『龍愛づる姫君』 (11)

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11 離別

人に別れること。別離。夫婦の関係を断つこと。離婚。


 電話口の祖母は何度も、本当に来てくれるんかいな、と繰り返した。遍は、お母さんと二人で泊まるから、と、聞かれたのと同じ回数だけ繰り返し、祖母は耳が遠くなったのかと危ぶんだ。
 懐かしい筆跡の手紙を遍は受け取っていた。――その手跡なら、住所の最初の一文字を見ただけで、誰からの手紙かわかる。その手が、大古屋遍様、と書くようすを何度想像しただろう。何度、むなしく郵便受けを覗いただろう。電話帳を調べて龍王堂の番号をあっさり見つけ、しかし実際に電話する勇気は出なかった。人のきもちは、働きかけたからといって、動かせないことがある。
 こども時代の日々はあんなに鮮やかだったのに、長じるに従い、忙しさを理由に、思い出として畳んで箱に片づけてしまう。車両変更やダイヤ改正で田舎までの時間距離は短くなり、格段に便利になったのに、専門学校生になった遍の足は遠のいた。レポート制作、実習課題、サークル活動、アルバイト。忙しいという断り文句を祖父母に対して残酷だとは思っていなかった。若さゆえの鈍感さだ。髪は思い切ったショートカットにした。
 今、二十歳の遍は母と二人で田舎に向かっていて、そうして遍が一番に会いたいのは祖父母ではなかった。
 電車が巨大な駅舎を滑り出し、車輪がレールの継ぎ目を越える規則正しい音を響かせ始めると、穴から覗く小動物のように、懐かしい思い出がはみ出した。遍はそれを差し招いた。一つを抱き寄せると一つがまた穴から覗く。遍は次々に引っ張り出した。指先で触れただけでは、それはほんの小さな断片にすぎない。しかし引き出してみると、膨らみながら次々に模様がつながって、抱えきれないほど大きな思いが現れる。
 橋げたの影が順々に車内に落ち、海近い河口を渡っていく時、風景の変化に気づいた。水面の向こうに建つ巨大な柱の本数が増え、横一列に並んでいた。海への出入口をふさぐ河口堰は、完成し稼動していた。もはやカヌーは一艘も浮いていなかった。昔ながらの漁船がひとつきり、陽光を浴びて河を横切っていた。
 再開発されてビルとペデストリアンデッキができた、かつての小さな駅前。田圃の真ん中に突如として出現する、巨大な駐車場を備えたショッピングモール。走っても走っても同じ所にしか行き着いていないように、同じコンビニ店鋪が繰り返し現れた。
 しかし、そうした変容は風景の一部分だった。まだ、ひまわりが一列に庭先に並んだ農家があり、畦道にむくげが開き、切り通しの崖一面に笹百合が咲いていた。稲田の緑は水平に広がり、山は竹林や雑木でこんもりと覆われ、止まるたびプラットフォームに落ちる夏の日射しは明るい。
 やがて、川に沿って電車は走り始めた。
 川の水は、茶色かった。底の土や石の色を透かした自然の色だと思えた。
 遍は思った。――こどもの時には、きっと何もかもを新鮮な目で見たから、川は銀を溶かした色をしているなんて、ファンタジーを思ったのだろう。今、冷静な二十歳の目で見ると、川の水はその底の石の色と同じ、何ということもない、凡庸な茶色だった。――これがおとなになる、ということの結果なのか。
 魅惑が失せてしまった後の風景は、ただそこにあるだけだ。
 川は心に働きかけてこず、遍は電車の中からその形と色を観察した。

 幾度も頭の中でその名を繰り返していた、親しい響きの駅に到着した。
 荷物を持って降り立った遍と稼は、驚きのあまり、しばらく立ち尽くしていた。ひなびた古い駅舎は、白いはりぼての丸柱があちこちに建てられて様変わりしていた。柱だけを見るなら、ギリシャ建築風だ。売店も錆びたアイスボックスもなくなり、観葉植物を飾ったコーヒーショップとベーカリーに変わっていた。
 切符は自動改札機に通した。
 改札の内外には外国語が溢れ、肌に隙なく貼り付く服を着た、目鼻立ちの濃い男女があちこちで腰に腕を回し合っていた。露出された臍が視界のそこここから目に入った。ベビーカーから赤ん坊の泣き声がして、真っ赤なサマードレスのこどもたちが、親たちのおしゃべりのそばではしゃぎまわっていた。
 その間を、くすんだ色味の服装の日本人たちが伏目がちにすり抜けて行った。
 バス停の位置は変っていた。路線は編成しなおされ、外国人も日本人も並んで乗り込んで行くのは、宅地と工場に向う新しい路線だ。
 ロータリーには軽自動車が列をなしていた。順々に車寄せへ滑り込んできてドアが開き、ひとりずつ家族を拾って発進していく。
 十分ほどの喧噪ののち、駅舎は閑散とし、ガラス戸の向こうにいる駅員のほかは誰ひとりいなくなった。沈黙がエンタシスの柱の間を漂い、デジタル時計がぱらぱら移る。
 国道を走って盆地に入る路線は、乗り継ぎの便が悪かった。三十分待ってようやくミニバスが現れた。乗り込んだ客は遍と稼だけだった。発車時刻が近づくと、軒並みシャッターが閉まっているさびれた駅前商店街から、ゆっくりと老婆ひとりが現れた。スーパーのビニール袋がのぞいたキャリー付きの荷物を抱え、苦労してステップを上がり、回数券をちぎった。

 ミニバスから降車しても、丸い椀の底にいるのではなかった。川南の山の一角が大きく削り取られ、のっぺりとした巨大な箱がそこに着地し、スカイラインに食い込んでいた。
 緑椀の縁が欠けている。
 北側の坂のてっぺんに大小一対の人の姿が現れ、遍たちに手を振った。遍は手を振り返した。祖父母は、なぜかこれまでのように、坂を下りて迎えには来なかった。そこに立ったまま、遍たちがじぐざくの坂を上るのをじっと見下ろしていた。
 石垣の隙間に筋張った夏草が生えている眺めが、懐かしかった。しかし石垣の内側に、稲穂の列はなかった。そこは水田ではなく、ただのしらけた空き地だった。平らな乾いた土に、雑草がぱらぱらと生えているだけだ。
 石垣を外側からコンクリートで一面に固めた、表情のない斜面もできていた。
 角を曲がるたび、より近づいた祖父母を見上げて手を振った。二人が笑顔でいるのがわかって、遍は安心した。
 ようやく坂を上りきった。
 長身の祖父は以前と同じように黙ってにこにこしていて、白髪がアインシュタインに似て絡まり合って逆立っていた。
 祖母は縮んでしまっていた。その腰は曲がり、遍は身長が伸びたわけでもないのに、祖母より頭一つ半、高くなっていた。
「よう来たな、よう来てくれた」
 いつもの歓迎のせりふに、
「バス停に、来てくれてると思ってた」
 遍はこどもっぽい、甘えた口ぶりになった。祖母はあっさりと返した。
「この歳になると、坂の上り下りは、めったにようせんと。下りると、上るのが、かなんで」
 母の稼が、それに被せるように失望を口にした。
「えらいまあ、ちょっと来んうちに、変ってしもて」
「ちょっとって、あんたら何年も来んかったやんか」
「そんなん云われたかて、仕事があったもん」
「ふん。うちらも、いまだに仕事はやめとらへん」
 振り返ると、盆地が見渡せた。
 坂の上に立って、両腕いっぱいの世界を見渡す。
 今や青垣は、工場のために円形の囲みを崩され、南西一帯に乾いた地肌を暴露していた。新しく山肌につけられた道路が、やけに巨大に見えた。
 その斜め下に、龍王堂の屋根の曲線が昔と変らずに覗いていた。しかし工場の壁の下にあると、その屋根は豆腐に対する鷹の爪ほどに慎ましく見えた。
 稼は呆れたように云った。
「なにもわざわざ、あんな所に造らんでもよかったやろうに」
「それが、水源地のきれいな水が、要るんやてさ」
「それにあれは、何なの。田圃の真ん中の、変な建物」
「けったいやろ。ラブホテルやて。めだつのは商売やでって」
 踏切を越えた先に、マゼンダと紫で外壁を横縞に塗り、黄色い塀をめぐらし、細部に西洋の城の意匠を取り込んだ建物が出現していた。
 平野部にも、稲穂のないがらんとした区画が目立った。盆地はもはや、一面の緑のじゅうたんではなかった。
「バアチャン、こんなにあちこち、休耕ってこと?」
「高齢化でな、田圃をやめる人が多いんや。ああ、そっちは枝豆や。枝豆のほうが、今はお米よりお金になるんや。さあ家に入って、何か飲もう」
 遍はもう一度、世界に視線をさまよわせた。盆地中央の川は、成長した桜並木ですっかり覆い尽くされていた。遍が左手を開くと、銀色の鱗は今も鮮やかに、十六の夏と同じように手の上で輝いていた。あの川底に、もう龍はいない。それでも、まだ、こちら側に残っているものはあると思えた。

 ごちゃごちゃした台所で、梅のシロップの水割りをもらった。台所には電子レンジが置かれ、冷蔵庫がひとまわり大きくなっていた。そうした電化製品は、母の稼が両親の生活の便をおもんぱかってプレゼントしたものだった。
 あれこれの消息を語り合う母と祖母の傍らで、遍は台所の天井を見上げた。太い柱にはまだ龍王堂の厄除け札が貼ってあった。長らく取り替えられていないらしく、すっかりくすんで柱に溶け込んでいた。
 遍はひとりで家の奥へ行った。
 どの部屋も狭くなり、天井が低くなっていた。――自分が成長した証拠だとしたら、これはつまらない結果だと思った。畳の数を数えてみる。とほうもなく広い庄屋屋敷だと思っていたけれど、いつも寝ていた南東の部屋はただの六畳、床の間のある南座敷は八畳間だった。
 網戸から、庭を渡った風が吹き込んできた。深い軒の下で、畳はひんやりとしていた。以前と同じ位置にきれいに刈り込まれた同じ庭木があり、よく手入れされた庭の苔は、記憶と一致する深い緑色だ。
 奥の土壁を飾る古い武具を、遍は懐かしく眺めた。物心つく前からずっとそこにあった。架けられた槍の右側では、大黒柱が黒光りしていた。久しぶりに見ると、ほかでは目にしたことがないような太さの大黒柱だった。大黒柱だけでなく、床の間を囲む四本の柱も、異常なくらいに太くて立派な丸木だった。大古屋は、昔は本当に名家だったのだろう。
 遍は畳にねころんだ。
 肩口から風に浸された。
 天井の木目模様も、霧田津比女の横長の額も、変わりなかった。
 けれどその空間にいても、遍の心は乾いたまま、もはや夢は降ってこなかった。
 風と共に、何かが心に戻ってくるのをひたすら待った。

 夕食には、祖母の心尽くしの手料理が並んだ。いんげんのごまあえ、玉子豆腐、茗荷の吸い物。
「遍は、これが好きやったやろ?」
「そうだっけ。そうだった。おいしい」
 しかし、玉子豆腐は塩がきつかった。母が指摘すると、祖母は恥じた。
「年を取ると舌が鈍くなってあかんわ、口に合わんだら残して」
 夜は蒲団を敷き並べて一つ部屋に寝た。この家に母が泊まるのは、乳児だった行彦がいなくなってから、これが初めてだと遍はようやく気づいた。
 ――それでは、もう、ここに来てもよいことになったんだ。
 遍は祖母にお話をせがみたかったが、疲れているのか祖母はすぐに盛大ないびきをかいて寝入ってしまった。
 目が覚めると母の蒲団は、隣の座敷の、閉められた襖の向こうに移っていた。
「歳を取ると呼吸気管も悪くなるのかなあ」
 と母は朝食の玉子御飯を混ぜながら云い、祖母は、
「夜通しやかましゅうてすまんこって」
 とちょっとむくれた。

 朝の薄い影が路上に斜めにあるうちに、遍は外に出た。
 大古屋の部屋と同じように、村内のどの道も、狭く短く感じられた。
 舗装し直され、道幅が拡張されたところもあった。新しいカーブミラーやガードレールがついていたりした。
 ところどころの家も建て替わっていた。庇が黒い影を落とす日本家屋の合間に、別世界から竜巻きに飛ばされて着地したような家が出現していた。尖った三角屋根の下に、レモンイエローの横板を貼り、出窓にキャラクターグッズを並べた住宅があった。また、丸太を横組にし、ピンクの花を軒下に飾ったログハウスがあった。
 祖母が云うとおり、工場ができて村に雇用ができ、田舎を離れていた若い世代が戻ってきたのだろう。
 浴衣とTシャツと小さなこども服、といった三世代にわたる家族の洗濯物が、夏の朝日を浴びていた。車庫が庭先に建てられていたり、二台の車が玄関先に頭を並べて突っ込まれていたり、と農家の庭は手狭になっていた。
 かつて大木があった道の曲がり角には、切り株だけが残り、小さな納屋ほどに整った、立派なゴミの分別ボックスが設置されていた。
 遍は南に向かって坂を下った。このまま川を見てみるつもりだった。
 国道を渡り、線路を越えると、陽射しが強くなってきた。
 けったい、と祖母が評した、マゼンダと紫と黄のラブホテルに近づく。その塀に沿って歩くのは気がひけたが、そこがいつもの通り道だった。楔石の意匠で飾られた縦長の窓は閉ざされて黒く、小さな尖塔からは赤い文字で価格やサービスが垂れ幕に記されて垂れていた。
 気詰まりな気分で建物の横を通り過ぎてしまうと、懐かしい景色が見えた。稲はさらさらと風になびく。しかし緑の波頭が順に伝わっても、休耕田が行く手に待ち受けている。風の波はすぐに途切れて見えなくなる。

 川にはすぐ着いた。こどもの時には世界を横断する心地がしたが、おとなになった今の足で、盆地はほんのひとまたぎだった。
 桜の幹の間に、川岸に降りる立派な階段ができていた。コンクリートで固められた段を降りる時、以前は水音が聞こえないことに気がついた。降りた下には、パステルピンクのコンクリートタイルが数メートルの幅に敷き詰められていた。丸太を模した、これもコンクリートのテーブルとベンチが置かれていた。
 遍はまっすぐ前へ進んだ。
 平らな親水護岸は直線の縁となって終わり、その先には懐かしい川原石が転がっていた。
 川原石の間に入っても、しかし、水が近づいてこなかった。人の頭ほどの黒ずんだ石が折り重なり、流木や砂利が隙間に詰まっていた。
 大きな岩の横で立ち止まった。位置や頂上部の形からすると、乙女岩に違いない。乾いた基部は巨大な踵のような、意外な丸みを帯びていた。その周囲の地面には荒い砂利が敷き詰められている。かつて水はここを嘗めていた。この岩から、十一歳だった遍は水に落ちたのだった。
 その上を進むと、ざくざくと砂の緊密な模様は踏み壊され、ところどころに混じった大ぶりの石が足首を曲げてくた。寨の川原を歩くほどの永遠を感じたが、ほんの数歩の距離だった。
 水はようやく足元にあった。水の舌先が、石の影のように現れた。
 少ない流量が薄く平たく広がって、上流も下流も、石の隙間がようやく水に満たされる程度の浅さで、かろうじて流れていた。
 いや流れているというほどの動きもない。うっすらと左右に細長く広がる池だった。水はかすかに臭っていた。底の石を透かすのか、汚れているのか、これが今日の光線の加減なのか、濁った茶色をしていた。
 夏の昇っていく日射しは樹の枝を縫い、まぶしく降り注いでいた。短い影は真黒に石の裏側に貼り付き、向こう岸の樹木の下側をも埋めていた。
 炎天下、靴底を押してくる石は焼けている。両手を固く握りしめた。
 悪臭が高まる。岩と岩がつくる水溜りの角に、魚が白い腹を晒して、幾匹も浮んでいた。浅い水の温度は簡単に上昇し、焼けた石の間で魚が茹だり死ぬ。遍は足を早めた。
 その下流にあったのは、川ではなく水路だった。両岸と川底の三面を、ぴったりと全てコンクリートで固めた巨大な溝。あたりを見回し、地形を見定めると、川幅はここで狭まり、カーブしている。龍神淵は、たしかにこの場所だったに違いない。けれどもう、龍神淵であった赤い筋の入った滑らかな岩壁は、どこにもなかった。
 ――人間の力をもってすれば、神が行う以上に、どんなことでもできてしまう。
 ――せんというのも、大事やのに。
 遍はしばらく周囲を見回して、遠くの山の形だの、護岸の上に残されたわずかな薮だのに、過去へのつながりを求めた。
 しかしそれらの印は、思い出のきっかけとして働き始めることなく、遍はいつまでたっても、臭い巨きな水路の脇に、ものずきにも真夏の照り返しを浴びて無駄に立ち尽くしている、過去を伴わないひとりぼっちの二十歳だった。過去は自分の記憶の中にしかない。
 なにもかもが、散文的にばらばらと、脈絡もなく存在しているように思われた。
 魅惑がすっかり消え失せた場所は、つまらない場所のまま、どんなに見つめても変化の兆しもなかった。
 遍はかがんで足元の石を拾った。赤紫の筋が走り、全体に白っぽく乾いた石だ。龍神淵のかけらだろうか。夢中になるほどのものは、何も感じ取れなかった。――それは自分がおとなになったからなのか、それともこの物質自体が龍がいなくなってすっかり魅力をなくしたからか。
 遍は石を手のひらに乗せた。そこはもはや盆地の中心ではなかった。河原に石を滑り落とした。手のひらに埋められた三枚の銀の鱗が現れた。しかしその手のひらは奇形に見えた。美しいとは思えなかった。この手がこの世界の中心だとはとうてい思えなかった。
 道路に引き返す道は遠くて、本当に寨の川原にまぎれこんだ気がした。頭の芯から太陽に晒され、目の奥にまで黒い影が入ってきた。疲労と無力感が重くのしかかって、夢想の翼は広がらない。龍王堂がこれに加担したとは考えたくない。宇暁は反対したはずだ。堂主に、進退をかけて。しかしあの狡猾そうな老人は宇暁を納得させて既に逝き、今は宇暁が堂を継いでいる。
 物事から、龍から、置いていかれたという気がした。
 うまく仕組まれた予定調和だ。
 ――工場が水を大量に使い、川が干上がっても、水を必要とする田はちょうど減っている。農業から文句は出ない。工場に雇用がある。古臭い迷信はすたれた。皆、幸せになった、のか。
 こうした状況だから、遍は宇暁からの手紙を受け取ることになったのだ。――最後にお会いしましょう、という。
 遍は橋を渡った。石橋は古いまま、いまだに架け替えられてはいなかった。上流の方の国道を皆は車で通るので、幅の細いこの橋はほとんど使われなくなっている。石の隙間のセメントがこぼれ、その下から、鉄筋と荒い砂利が覗いていた。
 五分も歩けば道は上りになり、川南の山の端に到着した。遍は石段を一つずつ踏んでいった。ちょろちょろと細い水路を、三度、またいで渡った。
 苔むし傾きかけた門の柱に、小さな呼び鈴が下がっていた。遍は横にぶらさげられたばちを取り、そっと叩いた。門が崩れ落ちそうな気がしたので、静かに鳴らした。
 以前のように、若者が下駄を鳴らして駆け下りてきた。とても若く、今の遍より歳下に思えた。
 どうぞ、と小さな山門は開けられ、遍は首を屈めて、朽ちかけた木の敷居をまたいだ。
 道の両側の古い緑の木々はみっしりと茂り、以前と変わらない存在であるように思えた。
 黒砂利を敷き詰められた楕円形の広場に出た。広場は鬱蒼とした濃い緑に囲まれ、箒の掃き目が広がり始めた水紋の同心円のまま静止していた。足を置くと、ぎりぎりと足音がした。しかし山の方から、なぜか足音のこだまは帰ってこなかった。
 けれど、その小さな足音が響くか響かないかのうちに、板戸を開けて、宇暁が広場に現れた。同じように足元だけで小さく砂利を鳴らして近づき、
「ようこそ、いらっしゃいました」
 と案内を交替した。
 宇暁の髪は白くなっていた。顎を覆う短い鬚にも白が混じっていた。衣は緑青色のままだったが、流水文様は銀糸で表現されていた。結袈裟は豪華に飾られ、腰のあたりにも、何か謂れがあるのだろう物がぶらさがっている。
 穏やかに、宇暁は遍の足労に礼を云い、前と同じ広場の一隅へいざなった。
 遍は、自分がふつうに振る舞えているのが不思議だった。あれほど恋した人が、すぐ目の前にいる。緑の木々に囲まれた、柱と床と屋根だけの建物に遍と宇暁は上がり、草を編んだ円座を敷いて向い合った。
 面と向かうと、表層の形に遍は緊張した。相手は堂々とした中年半ばの男で、今や龍王堂の最高位の衣をまとっている。宇暁の目ではなく、宇暁の両膝に置かれた両手を遍は見た。指は太く、爪は短く、関節には皺が盛り上がり、見慣れない新たな染みを幾つも載せていた。その手は、遍の手とは全く異なっている。
「また、すばらしく、きれいになられた」
 そう宇暁は云った。遍は瞬発的な怒りで頬を染めた。
 思い切って目を上げて宇暁を見返すと、壁のような賞賛が立ちはだかっていた。
 かつてのように、その目に吸い込まれることはなかった。遍の視線は、邪念のない心からの賞賛の前で、あっさりと弾かれてしまった。
「今の水は、さしあげるほどでもないが」
 宇暁は立ち上がり、泉を囲んだ黒い石組に寄った。伏せてあった木の椀を二つ、石の上から取り上げた。それを岩の間にゆっくりとくぐらせ、湧きこぼれる水を受けた。大きな手のひらは片手に椀を一つずつ包み込み、座敷に運んだ。
 床板の上に椀を置いて退いていく手を遍は見て、椀を見て、それから両手で、濡れた椀を持ち上げた。
 覗き込むと、透明な水に木目が透けていた。周囲の緑の枝々が移り込んだ部分は、影の黒色をしていた。遍はおそるおそる一口飲み、二口飲み、緊張のあまり少し噎せた。
 宇暁は憮然とした表情で、片手で椀を傾け、水を咽に流し込んでいた。立派な衣に、手や椀から水滴が滴り落ちていた。
「これは、水です。H2Oです。それに他ならない。それ以外の物事は消えてしまった。この水に、もはや『神』は棲んでいない。森は溶けていない。歴史も消えて、地域の固有性も消えて、これはただの水になった。……山門を上って来て水を飲む人は、減っています。だから自分たちが何を失ったかを知らない。……いや、飲んでも気づかぬ人は気づかぬままなのだ。味わう舌を既に無くしているから。見えないものを形にするために、この堂があり、祭があったのですが。
 見えないものは、無くなった」
 遍は半分ほど水の残った椀を両手で回し、水を揺らした。映った木の影が崩れ、浅い灰色が椀の半分を覆った。
 水は平坦になっていた。かつて、物質の裏側にぴったりとはりついていた、ありえないどこにもない世界は、本当に、どこにもなくなってしまった。それはたしかに、H2Oだった。
「ここまで変わるなんて、想像できなかった……」
「これが私たちの世代が作っている時代です。蟻の巣の中で、一人ずつが砂を一粒持って右往左往している。自分の望みではない巣ができつつあるとき、社会とどう関り続けるかが問題です。プラカードを掲げて行進することも、不愉快なものは見ないふりを続けるのも、私の望む方法ではない。関らずに済ますこともできない。もとより、美十狛を売ったのは龍王堂です。龍王堂は既に選択し、加担した。それ以上に、地域の大勢も動いた」
「……どうしてこんなに、変わってしまったんだろう」
「かつて龍は、この土地の人々に、米を、金をもたらしました。多くの村人にとって、龍は金とつながった幻想として価値がありました。そして人々は、今の時代、自分たちにより多くの金をもたらすと思える別の幻想を追った。
 工場が誘致され、幻想は現実に現された。
 金が動けば、さらにその金を追って、飛んできて生える種がある。……この地域で、金が動きました。自然に人間が手を加える意味は、その成りゆきを自分の望む方向へ導く、ということにあるでしょう。望む方向とその価値観は、その時代の人間が決める」
 遍はまた、光も影もないただの水をひとくち飲み、椀を回した。椀の中が揺れても、それはただ、液体が粘性を示しているだけだった。
 宇暁はことばを継いだ。
「多数決で意思決定はなされる、という建前です。……異なる価値観、異なる幻想が、一つの椀の内で互いに相接しています。異文化が衝突する時のことは、歴史書が書いているように、戦いです。その後、大勢でないものは追いやられます、植物と同じように。この時、少数派にとって逃避は、正当な保全であり、義務であり、再生となります。龍王堂は移動します。準備は整いました。喪失の後には、移動です。我々の放浪の時代が、また始まるのです。四端の仲間たちは、既に先に行っています。……ところで、あなたはどうしますか?」
 遍は目を上げた。
 宇暁は遍を見ていた。
 目の前の宇暁の顔には、見慣れない皺が増えていた。
 遍を特権に位置づける龍は消えた。かつての少女はおとなになり、銀の川に龍を幻視する魔法を使えなくなった若い女は、単に修行の妨げでしかない。
 遍は視線を落とし、膝の上で左手を広げた。そこに、銀色の三枚の三角形はまだあった。
 遍は自分の手と、かたわらの宇暁の手とを見比べた。
 宇暁は遍のうつむいた顔を見て、遍は宇暁の手を見ていた。
 その手に触れたいと遍は思った。手を握ってもいいですかと聞くのは変だろう。そしてそれに許しが下りるとも考えられない。龍王堂は女性に触れることができない決まりだ。
 だからそうではないことばを、遍は押し出した。
「龍はいなくなったけれど、今の状況は、またいつか変化すると思います。それがいつになるかはわからないけれど、その時を自分の場所で待ち受けています」
 ――その日が来た後も、きっと今と同じように、その大きな手を握りたいと思うだろう。今のきもちは、けして一時の気の迷いではない、と遍は思った。誰かの温かい手を握りたい。誰かの手とは、これまでもこの先も、その手にほかならない。いつもすぐ近くにありながら、龍以上にけして触れ得ないでいる、ひとりの人の手だ。
 宇暁の手が動いた。宇暁は、着物の合わせから御札を出した。
「最後に、これをあなたに。これは、これまでの護符とは違います。龍王堂からではなく、私からの護符です。今の私の、持てる力を込めて作りました。受け取ってもらえますか?」
「……はい」
 宇暁がそう云うのなら、きっと意味のあるものだろうと遍は思った。宇暁は、床面を伝って御札を滑り出させ、紙片を置いて手を引いた。それを遍は両手で取り上げた。受け渡しをしても、これまでもいつもそうだったのと同じように、二人の手は触れ合わなかった。最後の受け渡しは終わった。
「これは、身代わり札です。大古屋家の玄関柱の、目につかない所へ貼ってください。いかなる者からも、遍さんを護る、と書いてあります。もしもの時に、もはやこの地を離れていても、私はあなたを護ります」
 遍は丁寧にそれをしまい、目を上げた。――遍さん。名を呼ばれたのは初めてだと思った。
「ありがとう」
 宇暁は云った。
「何が正しいとか、何が間違っているとかは、人には、わからないことかもしれません。人にわかることは、今この局面で何をするのが適切か、ということだけかもしれないと、最近とみに思うようになっています」
 森を揺らして、風が吹きぬけた。風は、かすかに薬品臭かった。
「水をもう一杯、いかがですか?」
 断ると別れだった。以前のように、並んで共に山を下った。宇暁の肩は、遍の肩の十数センチ上に並んでいた。
 橋まで送ってくれるその道中は、以前のようにやさしい心地を与えるものではなかった。遍は無数の怪物が群れているかのような高架の下の、騒音のただなかで立ち止まった。隣で宇暁がいぶかしげに足を止めた。隣で揺れている手を握りたい、と遍は望んだ。しかしその望みのままに動くことができなかった。――もし今、触れたら、宇暁の目的を、どれほど邪魔することになるだろう。
 宇暁は、遍が動き出すまで、隣で静かに待っていた。
 二人は黙って光の中に出て、怪物たちの歯の軋みが遠のいて、互いの声が聞こえる静けさになっても、口をきかなかった。水がほとんどない川に高く掛けられた古い石橋を渡ってしまうと、宇暁は会釈した。
「私には、まだすることが残っています。七世紀より我らが管理している剣を、今の時代の、より適切な場所に埋め直して来ます。……私が私の道を行き、あなたがあなたの道を行く時、私の道があなたの道の近くを通りますように。その時には、互いの道を歩みながらも、声を掛け合うくらいの慰めは得られますように」
「……お元気で」
「あなたも」
 宇暁は遍の前で腰をかがめ、腕を動かした。自分の手に、宇暁が手を近づけてくるように遍には思えた。しかし宇暁はその手を己の胸に当て、さらに頭を下げた。
 別れには、厳粛な悲しみだけでなく、滑稽さと失望をも感じた。宇暁はずるい、と遍は思った。老練な龍王堂の堂主は、龍の姫を切り捨て、この盆地よりも大きな別の目的を見る。そして龍は消え、魔法は解けた。龍王堂の神秘も消えた。いない龍を監視する最高位の男を、遍の側からも求める理由はなくなった。そのはずだ。
 龍王堂の男は引き返した。
 遍はひとりでラブホテルの横を通って坂の上に帰った。

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