『Bind of Void』

『Bind of Void』

著/男爵

原稿用紙換算枚数20枚

 世界の中に、生きている。
 私も、目に映る人たちも、みんなどこかの世界の中に、生きている。
 あの子も世界の中に、生きている。自身を活かした世界の中で、生きている。
 たとえそれが、虚飾に満ちた醒めない世界であったとしても。

 傾き始めた日差しの降り注ぐ街の中。幾重も枝分かれする舗道のその奥深く。
 金色に沈んだ広間の中に、莢《さや》はいた。
 往来する細長い人影を何度も体に灯らせながら、顔を下に俯かせ、広間の中に佇んでいた。
 両手でぎゅっと、ハートの形を模る鞄を握りしめ、時折辺りをキョロキョロ見渡し私が来るのを待っている。
 私は可愛らしい莢の姿を視界に宿して微笑んだ。まるでお人形のよう……。
 広間に足を踏み入れ枯れ草を踏むと、私を見つけた莢のフリルが柔らかく揺れた。嬉しそうに体を軽く弾ませるとその仕草に合わせるように、長いスカートがふわりとしなる。
 対面すると、異国のフルーツを想わせる馨《かぐわ》しい、香水の空気に包まれた。
「思慕《しぼ》姉さん、久しぶり」
 芯のある、少し低めの声色は優しい。昔の莢とは随分違うものではあるけれど、同じ喉の響きに変わりなかった。
「本当に可愛くなったわね。そんな服まで着こなせるだなんて、お姉さん本当に罪なことをしたのかもね」
「えへへ……」
 胸元に軽く丸めた手を添えて、莢は照れるように微笑した。
 織物や装飾品を控えることなく施し耽美に彩る甘そうな、ピンクと白のロリータワンピースに身を包んでいた。手首足首を覆い隠す大きな袖と裾の口、それから腰の所には、繊細なリボンやビロードがあしらわれていて全体がうまく引き締まって見える。きっとウィッグなのだろうけどツインテールの金髪は、前髪ぱっつんのお姫様カット。お別れの花束みたいなボリュームたっぷりの巻き毛が二つ、腰の辺りまで垂れていた。
 それから鞄はハートじゃなくて、イチゴの姿を擬した金属製のものだった。まるでオモチャみたいな、そんなやつ。
「ふぅん……本当にあなたは今、誰に知られることもないままここにいるのね」
「そうだね……ボクは今、きっとどこにもいない。でも……」
「でも?」
 莢は私に体を少し斜めに向けて、イチゴの鞄を握る細い両腕をぴんと伸ばし、姿勢を正して仄かに笑む。
「思慕姉さんだけがボクを見ていて、そしてボクのことを知っている」
「……そんなことないわ」
 どこか小ばかにするように、私は鼻を鳴らした声でそう言った。莢は一瞬怯んできりりとした眉を下げたけど、すぐにナチュラルな笑みを湛えておどけるように爪先立ちをした。厚底の編み上げ靴が強い斜光を音も無く、水面の煌きによく似た反射にして辺りに散らす。上質のエナメルを塗っているらしく、そのせいで少し作り物めいた感じがしてしまい、莢が本物のお人形に見えた。莢が足を直すとお人形のピントがぼやけてズレて、お人形のような人に戻った。
 そして、私は思わず感嘆の声を上げてしまった。莢は地面にイチゴを置くと、その上に立って再び爪先立ちをして、さらに両手を頭上にすらりと掲げ、ゆっくりクルクル回り始めたのだ。まるで莢の体を守るように、ツインテールの巻き毛もひらりと舞う。
「すごいすごい……偽れないはずの世界の中で、本物の嘘が動いているのね」
 踵を下ろして止まると莢は、薄い吐息を静かに漏らす。そして何か楽しいことを思い出したように、クスクスと笑った。唇に宛がう指の爪には海のような青のマニキュア。
 気が付けば、辺りのノイズが消えている。だから私は気付いていないふりをした。


 ――世界がズレてくれないのなら、自分をズラしてしまえばいいのよ――

 三年前、私は莢に、そう言った。
 私がまだ二十歳の頃のことだ。丁度思春期に入り始めた莢は、新しい環境に馴染むことができず、心を閉ざし身を閉ざし、家でも外でもずっと一人でいたという。そしてどういう経路を辿ったのか、莢は血の繋がらない親戚であるはずの私の元に預けられた。小柄で、人見知りが激しくて、常に下を向いている……そんな子だった。
 親御さんの話によると、莢はもともと人との距離や空気をうまく捉えられない子、とのことらしい。それが軽い自閉症のような、ハンディキャップにあたるものなのかどうかまでは教えてくれなかったが、私も無理に訊こうとはしなかった。そもそも知ったところでどうなるのだろう?
 私は莢に勉強を教え、それから一緒に家事をするようにした。少しずつ、莢は心を開いてくれた。キャンパスに行っている間、莢はいつも部屋中を綺麗にして私の帰りを待っててくれた。恋人すら持ったことのない一人暮らしの私にとって、莢は徐々に、愛しいパートナーのような存在になっていった。莢もまた、平穏な毎日を幸福に感じてくれているようだった。そんな細やかな二人の日々が、長らく続いていった。
 しかしある日、悲しいことが起きてしまった。
 私が浴室から出ると、莢が、内気で素直なあの莢が、まるで何かの冗談のように、私の下着を持ち去ろうとしていたのだ。
 気が付けば、莢の頬は可哀想なほど真っ赤になっていた。だから私は気付いていないふりをした。何度も平手をしておきながら、なんて薄情なんだろう……。
 莢は涙を浮かべながら、私の両目を見つめていた。そして少し腫れた頬に雫が垂れた。
 呆れるほどに優しい声で、私は囁く。

 ――どうしてこんなことしたの?――

 莢の肩に手を置くと、腰に巻いたタオルがふわりと床に、舞い落ちた。

 ――……だから。好きだから……――
 ――悪い子。好きな人の下着を盗もうとするなんて。お姉さん、そんな人大嫌い――

 パシンッ、と莢の頬を引っ叩く。

 ――気付けるはずよ? こんなことしちゃいけないって――

 その時心の奥底で、澱んだマグマのような蟠《わだかま》りが蠢いた。すると莢に対して優しいお姉さんのはずの私は一瞬にして消え失せて、年下の子に対して嗜虐的な年上の女に豹変してしまった。少なくともあんな衝動に駆られたのはその時が初めてで、そして、その時で最後だった。何かの歯車が狂った私は、莢をまず裸にひん剥いてやった。
 それから私の見ている目の前で、持ち去ろうとした私の下着を無理やり穿かせ、着けさせた。まだ密やかに生暖かく、そしていつも身に着けているものより薄くて柔らかいのだろう生地の感触に、莢は縮こまってモジモジとしていた。その腕を引っ掴んで私の部屋に連れていき、タンスの前に立たせると、私の衣服を着るよう声を荒げて強制した。莢の背丈に合う物は、ずっと昔に私の着ていたセーラー服だけだった。嫌がる背中を非情な手つきで押してやると、莢は驚くほど従順に紺色のスカートに足を入れ、明るいクリーム色のブラウスに袖を通していった。
 着終えた莢は、不安そうな表情を隠そうともせずに私を上目遣いに見上げながら、もう許してと、微かな囁きを口から漏らす。聞こえていないふりをしてやると、莢は弱々しく俯いて、赤く艶めく胸元のスカーフをキュッと握った。
 さらに化粧台に座らせて、有無を言わさず莢の顔に化粧した。最後に長めの栗毛を櫛で梳かし、ヘアピン等で整えてやった。すると莢は少女になった。
 ボーイッシュになりきれない女の子、そんなパラドキシカルな魅力を宿した風貌に。
 恥らうように睫毛を何度もぱちくりさせる〈彼〉に向かって、私は冷たい声色で言い放った。

 ――莢、お仕置きよ。これからあなたはその姿のまま私と一緒に散歩に行くの――


「いまじゃ莢のほうが、私を散歩に誘うのね」
「嘘の自分になれば、本当の物語がそこにあるから……それを教えてくれた思慕姉さんに、感謝してる」
 広間の奥に向かってゆくと、左右に枯れ木の立ち並ぶ、終わりの見えないプロムナードが始まった。幾何学的な形の厚い木の葉の降り積もる、路を踏みしめ前へと進む。その感触は不思議なほどに柔らかく、肌を撫でる風は温い。時折木々の間に夕刻の陽が姿を見せて、私の瞼に光が残る。
 大分深いところまでやってくると莢はゆっくり立ち止まり、イチゴの鞄をかぱりと開けて、カメラを一つ、取り出した。
「ボクを撮って」
 私に向かってカメラを掴んだ手を伸ばす。すると綺麗な色白の細腕が、星の重さに下方を垂らした振袖の中から露出した。まるでサボテンの花のおしべみたいに、青い血管が浮き出てる。
 莢は太い幹の間に赴いて、長いスカートを大切そうに押さえながら、落ち葉の上に敷くようにして座り込む。内股に足を広げて前屈みの姿勢をとると、股の間に両腕を揃えて降ろし、それから根のように開いた十の指を、枯れ草の上にふさりと降ろした。
 その時、悄《しお》らしく傾かせた頭の上で、帯状のヘッドドレスが少しズレた。
 パシャッ。
「あぁだめ、ちょっと待って……」
 私は意地悪だ。その瞬間を見逃さないで、閉じた世界の中に切り取った。
 カサカサと、風に揺らいだ頭上の枝が、乾いた音で莢を囃《はや》す。慌ててヘッドドレスを弄くり直そうとするけれど、顎の下で蝶結びにしたレースの紐が外れてしまい、髪を伝ってぱさりと落ちた。
 パシャッ――


 ――やだ、撮らないで――
 ――ダメよ。絶対に許さないんだから――

 愚劣なことをした莢を外に連れ出し辿り着いたのは、明るくない灯がぼんやり澱む、閑散とした真夜中の公園だった。誰もいなくて残念ねと私が言うと、莢は女の子の姿をビクビクさせて、砂場の中に屈みこんでしまった。まるで、追い詰められて怯える小動物のように。私はカメラを構え、ファインダー越しの狭い世界の中に、その全身を閉じ込めた。
 そして眩いフラッシュとその音を、次々と突き刺してやった。
 お願いやめてと莢は乞う。どうして怯えているのと邪心を隠さず私は笑う。シャッターを切る度に、生暖かい身震いが私の全身にゾクリと這った。

 ――ねえ莢。貴方すっごく可愛いわよ? 今の自分を好きになっちゃえば?――
 ――こんなの……――
 ――世界がズレてくれないのなら、自分をズラしてしまえばいいのよ――

 莢は突然、ビクリと体を震わせた。まるで、見えない誰かに操られているかのように。そしてゆらりと立ち上がると、一目散に走って逃げてしまった。公園を飛び出し住宅街の雑路の奥に、嘘の少女が消えてゆく。そして私は一人になった。
 頭の中がどんどん真っ白になっていき、自分のしていたことがとても恐ろしくなってきて、私は莢のいた砂場の中にへたり込んでしまった。そこは仄かに暖かかった。
 残り香が鼻を掠めると、雫が砂場に落ちてきた。収斂して黒くなった砂の塊が、ナメクジのように蠢いた。

 ――莢、ごめんね……。苦しかったよね。悔しかったよね……痛かったよね――


「もうっ、思慕姉さんったら!」
「ふふ……」
 ヘッドドレスを直した莢は私の前で、可愛らしいポーズをいくつも披露してゆく。お澄ましにお淑やか、そして可憐な身のこなし……次々にシャッターを切ってゆくと、フィルムはあっという間に終わりを迎えてしまった。
 立ち上がり、スカートについた枯葉を掃ってイチゴの鞄をぱかりと開ける。
「ねえ……」
 カメラをしまうと莢は僅かに俯いて、その面にどこか寂しそうな色を翳らせ睫毛をぱちくりさせた。
「ほんとはすぐに、全部壊れて無くなるようなものでしかないのかもしれないんだよね。ひょっとしたら、全部取り留めのないようなものでしかなくて、みんな、きっとボクらだけじゃなくていろんな人が、とても大きな威《ちから》に自分と自分の生きてる世界を曝け出されるのを怖れていて……」
「……急にどうしたの? 全部って……?」
 莢は、ずっと一人で散歩をしていたかのように足早に、前へとスタスタ歩き出す。その背中と私の間に大きな木の葉が舞い落ちて、路に降《くだ》るとくしゃりと消えた。
 遠くで鳥が啼《な》いている。


 ――莢、お願い戻ってきて、お願い……――

 私は恐ろしいほどの喪失感に、心の底から震えていた。骨や臓腑を内に外に引っ張られるような胸の奥の感覚に何度も身を強張らせ、民家の塀に手をつき息を整えなければならなかった。それでも必死に雑路を駆けて、莢を探し回った。どれだけ叫んでも、何もなかった。誰もいない。そして家々に灯りがともることもない。
 やがて足の力が抜けていき、硬くて冷たい路の上にへたり込んでしまった。どうしてだろう、体が軽い……。
 一人。それがとても怖かった。今に始まったことではないはずなのに。
 莢がやってくるまでずっとそうだった。どこにいても何かを見ていることと、自分を映すことしかできないような孤独な小娘、それが私。終わらない日常を通して自分が直面しているだけの、大きな世界の一部を切り取ることしかできやしない。
 ひょっとしたら莢なんて子、ほんとはもういないんじゃないのかな。全部私の見ている夢なんじゃないのかな。そんなふうに思えてくると、不気味な視線に貫かれた。

 ――み~つけた――

 少女の莢が、私の隣に立っている。
 その双眸には得体の知れない凄みがあった。マスカラやアイラインでしっかりきめてあげた目元の中に、私の知らない莢の瞳が潜んでる。ガラス玉のような澄んだ色をしているのに、私を見据える目つきはひどく鋭い。
 そこに優しそうな丸みが滲むと不安そうな私の顔が、曇ることなく映り込んだ。

 ――……えさんの……そつき……――

 栗毛の髪を数本含んで束に纏《まと》めた莢の色ある唇が、小声で何かを紡いでる。うまく聞き取れないでいる私の腕を握ると莢は、強引に引っ張り無理やり立たせた。そしてそのまま放すことなく雑路の奥に向かって歩き出した。
 私は四角い後ろ襟のパタパタ揺れる背中に従うことしかできなかった。しとりと漂う黒い空気を吸い込むと、不思議と心が落ち着いた。視界は暗くてチカチカしてる。
 莢の短いスカートが、時折隅に現れひらひら揺れた。聞き覚えのあるローファーの靴音が、私の耳にひどく響いた。やがて莢は、歩みを止めて立ち止まった。
 すると血のような赤みを帯びた、丸く広がる緩い光に包まれた。
 そこには錆びだらけの柱が二本並んで生えていて、見上げてみると、長い睫毛を生やした灯りと大きな鏡が咲いていた。鏡の面には深いヒビが、縦に走って割れている。
 私と莢が二人ずつ、ヒビを挟んでそこにいた。
 莢の一人がほくそ笑む。

 ――思慕姉さん、嘘を創ってくれて、有難う――


 水の匂いが夕日に眩しい路に流れて濃く香る。プロムナードの奥に、大きな水面がひょこりと姿を見せだした。鳥の羽ばたく重低音が、頭の上を過ぎてゆく。
 私は莢に追いつくと、無言のままにその片手を握りしめて目を伏せた。すると驚くことに、私の体は優しく抱擁されていた。レースの擦れる音がさらりさらりと耳を撫で、ツインテールの流れる巻き毛が首筋を伝ってくすぐったい。懐かしい莢の匂いが私の頬を暖める。
 莢はどうしてそんなに怯えているのと甘い声で囁くと、私の髪に指を絡める。青い爪が、ちらりと見えた。
「思慕姉さん……あの日のボクは、今でも怒っているみたいなんだ。でも、今のボクは姉さんのことが大好きなんだよ」
「ありがとう……ごめんね……」
 溢れる涙を拭いもせずに、まるで猫みたいに莢の胸に強く、強く顔を押し付けてやった。
「この、可愛い奴……可愛い奴!」
 莢はお返しとばかりに私の体をきつく、きつく抱きしめて、そして――パシャッ。


 湖畔のベンチに座っていた。
 時折たゆたう水面を眺めては、逆さに伸びる木々の枝にピントを合わせ、外して溶かすを繰り返す。異国のフルーツを想わせる馨《かぐわ》しい、香水の空気はもう殆ど消えている。代わりに湿った落ち葉の匂いが呼吸に混じってやってくる。
 厚底の編み上げ靴でプロムナードを歩き通してみたら、ちょっと疲れてしまった。おかげでピンクと白の、耽美なロリータワンピースを着込んだ体は少し熱い。手足を軽くぱたぱたさせて、涼しい外気を火照った肌へと誘《いざな》うと、大きな袖と裾の口が面白いほどふりふりしなる。それに釣られるようにして、ツインテールの巻き毛も静かに揺れた。
「眼に映り、身に宿るものだけが世界の全てだって、ずっと信じてられたらいいのにね。怯えるでも気付くでもなくずっと信じていられたなら……ねえ莢、そうでしょう……?」
 私はゆるりと立ち上がり、イチゴを擬した金属製の鞄の中からカメラを引っ掴んで取り出した。それを湖畔の手すりにそっと置いて、ボクは一人、ほくそ笑む。
 そして、イチゴを叩き付けてやった。

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