『アカヒメ』

『アカヒメ』

著/恵久地健一
絵/踝 祐吾

原稿用紙換算55枚

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 自宅マンションの仕事部屋に立つヨゥコは真紅の携帯電話を片手に、ほぼ全裸の格好でメールを打ち込む。
 生まれたままの姿に加え二十七年の歳月が女性らしい曲線を作り上げた、細身の肢体である。パンツも穿かず、南国の無人島で全身を太陽の下へさらすような解放感でエアコンの冷気を浴びている。
 めるめると、完成したメールを送信。
〈ねぇ、イヌクン/悪魔と契約したんだけど、とりあえず何をやればいい?〉
 手紙とポストのアイコンが消えた携帯電話を閉じたヨゥコは、股間に貼りついた自前の毛を見下ろし、ふっと期待に満ちた笑みを浮かべた。



 数時間前――
 横幅にして、およそ三メートル。奥行きのない閉鎖的な空間である。
 仕切りをへだてた浴室と隣接したトイレの中で、ヨゥコこと赤瀬洋子は人生において最大級の危機に直面していた。
 淡いクリーム色の洋式便器を眉根にシワを寄せた難しい表情で見下ろし、腰に手を当て、半裸の姿で立ちつくす。
 メラニン色素の少ない日陰育ちの白い足に鋭角の三角形にカットされた、黒いパンツ。上の裸身も同様に、日を浴びていない白い肌はロウソクのツヤを思わせる。脂肪分の少ない胸囲のなだらかな球形の境界線を際立たせるピンク色のゴム質は、二枚のヌードブラである。
 作家にして漫画家という室内系ジョブの二刀流をこなす彼女は外出の頻度が少なく、服装にも気を使わない。まして今のように夏場の自宅ではノーブラでいることも珍しくないが、今日は午後に出版社の人間が原稿を取りに来るため、かろうじてブラをつけている。
 締切の当日というのも問題といえば問題だが当面の危機に比べれば、そんなもの彼女には日常茶飯事である。
 ヨゥコはパーマを当てた髪を片手でかき上げ、ため息を吐く。二週間前に美容室で「アンジェラ・アキみたいに」と注文した長い髪は手入れをさぼり気味の現状でも、美容師の技量とパーマ技術により綿毛状のカールを維持している。
「まいったなぁ。パンツが脱げないと、こういうトラブルが起きるのか」
 ひとり呟き、パンツを穿いたまま便器の上にどかりとお尻をのせる。
 そう、パンツが脱げないのだ。
 問題はその現状で、彼女が尿意に耐えていること。否、突きつめればそれも問題とはいえない。大きい方ならまだしも小さい方など、我慢の戸口に鍵をかけるぐらいなら、パンツを穿いたまま解放することもためらわないのが、ヨゥコという女である。まして自宅のトイレというフィールドであれば、床を汚したところで誰が困るわけではない。
 だがそんな女傑であるところの彼女がそれを実行できない背景には、パンツを汚せない理由がある。その黒いパンツは彼女の所有物ではないのだ。他人のパンツをしかも無断で穿き、どうしたわけか脱ぐことができない。その上さらに、おしっこがしたい。
 それが問題だった――



 状況を説明するため、さらに早い時間の朝へ話を戻す。とはいえ前日の夕暮れに起床して夜通し原稿を描いていた彼女からすれば、一日のはじまりではなく昨日の後半に過ぎないが。
 彼女の職場にして自宅である、一LKマンション『ベルフォーレ猫がしら』の一階、一〇一号室。六帖の洋室に書棚や机を配置した仕事部屋。
 イスに座るヨゥコはスウェットズボンにTシャツという格好で机に向かい原稿を仕上げていたが、完成まで残り一枚というところで、手を止めた。〈後に回せることは今やらない。最後まで頑張らない〉というのが彼女の生き様にかかげられた、座右の銘である。
 ヨゥコは小休止とばかりに素足でイスから落ち、床の絨毯に胴体着陸する。体を丸めて寝そべる視線が見せたのは、窓辺の床に積まれた洗濯物の山だ。
 おとといの夜、マンションのとなりにあるコインランドリーで洗濯して持ち帰り、袋から出したところで満足して床に放置したのだ。洗濯物を片づける気分が動き出した彼女は、のそのそと床の上を四つん這いで移動する。
「悪いひとたちがやって来て♪ みんなを殺したぁぁ――」
 ヨゥコは夜明けの心地よい気だるさでブランキー・ジェット・シティーの『悪いひとたち』を小さく口ずさみながら、あぐら座りで洗濯物を片づける。
「女たちは犯され♪ 老人と子供は燃やされた――んっ? この高そうな黒いのは、ボクのパンツじゃないような」
 洗濯物の山から出てきたのは一枚の黒いパンツだった。それが後に人生の転機をもたらすフラグとも知らず、彼女は薄地の三角形を片手に持ち上げ、しげしげと目の前にかかげた。
 とはいえパンツが混入したことには彼女自身も洗濯物を引き上げたときに気づいていた。持ち主の見当もついていたのだが、それを返すという行動が実行されず後回しにされたわけだ。
「あぁそうか、ミキサンのだ」
 ミキサンというのは彼女の部屋から斜め上に住む二〇二号室の女性だ。表札の表記は、湯谷。下の名前は美姫と書く。
「返すにしても、むき出しのままは持って行けないか。袋か何かに入れてカモフラージュした方がいいのか?」
 ヨゥコはパンツを裏返し、製品表示のタグを子細に眺め、思案にくれる。
 多くがひとり住まいの『ベルフォーレ猫がしら』において、ヨゥコよりふたつ年上のミキサンこと湯谷美姫も独身であり、となりのコインランドリーをよく利用している。ヨゥコが出かけた夜も、入れ違いで洗濯機を回していたのが、ミキサンだ。そして彼女と同じボックスに洗濯物を放り込んだヨゥコは、中に残された黒いパンツを発見し、自分の洗濯物と一緒に持ち帰ったのである。
「今の時間だとミキサンは仕事か。というか、今何時だ?」
 サンづけの愛称で呼ぶように、赤瀬洋子と湯谷美姫の両者は、おおむね親しい関係にある。というのもミキサンは近所の美容室で働いており、ヨゥコはそこの常連客である。彼女がヨゥコの髪を整えることもある。ただ美容室で会話することはあっても、おたがいに外へ呼び出して遊ぶほどの関係ではない。
 それでも、おなじマンションの住人では唯一ヨゥコが交流を築いた人間といえた。元々がいくら自分に有益をもたらす人間でも、興味がなければ会話もろくにしない性格なのだ。
 人嫌いとは少し違う。好みの男性店員がいる本屋で本を買い、わずかな買い物でも好みの女性店員がいるコンビニまで出かける。彼女の思慕は打算のない純粋な親愛に直結しており、ひとつ年下の元恋人で、現在は印刷資材会社の営業マンであるイヌクンこと犬桧夏雄は「超自我で行動する人」と評している。


 携帯電話の画面に表示されたデジタル表記の時刻は、八時二十三分だった。
 机の上に携帯電話を置いたヨゥコはパンツを手にしたまま立ちつくし、天井をあおぐ。視線は斜め上、ミキサンの部屋がある位置だ。電話で伝えてから渡した方がいいのかと、彼女はミキサンの顔を頭に描きつつ考える。
 肩口までのストレートヘアに麗人たる顔立ち。均整の取れた長身に、美容師のエプロンをぱりっと着こなす姿はクールビューティと形容するにふさわしいが、話す口調はおだやか。ヨゥコの『お気に入り人物/ご近所部門』でも、かなりの上位ランカーだ。
「……とりあえず穿いてみるか」
 思案の末、彼女の頭脳から飛躍した結論が打ち出される。方針が決まれば行動は早い。ズボンとパンツを一緒に脱ぎ、ついでにTシャツも脱ぐ。ミキサンのパンツに足を通し、お尻のデリケートラインにパンツの位置を調整する。
「おおおぅ。なんというか、おそるべしフィット感」
 裸身にパンツを穿いたヨゥコは壁際へ置かれた姿見の前へ移動し、鏡越しに自分の体を眺める。ときおり「ほほぅ」などと頬を紅潮させて唸り、体のポーズを変え、鏡の前でくるくると回る。
「うーん、これは撮影しておこうか」
 べつに自分の恥ずかしい姿を撮影して公開する趣味があるわけではない。彼女は創作の資料を撮影するためにデジタルカメラを所有している。姿見にしても外見を気にするより、漫画を描いたさいに登場人物のポーズを確認する目的で使われることの方が多い。
 ミキサンのパンツを穿いたのも単純な興味と好奇心であり、セクシャルな意味合いはない。あるとすれば憧れの対象を身近に感じたいというフリークスの願望だが、それでも好意の対象が無差別なだけで特殊な性愛癖があるわけではない。
「毛は出てないよね」
 ヨゥコは両足を開き気味にして首を下に向け、股間を覗き込む。途端に顔の紅潮が首筋まで広がり、鎖骨のあたりまで肌に朱が差す。自分の赤裸々な姿を色々な人に見られるストリッパーの気分を想像し、ふいに自意識過剰気味の羞恥心が湧いたのだ。
「服着よ……」
 恥じらいに誘発された欲情から、セクシャルな獣が穴ぐらの奥で頭をもたげるのを感じ、ヨゥコは元の服装へ着替えることにした。
 異変に気づいたのはその直後だ。
「ん? きついのか」
 ヨゥコは腰と首をひねりパンツの穿き際に視線を向けるが、肌に食い込んでいる様子はない。だがどうしたわけか、生地が肌と一体化したように貼りつき、脱ごうにも指に引っかかりがない。
「ふんぅ、高い下着だとこういうもんなのかね。暴漢に脱がされにくい淑女仕様とか、肌との一体感とか」
 ただマイペースな性格の利点として、彼女はこうした事態に動じることを知らない。いかなる事態であれ、自分が体験していることなら異常でも不思議でもなく、実際に起こりえる正常な現象としてとらえてしまうのだ。
 たとえば目の前に天使が現れ「今から一時間後に世界が滅びます」と告げたところで、彼女なら「へぇ」と一言で応え「じゃあ、それまでボクと一緒にゲームでもやらない?」などと返すだろう。
 とはいえパンツが脱げないのは、いささか彼女を困惑させる事態ではあった。
「何だろ、べつにヒモで穿いているわけじゃないし。脱ぐ方法があるのか?」
 パスカルの原理により内気圧と外気圧の差で炊飯器のフタや、お味噌汁のフタが開かなくなる現象。水をぎりぎりまで入れたコップに紙のハガキでフタをすると、逆さまにしても表面張力の影響でハガキが取れず、水が落ちない現象。
 などと独自の物理法則を並べ、ヨゥコはパンツを脱ぐ方法を考察してみるが解決には結びつかない。指で引っ張れば生地は肌から浮くのだが、腰に穿いた部分が動かないのだ。
「あ、まずい。トイレ行きたい」
 そうこうしているうちに尿意を感じ、パンツが脱げた場合すぐ処理できることを考え、とりあえずそのままの格好で仕事部屋を抜け出し、問題の解決をトイレの中へ持ち越したのである。



 ワイド型テレビ画面ほどの大きさがある水槽の底に浅く泥が敷かれ、水中に揺らぐ水草の間を一匹のウナギが脊椎をくねらせ、ゆるやかに泳いでいる。
 下着姿のヨゥコはその様子を眺めながら、彫像のように便器へ腰かけていた。ウナギは彼女のペットだ。バスルームの脱衣所に置かれた水槽の中で飼育し、その生態をぼんやりと観察しながら用を足すのが彼女のトイレ習慣だった。
 著名な彫像、オーギュスト・ロダンの『考えるひと』は造型の美しさを表現するためのポーズで実は何も考えていないという話だが、彼女の頭脳は問題の解決へ向け明確に思考を働かせていた。
「そういえば内田春菊先生の漫画に『呪いのワンピース』ってあったな」
 一枚のワンピースをモチーフに、それを着た女性たちが、さまざまな狂気に取りつかれ、あるいは脱ぐことができなくなり発狂するというホラー漫画だ。
 さすがのヨゥコも呪いの存在は認めていない。少女時代に嫌いな男性教師の毛髪を手製のワラ人形に仕込み、ためしに極太のクギを打ち込んでみたが、男性教師の体には何の影響もなかった。以来、彼女の中で呪いはフィクション上の存在として認識されている。
 だが理由はどうあれ、彼女の穿いたパンツはまだ脱げない。用を足すこともできない。両脇の裏にある毛穴から、暑さとはべつの汗が出る。
「切っちゃえばいいんだよな……」
 解決策はすでに出ていた。ハサミでもナイフでも、パンツの生地を切るなり破くなりすればいいのだ。
 それでも、しかしだ。やはり他人の所有物であることが倫理的な葛藤を生む。まったく知らない人間なら彼女は気にしないが、顔見知りの持ち物である。
「うー、どうすっか、な」
 顔にわずかな苦渋を浮かべ、両足の指をもじもじと擦り合わせる。下半身の方も、そろそろ忍耐力が極限に近い。
 人間である以上、彼女にも我慢の限界はある。どうせ下着を汚して穿けなくするなら、切って駄目になるのもおなじだろうと誘惑をささやく声がある一方で、我慢を続ければふいにパンツが脱げて解決するかもしれないという希望的な観測も胸の奥にある。
「よし、切って知らばっくれよう」
 やおら決意を固めてヨゥコは便器から立ち上がり、トイレを出る。
「ミキサン、すまん」
 脱衣所の水槽に片手で手刀を切り、ミキサンに見立てたウナギに謝罪する。
 ハサミとナイフなら、彼女の仕事机に置かれていた。仕事部屋へ向かおうとバスルームを出た、そのとき。
 ――ピン、ポピン、ポン♪
 訪問を告げるチャイムが、バスルームを出てすぐ横の玄関で鳴り響いた。
「はい、はーい」
 ヨゥコも反射的に返事をする。
「すいません、二階の湯谷です」
 電話口で商品紹介をする女性オペレーターの落ちつきに好印象を加算したような声が、ドアの向こうから響いた。
「えっ……ぅえほっ、げほっ」
 瞬間、ヨゥコは動きを止め、出しかけた声が咳き込みに変わる。彼女が今穿いている、否、これから切り刻んで隠滅しようとしているパンツの持ち主――ミキサンこと湯谷美姫。
 突然の本人訪問にヨゥコはどうしたらいいか分からなくなる。玄関をへだてた鉄製の扉が威圧感を増す。自分の姿をあらためて確認すれば、今の彼女にそのドアを開けられるわけがない。
 思わず、その場から一歩後ずさる。判断のつかぬまま方向を変え、こそこそと足音を立てずに廊下を引き返す。仕事部屋のドアを抜け、ほうと一息。
「あーもう。何だろ、この漫画みたいなタイミングは」
 床に落ちたTシャツとスウェットズボンを拾い、急ぎ身につける。姿見の前で髪を手ぐしで直し、ウェットコットンで目の下と顔を拭く。机から対人用の眼鏡を取り上げてかける。近視気味の彼女は目を細めて目つきを悪くする癖があるため、人と会うときは眼鏡を利用する。
「……よし、頑張れ」
 身支度を整え、尿意を耐えつつ、ヨゥコはちからの抜けた声で自分を励まし、部屋を出る。返事をした以上、居留守は使えない。ほかの人間なら無視するところだが彼女の性格上、お気に入りのミキサンを相手にそれはできない。
「センチメンタルな北京ダック♪ 悲しげな顔もできずに死んだ――」
 歩行を鼓舞するマーチとして、後頭部の引き出しからブランキー・ジェット・シティーの『スイート・デイズ』が自動的に選曲され、ほとんど声を出さず口の形で再生する。歩く重心が股間に寄ると戸口の鍵が外れそうだ。
「そうしたら悪魔♪ 笑っていたよ頬紅つけて――」
 そして彼女は玄関の鍵を外し、ドアノブに手をかける。


 ドアを開けた先に立つミキサンは、美容室で働いているときとおなじ姿勢でたたずんでいた。
「ごめんなさい、こんな朝から」
 口調のおだやかさも変わらない。ただし服装は美容師のエプロン姿ではなく、光沢のある黒いシャツに白いズボン。黒い髪だけを見れば日本人の彼女だが、目の大きさや鼻の高さにコーカソイド系の血を感じさせる。鼻の形を三角に描く少女漫画のような顔立ちだ。
「本当にいきなりで、お仕事の邪魔じゃなかったかしら」
 彼女はヨゥコの職業が作家であることを本人から聞かされているのだ。
「あ、ぃゃ、全然……」
「じゃあ少しだけ、話をいいかしら?」
「ええ、大丈夫。全然」
 本当は危機一髪の状況だが、ヨゥコは動揺を後ろに隠しつつ、控え目に申し出るミキサンを玄関へ招き入れる。
 ヨゥコよりも身長のあるミキサンだが靴脱ぎ場の段差があるため、向き合う両者の視線はほぼ同じ高さだ。
「実は、聞きたいことがあるの。おとといの夜だけど、あなたコインランドリーにいたのをおぼえているかしら?」
 わずかに浮かない表情を見せ、ミキサンはお腹の前で手首を重ねるように腕を組み、用件を切り出す。
「たぶん、そのときだと思うんだけど、わたしの下着が一枚ないの。もしかしたら、あなた見てないかしら? わたしが空けた場所を使おうとしていたから、近くに落ちていたとか、中にあったとか」
 大ビンゴ――ヨゥコの背中に書かれた文字が〈絶体絶命〉の四文字に変わる。電車の線路に縛りつけられ、向こうから猛スピードで列車が来ている状態だ。
「下着、ですか」
「ええ、黒のショーツなんだけど」
 ミキサンの言葉を聞くたびに、ヨゥコの希望が次々と断たれる。まさか彼女も目の前にいる知り合いがそれを穿いているとは思わないだろう。あと一時間早く彼女が来れば、あるいは早急にパンツを切り捨てる判断を下していれば、少なくとも下半身の緊急事態は回避していたとヨゥコは後悔する。
「いや、どうだったかな。たぶん、見なかったと思うけど」
 髪の生え際から粘度のある汗が吹き出し、ヨゥコの頭皮から熱が奪われる。
「そう、ありがとう。ごめんなさい、くだらないことを聞きに来て」
「いえ、実はあれから仕事が忙しくて、あのときの洗濯物をまだ整理してないんですよ。なんで、ひょっとしたらボクの洗濯物に紛れているかも」
 ヨゥコは後ろめたさから早口気味に言葉を発し、会話を打ち切るタイミングを逃す。急にストローを挿した紙パック飲料からジュースがこぼれるように、人間は焦るとつい余計な言葉が出る。
「あの、なんで、洗濯物の中にあるかもしれないし、あとで探しておきますよ」
 歯切れの悪いヨゥコの言葉にも、ミキサンは律儀に微笑みを返す。発言をしていないときの彼女は実に魅力的な目をしている。相乗効果で顔の肌が透明度を増し、輝いて見えるのだ。それでもまだ、帰るそぶりは見せない。
 極限の状態も手伝い、会話を打ち切る言葉を探せないヨゥコは、メガネの下に人さし指を入れ、目の下をこする。
 基本的には傍若無人な彼女だが、その強さは他者への無関心さに起因する。外出もせず限られた部屋の中で限られた人間としか顔を合わせない生活のため、自我が強力に拡大している。作家である彼女にとって、外の社会は自分の創作した作品の世界よりも現実感がなく、関心がなければ石コロだろうと生命体だろうと同じあつかいだ。
 その一方、ミキサンのように対個人として認め、好意の対象として接点を作ろうとしている人間には弱い。自分のペースで徐々に自我の一部として取り込めればいいのだが、相手から距離を詰められると身動きがとれなくなる。
 ようするに純情というか、対話のスキルが好きな相手に意思を伝えることのできない子供並みなのだ。
 しばし沈黙のまま、いよいよ下半身の負荷に対するヨゥコの我慢が苦痛の域に達する。そして「あの」と先に話を切り出したのは、ミキサンの方だった。
「実は、もうひとつ話があるの。あなたならたぶん信じてもらえると思うけど。わたしにはあなたが、わたしの下着を穿いていることが分かっているの。それで今、困っているんでしょう?」
「えっ、まさか超能力者ですか?」
 冗談ではなく本気の口調でヨゥコは返す。彼女の中学生時代、同級生に他人の心を読み取る超能力者の少女がひとりいたのだ。少女と友人だったヨゥコは、当時その秘密を打ち明けられた数少ない人間であり、以来彼女の中で超能力は実在するものとして認識されている。
「いえ、わたしは悪魔だけど」
 ミキサンの言葉に、ヨゥコの脳内を冷たい風がひゅぅと吹き抜ける。
「ええと、悪魔を崇拝しているとかじゃなくて、神さまとか悪魔とかの?」
「ええ、悪魔です」
 美容室で「六千二百円です」と料金を告げるのと変わらぬ口調で彼女は返す。
 狂信者、毒電波、サタニストなどという単語がヨゥコの頭を埋めつくし、黒い虚構と混沌の渦から〈これは本物だ〉という光り輝く真理が浮かび上がる。
「てことは、ミキサンが悪魔で、やっぱり角とか羽が生えてるとか?」
 黒山羊の頭、コウモリの羽。
「ええ、角はないけど、羽と尻尾なら」
「それは、凄い」
 ヨゥコの自我がアメーバのようにうごめく。彼女は世界の胡散臭いものと如何わしいものを愛している。そして彼女の周りには、それらの存在が自然とあふれている。超能力、幽霊、怪物の末裔。宇宙人以外の未確認生命体と超常現象なら、だいたい過去に遭遇している。さらに、家に入れば新興宗教の勧誘に来た男性と話し込み、外に出れば救済の祈りを捧げる相手を探す女性に呼び止められ、一緒に近くの通行人を捕獲する。
 ヨゥコは多くの経験を通じて鍛えられた感覚から、「自分は悪魔です」というミキサンの言葉が真実であることを直感する。ヨゥコの目から見た彼女の表情と口調には、まがい物の明るさを取り繕う違和感がない。
 その認識が単純に、脳内の構造が少々エクセントリックな女流作家の主観に過ぎないとしても、目の前に存在するものさえ信じるこのできない人間の目に比べれば、正しい感覚といえるだろう。

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