゆるゆると流れていた満月は、ごくごく小さく呼びかける声を聞いた。
 『おつきさま、こっちです………』
 今夜は風が強く、かすかな声は流されてしまい、どこから来たものか推測しにくくする。林立するマンションや住宅にぶつからないように気をつけながら、満月は徐々に高度を下げ、呼ばれている場所を探す。
 『ここです、おつきさま』
 電柱より低いところまで来て、やっと声の出処が分かった。住宅街に挟まれた、小さな森の中だった。
 満月は木の枝の隙間をくぐり抜け、手頃な梢に腰を下ろして地表をあちこち見回した。
 『ここです』
 視界の端で、同じ声が呼びかける。タヌキの子供が、懸命にしっぽを空に向けて振っていた。満月はタヌキの子供の目の高さに降りた。
 『おつきさま、うちのおかあさんが病気で寝てるんです。でも、回りに人間の家がいっぱい建ったせいで巣に風が通らなくなって、巣の中がすごく暑くて、おかあさんの熱が全然下がらないんです。それと、今日は十五夜なのに起きておつきさまが見られないのが残念だって、すごく悲しそうなんです。
 おつきさま、うちのおかあさんをお見舞いしてもらえませんか』
 満月は快諾して、子ダヌキについていった。さすがに巣の中には入れないが、入口から中を覗くと、巣全体を照らし出すことができた。
 『おかあさん、おつきさまが来てくれたよ』
 子ダヌキが声をかけると、外に背を向けて横になっていた母ダヌキがこちらを向いた。すぐ目の間に満月があるのを見て、無言でぽろぽろと涙をこぼした。
 太陽の気配が近くなるまで、満月はそこにいた。月がいるところに夜風が集まってくるので、巣の中はずいぶんと涼しくなり、母ダヌキは壁にもたれて起きあがって満月に礼を言った。
 上空へと上がってゆく満月を、子ダヌキはずっと見送っていた。やがて、満月からは子ダヌキが見えなくなった頃、ぽん、と地上から音が聞こえた。タヌキの腹鼓だった。
 静まりかえった住宅街にその音はこだまして、慌てて窓から顔を出す人間が何人もいるのを、満月は滑稽に思いながら空の高みへと戻り、西へと急いだ。

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