『歓喜の魔王III REGENFAELLS NUNTIUS. ~ der letzte Teil.』

『歓喜の魔王III REGENFAELLS NUNTIUS. ~ der erste Teil.』

著/六門イサイ

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■承前 蒼雨《あおざめ》た空の下──mein Herr,mein Gott,mein Heilrand.


 一列に連なる鉄の棒が、光を忘れたように暗い空に切れ目を入れていた。
 眼前にそびえ立つ鉄柵は、かつての自分の身長よりも遥かに高い。その先端を見上げれば、冷たい雨滴が顔を打ったが、視界の邪魔になりそうな物だけ無造作に拭って済ませた。柵を握ると、巻きついた茨の棘が突き刺さる。流れた血は手ではなく茨をつたい、その茎に飲み込まれていく。
 身体の先端から体温が流れ落ちるような感覚に捕らわれながら、ニコラスは鉄柵を登った。棘の痛みは無視。雨に濡れた鉄は滑りやすく、貧弱な体は自重を支える腕力など持ちえず、絡みつく茨は皮膚を突き刺し血を啜り、挑戦するたびに彼の体力を削っていく。これではいけない。
(貴様などに、私の血を……)
 そう思うと罵迦らしくなって、ニコラスは登る事を諦めた。己の身に流れる稀なる血は、すべからく我が君のために使われる物でなければならないのだ。それを、このような茨を潤させていいものか。あってはならない、そんな事をしていてはならない。自分はもっと最善の策を取らなくてはならないのだ。
 鉄柵から跳び下りようかと力を緩めた途端、跳ぶどころかそのまま滑り落ちてしたたかに腰を打った。尻の肉は薄くて衝撃を吸収する役にはさっぱり立たない。もちろん、服の布地から染み込んでくる雨水の冷たさからの守りにも。こんな事をしている場合ではないのに。
 嗚呼、我が主、我が神、我があるじ。私が流す血も涙も全ては貴君のために流される。貴君の罪も咎も業も残らず私が負うべきもの。我が誉れも誇りも栄えも貴君に捧げられるべきもの。私には貴方しかいないのです、だから貴方以外など何も欲しくはありません。
 だから、どうか、置いていかないでください。私を残して滅ぼされたりなどしないでください。
(──帰ったら、美味しいご飯を食べるのよ──)
 別れ際に聞いた衣奈の言葉、夕飯のメニューを思い出す。その時は言えなかった言葉が、相手もいないのに今自然と口から出た。
「それは、おいしそうだな」
 あの娘は気に入らないが、料理は美味い。
 いつも楽しそうに手間をかけて、今夜は何がいいか、今日の味はどうだったかと嬉しそうに訊いてくる。よほど料理する事が好きなのだろうと思った。ニコラスの記憶に残る衣奈の姿の殆どは、鼻歌混じりに鍋を混ぜたり、見栄えを吟味して皿に盛りつけたり、難しい顔で味見している処ばかりだ。
 けれど、食事をしている時はもっと楽しそうな、更に言えば幸せそうな顔をする。それをよく覚えている。
 一体何をそんなに喜んでいるのか、ニコラスはついぞ不思議に思っていたが、ここ最近は何となくその原因が分かったような気がしていた。あのまるごと骨董品のような黒園邸に来て間もない頃、ふと気がつくと衣奈の料理を無心に頬張る自分を、彼女はじっと見つめていた。
 不思議だったけれど、それを嫌な視線だと思わなかったのは何故だろうか。今ならもう分かる、彼女はきっと、食卓を共にする相手が出来た事が嬉しかったのだ。なんと寂しがりな魔女だろうか、ずっと我が君を独り占めにしていたくせに。とんだ我が侭女ではないか。
 けれど、今はもう少し、その我が侭に付き合ってやってもいいと思う。
 ああ、あの鉄柵の向こうで、あの娘は今も我が君を独り占めしているのだ。その傍らに死人たる騎士がいようが、それは他人の頭数には入らない。だから早く自分が行かなくては、彼と彼女の傍に戻らねば。私達は誰も離れてはいけない、決して欠けてはいけないんだ。
 この喉笛を掻き切って、今すぐその隣りに飛んでいけるなら、私はそれを厭いもしない。ポケットに入れたカッターナイフの刃ではやわすぎて時間がかかるかもしれないけれど。大丈夫、痛みも傷も我慢すれば少しの間だ。何と言っても私は、不死なのだから。

■五節 その涙は、雨に似る──die Traene und Regen.


 雨の雫の一つ一つが、天地に舞う二つの影に怯えるように震えながら落ちていく。この世にあるはずのない、死者の騎士と、その戦いに関わるのを忌避するように、あるいはその殺気と闘気にあてられ凍りついたように、鳴りを潜めて速やかに地面へと到達していった。
 だが、それでもなお数の力は気を大きくし、全体としては雨の勢いも音も、一向に止む気配がない。
 そして雨の中。マサク・マヴディルとトゥバルカインは軸受けを越え、トラス状に組まれたパイプを足場に変えて、たちまちゴンドラを吊るすリムへ。一周十三分ほどとされる観覧車のてっ辺に、両者はものの数分で辿り着き、対峙する。向き合って先制を取ったのは果たしてどちらだっただろうか。
 空を横薙ぐマサクの腕からナイフが撃ち出された。対するカインは拳を突き出すように袖から鎖を放つ。曇り一つない鋼の刃が無限に細くなり集束しながら、虚空に深く切り込んでいく。錆に塗れた鉄の鎖が風を巻き捻り、滴とこすれ合いながら、その不協和音の全てを使って宙に抉り込んでいく。
 鎖の先端と切っ先がぶつかり合い、重さで負けたナイフが火花と共に弾かれた。切っ先と鎖の先端が押し合い、硬さを鋭さで上回れた鎖が砕け散った。だが一本を砕いて失速したナイフは横合いからの一撃に翼をもがれ、観覧車の遥か足元へ雨粒と共に落としこまれる。
 攻撃を全て突破されたマサクの足元に鎖が突き刺さった。だが新たな刃を指根に握り、鉤爪としたマサクに後退の姿勢はない。直後に飛び込んだ先は既に吸血鬼の胃袋、反応の遅れたカインの喉笛に手負いの獣が喰らいつく。迫る死を前に、トゥバルカインは酷薄な笑みを浮かべた。
 バネ仕掛けのように足元から立ち上がる鎖の渦。精密を誇る死神の鉤爪を、緻密で上回る吸血鬼の檻が完全に弾いた。指を離れた三本のナイフが散り散りに放り出され、バランスを崩したのかマサクが上体を仰け反らせる。勝利を確信したカインが笑みを深めた。
 その笑顔を、白い布の蜘蛛が覆う。
 全体的に細長く、節足を思わせるヘルモルトの手指が、マサクの胸板から突き出ていた。青白い鬼火と火の粉が、万本の針のような雨に散らされながら舞っている。それを纏いながらマサクの背後から出現し、その体を透り抜けたヘルモルトが、トゥバルカインの頭と腰を掴んだ。
「はぁい、毎度お馴染み、壁抜けでござぁ~いー」
 壁抜け男《Die Durchlauf-Mauer. 》に透り抜けられぬ物はない、石も肉も血も骨も、その妨げにはならぬ。
「やっちゃえ、旦那ァ!」
 基本的に離れた場所に騎士は召喚出来んのだが、その場に別の騎士が既に召喚されていればその限りではない。マサクの後ろに召喚され直したヘルモルトによって、直接体内に組みつかれたカインは完全に機と自由を失っていた。冴え冴えとした死神の眼差しが吸血鬼を射抜く。
「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ」
 マサクは崩れたバランスを取り戻すのと並行して足を蹴り上げた。靴のつま先から突き出した仕込みの刃が、カインの喉から口中へと貫き抜ける。そのまま高々と足を上げて、仕留めた獲物の全身を空中にを持ち上げていった。するりとその体からヘルモルトが離れる。
『……Echt《マジ》?』
 一拍遅れて自身の致命傷に気づいたカインが、何事かマサクに向かって言おうとして、血にむせた。袖から伸びかけていた鎖達が、制御を失ってだらりと弛緩する。ぶるぶると震えながら、腕がマサクの足を掴もうと伸びたが、力ないそれを無視して、マサクはカインの体を空中に放り出した。
 雨粒よりよほど速く、頼りなく、赤毛の男が落下する。そのまま地面に叩きつけられ、ゴンドラと同じ運命を辿るとお前は思った。だが、生憎とこれも騎士の端くれ、まだ終わらないつもりらしい。私には、奴がぎり、と一つ歯軋りをするのが聞こえた。
『──Sooo! geht es, nichtttt《そぉぉ~はいくかぁぁぁ》!!』
 カインは四肢からそれぞれ鎖を出し、パイプに絡めて大観覧車の中腹に着地した。蹴りのようなその衝撃のためか、いまだ吊るされているゴンドラ達が一斉にぐらぐらと揺れる。頂上にあったゴンドラが運悪く落ち、カインに向かって観覧車を駆け降りるマサクと並んだ。
 両雄ぶつかり合い、ゴンドラが地面に落ち、大観覧車が金切り声をあげて左右に揺れる。やがて、観覧車がその巨体を大きく震わせた。一度、そして二度。熟し過ぎた果実のようにゴンドラが危うげに揺れ、その内の一つが落ちる。
 それが潰れる音に重なって、ぢゃらららっ……と、鎖の鳴き声が凶兆めいた響きをあげた。
 ああ、鎖だ。楕円の金属環を延々と繋げた呪縛の鉄縄が、まるで繭を作る蚕のように大観覧車の車を覆っていく。押し迫る噛みつき罠のように、自らを呑み込もうとする鎖から逃げようと、懸命にマサクは抗った。
 踏まれる砂利の呟きを切り払い、澄んだ金属の唄いを打ち砕き、不吉を連ね不快を誘う錆と鉄の協奏を身を捩ってかわしていく。だが、ついに腰が縛鎖に捕えられ、首が毒蛇の牙にかけられ、四肢が毒虫の糸に絡め取られ、その姿が鉄の鞠球を形作った檻の奥へ消えてしまった。
 その瞬間、がくりと肩膝をつくように観覧車が傾き、張りついた鉄の玉の重さに耐え切れなくなって、全てが崩落した。


◆  ◆  ◆


「Scheisse《くそっ》!」
 お前の傍に戻るなり、濡れ鼠になったヘルモルトは毒づいた。バイエルン訛りのどぎつい言葉で更に二言、三言悪態を続ける。標準語しか学んでいないお前にその言葉は分からなかったが、私としては分からなくて良かったと思う類いの表現だ。
「へも介、マサオに何かあったの?」
 お前が訊ねると殆ど同時に、鎖が再び鳴いた。今度は大観覧車のような遠くから響く音ではなく、すぐ側ではっきりと鳴る。そう、背後から。お前が振り返ると、鉄柵に開いた出口に鎖が絡みつき、塞ぎにかかっていた。
 鎖の出所を目で追えば、ゲームセンターの裏口を閉じるのに使われていた鎖だった。どうやら、園内に散らばっていたカインの鎖は、単なる霍乱だけではなく、これが本命だったようだ。観覧車倒壊を合図に、我々をここに閉じ込めるための布石という訳か。
「やられた……!」
 お前は前髪を掻きあげて舌を打つと、少し考えてから、ヘルモルトに向き直った。持っていた傘を渡して問う。
「マサオ、負けたのね」
「おそらく……立つ事も出来ないよう、徹底的にやられてます」
 応えはお前が短い付き合いの中で得た、道化の印象から逸脱するほど深い、哀惜と憂いを感じさせる口調だった。それを聞きながら、お前が見上げたヘルモルトの横顔は、マサクを悼むように沈痛な物に歪んでいる。──なぜ、そんな物を読み取る? なぜ、その声にお前の心臓が痛む?
 お前の悲しみは私の苦しみ。肉体のない私の世界で、それは冷たい雨となって降り注ぎ、また私を打ちのめす。だが私には解せない、優しき我が娘、なぜ既に死した者のためにその胸を濡らすのか。お前の涙と痛みが胸の裡を濡らす時、私もまたお前の悲しみに濡らされる。
 もちろん悲しむななどとは言わない、だが今のお前のその気持ちは本当に必要な物なのか? 我が騎士達は死を持たぬ不具の死者。その身の全ては思い出と知識で出来ている、名前も気兼ねも必要ない。あれはあくまで屍だ。
「でも、マサオは!」お前は強くかぶりを振って否定する。「マサオは私達のために戦ったわ!」
「お嬢様……」
 我が娘を見つめるヘルモルトの胸の内に、いかなる感情が去来しているのか。その表情は驚愕と言うには弱く、悲哀は色濃く、それでいてお前への興味が過ぎり、何より戸惑いは強い。それは忠誠の種火であるかもしれないし、他愛のない好意であるかもしれなかった。私には、分からない。
「仕えてくれる者の労をねぎらうのも、主人の務めです。お父様は……そうではないの?」
 否、私とて上に立つ者の務めは知っている。だがあれらは死者なのだ。もう一度言おう、死者の全ては思い出と知識で出来ている。彼らの振る舞いが感情から出ているように見えても、それは生前の反応の再現だ。神曲は死せる魂と人生の再演を可能とする。
 だが、お前が彼らを生きている者のように思い込んで心を痛めるなら、私はマサクにそのような振る舞いをさせるのをやめよう。ただの武器として、傀儡の兵として、言葉もなく表情もなくただ戦うためだけの物として。生きている振りをさせるのはやめよう。
 ……その提案をはっきりと、お前に言えないのが私の甘さか、弱さか。
「本来ならね、お嬢様。アタシらは魂がないのよ。デジタル上のデータと同じ、記憶を元に生きている振りをしてるの」
「じゃあへも介、あんたはどうしてそんなに悲しそうな顔してるのよ!」
 その返答にヘルモルトは言葉を飲み込んだ。ある意味残酷な問いだ、今やこの男は死者を愛し、そのために哀しんでいるのだから。
 ……よいか、我が娘。人が人を愛する心には限りがある。人が人を想う心には限りがある。誰も自分以外の全ての他者を愛せなどはしないのだ。だから、お前の愛を無駄に使うな。お前の愛を死者に捧げるな。衣奈、お前は今を生きている者と、自分の事だけを愛せ。
 だが、神曲が完成した時、我がうちに封じられた騎士の魂はようやく真なる我が騎士として復活する。その時お前は、彼らの魂に初めて触れる事が出来るだろう。そうなれば、騎士はもはや死者ではない。……ヘルモルトは、既にここにいるがな。
 それでもなお、お前が死者に愛を捧げ、その上で生者を愛せるなら、私はその愛も祝福しよう。生きよ、お前の愛のままに。
 愛から生まれた哀の涙はそれでも冷たい。雪がギリギリまで結晶せず雨滴となったような寒さで私に降り注ぎ続け、いつそれが果てるとも知れない。割り切れない想いというものは、遣り切れないものだな。ああ、お前を打つ雨もまた、強くなっていく。このまま土砂降りになりそうだ。

■六節 茨編みの罠──Dornengarn.


 やれやれと言う調子で、ニコラスは肩を竦めた。
「我が君はすっかり子煩悩になってらっしゃる」ふふん、当たり前だとも。
 現実感のないほど整ったニコラスの顔には、一時雨に晒された濡れ髪が張りついている。それが、歳不相応な艶っぽさを醸し出していた。思わず写真に撮ってずっと手元に留めて置きたくなるような有様だが、さておき脱出法を考えようか、我が娘。
「でもへも介、あんたならこんな鎖ぐらい、問題なく透り抜けられるでしょ」
「ところがそーでもないのよ、これが」
 ヘルモルトは手を伸ばして、鎖に手を潜らせた。手袋の布地が弾け、その下の皮膚を穿つ。孔と掻き傷だらけになった手はしかし、流血を滴らせることはなく、そこに確かに存在する〝見えない茨〟の輪郭をなぞって行った。透ける棘が血潮を飲み、潤った導管がぼんやりと暗紫色の本体を現した所で、ヘルモルトは手を引き抜いた。抜けない棘に引かれて、数本の半透明な茨が千切れたが、地面に落ち切る前に姿を消す。
 見ての通り、この茨は血潮《ヴィタエ》、生命の源とも言うべき物を吸う間だけ姿を現す性質を持つのだ。
「……へも介、大丈夫?」
「だーいじょうぶよう、優しいお嬢様。ちょっとダルイだけー」
「ふむ、さすがにXI《エルフ》の入れ知恵だけはある。VIII《アハト》にしてみれば諸刃の剣となる策、奴だけならやるまい」
 ああ、ニコラス。鎖を伝っているとはいえ、この茨をこの園全体という広さに張り巡らすというのは、奴一人ではまず採らん策だ。この茨は触れた者の血潮を奪う一方で、鎖を伝わらせず伸ばした時に自身の血潮を流出させてしまう。その正体が、トゥバルカイン自身の血潮からなる器官だからだ。
 そしてそのような物ゆえ、物質の属性を持たない。どちらかと言えば魔術的な触手と言ったほうが適当だろう。だから、ヘルモルトが原子の運動である熱や電気から逃れられないように、鎖は透れてもこの茨からまでは逃れられんのだ。あくまで壁抜けは、実体のある物に限る能力だからな。
「完全に罠だったな。このままでは我々はXを失ったまま、XIとVIIIの二者を相手取らなくてはならんかもしれん」
「あ、待って、ニコ。そのXIってのが、あのマザコンが言ってたママ?」
「そーですよ」ニコラスに代わってヘルモルトが答えた。「あのクソババアは昔からカイン坊やを色々利用してましたからね」
「へも介、そのXIの事、嫌いなの? クソババアって」
「でぇ~嫌いです」満面の笑みで答えるな、貴様は。
「だが、そう悩む問題でもあるまい」ニコラスはごく平然と言った。「茨が邪魔なら、茨ごと障害をぶち壊せばいいだけの事」
 言いながら、塞がれた出入り口を顎で示す。
「この茨は基本的に、奴が持つ鎖を伝って伸ばす事で消耗を最小限に抑える。逆に、鎖以外の物体を這わせたり、空中に伸ばすと途端にその消耗率が跳ね上がるのだ。いかに茨が繁ろうと、この柵ごと破壊してしまえば必ず繁みに間隙が開く。開かなければ、開くまで壊し続ければよい」
 そう、ただでさえトゥバルカインは自身にも危険な行為に及んでいる。この廃園の周囲全てにこれを張り巡らせるとなれば相当の負担だ。穴さえ開けてしまえば、それを塞ぐのも楽ではない。
「うーん、それなら爆弾でも用意しておけばよかった」だな。が、無い物ねだりは時間の無駄だ、我が娘。
「いや、大丈夫ですよ。何なら私がお嬢様と副首領閣下をそれぞれ抱えて、ここを透りますから」
「茨はどうするの?」
「我慢して引き受けますよ。お嬢様がたには触れさせません」
 お前はヘルモルトの提案に、「でも……」と気乗りしない調子で呟いた。俯いて顎を撫でながら逡巡する。その横顔を強い風が拭った。
『Zeit raus《時間切れだぜ》!』
 風と共に脅威が舞い降りる。ゲームセンターの屋根の上、雨中でも色際立つ赤毛の房と、袖から垂らした鎖を翻してトゥバルカインが着地した。
「****……, 旦那っ!」
 トゥバルカインは口元と首をべっとりと血で汚しながら薄笑いを浮かべていた。その手にある物を見て、ヘルモルトが呻くような声をあげる。
「えっ……? マサオ、どうしたの?」
 お前が戸惑うのも無理はない。よく見ておけ、あれがトゥバルカインが吸血鬼と呼ばれる由縁。その白手袋を嵌めた手には、ひからびたマサク・マヴディルの姿があった。襟首を掴まれ、力なくうな垂れる頭は色を失って、灰色混じりの総白髪と化している。
 ものの数秒で半世紀ほども歳経た老人のように、マサクは衰え切っていた。張りを失った皮膚はシワだらけになり、シワの上には植物の根が張ったような、血管が膨れ上がり隆起したような蚯蚓腫れがびっしりと浮き出ている。この蚯蚓腫れこそ、〝死の茨〟が温血者《ヴァルム》の体を蝕み精気を喰らった証よ。奴自身は不死者《レーベンデトーテ》でもないのに関わらず、な。マサクの血潮《ヴィタエ》を糧に、あやつは再び戦う力を得る。
『Rest in Peace《安らかに眠りな》. 』
 歯を剥いて嘲笑しながらカインは呟いた。
 ヘルモルトは傘を放り出して銃を抜いた。二言三言罵りながら、モーゼルの照準を合わせる。カインはそれを嘲って、盾のように高々とマサクの体を持ち上げ、ニタリと笑ってぶん投げた。ヘルモルトは銃を取り落としながら受け止めたものの、マサクごともつれ合って尻餅をつく。
「役立たずめ」
 ニコラスが嘆息と共に呟き、お前の代わりに召喚を解除した。抱きかかえられたマサクが青い炎で焼かれ、その身が灰燼に変ったように崩れて地に沈んでいった。その一部始終を、カインはニヤニヤ笑いで見ている。そして、ひどく余裕めいた仕草で両の腕を左右に振りながら腰を捻り出した。
『eiiin《い~ち》. 』うぬ?『zweeeei《に~ぃ》,dreeeei.《さぁ~ん》 』カウントダウンか。バカにしてる。
 カインは数えながら伸びや屈伸を始めだした。その様は、私にはこう読み取れる。さあ、これは準備運動だ。時間をやるから逃げてみろ。とな。
『vieeer《し~ぃ》. zwei,zwei,drei,vieer.《にー、にー、さんっ、しー》 vieer,zwei,drei,vieer.《よん、に、さん、しー》 』
 ええいっ、癪だがこちらはそれに乗らなくてはならんようだ。カウントダウンと言うより体操の号令のようだが、奴が時間をくれてやろうとしているのは明白! 全力でもって一時撤退だ、衣奈とニコラスを連れて走れ、ヘルモルト!
 今から柵を破るとして、カイン本体の目の前で柵に穴を開けて意味があるのかどうか。逃げ道は左右にしか残されていないが、その前に鎖が我らを捕まえるのが先だろう。尤も、鎖から逃れた処で、この廃園から脱出出来ん限り我らは袋の鼠なのだが。
「へも介、パンツァーファウストぐらい出せない?」
 ヘルモルトは両の腕でバッテンを作りながら答えた。無駄に余裕だ。
「無理!」
「諦め早っ」
 最初から無い物は仕方なかろう。ヒンメルフォイアーでもおれば火力には困らんが、制御も面倒であるしなあ。
「……水道管の銃(エンフィールドステンMk.II)ならありますけど」
「いらない」
 雨水を振り切りながら、鼻面に叩き込もうとしたお前の裏拳は、身長差もあってヘルモルトの胸を叩くにとどまった。
「それよりへも介、今すぐニコだけあの柵の向こうに逃してちょうだい。私は園内を走り回ってあいつから逃げているから」
「ちょっと待て、私を我が君から引き離してどうする。いいか、いざとなったら私の血を……」
「ダメよ。あんたは逃げるの、ニコ」
 異を唱えるニコラスの肩を、お前は力強く掴んだ。それ以上の有無を許さず、早口でまくし立てる。
「帰ったら、美味しいご飯を食べるのよ。今日はミートローフ作るわ、ネギのベーコン巻き入りのやつ。サラダはじゃがいもで、スープは人参のクリーム。冷蔵庫にはデザートのプディングも冷やしてあるから、楽しみにしてなさい」
 片目を瞑り、精一杯の笑顔と共にヘルモルトの方へニコラスを突き飛ばした。それと同時にカインが屋根から飛び降りる。
 お前は二挺のシグザウエルを抜いて、殆ど狙いもつけず撃った。もとより二挺拳銃で当てる腕前はまだない。銃火が水滴の中で踊り、硝煙がたちまち湿り気を帯びて鼻腔に達する前に散った。やはり難なく着地したカインには、お前の銃弾は掠りもしない。しかも、これで弾切れだ。
『優がって可観愛念しくやる嬢ちゃん。からさしなよ、』
 雨天の下、牙剥くように笑むトゥバルカインを、お前は真正面から対峙した。その背後で、ヘルモルトが喚くニコラスと共に茨繁る穴に飛び込んだ。髪は重たく頭に圧し掛かり、額を伝う滴は目に入り視力を奪おうとする。それに負けじと、お前は凛とした真っ直ぐさでカインを睨んだ。

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