『帰郷』

『帰郷』

著/星見 月夜

原稿用紙換算10枚

 君がまた、この町を離れて行った。戻って行った。山も川もない、緑の木々もない都会へ。
 僕は君を見送ってから、山に向かう坂道をゆっくりと上った。ジャンパーのポケットに手を入れて、ゆっくりと歩いた。
 天気の良い日曜日。でも、とても寒い。昼過ぎから出始めた風は、僕の髪を乱す。
 坂道を上りきって、僕は振り返る。僕たちの育った町を見下ろす。大きくうねるように流れる川と、その川を越える国道。たくさんの看板、店と駐車場と、走り行き交う車。線路は単線が一本だけ。山裾を越え、この町を越えて、都会へと向かう。
 土手に腰を下ろして、僕は空を見上げる。眩しさに目を細めて、ゆっくりと考え始める。
 この空を、どんな言葉で君に伝えようか。


 高校を卒業した僕は、すぐに働き始めた。実家の工場を手伝うようになった。彼女は大学進学のため、この町を離れた。恋人でもないし、幼馴染でもない。親戚でもないし、もちろん兄弟でもない。
 僕の、数少ない友達のひとり。
 ときどきふらりと帰郷して、数日で戻って行く。
 僕は思う。彼女はきっと、後悔しているんじゃないかと。
 僕の知る彼女は、空を見るのが好きな子だった。放課後の屋上、トランペットを吹きながら、合間に空を見上げていた。
 都会の空はどうだろう。この町の空と違うのだろうか。彼女の隣にいるとき、僕はいつもそう問いかけようとする。問いかけようとして、止める。彼女はとても満足そうにこの空を見上げているから。


 彼女が飽きることなく見上げ続けていた空を、僕は今、ひとりで見上げている。


 僕はこの町で暮らしている。毎日忙しく働いて、多いとは言えない給料を貰って。仕事は辛いことばかりだけれど、働くのは嫌いじゃない。それに、たまの休みにはこうして好きなだけ息を抜くことも出来る。ぼんやりと、一日かけて。
 高校の卒業式から、もうすぐ一年が過ぎようとしている。乗っている車から、昨日わかばマークを外した。貯金を下ろして、スタッドレスのタイヤを買った。変化といえば、その程度だろうか。
 ――そうじゃない。もっと大きな変化がある。
 友達が、無条件に友達と呼べる人が、いなくなったこと。
 学校に通っていた頃は、望まなくても毎日顔を合わせていた同級生たち。でも、卒業してから気付いた。何の約束もなく会える人がいること。それは、とても恵まれていたのだと。
 卒業してからも時々、誘いの電話がかかって来た。でも、仕事を言い訳に誘いを断ることが多かった。そういうことを繰り返していると、だんだんと疎遠になっていく。ひとりの時間が増えて行く。
 狭い工場の片隅。大きな音を立てて動く機械を相手に、黙々と作業をこなす毎日。気が付けば、僕は限られた数人とたまに顔を合わせるだけになっていた。休みの日に車で町を走っても、誰にも出会わない。幾つかの店に立ち寄っても、同級生の誰とも擦れ違わない。ふと考えてみる。父さんも母さんも、誰か親しい友人がいただろうか。学生の頃の僕にいたような、損得を抜きにして一緒に居られる友人。毎週末に決まって待ち合わせるような、親しい友達は。
 大勢の人が集まる店に行くと、いつも思う。これだけ人がいるのに、僕の知り合いは誰もいない。
 ひょっとしたら、と夢想することもある。
 あの長かった癖に足早に過ぎていった日々は、全部偽物だったんじゃないかと。
 そんなことはない。それはちゃんと理解している。目を閉じて思い出せば、いくらでも記憶は湧き出てくる。
 小学校の頃、砂場にあったガラス瓶で指先を切ったことがある。流れる血を見て、何故か友達の方が泣き出した。友達が泣いてしまったのが怖くて、僕も泣いた。傷跡は今でも残っている。左手の中指。
 中学に上がって、昼休みは毎日サッカーをしていた。友達と派手にぶつかって、足に大きな痣を作ったことがある。今でも脛の辺りにしこりが残っている。確か、中学校二年の夏くらいだったはず。
 妙に長い坂道を毎日歩いて通った、高校時代。夏場は朝から汗でシャツがぐっしょりと重くなる。でも、教室に吹き込む風は気持ち良かった。ベランダに並んで、下らない話で笑い合った。
 思い出の中の僕は、いつも友達の中にいる。笑顔の中にいる。辛かったことでさえ、こうして振り返れば自然と頬が緩んでしまう。
 だからこそ、不思議な感じがする。まだ一年も過ぎていないのに、全く違う場所に放り出されたような気分だ。誰もいない場所で、青い空の下で町を見下ろしている、今の僕。寂しいとは思わないけれど、違和感が付き纏う。
 今まで通っていた道は、こんな風に見えていただろうか。色はどうだろう。形は。どんな音が聞こえて、何を思って歩いただろうか。
 思い出せるし、忘れやしないけれど。
 ずっと、不思議な感じが消えずにいる。


 仕事を始めてすぐの頃。僕がそんな袋小路じみた感覚に戸惑っていると、彼女から電話がかかってきた。
「帰って来てるんだけど、出て来ない?」
 夜だった。僕は古い原付で、彼女の家の近くまで走る。それから、彼女の電話を鳴らす。
 彼女はすぐに出てきて、軽く手を上げて「久し振り」と笑う。
 僕は原付のエンジンを止めて、彼女と並んで歩く。
 自販機で飲み物を買って、飲みながら歩く。話をしながら歩く。
 だいたい一時間くらいすると、彼女は「そろそろ帰ろうか」と言う。僕らは振り返って、来た道と違う道を通って戻る。帰りはもう一時間かかる。それだけの出来事。
 でも、そんな夜の散歩は、今日まで何度も繰り返されてきた。不思議と、彼女からの誘いを断ることはなかった。
 高校の頃の彼女は、どんな子だったろう。思い出がありすぎて、一言では言い表せそうもない。一番分かりやすく言うなら、僕の一番の友達。そうなると思う。
 癖のあるショートヘアが、風で乱れる。その度に、雑にかき上げる。その仕草ばかりが思い出される。その仕草に目を奪われるようになったのは、いつ頃からだったろう。
 多分、ずっと前から。高校生の頃、屋上から手を振る彼女を見上げた頃からだ。空が眩しくて彼女の表情なんか見えなかったけれど、だからこそ余計にその仕草が目に焼きついた。変わらない、彼女の仕草。


 僕はこの町で暮らしていく。多分、この先もずっと。
 君はどうだろうか。いつかこの町に戻って、この町で暮らすのだろうか。それとも、僕の知らないどこかの街で、僕の知らない誰かと結婚して、一生を過ごすのだろうか。
 例えばそうなったとしても、君はこの町に帰郷するだろう。そして、その度にきっと僕を呼び出すような気がする。
 どれだけ間が空いても、どれだけ歳をとっても。


 僕は空を見上げている。青く、広い空だ。近くて、遠い青空。
 薄く千切れた雲が、足の速い風に流れて行く。
 この町の空を、どんな言葉で君に伝えようか。この町を離れて行った、この町に居ない君に。この町で流れた時間を知らない、君に。
 僕は考える。ゆっくりと時間は流れる。また違う雲が僕の上を流れて行く。


 夕暮れが訪れて、山並みが金色に染まる。空の縁がより深い青に染まって、町に明かりが灯る。


 日が暮れ、夜が訪れる。静かな夜。星の多い夜空は、黒じゃない。黒よりほんの少しだけ、青に近い。グラデーションをつけて、天球を彩る。


 僕は言葉を探す。探したけれど、考えたけれど、今日もまた見つからなかった。分からなかった。
 この空の色を、どんな言葉で君に伝えよう。
 僕は立ち上がって、背伸びをする。続きは、また次の機会にしよう。
 きっと、また晴れるから。

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