『歓喜の魔王III REGENFAELLS NUNTIUS. ~ der erste Teil.』(2)

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■七節 斯くも騎士は誓約のごとく──Ich diene dir in Treue.


「我が君! 我が君、待ってください、なぜ私を遠ざけるのですか!?」
 ニコラスは言ってみれば、我々の切り札だ。その血があれば斃れたマサクに再び立つ力も与えられるだろうし、お前がカインに縊り殺されようとも、その力で再び私を現世に顕現させられるだろう。だが、それは本当の最終手段だという事を、私もお前も承知していた。
 夜毎血を抜き続けたニコラスに、これ以上余計な血を流させたくない。それは、我々の感傷に過ぎないかもしれない。だが、情を抜きにしてもニコラスの生命に深刻な影響が出ている事自体は事実なのだ。血を抜くためにニコラス自身がつけた傷は治癒しているとはいえ、彼はいつ貧血を起こしても仕方のない状態だった。本当なら今日の探索行においても、お前としてはザミーと共に留守番をさせておきたい処だった。
 そうしなかったのは、ニコラス自身が強く同行を望んだからだ。実際、彼は少しでも早く騎士を見つけ出すため、今日まで犠牲を払ってきた。出来るだけ彼の希望を叶えてやる事が、彼の自己犠牲をくい止める唯一の法だと、正しくお前は理解した。だから、戦いにその力を借りる訳にはいかない。
「嫌だっ、離せIV! 私がいれば負けないんだ、貴方は! 我が君、我が君……」
 預けられたヘルモルトの腕の中でもがくニコラスの声が、繁茂する茨の向こうから届く。悲痛な声に胸中で耳を塞いで、お前は目の前の敵に集中した。背後では、お前の命を受けた騎士が棘に傷つき、血潮を貪られる苦痛に耐えながら使命を全うせんとしている。
「……エナっ……」
 その姿が茨と鉄柵の向こうへ完全に消える寸前、届いた呼びかけにお前は思わず集中を途切らせた。ニコラスが初めて自分の名前を呼んだという、その事実に一瞬、半信半疑の想いで振り返ってしまう。そして、その隙を逃さずトゥバルカインはお前を捕まえた。
「うっ!」
 お前は自身の迂闊さを呪いながら、乳房を掴む手が与える痛みに呻いた。もう随分雨水を吸ったジャケットは重く、服の生地はその下着ごとぴったり肌に密着して、ひどく無防備で生々しい感触を伝える。お前はスカートに手を入れ、太腿のベルトに携帯した銃を取り出した。
「さ、わ、ん、じゃ……」金鋸でぶった切られた銃身から、散弾の束をカインの顔面に見舞う。「ないよォ~ッ!」
 ドゴン、と金槌のような重さのある銃声が複数続いた。血が霧のようにしぶき、雨で薄れながらお前の顔に跳ねる。
 大きく仰け反った奴の胸元を蹴り飛ばし、完全に倒れる処を確認せずお前は走りだした。さすがにソードオフレミントンを無理やり片手で撃った代償はきつく、肩が外れそうな衝撃に腕全体が痺れて感覚がない。換えの弾倉があるのにシグザウエルを放り出してしまったが、やむ無しか。
「落っとし物よーん、お嬢様♪」
 にゅっと横合いから出た手が、今しがた諦めた二挺の拳銃を差し出した。お前は一瞬眼を見開き、それから小さく礼を言って受け取った。ただし一挺だけ預けておく。並走しながらヘルモルトの横顔を見遣ると、白髪やシワが出来るほどではないが、やはり若干枯れた様子だった。
「へも介、ニコは?」
「無事に向こうに送り届けたわよー。棘は多分刺さってないはずなんで、ご安心を」
「そう……無理言って悪かったわね」
 水を吸う事のないアスファルトの地面を、泥水を跳ね上げながら駆けるお前が、しおらしくしたのはごく僅か。次の瞬間には憤慨を露わにする。
「で、何よ、あの卑猥な発情型マザコン男は。女の子を捕まえるなら場所ってもんを選びなさいっての! 奴の全身を煮沸消毒してやりたいわ」
「あー、カイン坊やはねー。ジョルジュ長岡並におっぱいと女の子に執着あるから、死してなおエロスなんでしょ」
 お前が「誰よジョルジュ」と呟いた瞬間、凶つ風が吹いた。
 おどけようとしたヘルモルトの喉を、血痕のような錆に彩られた鎖が締め上げる。脚力の空回りした足が地面で滑りかけて踏み止まった。だが、後はその状態を維持するのが精一杯だ。追いつかれたと心中歯噛みしながら、お前は振り返って鎖の先にあるものを直視した。
 土砂降りが作る水幕の向こうに立つのは、凄惨な笑みを浮かべるトゥバルカイン。右頬が無くなった顔は、歯茎を晒して顔面に有り得ない欠けを生じさせ、もともと隻眼が左右非対称な歪みを見せる顔を、更に歪つな印象にしていた。雨に濡れ冷え切った肌の上、それでも伝い落ちる冷や汗の感覚は際立っていて、はっきりと寒気を知覚する。カインが一歩を踏み出し、重たい鎖の鳴き声をお前に聞かせた。
 反射的にお前の足は一歩後ろに下がり、その事に気づいた時、とうとう堪えきれなくなったヘルモルトがカインの鎖に引き寄せられた。捕えた獲物を飲み込むように鎖が群れをなして広がり、たちまちヘルモルトの体を包み込んだ。雨音の多重奏を圧して、鎖の環がけたたましく吼える。
「お……おっ、うおお!?」
 苦鳴さえも鎖の声に嚥下され、その血潮で潤った茨がお前に自らの姿を見せつける。血潮《ヴィタエ》とは単なる血液ではなく、霊性を与える根源なるもの。霊なるものには須らく血が流れている、その流れる血液、生命の根源にして魂の柱、それがヴィタエだ。命を直接蝕む死の茨を前にしては、さしもの我が騎士も、その不死たる栄光の凋落を免れない。このような無様を晒そうとは、なんとも無念だな。
 ヘルモルトの姿は鉄と錆で作られた編み篭に完全に埋まり、お前の眼からは見えなくなった。だが私には、奴が立ち直れないほど血潮を吸い尽くされ、仮初めの死を迎えた事が判る。今なら、息があるだけマサクのほうがマシなくらいだ。
 呆然としながら、それでもお前の手は換えの弾倉を探した。鈍痛に痺れ、感覚の朧な腕で小さな箱を探すが、それより早くトゥバルカインは距離を詰める。指先に弾倉とおぼしき硬い感触が触れ、一瞬希望が過ぎるとともに、お前の意識は闇に沈んだ。遅れて、私は腹部の痛みを感じる。
 カインめ、婦女子の腹を殴るとはつくづく不埒な輩よ。


◆  ◆  ◆


 一向に勢いが緩む気配のない雨は、逆に激しさを増す事もなく、陰鬱な単調さで降り続ける。嘆息めいた肌寒い風は、自身も雨にうんざりしたかのように地を這って、廃園の中で渦を巻いていた。アスファルトに出来た水溜りは引っ切り無しに波紋を立て、雨粒が爆ぜ続ける。
 視界を遮る降雨の檻と、聴覚を塞ぐ雨音の喚き声。それらが隙間なく天と地に満ちて、私達を閉じ込めている。
 俎上に載せられた鯉が、捕らえられた我々の立場だった。明りを失った電飾の無機質な眼が、それを見ている。かつて子供達を乗せて走った馬が、今は残骸を晒して一箇所に固められ、青いビニールシートをかけられた回転木馬《カルセル》。やれやれ、馬の死骸を見ると戦場跡を思い出す。
 そう、負け戦の後だ、お前はそこの柱の一つに縛り付けられている。トゥバルカインはお前の顎を持ち上げ、軽く頬を叩いた。ゆっくりとお前の意識が浮上し、瞼が開いて、私にも肉の視覚が戻る。目を覚ますなりまず飛び込んできたのは、楽しげにお前を見つめるカインの顔だった。
 血潮を得て回復したのか、それともよほど長く気絶していたのか、顔面の傷は綺麗に治っている。主体である衣奈が気を失っていては、私も外界の状況を正確には把握できんというのが、何とも歯がゆい事だ。反射的に腕を動かそうとするが、お前のそれは小手高に縛られており、身動きも取れない。ただ、ガチャガチャと嘲笑うような、鎖の環が擦れて鳴る音がするだけ。
「何しようってのよ、この下衆野郎」
 カインはその言葉に行動で答えた。両の手袋を口に咥えて脱ぎ捨て、下から持ち上げるように乳房を掴む。お前の意志とは無関係に、脂肪の層は深い柔らかさと張りのある弾力をカインの手に返した。これでまだ成長中なのだから恐ろしい。カインが伸ばした手の向こう、服の袖の中に古い鉄が見えた。手首を硬く戒める鉄枷に、千切れた鎖の環が数個ぶら下がっている。
『Titte. 』ぽそっとした呟きは、次の瞬間歓声となって爆発した。『Tiiiitteeee《おっっぱーいッ》──!!』
「ひゃぃいいいい!?」
 歳の割りに豊かな乳房を大胆に鷲掴みし、見事に十指それぞれを動かして揉みしだいて、『Ti! tte! Ti! tte!』と連呼する。うおおっ、奴の背後に♂の形をしたオーラがギンギン見える、見えるぞッ。理性を無くして淫獣に堕したか!! その乳は貴様の物ではないわ、痴れ者がァッ。
「は、離せっ、このぶたッケツ! あんたみたいな人間辞めた上マザコンで変態でヴィジュアル面だけが取り得の多重苦そのまんまエロスが何触ってんのよーっ! 離せ! 外せ! そんで背骨が折れて頭蓋が地面にめり込むほど謝り倒したら来世で許してやらなくもないわよ!」
 こんな状況でもまだ我が娘の闘志は衰えない。さて、これが仮にニコラスであったなら、私も堪えた処だが、こ奴にそんな忍耐を使ってやる義理はない。トゥバルカインの背後に鬼火を立ち上らせ、私は衰弱したマサク・マヴディルを再び召喚する。
 さあ、立て、我が下僕。我が娘を侵す暴虐を打ち払え。いや、せめて逃げられるだけの妨害をすればそれでよい。
「主のわざを……行うことを怠る者はのろわれる。またそのつるぎを押さえて、血を流さない者は、のろわれる」
 再構成した大鎌に縋るように立ちながら、自分に言い聞かせるようにマサクは呟いた。得物を杖がわりに、足を引き摺るようにして、息を切らしながらトゥバルカインの背後に歩み寄る。カインはそれを鼻で笑って、片手を後ろに突き出し、三本の鎖で横殴りに打ち据えた。
 マサクは避ける力も抵抗する力もなく、あっけなく跳ね飛ばされ、泥水を散らしながら転がった。再召喚で頭に戻っていた制帽がまた落ちる。手から離れた大鎌の刃で自身を切る事だけは避けられたが、不様に横たわったまま動かなくなった。残された余力は、肩で息をする程度か。
 だが立て。私は我が愛娘と、我が盟友を殺した貴様を未だ許してはいない。ここで倒れて使命を果たさぬならば更に。
「Te……s. 」切れ切れにいらえが返る。「Tes,Testament,Mein Imperator.《誓約の通りに、我が首領》 」
 大鎌を杖にして、マサクはじりじりと立ち上がった。カインが面倒くさそうに腕を振り、その四肢に鎖を絡める。間を置かず手と足がてんでバラバラの方角に折り曲げられ、それまで血肉を支えて張り詰めていた芯が断裂した。もはや立つ事も出来なくなったマサクがゴミのように放り出される。
 どうした、我が下僕。それで終わりか。
 なるほど確かに貴様はこれ以上なく痛めつけられておる。関節を砕かれた足は歩く能力を失い、異様な方角に捻られた手は血を流し、筋肉も神経ももはや貴様の意志を伝える事はない。私には貴様が今どういう状態なのかよく分かる。傷は痛かろう、痛みは苦しかろう、疲れて寒かろう?
 それでも私はこう言おう。立て。死者に苦痛も危険もあるものか、生前の感覚は忘れろ。お前にもはや流す血はなく、失う温もりはなく、神経を走る電気もない。苦痛なんぞという夢幻《ゆめまぼろし》に、うつつを抜かしている場合か。それとも騎士の位を破棄し、もう一度豚に喰われたいか?
(逃げて、自分の身を救え、荒野の野ろばのようになれ)
 無言のまま胸中の呟きで返事があった。私自身、欺瞞を言っているとは分かっている。痛みはどうにかなっても、枯渇した余力まではどうにもならん。だが、こやつが残された最後の手札なのだ。我が娘のためであれば、多少のなりふりになど構ってはおられない。
 いまや爪牙から重荷となった大鎌を捨て、マサクは奔った。彼我の距離は五メートルかそこらだが、その短距離を走る足は骨が折れ、体重を支えるだけで精一杯。地を踏み込み、そこから返る衝撃と自重を屈折部に受け止めながら、上体は均衡を取る。布に包まれた枝が折れるような音。
『!?』
 自らの足を壊しながら貫いた、血の二歩がカインに届いた。奴自身、マサクがまだ動ける事に驚いたらしく、一瞬反応が遅れる。マサクはその一瞬を、自分の体勢を整えるために使った、折れた足は半ば潰れた足に変わっていた。遅れを取り戻したカインが痩せ衰えた死神の首を絞める。
 重々しく諦念を迫る鎖がマサクの喉を潰し、盛大な音と共に頚椎を折った。あ、と溜め息に似た不明瞭な声がお前の口から漏れる。悲鳴か、泣き声か、驚愕か、そのどれとも付かないお前の反応に、さておきカインは満足を示して笑んだ。マサクが手にしていたナイフが乾いた音を立てて落ちる。
 唇と片目を歪めた笑いのままに、トゥバルカインはマサク・マヴディルを上下に引き裂いた。臓腑を晒すマサクの酸鼻な姿から目を逸らす事も出来ず、お前はただそれを呆然と見つめる。哀しい事に、痛みでショック死でもしない限り、人間は体を引き裂かれても即死できない物なのだった。
 中々最後まで切れなかった腸は長く引き摺りだされ、血に濡れてぬらぬらと光る。背骨をこぼす上半身と下半身は、陸にあがった魚のように、血が薄れて広がる水溜まりの中で跳ね続けた。有り得ない方向に曲がったマサクの首は、血の泡を吹いて白目を剥いている。
 私はかつて伸張台で処刑された女を思い出したが、お前はこうも凄惨な事態を眼にしたためしはない。出るはずだった悲鳴は、湿り気を失った息と絡まって喉の奥に張りついて縮こまっている。血の気が引いた体は急速に体温を失って、触覚を鈍らせた。
 濡れた衣服に包まれ、冷え切った肌の内側から、腹にこもる冷気が突き上げる。肋骨の裏をこすり立てるような吐き気と悪寒がこみあげた。その間にもトゥバルカインの暴虐は続く。お前が抵抗する気力を無くしたと見て、手の動きは一層大胆になっていた。
 耳たぶを、耳孔を、頬から顎を、顎からうなじを、うなじから肩、鎖骨と舌や指を這わせて。お前の体に感触を刻むがごとく、何度も何度も念入りに、しつこく長くじっくりと。やがてトゥバルカインは濡れた上着の中に手を入れて、いやらしい手つきでお前の腹を撫でながら、その乳房に顔を埋めた。
 息を吹きかけて布地を温め、そこから強くなってあがる体臭を深々と吸い込み、しばし繰り返す。
 そしてトゥバルカインの手がジャケットの襟にかかり、一息に衣服を裂いた。つるりと丸い肉が薄紅の突起を載せて、水袋のようにたぷんと揺れながらその姿を露わにする。白い胸をさっと風がこすり、乾いた冷たさが不快だった。性欲ではなく、寒さで硬く尖った先端が悔しい。
「──っ」思わず息を呑む。悲鳴は腹に押し込まれ、内腑が冷えるような恐怖が沈み込んだ。「あ……や……」
 お前の悲しみが私の苦しみとなるように、お前の恐怖は私の苦痛となる。悲しみが雨なら恐怖は風、刃物で切りつけるように冷たく、荒涼とした風。
 カインは指の背と付け根で下乳を軽く叩いて前置きし、まずは片一方を掴んだ。自身の掌を馴染ませるように揉み解しながら、開いた手をお前の後ろ頭に差し入れる。何をするのかと理解する前に、トゥバルカインの唇がお前の口を塞いだ。これまで男を知らなかった純潔が奪われる。
 カインの侵略に対して、お前は進んで唇を開いた。
 それは顎の力を最大限に活かすために。前歯に捉えた物に精一杯の力を込めて、お前は弾力と厚みを噛み切った。ぷつんという感触と共に、脂で溶かれた鉄の味が口内に広がる。お前はカインの血肉と皮の欠片を、たっぷりと唾液に乗せて奴の顔に吐き捨てた。
『das Weib《このアマ》!』
 血の涎を引きながらカインは頭の下から手を抜き、高々と振り上げた。そのまま平手をかまそうとして、不意に腰に落ちる重みに動きを止める。重みは鬼気迫る速度で腰から背へ這い上がり、血に染まった手袋をひたりと顎にかけた。振り上げた手がそれを掴もうと空中でさまよう。
 そして、明るい琥珀のような、金色の虹彩を銀細工の十字架が貫いた。
『──ッ──Gahhhhhh!?』
 カインの隻眼にロザリオの十字を突き立てたのは、それを口に咥えたマサク・マヴディル。折れた腕で上半身だけの体を運び、ここまで来てついに一矢報いた。マサクは更に首を曲げてぐいぐいと十字架を眼窩の奥へと押し込む。水鉄砲のように細く白い水が噴き出して、マサクの白髪を濡らした。
 苦痛に捩れる手でマサクを掴んだカインは、ようやく自分の体からそれを引き剥がす事に成功した。一緒に抜けた十字架の跡から血が零れる。
「おまえの勝利は……どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにある」
 床に放り出されたマサクは、カインを嘲るように聖句を唱えると、続けて音程の狂った気持ちの悪い笑い声をあげた。喋る余力があったのは私も驚く処だが、やはり首がいかれたせいか、少々キているようだな。カインは痛みをまるごと怒りに変えて、癇癪を起こしたように罵声をあげながら、鎖でマサクを何度となく打ち据えた。骨が砕け、肉が潰れ、原形を失ったマサクの体は、ただぴくぴくと震える生肉のタタキのようになる。
 これでマサクは今度こそ終わりだ。ここまで体を破壊されては動かす事も出来ない。だが、時間は稼いだ。怒りと痛みで集中の緩んだカインは、鎖の制御を途切らせていたのだ。お前は拘束の緩んだ鎖から両手両足を引き抜き、メリーゴーランドから逃げ出した。
 脱出したお前を容赦ない雨が迎え、冷え切った体に残された僅かな温もりを奪っていく。靴《パンプス》は鎖から引き抜いた際に片方脱げ、靴下も一緒にずり落ち、濁った雨水を湛えるアスファルトを数歩行くとそれも脱げた。心痛が引き起こす悪寒と、現実の寒気が、掻き傷のように全身に爪を立ててお前を蝕んだ。寒くて、逃げ出したくて、騎士達にもニコラスにも申し訳ない気持ちで一杯で、けれどもう座り込んでしまいたい。
 だが、まだ終わらない。我々は小さな檻から大きな檻に戻っただけの事、ここはまだ吸血鬼の胃袋の中なのだ。

■八節 炎衣灼熱の黄金──ein Kuss von Testament.


 お前は上着の残った部分をかき寄せて、何とか前を隠しながら園内を走った。記憶を頼りに、先ほどヘルモルトが斃れた場所を目指す。お前の拘束が緩んだように、もしかしたら鎖の繭から解き放たれているのではと希望的観測も過ぎったが、呼んでもそれに応じる声はなかった。
「へも介……」
 辿り着いた現場には、お前が抱いた希望のあまりの楽観さを嘲笑う現実が鎮座していた。トゥバルカインに捕らわれる前に見た姿そのままに、呪縛の檻はその形を保ち、その隙間からミイラのようにひからび切った人間の手首が一本、ぶかぶかになった手袋を被って突き出ていた。
「ごめんね、あんたが大好きなマサオ、滅茶苦茶になっちゃった」
 まともに形を留めたのが下半身だけだったからな。しかしあんな光景は忘れたほうがいい、我が娘。何と言うか、健康によくなかろう。
『しねえと大なるぜ? 人あんたしくの腕とぐちゃ足もぐちゃに』
 振り返れば、疎ましい赤と黒。涙のように血の筋を顔につけて、それでも真っ直ぐこちらを見て立っている。騎士は必ずしも眼球で視界を認識しているわけではないから、別に不思議な事ではない。今や我々は丸腰だ。騎士もニコラスも、もう誰もいない。無力な私がお前に寄り添っているだけだ。
(けれど、私はそれで充分)
 もしかしたらこれから訪れるかもしれない、陵辱と最後の時に、一人ではないから。それは裏を返せば、これから味わう苦痛も死も、自分独りの物ではないという事。そして、ニコラスをこの世に残して逝く事。その二つが我々にはひどく心残りだった。
 お前は腹を決めてカインに向き直った。戦闘は力学だ、気合でどうにかなるような都合のいい物ではない。どう計算しても、我々は手詰まりになっていた。失点を挙げるとすればニコラスを逃した事だが、盟友の命を啜ってまで勝ちたくはないのだ。故に、我らの敗北はもはや自業自得。
 カインがこれからやる事はもう決まっている。犯して殺して喰らうのだ。騎士に殺されれば、その魂は冥府に逝く事なく捕らわれる。私の順番が再び回ってきたのだと、そう思った。我が娘をそれに付き合わせるのは口惜しくてならんが、お互いその点は言わない約束だ。
「さぁて、覚悟決めるかな」
 最期の最後まで、せめて心だけは屈しないように。肌の上の誇りを剥ぎ取られても、心《しん》の誇りだけは折られないように。ひねり出した空元気は語調を軽く見せたが、声が震える事は抑えた。顔を濡らし額や頬を伝っていく滴の中に、冷や汗が混じる事を悟られない事を幸運に思う。
 いつの間にか、足元を白い気体が這っていた。これは……水蒸気か? 生半可に温められた風が吹きつけ、それと共に更にもうもうと白い蒸気が迫ってくる。蒸気の向こうから、何やら肉が脂を散らすような音が聞こえてきた。音の次に知覚されたのは、光だ。純白に輝く黄金色の光点。
 点は見る見る大きくなり、白熱して瞬いた。白い黄金とも言うべき色合いの光は、揺らめくような火花だ。尾を引き、群れをなして雨を水蒸気に変えながら、真っ直ぐこちらに向かって来ている。一つ一つが蝋燭ほどの大きさの火花の群れに囲まれて、宙を疾駆する影があった。
 地面から二、三十センチほど完全に浮かび上がり、にも関わらず地に足をつけていると同様に、いいやそれ以上の俊敏さではっきりと我々を目指している。炎の輝きに照らされ、絢爛たる黄金の煌めきを纏うのは、我々が最期の時に思い描こうとした顔だった。
「ニコ!」卿!
『Praemonstrator《副首領》!?』
 輝く炎の衣を纏った黄金の子との距離が縮まるにつれ、周囲の気温がみるみる上昇していく。水蒸気は灼熱の蒸気に変わり、熱風と陽炎を伴って、ニコラス=ヌンティウスはトゥバルカインに吶喊、着弾を示す閃光が爆ぜた。蛋白質が焦げつく臭いが、濡れたアスファルトと泥の臭いにぷんと混じった。閃光から視覚が回復するにつれ、着地したニコラスの姿が確認出来る。じりじりと照りつける炎の熱さに、お前は思わず顔の前に手を翳した。
「ニコ……一体どうなっているの、それ」
 炎衣の術! 何て事を。
「それって、前お父様が教えてくださったあれ?」
 そうだ、お前には存在は教えたが使い方は教えておらなんだな。戦闘に用いる呪文《バン》としては極めて有用だが、引き換えに危険と苦痛も大きいという代物だ。衣となって肉体を囲む炎は術者を攻撃から守り、動きを素早くし、術者が触れるものを燃やし尽くすが、恐ろしいのはその後。
「呪文が終わった時、使い手は炎衣で触れて、燃やしたものの代償を苦痛で支払う……」
 そして代償が大きすぎれば、死ぬ。ニコラス! 卿の呪文書《ビブリオテーク》から失われた術に、炎衣は含まれていたはずではなかったか?
「もちろん、記述の破損を修復して取り戻したまでの事です、我が君」
 我々に背を向け、カインを見据えながら答えるニコラスの首元に、お前は切り傷の痕を見つけた。これほどの魔術を行使するなら、それ相応に大量の血液が必要になる。そのために、己の動脈すら切り裂いたと言うわけか。莫迦な事を、何のために我々がお前を逃したと思っておるのだ。
「どうしてあんたは……そこまでするの?」
 その想いはお前も同じ。自然と口をついて出た疑問に、ニコラスはようやく振り返り、微笑んで答えた。
「我が君。私の血も涙も、貴方のためだけに流されるもの」炎に包まれた笑みは、ひどく無垢だった。「私が流す血も涙も、貴方のものです」
「ばかっ」
 反射的にお前の口から出た言葉にも、ニコラスはまるで揺るがない。ずしんと、鋼鉄の重石が胸に落ちるような確かさで、お前はある事実を悟った。
 自分は何も知らない、この父の過去も、この子の過去も、そして二人の間にあった時間とたくさんの言葉を。大好きなはずの人達の事を、何一つ知らない。恥知らずなほどの無知で、自分はその二人に好意を抱いていたのか。何も知らないくせに、何も教えられていないくせに、何も聞いていないくせに、知ろうともしなかったくせに、全部分かっているかのように振る舞っていた。分からない、何より一番分からないのは。
(どうしてニコは……そこまでお父様のために……?)
 分かるけど分からない。自分だって命を共有していなければ、自身が血を流して父の役に立てるなら、ニコラスのように血の一滴までも使い尽くそうとするかもしれない。けれど、ニコラスにそれをさせるほどの年月の重みは全く知り得ない物なのだ。
 疎外感と困惑の渦中に陥ったお前に気を取り直させたのは、熱いくちづけだった。
 それはカインの暴虐たるそれではなく、炎を纏うニコラスの、心血を注ぐような接吻。柔らかな唇から、甘酒のようにほろ酔わせる吐息と共に、湿った舌が入り込む。苦もなく受け入れたそれが、そっと口中をなぞってお前から離れた。口が寂しくなるような名残惜しさが残って、お前は溜め息をついた。
 お前の頭にかけられていたニコラスの手が離れる。お前は全身の忍耐力を総動員して、その手を掴みそうになるのを堪えた。
 数分前の陵辱されかかった時の感触を忘れさせるには充分なほどの、心地好い痺れがお前の全身を浸す。溜め息とともに力も吐き出してしまったのか、腰がぐらついて膝から地面に崩れ落ちた。濡れ切った脛が温くなった泥水に漬かってしまったが、そんな事がどうでもよくなる陶酔感。
「我が君も貴様も心配が過ぎる。確かに今度は少々血を使い過ぎたが、ならば血以外の物を貴方に献上する事も出来るのだ」
「つ、つまり……」唾液、という単語がなぜか恥ずかしくて、お前は口に出来なかった。「そっか、確か体液は全部……」
 そう、と頷くニコラスの炎が急速に薄れていく。それとは逆に腹の中がひどく熱い。おそらく、お前が飲み込んだニコラスの唾液が今効果を発揮しようとしているのだ。なるほど、我が娘の死もなく、我が友の血もなく、穏便に私が力を揮えるようにとの計らいか。
 温められ空気が私達の周囲で渦巻いて、白くけぶる水蒸気の壁を作り出していた。ちょっとした目隠しだが、もうすぐそれも晴れるだろう。以前ニコラスと再会したばかりの私なら、接吻だけで娘の体を借りる事は出来なかったが、今は違う。さて、あの不埒者に目に物見せてやらねばな!


◆  ◆  ◆


 咄嗟にトゥバルカインが防御に使った鎖は、数十本がまとめて融解していた。熱伝導で火傷する事を防ぐため環の連結を解除、あらたに鎖を伸ばそうとして、視界を遮る水蒸気の向こうに、黒い影を見た。背格好そのものは、先程まで追いかけていた小娘と変わらない。
 それなのに、身長の倍もあるような威圧感のある影だった。まるで水蒸気のほうが恐れをなして道を開けるように、それは白い壁の中から姿を現した。
 出てきたのは、やはり先程の小娘。だが、引き裂いたはずの白いブラウスジャケットは黒いコートに覆われて、せっかくの美乳が隠れており、カインは思わず落胆した。早く揉ませろってんだよ、まだ舐めてないし。それにしても小娘の変化はやはりどこか不可解だった。
 コートの丈は長く、スカートや足のあたりもきっちり覆っている。両の髪を括っていたギザギザフリルのリボンは解け、艶めく髪が空中に墨を流したようにたなびいていた。顔の部品は何も変わってはいないが、どことなくその顔つきも変わって見えた。それは、彼女が浮かべている無慈悲で酷薄な表情のためかもしれない。だがそれだけとは思えないでいるのは、その顔が異様な引力を持って感じられる点だった。
 そう、なぜならその印象にはひどく覚えがある。母とはまた別に、自身が恐れ愛した方。
『**********!』
 日本語で聞き取れば七文字、綴れば十文字の名前は、空気を震わせる事なく霧散した。
「死者が死者の名前を口にしてなんとする、罵迦め」
 魔王の口調は少女の声に乗ってカインに刺さった。それは魔王本来の声のように、鋼鉄のように厳然とした重さはない。だが、少女自身の声色が本来持っていたであろう可憐さが、却って凍てつくような響きを加味していた。
「貴様に言いたい事は山ほどある」
 少女の姿をした魔王は、指折り数えながら語った。
「まず我が娘の純潔を穢そうとした、そして優しき娘の目の前で、残酷な光景を見せた。それと貴様のせいで、我が友はまた血を流さねばならんかった。これらを一つ一つ量っていけば、私は途方もない罰を貴様に下さねばならん。が、まあ──」
 魔王の視線がカインから外れ、虚空を彷徨った。それを好機と見て、カインは鎖を伸ばす。風圧でまだ地上に張りつく蒸気の白いもやを吹き飛ばし、側頭部を狙って次々と連結させた鉄環を走らせた。鎖は捻れて破壊力を練り、先端に伝達させ、白い耳たぶに到達する寸前、頂点に達する。
 人間の頭一つを吹き飛ばすのに充分なエネルギーが、華奢な掌に捻り潰された。茨が血潮を求めて棘を伸ばすが、それすらも握り潰される蟲のように、バラバラになって消える。軽くそれを成し遂げた当の少女魔王は、小虫でも払ったようにもはやその攻撃に関心を払わず、宣言した。
「とりあえず七百七十七回ほど、死んで詫びろ。報復せる罪の裔《フェアゲルテン・トゥバルカイン》よ!」
 酷薄な顔が、愉悦と憐憫の混じる笑みをさざ波のように立てた。その背後で髪が荒れ狂う黒の大河となり、そこから闇が広がる。
 闇は赤黒く澄んだ、しかし融けた鉛のように重たい帳だ。緞帳は音もなく降りると、たちまちトゥバルカインを世界から隔離した。そして、光を奪い酸素を奪い目を奪い爪を奪い指を奪い手を奪い、それから彼のあらゆる肉体の箇所と、朧げに残った記憶と、底を知らず燻ぶり続ける情欲と、わずかな思考力を咀嚼し、飲み干し、嚥下して吐き捨て、霊とも肉ともつかない事象の屑のような何かに変えて、その存在を侮辱し尽くした。
 後、まだ七百七十六回残っている。

■附 約束された晩餐と黒い園の魔女──Schwarz Garten Familie.


 空が落日の緋に燃えている。
 満天に広がる美しい斜陽は、赤と金と橙を幾重にも丁寧に織り成した光の芸術だ。反対にその底は、明りに照らされる事のない闇に沈んだ、廃墟の町だった。永遠の夕暮と破暁が交差する有り得ない時空、そこを夕闇と言う。その奥底、最も闇と緋の深い場所が、魔女の特等席だった。
「まったく、駄目な子だこと。後でお仕置きよ」
 ぷらぷらと、細い足を揺らして、拗ねたように言う。少し頬を膨らませたその仕草も、表情も、外見年齢よりやや幼く見えたが、その実年齢を考えれば恐ろしい振る舞いだ。魔女、トゥバルカインの母にして鎖を与えたシャルラッハは、一部始終を見届けたものの、その結果にひどく不満だった。
 とはいえ、収穫がまるでなかった訳でもない。魔王を表舞台に引き摺り出す条件は、これまで『一・憑り代の死』、『二・黄金の血』だと思っていたが、体液程度でもあれば、肉体の主導権自体は移す事が可能であると確認した。しかも、全開ではないとはいえ魔王の力その物まで引き出して。
「まあいいわ、教授も準備が終わったでしょうし……次に進むところね。待っていてくださいな、私達の首領様。貴方を我が眷属に迎え入れる時が、本当に楽しみですわ。本当に、ね……うふっ、ふふふふふ」
 仕込みは済んだ、後は魔女の方程式を開くまで。魔王を我が眷属《アインヘルヤル》に加える第一歩の開始だ。
 落日の緋は限りなく広がり、廃墟の町は暗い深淵を見せる。上下左右前後の全てに無限に伸び、永遠に続く昼と夜の間。果てしのない夕闇の奥底の、最も闇と緋の深いお気に入りの場所で、紅い少女は愉悦に体を震わせた。


◆  ◆  ◆


 お前が目を覚ました時には、自宅のベッドの中だった。下着を替え、濡れた衣服を寝巻きに替えて眠りこけている自分に気づく。いつもの癖で隣りを見遣るが、そこにニコラスの姿はない。それを確認して、意識を失う直前の記憶が蘇った。身を挺して駆けつけたニコラス、熱くそして甘い接吻。
 顔面が火照り、急激に気恥ずかしさが今頃になってこみ上げてくる。お前の知性と理性と感性が外聞を放り出して地団駄を踊りそうになる寸前、腹が盛大に空腹を訴えた。時計を確認すれば、夜の八時を過ぎようとしている。大事な事をお前は思い出した。
「あーッ、夕飯作らないと!」
 確か今日はミートローフの約束だったなあ。ニコラスも腹を空かせていようさ。
 着替えもそこそこに階下に降りると、何やらよい匂いがしていた。ミートソースやバター、パスタを茹でたと思しき湯気の匂い。明りの灯る食堂に入ると、そこには麺の茹で加減を見ているヘルモルトの背中と、エプロンをしめて本を睨みつけているニコラスの姿があった。
「ニコ! それにへも介、あんたもう大丈夫なの?」こやつは立ち直りが早いからな。マサクはまだ無理だが。
「どうした、貴様。狐につままれたような顔をしているが、私が料理をしていては何か不満か?」
「いや、不満っていうか……」
 ニコラスが読んでいるのは料理の本だった。それはいいのだが、フライパンでミートソースをかき混ぜたり、鍋の面倒を見たりする合間に手早くサラダを作っていたりするのは、まるっきりヘルモルト一人の仕事だ。まあ慣れない仕事であるから、どうしようかと考えている間にこーなったのだろう。
「うん、ニコらしいわ」
「どういう意味だ貴様」
「あ、また貴様って言ったー」ニヤリと、意地の悪い笑みをお前は浮かべた。「昼間みたいに、名前で呼んでくれたっていいのよ」
 ニコラスの手から料理本が落ちた。おや? と興味を示したヘルモルトも振り返る。しかしこやつ、何ゆえわざわざ割烹着姿なのだ。
「な、な、な。あぅ」
「それに私達は、熱いくちづけを交わした仲……」
 お前が頬に手をあて、「ぽっ」と擬音を口に出して紅潮のジェスチャーを取ると、案の定ニコラスは沸騰した。
「仕方なくやったに決まっておろうが、この自意識過剰女!」
「名前もキスも、私はしっかり覚えてるんですからねー、ニコっぽち。まあ発音がちょっと違うのと、様づけでないのが駄目駄目だけど、今日は大目に見てあげる。さあさあ、ご主人様は腹ペコよ、早くそこのミートスパゲッティを持ってきなさい!」
「知るか、自分でよそって食えっ」
 ニコラスは乱暴にエプロンを脱ぎ捨てると、天井の軋みにも頓着せず、足音高く食堂を出ようとした。
 だが運命の神はベタが好きなようで、出て行く寸前にニコラスの腹が盛大に鳴り響く。ヘルモルトが「副首領閣下もまーだお食事なさってなーぃじゃないですか」とからかいを投げると、ニコラスは足を止めて、その顔面に力一杯スリッパを投げつけた。はは、紅顔の美少年が文字通りに真っ赤な顔になっておる。
 さて、じゃれ合うのもいいが、楽しい晩餐を始めようではないか。約束の通りに。

(Fortsetzung folgt. )

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