エッセイ『「時をかける少女」と「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」鑑賞後の雑感』

著/雨街愁介

(このエッセイでは、『時をかける少女』、また、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』に関する重大なネタバレが存在します)


 デジタル数字が赤い糸のように連なっている。それは決して分岐したものではなく、あるいは弧を描いたものではない。ただ、どこまでもひたすらに一本の糸だ。
 これが細田守版、『時をかける少女』のオープニングだ。
『時をかける少女』はまさに細田守の行き着いた、ある種の美学の結晶とも言うべき作品である。定点カメラ。カットのシンボリズム。音楽の焦点を絞った使用法。色彩の統一。美術への拘り。去年の映画賞を総なめにし、海外でも高い評価を受けている。無論この作品の映画的完成度の高さは言うまでもなく、わたしはその部分について異論はない。映画として、ほとんど完璧な仕上がりだと思う。
 ただ……どうも釈然としない気分になってしまうのはわたしだけだろうか。
 わたしがそれの存在に気がついたのは二度目に見たとき、つまり映画館でではなくテレビ放映の、我が家の茶の間でだった。真琴たちの野球のシーン。抜けるような青空。その時点で、わたしの心の中に何か引っかかるものがあった。会話は続く。やがて、ボールが青空から降ってくる。それはデジタル表示の時計へと変わる。そしてそれは真琴の上に落ちる。妹らしき人物の声。真琴の部屋。真琴はベッドの上。妹が一言言う。「起きなよ、いい加減」
 そして、『監督・細田守』と画面には出る。
 声を上げていた。
 これは、明らかな、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』への批評ではないか。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、押井守監督の出世作である。『うる星やつら』というSFスラップスティック・コメディのシリーズでありながら、あまりにも哲学的な表現が多用されることで話題になった作品だ。その上に、押井守ならではの静謐なポエジーが花開く。おそらく、そのポエジーは、細田守にも影響を少なからず与えている(と、思われる。あくまで主観的な意見だけれども……)。作品の内容は明らかにシリーズ漫画や、モラトリアムへの批評的観点から読み取れる。ある日学園祭の準備に追われる主人公たちは、ずっと同じ日々を繰り返していることに気づく。飛行機に乗り、町の全容を確かめようとすると、実は町の外は何もない宇宙であり、町は亀の甲羅の上に乗っていた……町は荒廃し、主人公たち以外の人間は消える。しかしなぜかコンビ二の食物は減らない。そして、主人公たちは、この世界が、登場人物の一人、ラムの夢の中であることに気づく……。
 この映画では、青空や時計が象徴的に使われる。しかしそこにある時計は壊れて止まっている。青空は水溜りに写っている。
 正直、わたしはこの映画が昨今の批評で言われている通り、モラトリアムに対する批評性を持っていたとは考え難い。むしろ、これは当時押井守の抱いていた(であろう)シリーズ漫画への不満の吐露と考えられるのではないだろうか。それらが自然にモラトリアムへの批判と結びついたとするほうが正しいと思うのだ。
 しかし『時をかける少女』は違う。紛れもなくモラトリアムへの批判を持ち、作り手がそれに自覚的である。その形式しかり、象徴の使い方しかり。
『時をかける少女』での主張は簡単である。「Time Waits For No One.」時は待ってくれない。確かにその通り。わたしたちにとって常に時間は一直線であり、動き続けなければいけないのだ。留まってばかりはいられない。だから真琴は最後に『自らの進むべき道を見つける』。……そう、そうだ。
 この映画では、すべてが、『自らの進むべき道を見つける』ために存在するのだ。あらゆるものが。その主張が、ありとあらゆるカットに組み込まれているのに気がついた途端、わたしはそこからマッチョイズムを感じていた(あるいはあまりにもあからさまな批評性のために腰が抜けたのかもしれない……しかし、その主張の反復がわたしに齎したのは、どうもその手の感覚だった。そもそもこの原作は一種のラブストーリーとしての雛形を持っていたのではなかったか? それを変えることは構わないけれども、もしその主張を伝えるためにしたのであれば、……これは個人的な、あくまで個人的な感想なのだろうか? 確か『鋼の錬金術師 シャンバラを往く者』にも似たようなことを思った……テーマ性がドラマツルギーをゆがめているような。あるいは途中でドラマツルギーを断絶させてしまったような)。
 いつの間にか、わたしはある種の不快感を、この映画から受けていた。
 人は成長し続けなければならない。その主張に異論はない。
 しかしだ。
 本当に人間という存在は成長した/していないという二元論の中に閉じ込められていいのだろうか? 二元論の中に組み込むことは、とても――簡単なことであると思う。二元論の世界に留まることもまた。正義という名のもとでは悪たる行為は正当とされるのだ。世界を二分の一にして、どちらかを仮想敵にすれば、わたし、という存在も、言論の上で、また正当化される。わたしという存在が、敵/味方という二元論で語れるようになる。わたし、という存在が、レンズをはめた様に、くっきりとして見えてくるはずだ。くっきりと見えるはずがないもののはずが。大人/子供。このスラッシュを手に入れた瞬間、その人は、二つの内のどちらかに区別される。そして自らはそのスラッシュの外側に出ることはないだろうと思い込む。完全なる子供という存在が幻想であるように完全なる大人という存在もまた幻想なのだ。
 だが問題なのは、これらをアニメや『文学』の主人公たちは、いとも簡単に、スラッシュの向こう側には一つのパターンしかないと思い込むことだ。自らの周りを見ても完全なる子供はいないはずなのにも関わらず。
『うる星やつら~』はこの辺りを理解していたのではないだろうか、と思う。彼らは(あたるは)夢の外側に脱出しようと試みる。だが夢の外側と思っていた世界もまた夢である。何故なら夢の外側には何もないのだから。彼らはそれを知らないまま、だ。現実と信じたまま、だ。つまりあたるはそこから抜け出そうとしても本質的に不可能なのだ。なぜならそもそもどこからどこまでが夢か現実か分からない。
 もしこのラストシーンに夢を仕掛けた張本人である夢邪気が登場しなかったら、とわたしは考えてしまう。たぶん、ハッピーエンドだ。もしかしたら「これでまた彼らは一つ成長したのであった……」と中年の女性の声でナレーションが入るかもしれない。と、それは『一休さん』か。無論、わたしは『時をかける少女』が嫌いで(あるいは『古い想像力』で)、『うる星やつら~』が好き(あるいは『新しい想像力』で)あるという話をしているのではなくて、成長、という概念の裏側にある、どこか胡散臭い感じがどうしても嫌だ、という話をしているつもりだ。人間の成長にあたる概念があるとしたら、それは、ある選択の時に自分にとって(皆にとって、というのではない)最善の、効率的な選択をすることだと思っている。けれどその選択の如何は、最初からそういったことを分かる人はとっくに分かっているし、分からない人は分かるようになればいい、というものではない。ましてやある出来事からある一つのデータを抜き出し、そのデータによって異なったものを選択した、というだけで、それを偉そうに威張ることでもなければ、人に強いることでもない。
 簡単なことで、それが出来ない人間は死んでいくだけだ(悲しいことに)。目覚まし時計の止め方を知ることが果たして偉いことなのか? 止め方を知って、自分が得をすることはあるだろうが、それはただ『得をした』だけではないのか?
 こう言い換えてもいい。わたし達は、成長という概念の上で踊らされている。そして、もしかしたら、成長という概念の下に抑圧されているのではないか。成長という概念の存在しない部分にこそ、成長は存在するのではないか。全き人間に近づいた、という考え方に胡散臭さを感じるのはわたしだけだろうか? どこに全き人間などいるというのだ。全き人間のいないところに人間としての本懐があるのではないのか?
 現にデータとして、その大人/子供という概念は、近代になって生まれたものであったとされる(*)。そもそも子供という概念は存在しなかった。小さな大人という存在がその子供という座標に置き換えられていた。成長するのは小さな大人である。大人が成長するのだ。子供が成長するのではなく。
 つまり、こういうことだ。
 大人という概念こそが、知らず知らずのうちに、子供を『成長』から護る隠れ蓑となっている。
 大人は、成長が終わっているから、成長しなくとも良い。
 裏を返せば、そういうことだ。
 果たしてそれは本当か? 成長し終わった人間などいるのか?
 実を言うと……『一人前の男』という言葉(自分の周りにはそれを冗談めかして言う人しか知らないけれども)も怪しい、と感じるときがある。その言葉はつまり、『半人前の男』が在り、『一人前の男』というイデアのような『男』が存在していることになり、発話者は『一人前の男』であるということになる。正直、信用できない。
 自らの言葉や行動に責任を持たなければならないのは、何年生きようが成長しまいが同じなのだと思う。だから「子供のした事は、親の責任」という論理は、わたしは根本的に嘘だと思っている。誰でも等しく、自分のした行動には責任を持たなければならないのである(ただし、『子供』は弱者であることは認めるし、庇護の対象となりうることも認める。しかしその一面が彼らを抑圧しているということもまた、見過ごすわけにはいかない)。


「起きなよ、いい加減」。その言葉は、確かに正しい、しかし、放っておいても十分起きる。成長を拒否しろ、というわけではない(自分が辛くなるか、不自由になるだけ。それも気がつかないとすれば不幸の極み)。起きなきゃ死ぬだけだ。面倒なら起こせばいい。だが起こしたことを誇ることも、起きたことを誇ることも避けるべきだ。それはただの自己満足に過ぎない。起きて、何をするかだ。起きなくとも、何をするかだ。残念ながらこの世界にはデジタル時計もアナログ時計も混在している。どちらが少ないと言うこともない。どちらも比率が十分にある。
『時をかける少女』の空は美しい。青空の中の積乱雲もまた、美しい。美しいことであることは確かだ。しかしその美しさが、何だかこの、『成長』というコトバの裏にあるものすら一緒に連れてきてしまいそうで、怖くもある。だからわたしたちは、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の水たまりの空のあの美しさもまた、同じように見つめているべきではないのか――そう、青い空(そうだ、押井守の次回作は『スカイ・クロラ』だという。成長しない子供たちの物語)を不意に見上げて思うことが、ある。
 それだけだ。


(*フィリップ・アリエス『<子供>の誕生‐アンシャンレジーム期の子供と家族』による)


photo
時をかける少女 通常版
仲里依紗 石田卓也 板倉光隆
角川エンタテインメント 2007-04-20

by G-Tools

photo
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
平野文 古川登志夫 神谷明
東宝ビデオ 2002-09-21

by G-Tools

この作品をはてなブックマークに追加この作品をはてなブックマークに追加


読み終えましたら、web拍手をお願いします。壁紙をプレゼントさせていただいております。

目次へ戻る