『積読にいたる病 第八回』

『積読にいたる病 第八回』

著/踝 祐吾

 原点回帰である。
 本誌が今回で充電期間に入ると言うことで、この不定期連載も一旦ストップとなった。回廊十五号の歴史の内の半分を占めているから、ざっと半年に一回ぐらいのペースで進められてきた計算になる(不定期になった理由の半分は僕自身のサボり癖によるものだけれど)。回数に数えられることはなかったが、夏目陽さん@『世界の終わりのクロニクル』と対談(というより雑談)する機会もあった。もしかしたらこの連載が単行本になる時にオマケ掲載されるかも知れない。本文より量が多くなりそうな可能性は十分にある。が、そもそもこの連載自体が回廊で『本棚探偵の冒険』みたいなモノをやってみよう、というものだから、ひょんな事から同人誌で出したりするかもしれない。
 最近回廊に触れられた方に本連載のコンセプトを説明しておくと、モデルは喜国雅彦『本棚探偵の冒険』だったはず……なのだ。で、ほぼ三年間通して本に対して色々と愛情を込めて語っていく予定のはずが次第にいきなり趣旨がズレ始め、酒の話はするわゲームの話はするわ、で時々本の話をすると「ぶっさん(僕の愛称らしいです)が本の話をするなんて!」と驚かれる始末。……おまいらこの連載をなんだと思っているんだ。「ただのだらだらエッセイでしょ?」……ごもっとも。
 一応『本棚探偵~』について解説するなら、漫画家で装幀家で古書マニアなキクニさんが西に古本市があれば行って狂喜し、東に乱歩邸があれば貼雑年譜を崇め、南に古本を集めた家があれば二階堂黎人さんと遊びに行き、北に引っ越したばかりの我孫子武丸さん邸があれば本棚をキクニさん仕様に並べ立て……という、古書に限らず本マニアなら爆笑必至のエッセイである。残念ながら僕の筆致ではこの本の面白さを説明しきれない。第二シリーズ『本棚探偵の回想』も刊行済み、どちらも文庫版になっているのでとってもリーズナブル。
 というわけで、活字中毒の方はキクニさんの本を是非ご一読いただきたい。ただしエロに興味のない方はご注意いただきたい(もちろん褒め言葉だ)。キクニさんの代表作『月光の囁き』が耽美エロなら、『日本一の男の魂』は馬鹿エロである(だから褒め言葉だって)。それぞれ映画にもアニメにもなっている。なので、キクニさんの漫画から入った読者にとっては、『本棚探偵』シリーズや『本格ミステリベスト一〇』で毎回行われている『装丁大賞』などは「ああなるほどね、キクニさんらしいや」と笑って読めるだろう。だが逆に『本棚探偵』から『日本一の~』に入ってしまうと面食らって「不潔よ!」なんて言い出すかも知れない。だが僕に言わせれば、本読みなんてどこかかしらエロを期待している部分は少なくないわけで(一部の児童文学を除く、とはしておく)、『本棚探偵』を笑って読めるなら『日本一』も笑って読めるはずだ。ほら、江戸川乱歩などはエログロナンセンスの代名詞じゃないか(乱歩ファンに殴られてしまえ)。
 しかし、ここまで本を愛するエッセイを書かれると僕自身は足元にも及ばない。せめて我孫子さんの『殺戮にいたる病』をもじってだらだらと書き連ねるぐらいである。しかし、実在の本に題材を取っている以上は、原点回帰はやはり本の話をするのがせめてもの礼儀というものだろう。と考えながら、『全年齢キングゆかりの王冠』@半端マニアソフト鎮座した自分の本棚を眺めてみる。三段のカラーボックスを買ってまだ一年弱だというのに、既に購入物はボックスをはみ出している。分類は小説二割、漫画五割、同人誌三割。小説はほとんどが文庫というのもあって場所を取らないが、漫画や同人誌はそうも行かない。基本的に本なんてものは常に増えるものであるから、本を所有する者は多かれ少なかれ、所有スペースの壁にぶち当たる。どうしても整理を繰り返すうちに本は溢れ、まさしく目も当てられない状況へと陥ってしまう。普通の人ならここで未練をすっぱり断ち切り、ブックオフに持ち込んだりするのだろうが、そこは積読家。本は知識である前に所有物でありアンティークだから、そう売り飛ばすという選択肢は取れない。これは非常に難しくはある。
 そして、本をアンティーク化させる魅惑的な要素。それは本を整理していると必ず目に入るもの──装幀。
 装幀というとどうしてもカバーデザインそのものを思い浮かべがちだが、本文デザイン、本の版形その他諸々も含まれる。 つまり、本が本であるためのトータルコーディネイト。それが装幀である。人間と同じで、いくら中身が素晴らしくても、ガワ……つまり表紙や本の体裁が余りよろしいものでなければ、残念ながら手にとってもらう機会が減少する……という事も起こりうる。難しいラインではあるわけである。従って、本を作る人間は知恵を絞って手にとってもらえる内容を作り出す。これはどこでも一緒だろう。

『積読にいたる病』 で。僕はというと、実際それほど装幀フェチというわけではないが、どうしても表紙には着目してしまう。目を引かれた本を瞬時に手に取ってみる事も少なくないし、それを元に買ってしまう事も少なくない。やっぱりその辺の魔力みたいなものもあるのだろう。
 正直な話、僕は上製本とか函入りとか函ならぬ匣の中に入って「ほう」と言う趣味はない((C)京極夏彦)。僕にとっての装幀とは、やっぱりカバーデザインだったりする。カバーと言うのは実に興味深いし、本の帯も必ず取っておく。帯そのものが何らかのネタを仕込んでいることも少なくないわけで、決して油断はできない。帯をはずすとカバーから別の絵が出てくると言うのはまだ序の口。表紙ではなくカバー袖(カバーを内側に折り込んだ部分)に仕込んであったり、あるいは帯の裏が応募券というのはよく存在するが、帯の裏に漫画を書き込んでいる、と言うのもあるわけで、「ドラマ化決定! 映画化決定!」の帯よりも十分価値があるように思う。ただし、ドラマ化や映画化が必ずしも悪いと言うわけではなく、決定直後の帯そのものにもメディアミックスを話題にした小ネタが仕込まれていることもありうるので十分注意が必要となる。まったく持って油断はできない。
 そう、装幀とは作者とデザイナーの共同作業であり、同時に作者以外の人間が本という物質そのものにネタを仕込み、命を吹き込む匠の技なのである。その心を忘れてしまうと、その資料は本としての値打ちを見出されず、共有ソフトなどで流されるだけになってしまうのだ……といったら言いすぎだろうか。多分こんな事を言えてしまうのは、僕自身がやはり物質としての本が好きだからかも知れない。電子書籍も決して嫌いではないはずなのだが、なにぶん購入したことはない。音楽データや映像データの場合はさほど気にならないのに、本だと気になってしまう。何故かと聞かれても、多分僕の中で結論は出ない気がする。感情的な問題なのだろう。
 一方で、装幀の範疇には残念ながら本文デザインは含まれていないというのが一般的であり、本文の配置やノンブル、余白、書体にまで言及される機会は結構少ない。最近はDTPの意味合いも変わってきた。以前、回廊でも恵久地健一さんがDTPについて語っており、そもそもDTPとは、というような話をされていた。今確認するために過去の回廊を漁っていたら、その話が出てきたのが丁度『積読』第壱回と同じ号だからびっくりである。で、そのころは"Desk Top Publishing"の略とされたDTPという語の意味合いも、この三年の間に大きく変わってしまった。最近だと"Desk Top Pre-press"の意味だという。publishが『出版』という意味なら、pre-pressは『印刷前工程』の意味になる。ちょっとややこしいが、これはコンピュータで出来ることが、デザイン作業から印刷するための前準備全てに広がったことを意味しているのだ。もちろん電算写植機が完全に姿を消したわけではないが、少なくともPDFを使っての電子出版、印刷、流通が一つの基調となったのは紛れもない事実であるように思う。昔は二十万から三十万円もした組版ソフトもいつの間にか十万円以内で買えるようになり、本作りのデータ化が一気に推し進められたことは確かだ。おかげで僕自身も様々な場面で非常に恩恵を受けている。
 ただ、その一方で本作りを知らない人が本作りに手を出しているから、ブックデザインの美しさが失われた……と嘆く人もいるのも事実である。本というものそのものの扱われ方が根本的に見直されるべき時期に来ているのかも知れない。……うーん、ちょっと熱くなりすぎてしまった。少し頭を冷やそう。いやっほおい(と、極寒の外へ出る)。

 ……ただいま(戻ってきた)。ちなみに装幀についてせっかくだからWikipediaで調べてみたら、何と『装釘』という字もあるという。装い訂《さだ》めるで『装訂』が元の表記らしい……が、少なくともATOKにそんな熟語はない。ちなみに新明解国語辞典では『装丁』という字だった。それにしても『釘』である。昔は出来上がった本を床にたたきつけて壊れないか試した人もいたそうだが(なので、本の頑丈さを求める、自称『装釘家』の方々もいるらしい)、残念ながら僕には勇気がない。酷いものだと横に開いただけで背表紙からぱきっと割れたりする。そんな脆いものを叩き付けることなんて僕にはできない。本を粗末にするとかしないとかではない、単純に本の質が良くなかっただけなのだろう。
 ボロボロにされると多くの本は見向きもされなくなる。一方で、歴史的価値のある書物として数百年にわたって受け継がれる書物もある。そしてそれらの本とは別に、時々ひっそりと何十年も人の目にも触れられずにひっそりと生きながらえる本だってあるのだ。
 十年前、僕の高校時代の話である。僕の高校は大正末期に創立した決して新しくはない学校ではあるが、さすがに戦前からの校舎を使うということもなく、ある程度部分ごとに建て替えられながら建物を維持してきた。もちろん大正時代の建物は今となっては存在せず、ただ建立碑が残るのみである。で、僕が在学中に図書館を建て替えるという話になった。今までの図書館は昭和三十年か四十年に建てられたものでさすがに老朽化が進んでおり、雰囲気もかなり薄暗かったのを覚えている。校史をきっかりと覚えているわけではないのでうろ覚えで申し訳ないが、さすがにこのままじゃ……というのもあったのか、建て替わった後はかなり近代的な施設になったのを覚えている。
 で、その古い方の図書館に、ひっそりと眠っていた地理の本……だっただろうか、ボロボロの本を見つけた。奥付を見ると昭和三年。今となっては存在しなくなった著者検印もしっかり押してある。そして表紙をめくると出てくる地図は、中華人民共和国ではなく『支那』。今となっては差別用語だ! という話も出るので絶対に存在し得ない地図である。そんな本が、決して都会とは言えない、おそらく街で一つ二つしかないであろう元・旧制中学の図書館に戦争を越えてひっそりと存在しているのである。おそらくもっと古く、かつもっと質の良い本ならば古書街で見つけることもあるだろう。だが、いわゆる学校の図書館にあるという、その事実そのものに僕はいたく感動してしまった。僕がオタクロードにどっぷり足を踏み入れる直前の話である。僕自身が本を愛でるのはこの時の経験が未だに深く心に刻み込まれているからかも知れない。閑話休題。
 最近はブックオフも普及し、『時をかける少女』文庫版が原田知世版、角川春樹事務所版、貞本義行版……と並べてみる機会も増えてきたし、『夏への扉』の表紙が黄文字縦書きと赤文字横書きが同じ棚に入っていることも少なくなくなってきた(嘘だと思ったらさがしてごらん)。ただ、僕みたいなモノに対して執着心があるような人は、本を製品として見続ける限り、上に印刷された存在としての本を愛で続けるだろう。印刷物としての本はどんなに電子化が進んだって無くならない。それが好きな人がいる限り、決して無くなることがないのだ。そう、かつての人類が洞窟に残した絵のように!(どーん!)

 ……とまぁ、なんかスケールがでかいんだか小さいんだか分からない話でこの連載は終わる。終わるったら終わる。こうして四ヶ月ごとに訪れる〆切にうんうん頭を悩ませながら描くこのエッセイにも終止符を打つことが出来るのだ。何という開放感。
 ではまた、いつかどこかで……。
 とんとん。
 なんですか、遥さん。人の肩を叩いて。

「ぶっさん、第二シリーズの原稿、『雲上』でお待ちしてますから」

 …………え……?

(第一シリーズ・おしまい)


photo
本棚探偵の冒険 (双葉文庫)
喜国 雅彦
双葉社 2005-01

by G-Tools , 2008/03/13



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