『黒い飛行船』

『黒い飛行船』

著/遥 彼方

原稿用紙換算45枚

 ぼんやりと白い曇り空の中、黒い飛行船が、草の波打つ堤防を越えて、連なる鉄塔の上を音もなく泳いで行く。
 ベランダで、徹は冷え切ったシーツを畳みながらそれを見ている。
 幼いころ、徹は黒い飛行船が怖かった。学校の運動場を駆け回っているときも、土手でバッタを追いかけているときも、墨を垂らしたような飛行船のくろぐろとしたシルエットが視界に入れば、すぐに逃げて帰った。それがゆっくりと音もなく、運動場の真ん中に河川敷の草地に降りてきて徹を攫う、不吉な展開を頭に描いては、ひとり怯えていた。
 今では彼もそれなりに大人になったから、そんな妄想を脳裏に走らせることもない。運動場は小さく河川敷は狭くなり、飛行船が下りてくるにはもう小さすぎる。
 黒い飛行船は月に一度ほどこのあたりを飛ぶ。郊外の丘の上に住んでいる金持ちが、道楽で飛ばしているんだという。けれど、いったいどこの飛行場から飛んでくるものか、どうして黒い色をしているのか、詳しいことはなにもわからない。
 シーツを屋内に投げ込んで、徹は衣服を取り込みにかかる。
 きいこ、きいこ、きい。
 すぐ下の公園からブランコの音が聞こえてくる。
 きいこ、きい。
 公園とマンションの敷地とを区切る木々の間から、ブランコを漕ぐ誰かの姿がちらちらと見えた。
 きゃらきゃらと、幼い子供の笑う声がする。
 徹は死んだ親戚の少女のことを思い出してしまう。胸が重くなる。去年の秋、今のように空気が冷たくなり始めたころ、あの公園でたまたま会った。柔らかな長い髪と、驚くほどに細い手足をした少女だった。祖母の妹の孫。だけど、徹の知っている誰にも似ていない。父親の血が濃いのだと、彼女は歯切れのよい口調で話した。
 どこかから夕飯の匂いが漂ってくるまで一緒に遊んで、その帰りに、彼女は車に撥ねられて死んだ。
 洗濯物を部屋へ向けて乱暴に放り込みながら、徹は何度となく考えたことを、彼女を思い出すたびに考えることを、また同じように考えるのだ。もしも、もう少し、ほんの数分でもいい、別れるのが遅かったなら。
 幼い声が響く。
 かーわーってーよお、と聞こえる、女の子の声。ブランコの音。きいこ、きい。意味をなさない甲高い声。
 気持ちが奇妙に騒ぎ、徹は部屋に逃げ込んだ。サッシを閉めて、ばらばらに放り出された洗濯物の間にうずくまる。
 ため息が出た。
 近ごろの徹はめっきり、子供に苦手意識を持つようになっていた。憎んでいたり、嫌いであったり、そういうわけではなく。むしろその逆で、彼は子供が好きで、ほんとうに好きで、ただその感情が、どうしてか奇妙な罪悪感を呼び起こすだけで。
 冷えた洗濯物を畳みながら、徹は少女の姿を脳裏に走らせる。もういない少女の姿を。少しきつい目つきをしていた。大きな声で転がるように笑った。
 あとは?
 ほんとうはもうよく覚えていない。記憶は薄れ、断片化した印象ばかりがぱらぱらと浮かんでくるだけ。
 胸に淡いいたみが広がるばかりで、悲しみの形さえあいまいだ。
 洗濯物の山を抱えて、立ち上がる。
 どう……と、低い、唸るような音が近づいてくる。飛行船のエンジン音だ。歩き出す徹の、靴下を履いたままの足元に、影が差す。小さな部屋が、すっと暗くなる。
 うまく動かないタンスの引き出しを無理やりにこじ開けて、徹は洗濯物をつめこむ、その背後の窓の外を、巨大な黒い飛行船が悠々と横切っていく。
 鯨の背に似た飛行船の横腹が、ベランダを掠めるほどの近さで移動する。
 けれど、徹は気づかない。
 窓を見ない。

 母親は毎年この時期になると同窓会だと言って東京へ行く。徹は三日の間ひとりになる。父親はずいぶん前に家を出て行った。もう長いこと会っていなかったし、特に会うつもりもなかった。
 ホテル名と連絡先のメモが貼りつけられた冷蔵庫の扉を開けて、徹は夕食のことを考える。作り置きされたシチューが鍋ごと、無造作に押し込まれている。ひとりぶんよりは、少し多いような気がした。もともと徹はそんなにたくさん食べる方ではない。
 しなびたキャベツ。ソーセージの袋。飲むものが何も残っていないことに気づき、買い物に行こうか、と思った。
 電話のそばに積んであるメモ用紙を一枚取って、何が要るか考える。牛乳。インスタントコーヒー。ルーズリーフが残り少ない。あとは電子辞書に入れる乾電池、単語カードも補充したい……少し長すぎる指でペンを取り、形の良い細かな字で、ひとつずつ書きとめていく。
 マメな子だねえ、あきれた声で母親はよく徹に言ったものだ。別に教えてもいないのに、と。
 窓の外はさっきよりも少し暗いように見えた。もしかしたら、雨が降るのかもしれない。パーカを羽織り、財布とメモをポケットに突っ込む。玄関でビニール傘を手に取り、徹は外に出た。
 エレベータのドアには、読みにくい字で<点検中>と書き付けられた貼り紙がされていた。昨日からだ。管理人がまだ業者を呼んでいないのかもしれない。
 徹は階段に向かう。
 暗い踊り場はいつも埃っぽいにおいがする。手すりの間から下を見ると、ほのかに明るい一階の床がはるか下方に見えて、なんだか吸い込まれそうな気がした。徹はこの景色がなんとなく好きだった。
 覗き込みながら、階段を駆け下りる。かんかんかんかん、足音がひどく響く。
 自転車はマンションを出てすぐの所に置いてある。駐輪場はいつもいっぱいだった。チェーンを外して、飛び乗る。
 腰を浮かせて、強くペダルを踏み込んだ。
 鳩かすずめの群れが、ざわざわと頭上を通り過ぎていった。風が強くなり始めている。……飛行船はもう戻ったろうか?
 車体を傾けて公園の角を曲がる。そのまま前を通り過ぎようとして、
「……え」
 ちら、と。何かが、徹の意識の片隅に引っかかった。
 考えるよりも早く、ブレーキを掛けている。ぎいと耳障りな音を立てて自転車が止まる。
 幼い少女の歌う声が聞こえていた。耳に馴染んだ、哀しげなメロディ。小学生のころの音楽の授業で、教え込まれた古い歌。澄み渡ったあかるい声、曇り空におよそ似合わない、ひかるような声。
 背筋が凍るような気がした。強烈なデジャブに襲われる。
 歌声。
 メロディ。
 確かに、昔この場所で、同じ音を聞いた。
 心臓がぱたぱたと激しく鳴って、何も考えられないまま、徹は自転車を公園に押して入った。
 歌声の主はジャングルジムのてっぺんにいた。右側の手前の角に、器用に腰掛けている。横顔が見えていた。人形のように形の良い頭。短いズボンから伸びる小さな細い足を、交互にぶらぶらと揺らしながら、空に向かって歌っている。
 頭の後ろでひとつにまとめた長い髪が、風にかき乱されている。
 徹は、動けなくなってしまった。身じろぎひとつ出来ないまま、彼女の姿を見上げていた。
 指先が冷たくなる。
 どういう、こと、だろう?
 知らず、頭を振っている。疑問が空回りする。
 どうして、この子がここに?
 二年前に死んだ少女。
 幽霊? 
 自分を恨んで出てきたのかもしれない。徹は混乱した頭で思う。
 いつのまにか、歌声は途切れていた。
 少し釣り目ぎみの少女の視線が、まっすぐに徹に注がれている。
「なあに?」
「え? ……ああ、ええと、いや、」
 徹はどぎまぎして、わけもなく左右に視線をやる。他には誰も居ない。マンションのベランダのひとつに、おそらくは自分の部屋であろうところに、ぽつんとひとつ、取り込み忘れた靴下が見えた。 
 少女は妖精のように笑った。
「あのね、夏休みに、おばあちゃんちにいたお兄ちゃん」
 少し間を置いて、得意げに。
「そうでしょ?」
「……うん」
 同じだな、と徹は思った。言っていることが、前と同じだ。
「やっぱりい。思ったとおりだわー。おひさしぶり」
 妙に芝居がかって聞こえる口調で少女は言った。
「えっと。家、この辺なの?」
「ううん。この辺ぜんぜん知らない。今日はちょっとあさ早く出て、バスにのって、とおくまで来てみたの」
「……ひとりで?」
「あたし出かけるのはひとりのが好き。だって、らくじゃん? そりゃあ、友だちといっしょなのも楽しいけど」
「ああ、うん。なんか、分かる気がする」
 夢を見てるのか。
 だったらずっと覚めなければいいなあと、徹は泣き出しそうな気持ちで思った。自転車をその場に止めて、ジャングルジムに近づいていく。
「僕も登っていい?」
「うん」
 水色の塗装の、ところどころまだらに剥がれたジャングルジムの棒は、芯から冷え切っていた。
 少女はするすると移動して、徹の目の前まで降りてきて、
「ばあ」
 と言ってひょうきんに目を見開く。

 日が暮れかけていた。少しずつ、辺りの景色が橙色に染まり始めている。
 きいこ、きいこ、ブランコがきしむ。
 少女は立ったまま、ほとんど水平になるまで、強く強くブランコを漕ぐ。あまり高くまで漕ぐので、鎖がしなって、かちゃん、と音が立つ。きいこ、かちゃん、きい、かちゃん。
「怖えぇ……」
 隣のブランコを適当に揺らしながら、徹は知らず呟いた。
「こわくないよ、ぜんぜん! たのしい!」
 ざざざざざ、踵で乱暴に地面を抉って減速し、まだブランコが完全に止まらないうちに少女は飛び降りてしまう。ぱたぱたと徹に駆け寄って、
「二人こぎしよう! あたしこいだげる!」
「ええ?」
 徹は思わずまじまじと少女を見てしまう。紅いスカートを。
 軽く、意識をかく乱される感覚。
「いや、止めたほうが……っていうか、僕やる、僕が漕ぐから。きみ下で」
「うん! 思いっきりこいでね」
「……」
 徹が降りると、少女はうれしそうに、ちょこんとブランコに腰掛けた。徹はいささか小さすぎる――それにしても、こんなに小さいものだったろうか――ブランコの両端に足を掛けて、ゆっくりと漕ぎ始める。
「ゆるいー」
「だって、落ちたら嫌だ」
 ブランコが揺れるたび、少女の長い髪が宙に広がる。ほんとうに、細くてしなやかで、綺麗な髪。
「遠くに行くの好きなの?」
「うん、だいすき。知らないけしきみるの、わくわくしない?」
「……うん。そう、かなあ」
 あいまいに返事をする。どちらかというと、徹は家に居るほうがいい。
「で、いつも行った先でみつけた公園で、うたってからかえるの。きねんなの」
「歌。上手いよね」
「音楽で五もらったのよ。ほめてもらった」
「そりゃすごい」
 そういえば彼女は幾つなんだろう。
 徹は少女の年齢を知らなかったことに気がつく。見たところは、十才くらいに思えるけれど。
「小学校……四年くらい?」
「ぶー。五年でしたー」
「ちっちゃいねえ」
「すききらい多いから、大きくならないって言われる」
「そりゃあ駄目じゃん。直さないと」
「うん、でも、べつに大きくならなくってもいいやあ」
 徹は苦笑する。笑いながら、空を見上げる。紫に近いピンク色をしている。
「……小学校五年かあ。いいなあ。小学校のころに戻りたい」
「なんで?」
「なんかさ……やり直したい。結構いっぱいあるわけよ、もしもあの時こうしとけば……とかさ」
「そういうのはしちゃだめなんだよ」
 少女は急に強い口調で言った。
「もしもの話とか、むかしのことでなやむとか。してたら、くろい飛行船につれて行かれるんだ」
「それ、誰が言ったの?」
「学校ですごいうわさになってるんだよ。先生が言ってたって」
「きみんちの方も飛ぶんだ……」
「そりゃあとぶよ」
 言うと、少女は大げさに首を振った。
「あああ。こわい、こわい」
 どうやら黒い飛行船は、現在の子供たちにも恐怖のイメージをもたらすらしかった。
「あー」
 徹はブランコを漕ぐ力を弱めながら、言った。
「ごめん、止めて。……ちょっと疲れた」
「うん」
 少女はまた、靴の踵を土まみれにしてブランコを止める。同時に徹が飛び降りる。
「うわあ、何だかすげぇ久しぶりだった、こういうの」
 笑いながら言って、腕を大きく回して見せた。
 どこからともなく、カレーの匂いが漂ってくる。
「そろそろばんごはんだねえ」
 少女がぽつりと呟く。
 きつい焦りが徹の胸元にせりあがってくる。ここで別れてはいけない、と思った。もしもここで別れたら、少女は帰り道、事故で死ぬのだ。
 もう二度と会えない。
「あのさ」
「んー?」
「えーと……」
 しばし考え、
「……うち、寄ってく? すぐそばなんだけど。飯食って帰りなよ」
「やりぃ」
 少女はにいと笑った。
 帰り道、徹は少女を自転車の後ろに乗せて走った。彼女の身体は軽く、自転車は飛ぶように進む。腰にしがみついた彼女の温もりが、染み込むように伝わってきた。奇妙に気持ちが上ずって、徹は居心地が悪かった。不安を覚える。どこから来るのかよくわからない不安に、かすかな罪悪感が滲む。
 結局買い物に行かなかったので、マンションの下の自販機でそれぞれの飲み物を買った。徹はコーヒー、少女はオレンジジュース。
 四階までの階段を、彼女は元気に駆け上がって行った。徹は必死で追いかける。視界から消えたが最後、少女はもう戻ってこないような気がしたから。
 部屋に入ると、少女は真っ先にベランダに駆け寄った。
「わあ、ジャングルジムが見える」
「真裏なんだ」
 徹は明かりをつけてから、少女の後ろに立つ。蛍光灯に照らされて、薄っすらと茶色がかって見える少女の髪を見下ろす。
 そして、かすかに震える手で、触れてみる。
 やわらかな感触。
「……染めてる?」
「ううん、べつに」
 繰り返し、頭をなで、指の先でさらさらと髪を梳く。
「なあに?」
「いや……」
 だんだん頭がぼんやりしてきて、徹はそのままゆっくりと、手のひらの全体で肌を包むように、外気にあてられて冷たい頬を、ほのかに温かい首筋を、撫でる。
 指の先があごの下まで来たとき、少女がくっと徹の手をつかんだ。抑えた動きで、しかし、否応なしに引き剥がす。
「なあに?」
 振り返って微笑む彼女の顔には、徹があまり見たことのない類の笑みが浮かんでいた。さくりと胸に刺さる、刃物めいた不穏な笑顔。

「このへやからまいにち子どもをみてるの?」
 徹は冷蔵庫から鍋を取り出す。少女は居間のソファの上で、膝を組んでテレビを見ている。あまり子供向けとは思えない、オーケストラの大仰な音色が聞こえる。
「みてるんだあ」
 少女は徹のほうを見ない、ただ、楽しげな、というには奇妙に粘り気のある口調で、徹に向けて言葉を紡ぐ。
「そりゃあ、毎日子供は来るし……見てたら、なんなの?」
 ガスの元栓を開けて、点火してから弱火まで絞る。冷えたクリームシチューは硬いので、木べらを使って混ぜる。
「あーあ、かくしたって、しょうがないのに」
 あかるい、あかるい、少女の声。
 吐き気がする。
 徹はわからない。この子は何を言っているんだろう? 隠すって、何を? 身体の震えが止まらない。
「わかってるのに、考えないようにするのね」
 かすかなオーケストラの音色。クラリネットのソロのメロディ。徹は気がつく。これは、よく聞くフレーズだ、小学校の音楽の授業で教え込まれた……彼女がさっき歌っていた。
 沈黙。
 シチューがふつふつと煮立ちはじめる。
「さっきね」
 びく、と徹の肩が震え、木べらが手から離れてしまう。かたん、と乾いた音。
「……何?」
「さっき、あたしの頭をなでて、それから、首をなでて、服のしたをさわろうとしたんでしょ?」
「……」
「それで、ブラウスを脱がせて、床に寝かせて、スカートも脱がせて、それからしたぎも脱がせてさ」
「あの、おまえ、いったい、何を」
 徹は笑おうとするが、できない。また吐き気がこみ上げてきて、両手で口を覆う。
「それもすぐ脱がせたらつまらないから、ゆっくりしようって。はだかにして、どれくらいきれいだろうって思ってたでしょう。それから、好きなだけ眺め回して、なめまわして、どんな味がするかなあ、すこし塩辛いのか、もしかしたら甘いような気もする。それで、そのあとのことも考えてたでしょう」
 懸命に押し込めて、厳重に蓋をして鍵をかけ、心の奥の奥に沈めておいたはずの徹の想いを、妄想を、少女は一言一句違わずに読み上げる。
「あのさ、やめて?」
 徹は少女を振り返る。さっきとよく似た奇妙な笑みを見つける。
「きもちわるうい」
 くすくすくすくす、と笑う。
「さいあく。甘いなんて、あたし、おかしじゃないのにね。いやだあ」
 肩を震わせて笑う。
「シチューほうっといていいの? こげちゃうよ? もすこしおはなししてあげようか?」
「よしてくれ、やめてくれ!」
 徹は叫ぶ。頬を汗が垂れて落ちる。
「みたくない? しりたくない? 自分のことなのに!」
 少女は立ち上がり、ゆっくりと徹のほうに歩いてくる。一歩踏み出すごとに、その姿が大きくなるような、錯覚。ずん、ずん、ずん! しまいには、徹の背たけを抜いて、見上げるほどに、大きくなっていく。部屋が歪み、白い天井が、天井についている蛍光灯が遠くなる遠くなる小さくなる。少女がこちらをぐいと覗き込む。悪魔のような笑顔が、巨大な笑顔が、迫ってくる。
「ああああああああ……」
 徹は恐怖する。崩れ落ちてしまいそうな気持ちで、視界の端に、乾燥機に放置された包丁を見つける。夢中でそれを取り、肥大化する少女に向けて、突き出す。
 ずぶり、腕が気持ちの悪い湿ったものに呑み込まれるような感触とともに、生温かい液体が吹き出して徹の身体を濡らした。
 瞬間、すべてが押し縮められ、正常なかたちに戻る。
「うわあっ!」
 ひっくり返った声を上げ、徹は手を離した。のけぞった拍子に足がもつれて、しりもちをついてしまう。そこへ追いすがるように少女の身体が、小さな、華奢な身体が崩れ落ちた。
 床の上に、ゆっくりと広がっていく血溜り。ひどく濃密な鉄の匂いが漂う。真っ赤に染まった背中から、刃の先が見えていた。
 少女の髪が、細い手足が。徹の脚が、まだ温かな血の中に浸る。
「あ……あ……」
 手のひらに目をやると、手首までべっとりと赤く、まるで別の生き物の手のように思えた。
 ずずずずずず、と尋常でない音がした。一瞬、何の音かわからない。耳がおかしくなったのかと思う。
 ややあって、鍋に思い当たった。
 徹はふらふらと立ち上がり、コンロの火を消す。湯気が、周りが見えなくなるほど派手に立ち昇った。コンロのつまみに血がついて、湯気の中でさえひどく目立って見えるのが、とても嫌だった。
 どう……というような音が遠く聞こえていた。黒い飛行船が、まだどこかで飛んでいるのかもしれなかった。けれど、外はすでに暗い。
 立っていることができずに、徹はまた座り込んでしまう。どこに触れても血がつくのが、どうしよもなく勘に障る。
 洗おう。
 霧のかかったような、はっきりしない意識の中、そう思った。
 あれは、あの子があんなに汚れているのは、いけない。ぜったいに、いけない。
 徹は動かない少女に近寄ると、仰向けにして、見開いたままのその目を閉ざした。ブラウスを脱がせて、スカートを脱がせて、下着を脱がせて、裸にした。ちょうど左胸に包丁の柄が突き出して、ちょっとやそっとでは抜けそうにない。

 何でこんなことになってしまったんだろう?
 冷え切った自分の部屋で、ひとり毛布を被りうずくまったまま、徹は意味もなく問い続けている。
 窓の外は少しずつ、夜明けの青い色に染まり始めている。
 少女の死体は居間のソファの上に横たえた。
 思考を働かせるのが恐ろしかった。身体を動かすことも恐ろしく思えた。全てに対して目を閉ざし、何も見ないまま何もしないままずっとこうしていたかった。その内誰かが、外から来た誰かが、この事態を見つけて動かしてくれることばかり、考えていた。
 チャイムが鳴った。
 まったく突然のことだった。意味を成さない声が徹の喉から漏れる。
 鉄のドアの開く音。ぎし、ぎし、廊下の床板がきしむ。父親の足音みたいだ、と徹は感じる。長いこと聞いていない音。
 世界が揺らぐ、眩暈に似た感覚。ゆらあ、と。夢を見ているような気がする。
 するすると、引き戸が開いていく、ひそやかな音がする。
「アサギ、トオル?」
 外国人のような変わったイントネーションで、名前を呼ぶ声がした。徹は被っていた毛布の下から、声の主に目をやる。
 異様に大きな革靴と、カーキ色のコートの裾が最初に見えた。視線を上げていく。男だ。チューリップハットを目深に被った男。
 ひどく老けているようにも、まだ若いようにも思えた。薄っすらとひげを生やしているようにも、またまったく生えていないようにも見えた。陽炎のように揺らぐ、印象のはっきりしない顔。
「未成年者略取、監禁、暴行、及び殺人の疑いで逮捕する」
 不思議なことに、その言葉はアナウンサのように正確に発音された。徹の身体から力が抜ける。ああ警察だ。やっと警察が来た。これから連行されるのだ。
 それにしても罪状がいっぱいあるなあ、と思う。これでは死刑だろう、とも。
 両手首につけられたのは、手錠ではなくごそごそとした手触りの麻の紐だった。変だとは思ったが、しかし、どうでもいいことにも思えた。
 徹の左の手首から伸びた紐を引っ張って、男は彼を連行した。まるで犬を連れ出すように、あるいは引きずるように。
 マンションの廊下に出ると、冷え切った空気が頬を刺した。霧が出ている。町並みが青白く霞んでいる。
 エレベータの修理は終わっていた。張り紙は取り外され、場違いに思える黄色い明かりがこうこうと灯っていた。二人が乗り込むと、エレベータはひとりでに動いた。
 一階に到着するまで、ずいぶん長い時間乗っていたように思う。途中で徹は、自分を乗せた箱が永遠に下降していく錯覚にとらわれる。その所為で余計に時間の感覚がおかしくなる。
 マンションの前には白い、平たい乗用車が停まっていた。男は徹を後部座席に乗せ、それまで握っていた紐の先を、助手席の、頭の位置するところのすぐ下側にくくりつけた。それから運転席に乗り込むと、エンジンをかけた。
 車はすべるように走り出す。
 通りは無人だった。徹の乗る車のほかに、動くものは何もいない。バイクも、人も、いない。まるでそれを当然とするかのように、車は信号をまるきり無視して進んだ。徹は窓に頭をもたせかけて、次々に流れていく街灯の白い明かりをぼんやりと見つめていた。
 ふと、警察署が見えた。ゴシック体で何か標語の書かれた垂れ幕が、さっと目の前を通り過ぎていった。
「……どこへ行くんですか?」
 半ば呟くように尋ねる。
 答えが返ってくることなど、徹はほとんど期待していなかったが、運転席の男ははっきりした口調で言った。
「川だよ」
「川……」
 やがて車は堤防までやってきた。坂を登ると、急に空が広くなった。霧のせいか、白く、妙に平坦な感じがした。何も映っていないスクリーンのよう。
 しばらく堤防の上を走ってから、反対側へ降りる。
 停車。
 男が先に降りる。徹の紐を外し、右手に持ち、言う。
「さあ、降りなさい」
 言われたとおりに徹は車を出る。ごろ、と、大きめの砂利を踏む感触。徹の知っている河川敷ではない。
 川は目の前だった。
 見たこともない幅だった。大量の水をたたえて、悠々と流れている。向こう岸は霧に霞んで、見えない。
 少しはなれたところに筏が繋がれていた。白いワンピースを着た背の高い女が、その上にぼうぜんと立っていた。

 男が筏を漕いだ。ほとんど揺れることはなかった。
 徹は男の後ろに座った。麻紐を握っているのは今は女で、彼女は筏の縁に座り、脚を水にひたしたままぼんやりと自分の膝を見下ろしている。
 形のよい手足は長く、細い。つややかな長い髪。死んだ少女によく似た、しかしおそらく、年齢は徹よりも上であろう、女。
 静かな流れの上を、霧がゆっくりと渡っていく。
「どこへ行くんですか?」
 徹はもう一度尋ねてみた。自分の背よりも大きなオールを動かしながら、男は答えた。
「飛行場だよ」
「飛行場?」
「そう、この上流に飛行場がある」
「……飛行場……」
 目を凝らすと、霧の向こうにかすかに、岸らしい影が見えた。出発した側の岸なのか、それとも反対側の岸なのか、徹にはよくわからない。その奥に、まだ何かがあるような気がする。
 身じろぎをすると、くっ、と腕が引っかかる感触。女は、徹の手首に巻かれた麻紐の先を、華奢な手に似合わない、ひどく強い力で握っていた。
「自分の所為で存在できなかった非‐存在に捕まえられる感じはどうだい」
 わずかに笑いを含んだ声で男が言う。
「存在……」
「トオル」また、あの奇妙な発音。「もし君が彼女を殺さなければ……この女は存在を約束されていた。この女は君を恨んでいるよ。すべての可能性が絶たれた中で宙吊りになった非‐存在だ。闇に消える前の残像。トオル、君が殺したものは、ひとつ、ではない。君が消去したものは君が思っているよりも膨大だ」
 男の言葉の意味を、すべて理解できたわけではなかった。それでも、ざくざくと胸を抉られるようないたみを覚えて、徹は声を出さずに泣いた。
 最後に見た、少女のあざけるような笑みを思い出す。
 残酷な言葉を思い出す。
 徹の見たくないものを全て抉り出して曝して目の前に並べ立てた少女。
「彼女は何も、何も、悪くない」
 男は唄うように言う。
「彼女はただ、鏡のように素直に、君の心を映しただけじゃあないか。そうだろう。君が直視できなかったんだ。それだけのこと」
 起き上がっているのが辛くなり、徹は筏の上にそっと身体を横たえた。
 とぷん、とぷん、かすかな水の音が聞こえる。
 それに混じって、女の声がする。意味を成さない、絶え間ない、呟き声。ひとりの声ではないような気もする、何人もの呟きが溶けあって、渦を巻いて、漂う。ごそごそと意識に絡みつく。麻紐のように。そのうちにそれが女の声なのか、男の声なのか、誰の声なのか、わからなくなってくる。徹自身の声にさえ、聞こえてくるのだ。
 声に絡みつかれながら、徹は空を見ていた。青白い空。マンションを出てから、というよりは、男が家を訪ねてきてから、まったく空の色が変わらない。
「さあ、ついた」
 男の声。
 同時に、ごん、と強い衝撃。
 やわらかな、湿った草の匂いがして、徹は引きずるように重い身体を起こす。霧の中で、濃緑色の草原が、静かに波を立てている。
 川に似ている、と徹は思う。
 男はオールを筏の上に置くと、岸へ飛び移った。
 女が音も立てずに立ち上がり、男の後に続く。彼女に引かれて徹も上陸する。
 三人はしずしずと、巡礼のように、踝ほどの丈の草を踏みしめて歩いてゆく。
「ここが飛行場?」
「そう」
 どこか遠くで、鴉の鳴く声がする。
 霧の奥の奥、ぼんやりと巨大な影が見え始めた。前に進むにつれはっきりしてくる、黒い、魚に似た楕円形の、影。否応無しに不安を呼び起こす、ずいぶん幼いころから徹の瞼に焼きついた姿。
 飛行船がどこから飛ぶのか、徹は初めて知った。
「……もう五分ほどで着くかと。用意は出来ていますか。どうぞ」
 ざく、ざく、大きな足で地を踏みしめながら、男はいつのまにかトランシーバを右手に持ち、話をしている。
 ざらざらとした雑音しか、徹には聞こえない。だが男のほうは、相手が何を言っているのかきちんとわかっているらしい。
「そうですか。では急ぎます。……は、……ですか、状況は如何でしょう」
 どうぞ、と男が言ったときだった。急に何かに気づいたように、女が立ち止まった。徹はあやうく、彼女の背にぶつかりそうになる。
「どうした?」
 男が問う。はっきりしない顔を女に向けて。
 女は何も答えず、ひらりと徹を振り返る。
 瞬間。
 強い強い風が一陣、どう! と音を立てて吹き抜け、女の髪を、白いワンピースの裾を、乱して広げて、霧を動かし、一瞬にして前後左右の感覚が失われ、男の姿はかき消える。
 その中で、徹はたしかに少女の目を見た。女のものではない、まぎれもない幼い少女の目、こちらを見据える少しきつい眼差しを、澄み切ったその瞳を見た。
「……!」
 何かを叫ぼうとするけれど、声にならないままに。ぐいと手首を強く引かれ、徹は転がるように駆け出している。
 目の前を、飛ぶように駆けていく少女の姿が見えた。霧に霞むその背中を追いかけて、決して見失わないように、徹は力を込めて草を蹴った。
 走るうちに手首を縛っていた麻紐が緩み、するすると解けて霧に溶けるように消えた。
 戒めを解かれた少年は両腕を思い切り振って駆ける。

 たどり着いた川岸に、筏はもう無かった。音もなくゆったりと流れる水面を前に、徹と少女は並んで立った。二人とも息が切れていた。
「飛行船は、おばけだよ」
 少女は言う。
「<あったかもしれない未来>に巣くってゆがめるのよ。わなを張るの。それで、それを想う人を捕まえて、さらうのよ」
「どこへ?」
 徹は尋ねる。
 少女はだまって空を見上げる。徹もついて見上げる。空は相変わらず青白く、その向こうに何があるのかまったくわからない。
「だから、あのときもしこうしていたら、なんて、考えちゃだめ」
「だけど……」
「おこったことは変えられないの。受け入れるしかない」
 徹は何も言えずに、少女を見た。綺麗だな、と思った。その眼差しも、上気した頬も、唇の形も、美しかった。
 何の引け目も無く、ただ真っ直ぐにそう思った。
「僕は……生きててほしかったんだ」
 生きていて欲しかった。幸せでいて欲しかった。何の辛いことも悲しいことも知らずに、彼女が生きていけたらよかった。
「……ごめんな」
 徹は言った。少女の頭を、震える手でそっと撫でた。
「ほんとに、ごめんな……」
「いーよ!」
 まるで、他愛ない喧嘩の仲直りをするように。少女は言って、にい、と笑った。
「じゃあ、さよなら」
 再び風が吹いて、霧が動いた。少女の姿はかき消えて、後には徹がひとり残された。
「さよなら……」
 声を出さずに、呟いた。
 周囲の色がゆっくりと戻り始めていた。青色が薄らぐ……夜が明ける。
 ざわざわと水の流れる音が聞こえるのに気づき、徹ははたと辺りを見回す。
 いつしかそこは見慣れた河川敷になっていた。浅い川は、下流で白く泡を立てて流れていた。霧の向こうには対岸の堤防が見える。
 徹は濡れた頬を右手で拭う。くすん、と、知らないうちに鼻が鳴った。

FIN

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