『アカヒメ』(2)

前章へ←


 悪徳と魔性と美の人であることを自称したミキサンは、『ベルフォーレ猫がしら』一〇一号室の玄関にたたずみ、家主であるヨゥコへ次のように説明した。
「羽や尻尾があるといっても、この体は人間の姿を借りているの」
 彼女は自分の体を優しく抱くように、片手で服に触れながら話を切り出す。
「でもこの世界――わたしたちは辺土と呼ぶけど。ここには悪魔と敵対する神側の存在もいるし、中には感覚の鋭さから悪魔の実体を見抜く人間もいるの。それで今の方法として、人間の姿を借りた上に極小の魔力を込めた服を着て、悪魔の気配を完全に消しているわけ」
「はぁ、なるほど」
 ようするにボクの穿いたパンツにも魔力が込められていたわけか――とヨゥコは右足のすねで左足の太ももをこしこしと掻きながら、曖昧に頷く。
 気のないそぶりだが、彼女が悪魔だという話を疑うわけではない。興味がないわけでもない。逆に興味津々で色々と質問したいぐらいだが、いかんせん下半身の苦痛がヨゥコの気を散らせる。
「あなたがわたしの下着を脱ぐことができないのは、そこに込められた魔力が干渉しているせいね」
 見透かしたようにミキサンは告げる。思わずヨゥコは、ズボンの上からお尻に触る。悪魔は何でもお見通しだ。
「えと、じゃあ脱ぐにはどうしたら」
「それなんだけど、まさかわたしも穿かれているとは思わなかったし。まぁ、あなたが穿いた影響で、魔力を感知して探すことができたみたいだけど」
 それは本当にすいません――とヨゥコは顔を伏せ気味にして、もにゃもにゃと心の中で謝罪する。
「いえ、気にしないで。たぶん下着の魔力をわたしの魔法で打ち消せば大丈夫だから。ただもうひとつの問題として、わたしがあなたへ魔法を使うためには〈魂の契約〉を結ぶ必要があるの」
「契約、ですか」
 悪魔であるミキサンの能力なのか、もはや心に思うだけで部分的な会話が成立している。思考が筒抜けになるというのは通常なら非常に恥ずかしいことなのだが、ヨゥコの頭は目の荒いザルのように常識の束縛をふるい落とし、必要な真理だけをすくい上げる。
「悪魔がこの世界で魔法を使うのは、人間の求めに応じたときだけよ。過去の歴史を見ても、わたしたちが自分の意思で人間に魔法を使用した話は一部の例外を除いてほとんどないの」
「それは、そういう決まりごとでも?」
「決まりというわけではなくて、わたしたちの意識的な問題なのだけど。どう説明したらいいかしら」
 ミキサンは買い物を選ぶ主婦のように片手を顔に当て、わずかに考え込む。
「たとえば、そうね。あなたの目の前に瀕死のエビが落ちていたとして、そのエビを助けるために全力で介抱したり、遠く離れた海まで運んだりする人間はいないでしょう? 悪魔が人間に魔法を使うのはそれに近いことなの」
「ボクら人間は甲殻類ですか……」
「それぐらい意志の疎通に距離がある存在だということよ。魔法の行使はようするに、思念の作用だから」
「ふんぅ、シャープな見解だ」
 人類を無脊椎動物あつかいするミキサンの言葉もひどい口ぶりだが、ヨゥコは逆に悪魔らしい意見だと納得する。
 古来の奇書に記された人間と悪魔の契約は儀礼的なものではない。存在のかけ離れた両者の距離を埋めるための契約であり、魂の一部を媒介し、感覚を共有するものだと、ミキサンは説明する。
 だが契約の代償として悪魔が人間の命が求めることも、ヨゥコは奇書から得た情報で知っている。作家のはしくれとして、それぐらいの知識はある。ただそれはこれまで彼女の中で空想の産物として認識されていたものだが、今は現実として悪魔が目の前に存在する。
「あなた、だいぶ辛そうね」
「うん、ロッシの限界。でも、まだ大丈夫。前にトイレを我慢しながら二時間の戦争映画を見切ったことがあるし……」
 ヨゥコは壁に片手をつき、声を震わせながら尿意をこらえる。ミキサンはその姿を見つつも「そう」と、どこか上品さすら感じさせる口調で返す。
「それで契約のことだけど。べつに〈魂の契約〉は、あなたの命を奪うとか寿命を縮めるとか、そういうことではないのよ。代償を要求することは確かだけど。それはあなたの死後、わたしたち悪魔に協力してもらうだけ」
「協力、ですか」
 苦痛に耐えるヨゥコの目には、冷静なミキサンの姿が本物の悪魔に見えた。
「ええ、そう。人間の死後、魂には三つの選択肢があるの。人間に限らず、命を持つ存在のすべてに与えられる選択よ。ひとつは神側につくか。あるいは悪魔側につくか。そして、そのどちらも選べない場合は、もう一度この辺土に生まれて考える機会を得る。それは最後の命が選択を決定するまでくり返され、すべての魂が選択を終えたとき、次なる世界の覇権を賭けて悪魔と神の勢力による戦争がはじまるの」
「……あの、すいません。その話、まだ長くなりますか」
「簡単にまとめると、三つの選択肢がある中から『わたしが死んだときは悪魔側の勢力に入ります』という約束を、生きているうちにしてもらうわけ。スポーツ選手の契約みたいなものね」
「なるほど」
「悪魔が契約の代償に求めるのは、それだけよ。わたしたちは勧誘のために、こちらで活動しているセールスマンみたいなものね。承諾してもらえれば、あなたの求めるままに魔法を使い放題」
 うーん――とヨゥコは首を傾けて考え込む。途方もない話だが、彼女の人並み外れた想像力がそれを理解させる。
 理解した上で顔をしかめる。どうにも自分が死んだ後のことには興味がわかない。緊急の問題としてパンツを脱ぐことさえできれば、今の彼女に叶えたい望みはない。何より、好意の対象へ奉仕することを信条とする彼女だが、自分の領分を他人の方針や思惑で動かされることが大嫌いなのだ。
「決めるのは、あなた自身よ。これは強制でもないし、決められたルールでもない。その選択を今決めるか、死んでから決めるかの違いだけ」
 モンテーニュいわく『運命は我々に幸福も不幸も与えない』だ。
「うーん、実は今このパンツを脱ぐのにハサミで切ろうと思ったんですけど。このパンツを切ったり破いたりしたら、何か問題がありますか? その、弁償とかじゃなくて、魔法的なトラブルとかで」
「べつに大丈夫よ。素材自体は普通の繊維だから、ハサミで切れるだろうし。それに、弁償も気にしないで」
「じゃあ、もしボクがここで契約を断る場合、何かされたりします? 悪魔に関する記憶を消されたり、とか」
「いいえ。どちらにしろ、生きているあなたに危害をあたえることはないから大丈夫よ。あるとすれば、わたしがあなたの前からいなくなることぐらいね」
「えっ、それは困るな」
 ここではじめて、ヨゥコの天秤が大きく揺れる。天秤皿の傾きが〈取り返しのつかない死後の選択〉から〈ミキサンの存在〉に動く。
「実をいうと、あなたには前からこちら側へ引き込めそうな人間として、目星をつけていたの。それが今この機会で契約できないとなると、べつの場所でほかの人間を探さないといけないし。そこで契約者が見つかれば、わたしもその場所を動けなくなるから」
「それは、非常に困る」
 ミキサンがいなくなるだけでもヨゥコには大問題だが、さらに彼女をほかの人間に取られたうえ、契約者の望むままに色々なことをさせられるのだ。何も魔法に頼ることだけが望みの内容ではない。ヨゥコの想像力が、むらむらと働く。
「じゃあ、たとえば契約したとして、後で気が変わったときに、その契約を破棄することはできますか?」
「そういう場合は、あなたの周りにいる大切な人間の中から、魂をこちらへ勧誘する身代わりとして、誰かひとりを選んでもらうことになるわね」
 親兄弟、恋人、友人、大切な人間。その中から誰を身代わりにするかも、ヨゥコ自身が決めるわけだ。
「うーん、ひとりいるなぁ」
 彼女が真っ先に思い浮かべたのは、ひとつ年下の元恋人イヌクンの顔だ。
 早くに父と死別した彼女には、肉親と呼べる人間が母と兄しかいない。そのふたりとも、今は遠く離れた北の大地で暮らしている。できのよい兄が結婚を機会に仕事先の土地に家を建て、そこに母を呼び寄せたのだ。ひとりで関東圏に暮らすヨゥコから見れば、家族を大切な人間と呼ぶにはいささか距離がある。
「あなたの恋人?」
「今は元だけど、まぁ……」
 ヨゥコの方から「つき合いなさい」と告白して、ヨゥコの方から「しばらく別れなさい」と突き放したのだ。それでもおたがい、ほかの誰かでは代用のきかない存在であることは変わらない。
 ふたりの出会いは高校生時代にさかのぼる。それから十年来のつき合いになるわけだが、その間にはヨゥコの中で他人に知られたくない情報が多く含まれる。単なる恋人同士の秘密という以上に、他言できない話が色々とあるのだ。
「かけがえのない人というわけね」
「いや、そんないい話じゃないけど」
 ミキサンに読み取られないよう、ヨゥコは思考を打ち切る。少なくとも身代わりとして差し出すさい、ヨゥコが説得できる唯一の人間ではある。
「よし、契約しよう」
 かくして〈悪魔へ魂を売り渡した女〉がここに誕生する。ヨゥコはあっさりとした口調で告げ、ミキサンを見返す。
 彼女もまた「そう、ありがとう」と答え、ヨゥコの顔を見つめる。視線が真っ向から絡み合い、ミキサンは微笑を放射する。妖しさと快感、安らぎと悪戯を感じさせる、それでいて人間離れした正確な微笑だ。『モナリザの微笑』など比ではない。彼女に今「全部嘘よ」といわれても、ヨゥコはそれを信じただろう。


 そして彼女は、自分自身の体で悪魔の御技を目の当たりにする。
「上がらせていただいていいかしら?」
 ミキサンは強制力のある疑問形でたずね、シャツの両袖を肘までまくりながら靴を脱ぐ。ヨゥコは苦痛も相まって、首を縦に振る。アンモニアの小人たちが戸口で暴動を起こしている。
「もう少しだけ我慢して。すぐに下着を脱がせてあげるから」
 ミキサンは床に両膝をつき、ヨゥコの穿いたスウェットズボンを両手で掴み、下に脱がそうとする。その思いがけない行動に、ヨゥコは驚いて腰を引く。
「えっ? えっ、脱がせるってそういう方法ですか」
 そうした直接的なやり方を想像していなかった彼女は、どぎまぎと視線を下に向ける。ひざまずいたミキサンの顔が、股間の前にある。
「ええ。魔法で下着の魔力を打ち消すには、ほかの服が邪魔だから。とりあえず脱いでもらわないと」
「それなら自分で脱ぎます」
 ヨゥコは一歩下がって離れ、ズボンに手をかける。ひとりでいるときは平気で裸になる彼女だが、他人に服を剥かれるのはやはり恥ずかしいのだ。相手が男性ならまだしも、同性に服を脱がされる経験は少ない。去年の春に知人の女性に誘われ、レズビアンコミュニティのオフ会に参加して以来である。
「これは……もう、パンツを脱がせるより、魔法で時間を止めてもらうとかしないと、もたないかも」
 ズボンを脱ぐにも股間に重心をかけられず、両膝のバランスが微妙だ。
「それは難しいわね。時間そのものを止めることは、神にも悪魔にもできないことよ。できるとしたら、物体の動きに干渉して、少しの間だけ速度を遅らせることぐらいしか」
「それで時間を稼げますか?」
「ええ。時間系の魔法が使えるのは、悪魔の中でも魔神シェムハザイしかいないから、まず彼の協力が必要ね。ただ彼は隔離された特別な次元に住む存在で、そこへ行くために魔界にある十二の門を開く鍵が必要で――」
「あ、いや。取り消します。普通にパンツを脱がせてもらえればいいです」
 まさかこういうオチか――とヨゥコはズボンに次いでTシャツを脱ぎながら、不安を胸につのらせる。
「だいたいは、そうよ。わたしはただの使い魔だから、この世界では簡単な魔法しか使えないの。大がかりな魔法を使いたい場合は、高位の悪魔や大いなる存在の魔力を借りないと駄目ね」
 なるほど、そのたびに『神曲』のダンテが体験したような異界めぐりをさせられるわけだ――それもそうかと、ヨゥコは脱力しながら納得する。過去に悪魔と契約した人間が、簡単に世界をひっくり返す願いごとを何度も叶えていれば、もう少し今の社会が楽しいことになっていただろう。
「ブラはつけたままでいいですか?」
「大丈夫よ。本当は、上も着たままでよかったんだけど」
 ヌードブラとパンツだけを残し、全部の服を脱ぎ終えたヨゥコは、下着姿の体をミキサンに向ける。
「じゃあ、はじめるけどいいわね」
 ミキサンは自己確認も含めてたずね、片手をのばしてヨゥコに近づく。
 彼女の右手がヨゥコの左胸に触れる。ぞくりと、頭皮の毛穴がすべて開く寒気に近い感覚がヨゥコの体を走る。地肌に指先が触れた右手は、そのまま音もなく胸に刺し込まれ、手首のなかばまで体の中に埋まる。
「おおおぅ」
 思わずヨゥコの口から感嘆の声がもれる。物質透過。今彼女の中で、ミキサンはかなり悪魔的な存在だった。
「動かない方がいいわよ。痛みとか、気分の悪さとかは感じない?」
「うん。大丈夫」
 手が体内を貫通しているというのに、ヨゥコは不思議と何も感じなかった。それが魔法なのだろ。見た目の違和感だけなら、男性の竿をはじめて入れられたときに似ていると彼女は思った。
「暗がりの城に仕える者・氷と灰・七つの首に連なる青き髪のひとふさ・退廃・四十五世界・二十二夜・白――」
「呪文、ですか?」
「わたしの名前みたいなものよ。これであなたの魂に、契約の印が刻まれた」
 ヨゥコの目に一瞬、ミキサンの背中に広がる黒い羽が見えた。
「アリエガルタ・ルルカルル・セナ――はい、終わり」
 彼女が右手を引き抜くと同時に、ヨゥコの股間から一筋の黒い煙が糸のように細く立ちのぼる。それは見る間に勢いと量を増し、まるで見えない炎へ焼かれるように、彼女の穿いた黒いパンツが煙と共に消えてゆく。ミキサンが後に唱えた方の言葉が、本命の呪文だった。
 だが拘束が解かれたことで、ヨゥコの戸口が急に緊張を緩める。
「ごめん、ミキサン。もう限界」
 煙とパンツが完全に股間から消えぬまま、ヨゥコはすぐ横にあるドアを開け、バスルームに駆け込む。
 エチケット空間――緑の茂る草原。白やピンクの花が咲き、羽を持つ蝶や虫が舞い、飛び立つミツバチが花を揺らし、緑の葉から朝露の水滴が落ちる――
 そしてしばらく、がちゃりと盛大な音を立て、バスルームのドアが開く。
「あー、すっきりした。酒が飲みたい」
 外した眼鏡を片手に、ヨゥコは爽快な表情を浮かべ廊下に出てくる。夏休みの子供が描いた絵のような笑顔だ。
 ミキサンは玄関先で、花瓶に生け捕られた花のようにたたずんでいる。ヨゥコはわずかに輪郭のぼやけた視界の中に、ミキサンを含む世界をとらえる。
 問題が解決したヨゥコの脳内を、今後の予定を並べたリストがつらつらと流れ出す。残りの原稿を仕上げる。食事。部屋の洗濯物を片付ける。睡眠。ミキサンに願いごとを叶えてもらう。
 だが何よりも先に、ここで体験した非常識な事態の一部始終をイヌクンに伝えてやろうとヨゥコは思った。



 その日の午後――
 平日の昼を過ぎたファミリーレストランは、ある種の異次元空間だ。
 自我の発達していない子供を連れた妙齢の女性たちがエアコンに冷却された店内にはびこり、小さな町の噂と美味しいスイーツの情報が飛び交っている。
 美容師にして悪魔であるところのミキサンと契約を交わし、黒いパンツの呪縛から解放されたヨゥコは、途中の原稿を仕上げ、出版社の人間に引渡しを済ませた。それが午前中から、お昼のことだ。
 その間、ミキサンは契約者である彼女の望みを聞き入れ、部屋の洗濯物を丁寧に片づけていた。そして次に、食欲の望みを訴えるヨゥコの願いを叶え、自家用車を走らせ、近所のファミリーレストランへ連れて来たのである。万能の悪魔は車の運転もできるのだ。
「ふんぅ、ようするにこの世界は、魂の選考会場ってことか」
 テーブルについたヨゥコは、丸い平皿の中央に盛られた『チーズと茸の本格リゾット』をスプーンで崩しながら、向かいへ座るミキサンの言葉に頷く。
「人間の肉体は、学校の制服みたいなものよ」
 ミキサンは両手で球状のパンを持ち、それを一円玉ほどのサイズにちぎり、口へ運んでいる。パンを小皿に置き、アイスティーのグラスを持ち上げる。小鳥のように典雅な手つきだ。
「学校ねー」
 いくつかのおなじ服を着せられた人間たちは、その制服を脱ぎ捨て、自らの決めた死後の進路へ進むわけだ──微妙に違う気もしたが、あまり事象を深く考えないヨゥコは、目の前のリゾットに集中する。安物の雑炊もどきではなく、ご飯を固めに仕上げたリゾットは口にするとお米の歯ごたえが味わえる。
「でもさ。あらかじめ目をつけられていたってことは、ボクがそれだけ悪人だってこと? あんまり自覚ないけど」
「魂の選択は、この世界の善悪とは無関係よ。あれは神側の連中が辺土に持ち込んだルールだから。善の定義を持ち込んだせいで、その裏面として悪の定義が発生しただけよ。魂の選択は、あくまで平等に本人の意思で決められるの」
「悪いことをした人間とか、良いことをした人間とか、それも関係なし?」
「基本的には関係なしよ」
 すぐ後ろの席では若い女性ふたりが職場の愚痴をこぼし、少し離れた隣の席では頭の小さな少女がパスタと格闘し、母親にしかられている。身近で語られる世界の真理に、人々は無関心だ。
「あなた、生まれたての赤ちゃんが誰かに殺されたとしたら、その殺した人間を悪人だと思うでしょう?」
「それは、悪人じゃないかなあ」
「でもその赤ちゃんの父親が、ある独裁国の大統領で国民全員を苦しめていたとして、それを打開するために跡継ぎの子供を殺すしかなかったとしたら?」
 ヨゥコはリゾットの噛みしめながら、ふんぅと考える。お米の食感、チーズの旨味、茸の香りが口の中に広がり、味覚が舌を包み込む。およそ十時間ぶりの食事は彼女の胃に充足感を与え、眠気を誘う。ヨゥコは考えるのを止めた。
「どんな状況でも、子供を殺す奴は悪人だと思う」
「たとえば、この世界の善悪も結局は個人の選択にゆだねられるという話よ。そうした善悪の外で動いているのが、わたしたち悪魔ね。神側が持ち込んだ善悪の定義は、わたしたちには無関係だから」
「なるほど」
 制服指定の学校に、ひとり私服で登校する生徒を想像してヨゥコは頷く。
「わたしの見込んだとおり、やっぱりあなたは理解が早いわね」
「まぁ確かに、ボク向きかな」
 リゾットを半分ほどたいらげたヨゥコは、かたわらに置かれた氷入りのグラスに手を伸ばし、よく冷えた『特製炭火焙煎コーヒー』を口にする。
 この店には何度か訪れ、お気に入りのリゾットをよく注文する彼女だが、本当に愛しているのはそのコーヒーだった。リゾットはコーヒーを味わう前に胃を刺激するための前戯に過ぎない。
「じゃあ結局、神と悪魔の戦いってなんなの?」
「そうね。詳しい説明できないけど、単純にいえば定義の違うふたつの存在が闇と光に分かれて、永遠と勝ち負けをくり返しているだけの話よ」
「ずっと前から?」
「ええ、わたしの知る前から」
「前回は勝ったのはどっち?」
「勝ったのはわたしたち。今回の戦いをはじめたのは、あっち」
「そうか。悪魔が勝ったんだ」
 コーヒーの刺激で、いくぶん脳の活動を取り戻したヨゥコは神と悪魔の戦いに想像をはせる。だがいかんせん、想像を絶する内容である。悪魔が勝ったと聞かされても、イメージがおよばない。
「悪魔が勝てば、世界は大いなるひとつの闇に満たされる。わたしたち悪魔は闇に回帰して、無の安らぎを求める存在」
「うーん、うん」
「悪魔の勝利後、長い時間の果てに、世界を満たす闇の中から独立した個の意思が生まれた。やがてそれは存在を拡大させて闇から切り離され、個は光を持つ神側の存在として再び戦いをはじめたというのが、わたしの知る世界の話」
 ミキサンは何気ない表情で神託のごとくおごそかに告げ、アイスティーのストローをわずかに吸い、口を離す。
「闇が個を切り離した瞬間、その存在はばらばらの魂に分解され、闇の残滓から生まれた辺土と肉体の中に降り注がれたわけ。そしてまた最終的にはどちらかの勢力に大分されて、次なる世界の支配権をかけて争う。おそらく後にも先にも、それのくり返しよ。ずっとね」
「果てしない話だなぁ」
 ヨゥコはアイスコーヒーを飲み干し、はぁと満足そうに息を吐く。
「じゃあさ、キリストとか仏陀とかいう昔の神っぽい人たちは──」
 彼女がさらなる禁断の問いへ知識を伸ばそうとした瞬間。スウェットズボンの中に入れられた携帯電話が捕獲された動物のように、ぶるぶると暴れた。
 ヨゥコは天からのメッセージを受け取る思いで携帯電話を取り出し、画面を開いて確認する。
 表示されたのは〈メールを一件受信しました〉の文字。送信者は彼女の元恋人イヌクン。先ほどヨゥコが出したメールに対する返信だった。
〈悪魔と契約したんだけど、とりあえず何をやればいい?〉
 ミキサンとの契約後、彼女が冗談のように一文のメールを出したのだ。ヨゥコはボタンを操作する。
〈Re:ねぇ、イヌクン/『ファウスト』の岩波文庫版でもよければ、貸しましょうか?〉
 それは彼女の趣味を彼なりに考えたすえ、送り返された文章だった。ヨゥコはメールの内容に思わず笑みを浮べ、空っぽのグラスを手にして席を立つ。愛すべきコーヒーのおかわりをもらうため、ドリンクバーへ向かうのだ。
 食事を終えたらシャワーを浴びて少し眠る。仕事明けの夜には、イヌクンが彼女の部屋を訪れる。平日だが、ヨゥコが呼び出せば彼は来る。そこにはミキサンも同席するだろう。その場で元恋人に全てを明かすときの楽しみを考え、世界の真理と寝不足と食欲を詰め込んだヨゥコの脳がとろけ出す。
 かくして彼女の世界は、非常識と愛に満たされてゆくのである。



※作中の一部にて「悪いひとたち」および「SWEET DAYS」(ブランキー・ジェット・シティー)の歌詞を使用させていただきました。

この作品をはてなブックマークに追加この作品をはてなブックマークに追加


読み終えましたら、web拍手をお願いします。壁紙をプレゼントさせていただいております。

目次へ戻る