『龍愛づる姫君』

『龍愛づる姫君』

著/赤井 都


1 護符


神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札。紙に真言密呪や神仏の名、像などを書いたもので、肌身につけ、また、飲んだり、壁に貼りつけたりしておく。まもりふだ。護身符。護摩札。おふだ。
護は、注意深く守護する意に用いる。蒦は鳥を手にとる形であり、もと軍事的な目的のもの。

 月明かりに照らされた座敷は、どこまでも続いていくように思われる。江戸時代から建て替えられたことのない家の黒ずんだ天井を、先代の庄屋の娘たちも眠りに就く前に見上げて溜息ついたのだろうか。遍《あまね》は何度も寝返りを打ち、打つたびに違う自分へ転げ込む気がした。
 ――どうしてわたしは、わたしなんだろう。どうして、神を祀る大古屋《おおふるや》家の娘として、生まれたんだろう。
 十一歳にして涌いたその疑問には、答が見つからなかった。
 隣で祖母が深い寝息をたてていた。祖母は眠り込む前に、大古屋の女たちに伝わる古いことばを教えてくれた。遍は再び寝返りを打ち、暗い座敷の鴨居に掛かった霧田津比女《きりたつひめ》の額を、寝転んだまま見上げた。遍には読めないその崩し文字を、祖母は平易なことばで語り聞かせてくれた。
 一つ、人が『神』に触れると、『神の影』が動き出してしまう。
 二つ、『影』を持たないと、『神』の力は働かない。
 三つ、『神』を呼んだ時には、『影よけ』の文を唱えなさい。
 それが、女先祖が子孫に遺した三つの教えだ。
 額の下には黒々と錆びた武具が掛かっていた。口伝だった霧田津比女のことばを文字に書いて掲げたのと同じくらいの時代のものだということで、古臭くいかめしく、闇の中で凝っているように見えた。
 遍は壁面から視線をそらし、また寝返りを打って縁側のほうを向いた。窓辺は改築されてアルミサッシのガラス戸が嵌っていた。その向こうで、月が庭木と庭石を静かに照らしていた。目に映る光景はそれまでの夜と同じような静けさに満ちていたが、何かが間違っているのに世界が続いているような違和感があった。
 なぜならあの時、あれは云った。
〈おまえを百年間愛そう〉
 その声が、今も耳に響いている気がする。
〈来い〉
 月夜のガラス戸の向こうから、呼ばれている気がする。坂の下から。盆地の底から。集落の一番低くを流れる川の中から。
〈さあ、来い〉
 あの眩しい午後。
 皆で川へ遊びに行った時も、そうして強く、何かが呼んでいた。濡れた岩はサンダルの下でつるつる滑った。夏の太陽が輝いていた。遍は都会から遊びに来た、何も知らない少女だった。
 白いワンピースをひらめかせて川へ滑り落ちて。
 川の流れが引き込むまま、淵へ潜って。
 水底に、巨きなものを見た。
 たしかに、いた。
 触れた。一瞬だけ。
 抱きしめられる、と思った。
 しかしその時、助け出されてしまった。
 だけどあの時、もし。
 あのまま連れ戻されなかったら?
 百年、ずっと……
 けれど、水の中にあと数分長くいたら、現実には溺れ死んでしまったはずだとも思う。
 ところが、その時死んだのは、幼い弟だった。川に落ちた遍の救出のため、皆が大騒ぎしている間に、赤ん坊の呼吸は止まった。母、父、そして叔父、叔母、いとこ。田舎へ夏休みを過ごしに来た二家族と、祖父母がそこにいて、遍のことを気遣い、その皆の輪の外、ベビーカーの幌の陰で、弟が亡くなっていた。
 ――どうして、死んだのはわたしでなかったの?
 その裏返った円環が、遍には一番の謎と感じられた。
 乳幼児突然死症候群。表向きにはそんな説明がなされた。
 ――だけどバアチャンはわたしに、『神』と『神の影』の三か条を読んでくれて、こう云った。なあ霧田津比女さんは、こう子孫たちに教えてはる。だけどな、今の世のわたしらは、そもそもが神さんとは会うたらあかんのや。大古屋家は、大昔から代々、巫女やった。だけどもう、『影よけ』の文を、大古屋は忘れてしもた。神さんに会うたって、『影よけ』できんのや。遍が神さんに会うたら、この世には災いが起きる。それが、『神の影』が動き出す、ということや。人間なんて、神さんやその『影』と比べたら、ほんに弱い、儚いもんや。簡単に――
 死ぬ。遍があれと会い、『神の影』が動いて、その場にいた者の中で最も弱い弟が死んだ。
 そういうことだと思う。
 それなのにまだ、自分は生きている。生き続けている。あんなに呼ばれたのに。川に落ちて溺れそうだったのに。呼ばれるのが悪いことだとも思っていなかった。
 死んだのは、弟。
 生きているのは、わたし。
 遍は自分を怖いと思った。

「遍、おはよう。いつもの玉子御飯でいいかな。――ほらあんた、白い御飯だけ食べとらんと、こっちにきゅうりの糠漬けもあるんやで、食べてよ。ジイチャンは全く、すぐ目の前に置かんと、食べへんで」
 祖母はいつものようにかいがいしく立ち働き、祖父は黙々と食べていた。
 遍も朝の食卓についた。この家で過ごす夏休みの、これまでの朝と同じように、軽くよそった御飯に玉子を割り入れ、醤油とゆかりを振りかけた。そうしながら、また悩んだ。
 夜通し考えてわからなかったこと、どう云えば二人に相談できるだろう。
 どうして。
 どうしてわたし?
 それにはやっぱり答がないのだろうか。
 軒端にすずめのさえずりを聞いた。そうこうしているうちに、祖父が立ち上がって畑仕事に出かけ、祖母は洗濯を始めてしまう。

 朝顔のしぼむ時刻は遅くなり、電線には燕が集結し、坂の下に広がる田ははっきりと黄色味を帯び始めた。宿題のページはあらかた埋まり、網戸を抜ける風は涼しさを増している。ひまわりの花びらは縮れて、もはや太陽を追わず、実の詰まった顔を地に向けた。日陰では午後から早々と虫がすだく。夏休みの終わりが近づいていた。
 祖父も祖母も、いなくなった赤ん坊の話をしなかった。今、赤ん坊もいず、先に都会へ戻った父母たちの姿もない田舎の古い家は静かだった。軒先に干された洗濯物が光を吸って揺れているばかり。
 川底の岩に引っかかって破れた白いワンピースは捨てられた。遍は真新しい黒い服を着て、黒い靴を履き、玄関を出た。
 花々の咲き乱れる庭をゆっくりと歩き抜けると、槙の生垣で作られた門に至る。緑椀《りょくわん》と呼ばれる盆地の斜面のてっぺんにある家なので、門を出ると、坂の上に立つことになった。そこから集落と田畑と川を、盆地の全てを見下ろすことができた。平明な午後の光の中で、川は並木に両岸を囲われ、西から東へ盆地の底を突っ切っている。
〈来い〉
 まだ、呼ばれ続けている気がする。
 空を雲が移り、その影が田を斑に暗くした。しかしそれも一瞬で過ぎ、明るい閃光となって燕が空を切り裂き、草が揺れた。
 草はさまざまな小さい実を結んでいた。道の脇の段丘で、稲穂は昨日よりもいっそう熟れ、にぎにぎしくはちきれそうな行列を葉の横から現し、焦げた頭を垂れた。
 風がスカートを揺らす。
 空を雲が移っていく。軒や壁が影に浸され、また明るく現れ出る。村の道にも、よく手入れされた庭先にも、人の姿はない。
 ――家の奥で柱時計は止まっているのかもしれない。
 そんな思いがふと起きるほど、気だるい午後。ずっと三時五分前のまま、太陽は軌道の半ばで止まり、風だけが吹いているかのような倦怠。
 ――わたしのせいで弟が死んだなんてこと、全部そっくり、夢だったらいいのに。今朝起きたら、何もかもが元どおりになっていたら、よかったのに。
〈来い〉
 川は流れている。千年万年の時を貫いて、銀色の躯をしなやかに平野に伸ばし、急がず、常に新しい鱗を光らせて、風の下を。
 その川がざわめいたような気がして、遍は大きくまばたきした。
 橋を、人が渡っている。
 川の対岸は今日、一帯が青い濃淡になっている。明るい光の下であっても、晴れすぎて沸き上がる水蒸気のせいで、細部を明確に見ることができない。その青く煙る川の南から、盆地の中央に掛かる石橋を渡って、人がこちらに向っている。足元に黒い影をまといつかせ、ひとりきりで歩いている。
 腕いっぱいの風景の中、他に動いている人影はない。
 川の怒りと恐れが、さざ波の頂点から水蒸気に混じって立ちのぼる。遍にはそれが感じ取られる。尖った気配が空を伝わって、坂の上の遍も身を震わせた。思わず左手を強く握り締めた。手の包帯は既に取れている。少し固い感触の皮膚が指先に当たった。赤かった三つの三角形の内側は今や白っぽく変わり、縁が固く盛り上がって周囲の皮膚を引っ張っていた。川の中で傷ついた手。遍は、触れ合った時にあれの鱗が三枚、己の手のひらに貼りついたと信じている。
 見守るうちに、その歩行者はいったん川沿いの並木の樹冠に隠されてから、平たい田を横切り、国道を横断し、坂下の杉に再び隠された。
 現れた時には、こちらにいっそう近づいていた。別の方角へ逸れたのではなかった。棚田の間を折れ曲がる道に従って、右へ左へ向きを変え、坂を上ってくる。
 がっちりした体躯に隙なく緑青色の着物をまとい、下駄を履き、杖を手にした男だ。杖は木で、それを突くでもなくそれに寄り掛かるでもなく、ただ手に握って持っている。男の顔の上半分は黒い帽子のようなものに隠され、艶のない黒髪がその頭巾の下から溢れている。
 四角い顎と、引き結ばれた唇が見える距離になった。
 複雑に重ねられた緑青色の衣には、流水のような白い線が織り込まれていた。上体を飾る帯のようなものには、様式化された何かの形が、組み合わされたパターンとして並んでいた。
 遍は坂の上から、その男を見下ろしていた。駆け去りたい衝動にかられたが、男から目をそらすのも厭だった。わけのわからない自負が遍の顎をもたげさせ、その一方で、おとなの男の行く道に立ちはだかって挑むような心でいる自分を愚かに感じた。
 ――この男は、通り過ぎて行くだけなのだから。おとなの男が、ひとりのこどもに用があるわけはないのだから。
 男は遍の少し下の、坂の半ばで足を止め、頭巾に手をかけた。節の高い太い指は、遍の身辺にいるどのおとなの手とも似ていなかった。黒い頭巾がわずかに動き、光る目が現れた。短く早い一瞥が遍の上に加えられた。
 遍の左手が激しくひりついた。男は遍をまっすぐに見ていた。――男は、遍に用があって来たのだ。
 見合っていたのは、ほんの一瞬のことだったに違いない。男は遍のまとっているこだわりも誇りも、ほんの一瞥ではいでしまい、ただ遍そのものを現した。ただ見られることが、こんなに自分を危うくすることだと、遍は思ったこともなかった。握り締めた左の手のひらは、遍の拳が作る小さな闇の中で、傷ついた時の熱さをぶり返させた。
 遍は、男に見て取られた。男の手が下がり、頭巾に目が隠された。男の顎がかすかに引かれ、それは会釈とも防御とも取れた。男は遍の横を通り過ぎ、槇の門を抜けた。
 振り返って、見慣れた庭の景色を男の黒い影が乱していくのを遍は見た。男は四方の花の絢爛に惑わされず、飛び石の上をまっすぐに歩き、大古屋家の玄関の戸を開けた。男の真黒な影も、いっしょに敷居を越えていった。

 遍が、男の踏んでいった飛び石をたどり、逃げ出したい一方で、男のどんな一挙一動も見のがしてはいけないような気分になって家に入っていくと、奥の方に人の気配がして、茶の香も立っていた。
 上がり框の堅い板に、男はおざなりに腰かけているのではなかった。既に奥座敷に通されていた。
 遍は靴を脱ぎながら、男が玄関のたたきに残した下駄を見た。鼻緒の太い、履き古され、縁が土に汚れたものだった。それを遍は軽蔑した。しかし、それを履いてはるばる川の南からやってきたのだと思うと、素直な尊敬のきもちも湧いて、遍は自分の心の矛盾を持て余した。
 長い杖も、壁に立て掛けて置かれていた。五角なのか八角なのか一見して角の多い磨いた木の肌に、草を模したような文字が巻き付いていた。遍には読めない字だった。見るほどに、左手の内側が熱さを痛みに変えてうずいた。杖の下部を眺めているうちに、この棒の形や色に見覚えがあると感じた。どうしてだか、遠い昔から、この杖が己に向かって振るわれている光景ばかりがよぎった。
 これを盗み出してしまえと、何かが胸に囁いた。自分がしなければいけないことは、この杖を折り捨てることだ。機会は今。
 左手のひらの三つの三角形が赤く充血し、そこだけ別の生き物であるかのように脈打ち始めた。
 いや、三角形は遍の心臓の動きを正確に拡大している。どん。どん。どん。どん。脈打ち、手が自ずと杖に近づく。
 息を止めた。触れてしまう。しかし自分の指をつけることが、最後の最後の瞬間に憚られた。
 遍は感電したかのように手を引っ込め、逃げる勢いで家に上がった。
 一つ深呼吸して、奥の座敷へ忍んで行ってみると、ふだん使いの木綿の座布団ではなく、黄金地に大古屋の女家紋が浮き出した、分厚い立派な座布団が並べられていた。祖母に見つかった。
「あ、戻ってきよりましたわ。さあ遍、ここへ座りな。御山の上から、龍王堂のえらいお人が、遍のために、わざわざ来てくれはったんやで」
「龍王堂?」
「あれ、遍にまだ話してなかったかな。大古屋は江戸時代には、庄屋をしてたやろ。その頃に龍王堂さんがこの緑椀へ来はって、御堂を建てて、神さんを見張り始めたんや。ともかく、神さんのことにめっぽう強い龍王堂さんや。うちの台所の柱にかて、いつも厄除け札貼ってあるやんか。さあ、そこ座り」
 遍は左手を固く握り締めたまま、おそるおそる祖母の隣に座った。祖母が男に足労の礼を述べている間、男の膝の上に置かれた大きな手を見ていた。
 龍王堂から来た男は、客用のこぶりの青磁の茶碗から玉露を飲み干し、茶托に碗を戻した。節が出て爪が平たい手で、碗に小さな蓋を被せた。その動きに、無駄がなかった。
 黒い頭巾は、畳まれて傍らに置かれていた。遍は、思いきって目を上げて男の顔を見た。拍子抜けするほど、ふつうの男だった。日焼けしたいかつい顔は、若くはないが年とってもいないと思えた。美しくなく、醜くなかった。しかし造作はそうであっても、凡庸には見えなかった。
「お伺いするのが遅くなりました。若姫の護符を作るのに、時間をかけていたものですから」
 流れているうちに全ての角が取れたような柔らかな声は、この土地の訛りに染まっていなかった。男は続いて、亡くなった赤ん坊への悔やみを丁重に述べた。おとなとしての礼にかなったことばの羅列に、遍は自分との距離を感じた。
 祖母に説明しながらも、男がふと遍を向いた。
「麒麟、亀、鳳凰の三つの生き物と共に、世界の四端を支えているのが龍です。この世界に乗っているのが人間で、それらの気を活かして豊かに暮らそうというのが、我らが一千二百年間していることです。龍王堂がこの山に建立されてからは、まだたったの三百年ですが」
「あれが、龍なの」
 遍は聞いてしまってから、自分の素直な問いに自ら驚いて膝を掴んだ。男が応えることばはゆったりと広がり、この世界の独特の絵図を描いた。
「川が盆地を作った西高東低のこの地では、青龍が最も優っています。別の所にいる仲間たちは、鳳の気、麟の気、亀の気を、それぞれ研究しています。この土地に必要なのは、あり余る龍の気を滅却することではなく、それを活かす方法です。そのための力の調整です」
 男は着衣の前で手を動かし、どこからか布包みを取り出した。
 そのふくさを男は自身の膝の上で開いた。読めない字が書き付けられた、薄い金属片のようなものが出てきた。全体は淡い緑青色で、鈍く光っている。朱印が幾つも押されていて、それらは結袈裟の帯を埋める模様を少しずつ取り出したように見えた。
「龍に魅入られた娘さんが、常に身につけておいて下さるように。『龍返し』の護り札です」
「『龍返し』?」
 祖母が説明した。
「うちら大古屋の女は、神さんと近しい。だけど『影よけ』できんでな、間違いが起きんように、もうそもそも神さんと会わへんように、龍王堂さんが『龍返し』してくれはるんや」
 祖母がそう云っている間に、ちらりと男の視線が遍に走った。遍の揃えた膝頭から、腰と胸とを通り抜けて遍の目に上った。その瞬間の目の強さは、それを向けられた遍ひとりしか知らない。遍は戦慄した。男が遍の膝の前に護符を置いた。
 遍は受け取ることができなかった。遍の左手は熱くたぎり、かたや右手は恐ろしく冷えきっていた。両手の温度は乖離し、左はしだいに熱さを通り越して痛みと感じられ、ただ鈍く重い。
 これに触れてはいけないと思った。龍と同じように弾き飛ばされて消えてしまう。――あの淵に入った自分は、あちら側の水を呼吸し、その鱗を受けてしまったのだから。
 替わりに祖母が護符を畳から取り上げ、それに代えて封筒を滑り出させた。
「些少ですが」
「ありがとうございます」
 男はわるびれるそぶりもなく封筒を取り上げ、それをしばらく額に押し付けて拝み、謝意を現した。お金だ、と遍は思った。俗なものを拝受しながらも、男は毅然としていた。
 男はお金を仕舞い、傍らの頭巾を持って立ち上がった。
 祖母も立ち上がって、長い廊下を共に歩いて男を玄関まで送りながら、用が済んだ後の軽さで云った。
「来てもらえてよかったですわ。わたしの若い頃は、御山の上までよう行ったもんでしたけどな、咽元過ぎればというかんじで、最近足が遠のいて、都合ようてすんませんけど、都会の子や、思てた孫が、こんなに大古屋の血を引いてたとはな。こうして新たな若姫もできたことやし、また拝ませてもらいますさかい、どうぞよろしうに」
「今回のことで、我々もにわかに忙しくなりました。毎日のように、村内の各家に呼ばれて、家の柱に厄除け札を貼っています」
「商売繁盛ですか。皆、苦しい時のなんとやらですな」
「こちらからも足を運びますし、御山にも、いつでもおいで下さい。門の入口で、呼び鈴を鳴らしてくだされば、誰かが案内に参ります」
「呼び鈴を鳴らして待つんか今でも、懐かしいなあ。こっち側から見える美十狛《みとこま》の森は、いつでも変わらんように見えるけど。御堂はどんなふうに変わらしゃったんやろ、以前はずいぶんと人がいてはったもんやったけど」
「今は、堂主と私のほかに、数人でいっさいを切り盛りしています」
 答えて、男は下駄の太い鼻緒に足指を通し、頭巾をかぶり、杖を手にした。丁寧に辞儀をなし、男は出ていった。
 遍は祖母について奥の座敷に戻り、男が座っていた座布団をまじまじと眺めた。祖母が片付ける、男が口をつけた茶碗も、恐れながら眺めた。あの男のかすかな汗の匂いや衣擦れの気配が、まだ場に残っている気がした。
 それから遍は外に飛び出した。あの男がいないこと、自分の目の前にいないこと、あの姿をもう見られないことが、急にひどい損失として、単純な焦りを生んでいた。走らずにはいられなかった。追う形になっていることには気づいていなかった。むろん、もっとあの姿を見たくて、その存在感を求めてはいたが、現実に相手はおとなの男だ。――会ってどうすることもありはしない。
 午後の光が田を照らしていた。下り坂の路面を、長く伸びた草の影がぎざぎざに縁取って、静かに日は暮れ始めていた。
 ずいぶん先に行ってしまったはずの人が、坂の曲り角でこちらを向いていた。遍は立ち止まった。男は口を開いた。
「もう一度だけ、云っておきたい。今後、御札を常に身につけているようにと。そうしなかった場合、加護を保証できない。助けがいつでも間に合うわけではない。そのことを、気をつけられよ」
 声は穏やかでも目つきはどことなく冷淡に云い終えると、男は踵を返した。遍はその背に自分自身も驚くような、正直な返事を返していた。
「わたしは、御札は持たないから。あれは、要らない」
 男は立ち止まり、振り返った。
「なぜ」
 遍は燃える左手を開いて、男に向けた。
「わたしは、龍だから」
 男は、ひきつれて充血した鱗の形の傷痕を見た。
「それこそが、龍に魅入られているということだ。龍に取り隠されることは、この世での死を意味する。自身の躯に惑わされるな。同情するな。護符に護られ、危険な年頃をやり過ごすべきだ」
 遍は首を横に振った。
「こんなになって、龍とわたしが、簡単に離れられるとは思わない」
「……それが龍の姫の直観か」
 男はやや目を細めて遍を注視した。道の傾斜のために、少女をむしろ見上げていた。遍は左手を胸に引き寄せた。
「姫の直観って、意味がわからない」
「では、自分が何をしているか、その意味がわかるまで、護られていなさい。我が堂の護り札があれば、龍と接触しない。龍と触れ合わなければ、『影』を暴れさせることもない。護符を使いなさい。そのうちに分別もつくだろう」
 遍はこども扱いされることに反発を感じた。
「わたしは、そのうち、ひとりで何もかもできるようにする」
 男はわずかに笑った。
「意気込みだけでは物事は解決しない。愚かさは、時間が解決してくれることも、そうではないこともある」
 男は背を向け、坂を下っていった。杖を片手に、来た時と同じように急がない足取りで、川南までの道程を一歩ずつ経ていく。
 遍は坂の半ばに立ち、男が歩いていくのをどこまでも見送った。坂の下に小さくなり、樹に隠され、田を越え、橋を渡り、川南の夕霞の中に溶けてしまうまで。


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