『龍愛づる姫君』 (12)
12 雨
大気中の水蒸気が高所で凝結し、水滴となって地上に落ちるもの。雨天。絶え間なく降りそそぐもののたとえ。 雨の古音は、もと魚部の韻であった。
バイパスが通ることになった。計画線は、大古屋のわずかな田圃の真上を通った。田圃が売れ、祖父母の生活の心配はなくなった。しかし振込は、役所のすることだ。いつに幾ら入るのか、売れてからもよくわからなかった。それが入ってくれば、一千万にも二千万にもなるだろうとは思われた。
そんな話を母から電話で聞いた。別の都市で働いている遍には、ますます田舎が変わってしまうと感じられたが、祖父母のためには喜んだ。
しばらくして、祖父母が病気になり、あいついで入院した、と母から再び電話で聞き、仕事が忙しい折でも、すぐに見舞いの丁寧なファックスを書き送った。それから二週間たって、いいかげんそろそろ見舞に行ってちょうだい、小さい時ずいぶんかわいがってもらったでしょう、と、なぜか怒っている母から電話をもらった時は、毎日のファックスでは充分ではなかったのかと、とまどった。一週間先の連休を使って見舞いに行くのがなぜだめか、理解できなかったけれど、母の電話の声は、怒りを爆発させる寸前の気配だった。
遍は強引な休暇届を突っ込み、道路マップを調べ、バッグを軽自動車の後部座席にほうりこんで、早朝から高速道路を走った。
昼ごろ、道路はようやく母の住む都市に入り、鉄道としばらくは並行して走った。河口堰が稼動して数年後の晴れた川面には、カヌーも漁船も出ていなかった。
紅葉の山中を走り抜け、インターを降りると、盆地の手前だった。そこは、これまで車窓の外を飛び過ぎていった多くの山々とたいして変わり映えしない土地だった。盆地を囲む山は、その手前にある山と同じような、大きな土の盛り上がりの一つに過ぎなかった。
鉄道駅から少し離れた、町中の小さな病院へ、二十四歳の遍は慌しく車で乗りつけた。
よく晴れた晩秋の午後だ。よう来たな、よう来てくれた、といつも祖母は云って遍を迎えてくれた。――その声を、もうすぐ聞ける。
遍は病院の中に入った。町に新しくできたこの病院は、ひろびろとしたロビーの天窓から自然光が差し込み、フロアや壁は明るい白とパステルグリーンで統一されていた。
大古屋環《たまき》。祖母の名前が一つだけ掛けられた、個室の戸口を見つけて入った。
恐ろしく静かな中で、パイプに囲まれたベッドに横たわる、小さな祖母の躯を見た。祖母は左脇を下にして、ひとりきりで寝ていた。
贈り主として、豊彦叔父の名前が突き立てられた派手な花籠が、棚の上に載っていた。タオルや着替えや紙おむつや、何かが入ったビニール袋が、幅の狭いロッカーに、ぎちぎちに押し込められていた。
「バアチャン。バアチャン」
祖母はぴくりとも動かなかった。眠りを妨げないよう、遍はそばに座った。
「バアチャン。わたし。来たよ」
そっと呼びかけるうち、祖母が目をかっと開いた。濁った目だった。
「遍。遍かいな」
「バアチャン。遅くなってごめん。そう、遍が来たよ。わたし、遍だよ」
祖母は懸命に頭の向きを変えようとし、見ている遍には、それができないのだ、とようやくわかった。遍が祖母の視線の前に顔を持っていくと、祖母の手が突然、遍の顎をたがねのように掴んだ。思いがけず強く、容赦のない力だった。
「遍。ずっと云うておきたくて、待ってたんや。『三本松』を右に曲がって帰りな」
「え? 『三本松』ってどこにあるの?」
祖母は苦しそうな表情になった。
「遍。あかんあかん。わからへんのか。お茶を飲まずに帰るんや」
「え、……今、来たところだよ。バアチャン、わたしが来て嬉しくないの?」
遍がそう答えた時には、祖母の手は力なく滑り落ち、目は再び閉じられていた。祖母はまた眠り込んだようだった。
今のは寝言だったのだろうか。
「バアチャン」
遍は悲しいきもちで祖母のふとんを直し、寝顔を見守った。
祖母が再び、かっと目を見開いた。
「遍。そうなったらもう、龍を呼ぶしかないわ。だけど『影』がみんな溢れる。それでもええんか? あんたは何をどうしたいん。あんたは……」
「バアチャン?」
遍が聞き返した時には、祖母は寝息をたてていた。
しばらくたつと看護婦が来て、眠っている祖母に点滴を始め、遍には主治医の所へ行くよう指示した。遍は云われた部屋へ行った。
主治医はごく若い男性だった。医者は書類を広げた机に半身を向け、残りの半身を遍に向け、いろいろな説明をした。手術の後の経過がどうといったところで、その前の経緯を知らない遍には、さっぱりわからないことばかりだった。しかし誰かに伝えるまで、ちゃんと覚えておかなくてはいけないと責任を感じた。それでも覚えきれない。
「それで、いつ外出されますか」
「外出、とは何ですか」
「ずっと前から、家に帰るのなら今のうちです、と何度も申し上げて来ました。そう、おじいさんと二人暮しだから、体制が整わないんでしたよね。おじいさんも、この病院に入院していらっしゃるから。……ああ、先週、退院されましたか」
「家へ帰ったほうがいいなんて。初耳です。入院してなくていいんですか?」
「帰るのなら、今ですよ。何度も何度も、伝えてあります。御長男さんに」
そんな話に時間を費やしていて、外は柑橘類の汁をにじませたような、ぼんやりした夕暮れになっていた。
休暇は一日きりだった。遍は眠り続けている祖母に別れの挨拶をし、車に乗り込み、セルを回した。
国道から緑椀盆地に入った。いつも歩いて上った道を、ギヤをローにしてそろそろ上る。道は車の立場からはぎりぎりの幅で、突出している石垣や草木で車体をこすりそうになった。
坂ノ上の家では、祖父がはやばやと床に就いていた。
遍が部屋に入っていくと、
「来てくれたんか」
と起き上がった。
「ジイチャン、まだ調子悪いの? だいじょうぶ?」
「今日は午前中に病院へ行って、診察受けて、帰って来たら、疲れが出てな。バスは一日たった二本やで、不便でなあ。この時間なら、遍はタクシーで来たんかな」
「自分の車で来たよ。ジイチャン、お茶淹れようか」
遍は台所に立ってお茶を淹れ、祖母と食べるつもりで買った苺大福の箱を開けた。祖母と苺大福が食べられると思っていた自分の楽観が笑止だった。祖父は、入れ歯で食べにくそうにつきあってくれた。
「じゃあ、今日はこれで」
遍が立ち上がると、
「なんや、泊まっていってくれんのかな」
祖父はさみしそうにした。
「明日、仕事なの。あれ、ジイチャンは晩御飯、どうするの」
遍は慌てて冷蔵庫をのぞき、乾物入れの戸棚をのぞき、あるもので手早く食事をつくり、祖父に乞われて、時間を気にしつつも同じテーブルについた。黙々とした食卓に、咀嚼の音だけが響いた。
――ジイチャンは、目の前に置かんと食べへんで。
祖父の正面に並べた。高野豆腐。わかめと麩の味噌汁。切干大根の煮物。
話すことがなかった。
祖母がここにいないのに、楽しかったこども時代の話をするのが厭だった。遍は祖母がいつも座っていた椅子を避けて、祖父と斜め向かいの位置にいた。
祖父は黙ってけんめいに箸を動かしていた。本人の健康がおびやかされている時に、ほかを考える余裕はないのかもしれない。
余り物を、明日も食べられるように冷蔵庫にしまい、急須の茶葉を換え、ポットも湯で満たし、じゃあ帰る、元気で、と云うと祖父は、ありがとう、と云ってうつむいた。もう帰ってしまうんか、と涙を落とした。ありがとう。
遍は見なかったふりをした。
「また来るね」
「……今夜、泊まっていかんか」
「お母さんも、待ってるはずだから、あっちにも寄っていかなくちゃならないから。夜通し走って帰って、明日は仕事」
「来てくれて、ありがとうな。遍、ありがとう。本当にありがとう」
遍は車に乗り込んだ。バックミラーの中に、祖父はいつまでも立っていた。遍は真っ暗闇の中、こわごわと運転して坂を下った。
国道の向こうのラブホテルは閉業し、薄暗い廃墟になっていた。そのそばにコンビニができていた。工場の下の新しい道は高速道路のインターに直結した。カーブの途中で、山腹の龍王堂がちらりと見えた。木々の鬱蒼とした影にほとんど隠された屋根が、一瞬流れた。けれどあの御山には、もう誰もいない。
数時間走り、母の住む都市の、マンションの駐車場にようやく滑り込んだ。
エレベーターで塔の最上階へ昇り、こちらも久しぶりの、実家のドアを開けた。
母もベッドで寝ていた。
会う誰もが寝ている。――これがよくあると聞く共倒れなのか。
「遍、ようやく来たんか」
母は横になったまま、小さい声で話した。
秋口のことだった。稼は田舎へ赴き、環と共に、恩師の葬式に参列した。その帰り道、坂の上の家に寄った。人間いつどうなるかわからんな、と環は葬式帰りにしきりと繰り返した。環の望みは、農協への借金をいいかげん精算し、仕事をきっぱりと畳み、旅行すること。バイパスのお金が入るまで、あと何年かかるかわからない。それを待ってはいられない。台所で稼と話しているうちにさらにその気になって、環は帳簿を出して計算を始めた。ここ数年の有機野菜が思いのほか好調だった。豊彦に託したお金が戻ってきたら、借金をきれいに精算できることがわかった。
あの頃から景気が悪くなったことは承知しているから、約束どおり二倍三倍で戻ってくるとは思わない。元本だけでも返してもらおう、と環は、稼が見ている前で、さっそく電話をかけた。
やがて環は受話器を置き、
「だまされた!」
と一声叫ぶと、テーブルにつっぷして泣きじゃくった。
豊彦からは、一円も戻ってこない。稼は、こどもの前で常に毅然としていた母親が、その時に感情をあらわにしたことにも、実のきょうだいが親のお金をだまし取ったことにも、胸を衝かれた。
それまでの間、お金はなんとか立て替えるから、借金をともかく返してしまおう、と稼は奔走した。その頃、祖父が腹がはると云い出した。
盆にも正月にも来ないくせに、利子が真っ先に祖父のところへ駆けつけた。利子に付き添われて祖父は病院に連れられて行き、その日のうちにほかの家族とは相談なく手術を受けた。本当はなるべく開腹しないほうがいい、開けて空気に触れたら、きっとその後に具合が悪い箇所が出てきて、手術を重ねることになるという腸の内部を、空気に触れさせた。
稼は、手術を事後に知らされた。ほんとうに手術の必要があったのか、他の手段は取れなかったのかを、稼は疑問に思った。
祖父が手術してほどなく、環は癌を発症した。膵臓は、ストレスがあると癌ができるという箇所だ。これまで健康で元気だったぶん進行が早くて、見つかった時には既に手後れだった。
稼は、頻脈が出るようになり薬を処方してもらっている。更年期障害も重なっている。薬を飲むと、全てがぼうっと霞んで、きちんと考えることができなくなってしまう。それでも感情ははっきりしていて、豊彦と利子のことをすごく怒っている。けれど面と向かうと、ことばが一つも出てこない。そして表面上は、情けなく物事に流されてしまう。
稼は横になったまま、躯の向きを少し変え、天井を仰いだ。
「遍、病室に、叔父さんの名前のついた花籠、あった?」
「うん」
「見たら、捨てといて。あれ、厭味なの。自分がちゃんと見舞に来た、っていうことを云いたいだけ。親子の間柄で、なんで花籠に、名前入りの札や」
「今度見たら、そうする」
遍は徹夜で走って職場に戻った。
数日おいてまた母から電話が鳴り、駆けつけることを繰り返すうち、遍は戻れなくなった。退職して病院と二つの家の間を駆け回り、掃除と洗濯をし、食事の支度をし、あれこれと気を配り、もうこれ以上はできないと何度も思い、忙しさの中で何が大切なのかを見失った。
家事に追われるよりも、祖父母のそばに座って、ゆっくりと話でもすればよかったのだ。相手が眠っているのなら、ただ手を握って、さすってやればよかったのだ。
そんな落ち着いた時間を持たないまま、祖母がまず逝った。
母の弟家族は、新車で坂を上って来た。
叔父は生い茂った庭木に文句を云いながら、飛び石もその間の苔も、高級車の幅広のタイヤで踏みつけ、庭のどまんなかに車を止めた。手入れを欠いた庭に、花は咲いていず、土の凹凸や石ばかりが目についていた。
以前よりいっそう太った豊彦叔父と利子叔母の後ろから、いとこの鉄彦は、飾りのないベージュ系のシャツとチノパンで、眼鏡をかけ、本を小脇に抱え、うつむいて車を降りてきた。
台所に皆が座り、遍は人数分の湯飲みを並べて茶をついだ。埋蔵金を探していて、美十狛で襲われたあの夏から、鉄彦とは初めて顔を合わせる。しかしいとこは一言も口を開かなかった。鉄彦は、誰の目も見ずにおとなしく頭を下げると、さっさとイヤホンを嵌め、本を広げて英語の勉強を始めた。東大をめざして二浪中、と叔母が解説した。
葬式の段取りを決め、そのとおりに進行した。
遍は焼香が始まる直前で、貧血を起こした。だからほとんど何も見聞きせず、横になっている間に祖母は骨になってしまった。
祖母が亡くなってから、坂の上の庭はいっそう荒れた。亀石の周りを誰かが掘り返し始めたのだ。庭木も、枝を払われたり、根ごと掘り起こされたりしている。遍は叔父に電話した。叔父は意外なことを云った。
「ああ、おれが頼んだんや。近所から苦情が来てな。庭木が茂りすぎて日陰になるし、虫が行って困るそうやから。庭木を手入れしてくれるっていうで、自治会に一万円で頼んだ」
「木蓮も椿も、掘り起こされてました。それも叔父さんの指示ですか?」
「ああ、村の連中、剪定にかこつけて、勝手やりおって。そら埋蔵金探しや。なんにも古墳から出て来んだで、あの庭に埋まっとることになっとる。いまだに伝説を信じとんのや、こどもじゃあるまいに。しかも、それは昔、自分らの祖先から大古屋が騙し取った金やで、自分らのもんやと思い込んどる。年寄りはほんと、しょうがないな」
叔父は本気で怒っているようだった。
遍たちは車で移動するので、やってきた物音を聞きつけて姿を隠すのはたやすい。
不在のうちに、亀石の周囲が、日々掘られていった。
亀石は庭の中央にあり、いかにも意味ありげに目に映る。金があるのは亀石の下かもしれない、とは誰しも考えることらしい。
実際に土がどけられてみると、亀石は地中に続いていた。地表に出ていた部分はほんの一角で、亀の下にはひとまわり太い円柱状の石があり、石にはくまなく文様が刻まれていた。
堀り手たちは、ますます亀石はただならぬ石だと思ったらしい。穴はしだいに深くなった。石も深く続いていく。とてもひとりの力では掘れる深さではない穴がいつしか亀石の周囲を取り巻いていた。
亀石の全体は、地面に刺さった、巨大な石柱であるらしかった。
穴はなおも深くなり、高い梯子を使ってしか降りられない深さになり、やがて放棄された。昼間にのぞきこんでも、深い穴は闇をため、奥底までは見えない。光から離れていく向こうに、刻まれた文様が溶け込んで消えていた。石の底部には、まだたどりつけなかった。黄金ではなく、黄泉の国にまで続いているような闇に穴は浸されていた。
そんな家から、祖父はあいかわらず入退院を繰り返し、叔父夫婦が熱心に祖父の面倒をみていた。それで遍も稼も気を緩めてしまったのだ。
祖父の容態は急変した。
叔父夫婦が祖父を送る準備を整えたところへようやく、都会のマンションで休んでいた遍と稼は到着できた。鉄彦は特別講習があるからという理由で来なかった。
焼き場から『三本松』を左に曲がって、車二台は坂ノ上に戻る。春にはまだ遠い、枯れ果てたうらさびしい田舎道を、車を連ねて走った。遍は走るにつれてまたもや気分が悪くなり、とうとう車を路肩に寄せて止めた。助手席の母が、心配そうに遍を見た。
「疲れが出た? 今まで遍、がんばってくれてたから。お葬式の後で、張りつめていた気が切れて、どっと寝込む、ってよく聞くよ」
「きもちが悪い」
遍は、両手で両肩を抱いた。その腕も、感覚が急速になくなっていく。まるで体内を流れる血が全て、砂にでも変わっていくようだ。
「貧血? 吐く?」
「それとは、ちょっと違うかんじ。初めてのかんじ」
叔父たちの車は、とうに見えなくなっている。
遍は少しシートを倒し、胸郭を広げた。
「遍、ゆっくり休みなよ。家に着いたら話があるって云ってたけど、待たせておけばいいよ。遅れて到着すればいいから」
遍は窓を開けて、深く呼吸した。
「……お母さんは、わたしになら、そうしてふつうにしゃべれるんだね。今日こそ、叔父さんに云いたいことがあったんじゃなかったの。云ってやりなよ。すっきりしなよ」
母は辛そうな顔をした。
「云いたくても、云えんの。胸がどきどきしすぎて」
人が亡くなった後、片付ける仕事、話して決めなければいけない事は、いくらでもあると遍は知っていた。特にそれが、法律上の一家の長である男の死、遺された一人の死なら、なおさらだ。
気分はまだすぐれなかったが、遍はシートに背をもたせかけたまま、静かに車を発進させた。
喪服で台所のテーブルを囲んで座った。遍は習慣としてガス台の前に立ち、湯を沸かし始めた。
「見せたいものがあるんや」
豊彦叔父が礼服の内ポケットから、大事そうに一枚の紙片を取り出した。
この紙切れのために、二人は常に祖父の病室にべったりいたのだ、と遍にはようやくわかった。
豊彦に全てを譲るという文面で、日付と判と署名がある。立会人の名は婦長と主治医だった。
「入院中に、父さんと心が通じ合って、それで書いてくれたんや」
弟は得意げに姉に遺言状を示した。震える字のサインだった。病床の腕を動かした字だ。日付は祖父の亡くなった日だ。
「どうや、わかったか。皆、法律的にきちんと、わしのもんやでな。……さてと」
豊彦は黙りこくっている稼の返事を期待していなさそうに、祖父のものだった椅子に背をもたせかけ、家内をぐるりと見回した。
「……人殺し」
稼が呟いた。
豊彦と利子の表情が変わった。
一瞬の間を置いて、利子がテーブルの上に爆発するように泣き崩れた。
「お葬式してきたばっかりの時に、何てこと云うの……この遺言状は、お父さんの意思なのに。人の心を踏みにじるこんな醜い争い、お父さんは望まれないわ」
稼はよく通る声で云った。
「真実や。人殺し。親殺し」
「なんやおまえ、俺の家から出ていけ!」
顔を真っ赤にして豊彦が怒鳴り、テーブルを叩いた。
遍の視界の中で、二人の姿がぶれた。叔母は泣き、叔父は悪態をついた。
豊彦が椅子から立ち上がった。
「稼おまえ、父親の死に目に、いったいどんな世話をした。怠け病のくせに、偉そうに!」
利子は泣きじゃくり続けた。
「あんなに献身的に看病したのに、こんなこと云われるなんて、血も涙もない人たちだわ、長男の嫁いじめだわ。お父さんを悼むはずの時に、こんな争い、お父さんが嘆かれるわ」
「どろぼう」
稼の声は、さらによく通った。
「なんやと。もういっぺん云うてみろ」
恰幅のよい豊彦の躯が、椅子に座ったままの稼に迫った。
「そっちが手を出したら、わたしは『影』を呼ぶ」
稼は厳しい声で云った。豊彦は一瞬意表をつかれたように身を引いたが、
「『影』? いまさら、『神の影』か? いや久しぶりに聞いたわ、そんな古臭いこと。そんなん、すっかり忘れとったわ。もうちょっとましなこと云うたらどうや」
とあざ笑った。
痩せた稼は、青ざめた顔で、豊彦を見上げていた。
「わたしは今でも、れっきとした大古屋の女よ。わたしは、あんたを、呪える。こどもの頃から、それが怖かったんやなあ、豊彦。わたしを怖がっとったやろ。わたしには力がある。わたしが川原で苛めっ子に取り巻かれて『影』を呼んだん、豊彦は草の陰から見とったんやなあ。わたしが人を呪ったら何が起きたか、あんたは知っとった。だけど怖うて誰にも云えんだ。だからわたしが嫌いやったんや」
「……そら、まあ、稼は……」
豊彦はためらった。利子が鋭く叫んだ。
「嘘よ、嘘。この家には、御札があるから、影なんて呼べないわ。ただのはったり、脅しに決まってるわ」
豊彦の視線が、上に上がった。利子も遍も、いつも厄除け札が貼ってあった柱を見上げた。そこに龍王堂の護符はなかった。黒光りする柱に、貼り跡だけが白く残っていた。
その時、稼がテーブルの上の遺言状を取り上げ、二つに割き、四つに割き、粉々に割いた。
利子が狂ったように泣き叫びながら、台所を飛び出していった。稼をにらみつけていた豊彦も、ふっと視線を外し、利子を追った。
玄関でばたばたと足音がして、それが遠ざかっていくと、家は静まり返った。
遍は母の顔を見た。母は、青ざめてはいても、しっかりした表情をしていた。
今や家は、二人だけのものになった。ちょうどそのとき、先に火に掛けておいた湯が沸き出し、盛大に湯気を噴いた。稼は息を吐いて立ち上がると、ゆるゆるとした動作で、茶葉を準備した。
「云いたかったことが、ようやく云えたわ。こどもの時には、きょうだい喧嘩で弟に負けたことはなかったんよ。……だけど、破ってもたぶん、遺言状は有効かもな。形見だけ、今日じゅうにもらっていこう」
遍は不安な心持で母の傍らに寄った。
「お母さん。すぐ、この家を出よう」
「何もせずに帰るの?」
「うん。今すぐ。……そうしてこの家を出たら、二度と再び、敷居をまたげないと思う」
「そんな、厭や。ここが生まれ育った家やのに。形見も欲しい」
「……何だかすごく、よくないかんじがする」
遍の口調に何を聞き取ったのか、稼は遍の顔を真正面からしばらくじっと見て、
「わかった」
と素直な答えを返した。
母は湯を急須に注いだ。
「え、お母さん、お茶を飲むような暇は」
「待ってよ、たった今すぐじゃないやろ。お母さんに、お茶を一杯だけ飲ませてよ。でないと、心臓がどきどきして、動けん」
茶が注がれてゆく、湯のみが割れた。
「厭やわ、ひびでも入っとったのかな、何もせんのに割れて」
遍は、替わりになる新しい湯のみを急いで戸棚から出した。
稼は割れた陶器を片付けようとして、指先を切った。
「血」
どくん、と遍の心臓が打った。
鮮血の匂いがする。
日は高いのに、夜が迫ってくるような沈んだ心地に胸をふさがれて、遍は急いでティッシュを抜いた。椅子に座り込んだ母の指にそれを当てながら、内心苛立って、時間がない、と思っていた。傍らで茶が湯気をたてている。
稼は湯のみに口をつけた。それから、部屋を見回して云った。
「このテーブルと椅子のセット、それからテレビ、冷蔵庫、電子レンジ。これはわたしが、ジイチャンバアチャンに買ってあげたものや。これはうちのものやで、うちが持ってく。その権利はあるやろ」
「……それなら後で、便利屋でも頼もう」
そう云って、さっき車を運転していた時と同じ気分の悪さにまた見舞われ、遍も椅子に座り込んだ。血が砂にでも変わったようだ。――何かを忘れている気がする。電子レンジ、紙おむつの残り枚数、古い着物のマーケット、当面のお金に困って叔父たちに内緒で売ってしまった掛け軸。そうではない何か。
「お母さん。一刻も早く、この家を出よう」
稼は名残惜しそうに台所を見回した。
「もう来れんのか。ここで育ったのに。この太い梁に思い出があるんや。これは持って行けんな」
「……覚えておけばいい」
「あそこに、遍の絵がある」
見上げて母は、微笑んだ。
遍が座っているジイチャンの椅子からも、母が座っているバアチャンの椅子からも、顔を上げると、それぞれ額がちょうど見えるようになっていた。遍が夏休みに描き散らして置いていった絵が、立派な額に入って鴨居の上に並んでいた。
農作業をしている祖父母。畦道に座って画板を立てて描いたスケッチ。
台所で籠に山盛りになっているつやつやの夏野菜。茄子にトマトにししとう、最前列に茗荷。着色に失敗して濁っている。
咲き乱れる夏の庭。ひまわり、朝顔、とりどりの色の点描。
遍は椅子を動かしてその上に立ち、埃を舞い上げながら、絵を手早く外し始めた。懐かしさと嬉しさで泣き出しそうだった。祖父母はここでの思い出を、こんなにも大事に取っておいてくれた。もう二度と来られないのなら、遍は今、この絵を持って行きたかった。
「これはわたしのものだから、わたしが持って行く」
額のガラスは油で黒ずみ、汚れていた。数枚を重ねていくと、ずしりと重かった。
母も立ち上がった。
「あと、連れて行かなあかん、大事なもの。お骨を向こうに渡すわけにはいかん。お金はいい。だけどジイチャンバアチャンを、死んだ後まで向こうの手の内に置いていくのは厭や。持ち去ったら、向こうは怒るやろうな、長男のもんやと云うて。なにが長男や、この坂ノ上で。分けてもらっていこう」
「分けなくても、全部、連れて行こうよ」
遍は椅子の上から答えた。
母は奥の座敷へ行った。遍は椅子から下り、額を束ねる紐を引き出しから取り出そうとした。
しかし、遅かった。時間はもう、気づいた時には無くなっていた。
騒乱が近づいてくる。百人もの人間が一気に押し寄せてきたような音だ。あっというまに玄関に到着し、引き戸が開き、ことばになっていないおめき声が突進してきた。
大騒音と共に着いたのは、三人きりだった。
狂気を暴発させた狂犬。おとなの男の躯を持った鉄彦の手足が、むちゃくちゃにあたりのものを大きくなぎ倒し、暴風となって進んで来た。
おめき続ける声の塊の中から、ことばの切れ端が立ち上がっている。
「ママを泣かせた」
犬の飼い主が、その片腕にしがみついて思うまま振り回されていた。
「やめてやめて、わたしの辛さをわかってくれるのは、ぼくちゃんだけなの」
利子は矛盾することをせっせと云い募り、犬を止めるそぶりで、犬に乗ってけしかけている。その後ろから、倒れた傘立てや、散った花輪を踏み越え踏み越え、一家の長である赤鬼が、にたにたと笑みをこぼして歩いている。
その一団は、遍がいる台所の横をわきめもふらずに通り過ぎ、まっすぐ廊下へ進んで行った。誰も横へ視線をやらず、したがって誰も、一メートル離れた所で、埃っぽい額を腕いっぱいに抱えて立ちすくんでいる遍を見なかった。
龍。突然それしか遍の頭には浮かばなくなった。――龍の炎で三人に対抗する。けれど既に咽がからからに干上がっていて、一言も声が出ない。何と云って龍を呼ぶのだったか、混乱の中で、ことばがまるで思い浮かばない。ことばということばが、闇に落ちていく。
三人は土足で上がりこんで来ていた。古い畳の上についた足跡が、青く赤くぼうっと光って、すぐ消えるのが遍の目には見えた。
襖や廊下を隔てて離れた部屋にいるのに、遍には、骨壷を一つずつ左右の腕に抱いて座敷に正座している母の、黒い喪服の後ろ姿が目の中に見えた。
母の指先から、血が流れている。
血の匂いが、犬を引き寄せる。
――玄関の戸が開いた瞬間、母は頻脈の発作を起こしたに違いない、と遍は思った。それほどに不自然に動かないその背に、茶色の暴風はまっすぐ進み、一瞬で血煙を立てた。
なんのためらいもなかったから、早かった。
日焼けした古畳に、首筋から熱い飛沫を噴き出させながら、細い女の躯は横様に倒れ、狂犬は新たな血の匂いにいっそう躍り上がった。薄い痩せた躯から、一瞬でそんなにたくさんの赤が流れるなんて、思ってもいなかった。水をこぼしているような音が続き、銅の匂いが立ち昇る中、二つの骨壷から転がり出した骨が、交差し混じり合いながら、温かい真紅のベルベットの上に散らばった。
畳も、襖も、倒れたちゃぶ台の脚も、骨も、なにもかもごっちゃに、おかまいなしに、同じもので濡れていた。
喪服の上で真珠のネックレスの糸が切れる。弾け、散り乱れ、黒から離れて赤の上を転がっていく。
「ママを泣かせたら死刑、ママを泣かせたら死刑」
犬は何度でも興奮した跳躍を繰り返し、リプレイを止められない。背の真ん中は、背骨と肋骨が、アーミーナイフを弾き返す。その下の腹の中には、宝石のように数々の臓器が、どこもかしこも詰まっている。ナイフの刺さった瞬間だけ、腸や腎臓や肝臓の断面がちらりと刃の際に覗き、すぐに溢れる血で隠される。それを見ていようと思ったら、何度でも、突き刺していなければならない。
鉄彦は何度でも、同じ動きを繰り返し、息を荒く乱していく。
まるで夢中で、興奮しすぎて雑だった。
日が射して、座敷の色がいっそう鮮やかに艶めいた。けして光に触れるはずのない内臓の中の闇が、冬の午後の直射日光に照らされる。ありえない光景が現されていた。
生々しい匂いを、鉄彦はむさぼり嗅いでいた。生暖かい生の感触が、その手に直に掴まれていた。水の音は、畳にこぼれ広がり続ける。鉄彦の頬はほの赤く染まっていた。
「この躯はぼくのだ。ぼくんだ。ぼくの躯。この中はどうなってるの……ずっとずっと、ずっと想ってたんだよ……」
鉄彦は深い息を吐いた。
その間じゅう、利子は身も世もないようすで叫び続けながらも、手を伸ばし、畳のあちこちへ転がっていく本真珠を指先で止め、一つとして余さずにまめに拾い集めながら、
「これは夢よ」
と繰り返し云った。云えばそれが真実になるかのように。
「これは夢よ。これは夢」
骨壷からこぼれた骨はきれいに避けて、同じ白でも真珠の球だけを拾っていく。片手の窪みが、真珠の輝きで満ちていく。その手の下側から、血が滴り落ちる。指に嵌めた一カラットのダイヤモンドに、血の滴がぶら下がる。
家族を見つめる豊彦が、
「今の田舎は物騒なんや。これも外国人強盗団のしわざになるわ。後は火をかけて、全部燃したる」
とにやけふやけた声で云った。
遍には、その声に耳元で囁かれたかのように、毛を逆立てた。
遍の視覚も聴覚も、己の常の躯の範囲を越えていた。豊彦が家族を愛しそうに見る、ぎゅいんとした目玉の動きを、遍は感じた。一家は一つの物事を共有し、団結していた。秘密によっていっそうこれからも強化されていくだろう、互いを結びつける檻だ。
――母の心臓は、最初の暴力の鋭さで止まっているべきだ、と遍は願った。手足を震わせ、まばたきを忘れた目を見開いたまま、そう願った。
しかし、喪服の下の躯は、ずるりと動いた。犬が内側からこみあげてくる突破の間隔に背を丸め、豊彦がにやけて手をこまねいている隙に、細い女は動いた。ゆらゆらと水蒸気のようなものが立ちこめているのに、そばにいる三人は気がつかない。稼の中が、何か別のもので満たされていく。
切れている筋肉の手前に血管や神経の細い筋が垂れ揺れた状態で、それでも稼は、ずん、と似合わない地響きを伴い、立ち上がった。三人が驚いて顔を上げた。
稼は背を向けたまま壁に数歩進み、家の土台が崩れていくかのような大音響と共に、土壁から古い槍を取り上げた。鉄に螺鈿が巻かれ、埃にまみれ、ひどく重そうな、動かすところを一度も見たことがないその槍を、稼は壁の太い金具からやすやすと離した。
武具の重みが躯に掛かり、背や腹の切れ目が膨らんだ。青と赤の筋で覆われた臓器を、半ば切り口からはみ出させ、こぼしながら、稼は振り返った。
ひいっ、と利子が息を呑んだ。
「化け物!」
振り返った稼の顔は、影に同化した黒い空洞だった。頭上に薄い雲が湧き出している。はみ出し互いにくっつきあった腸や切れた神経で、下腹部はてらてらと装飾されていた。
鉄彦が蒼白な顔で、一言もなく部屋の隅へ飛び下がり、襖に背をぶつけた。
豊彦が稼を指差して叫ぶ。
「化け物や、化け物! 俺は昔から、知っとった! こいつは『龍』なんて呼べへん。『影』だけ呼ぶんや、できそこないが!」
豊彦に向かって、槍の先がぐるりと回転して近づく。稼と同じように雲気に包まれた穂先が、弟の胸を柔らかく刺した。豊彦はひどく意外そうな表情で、太った胸を丸めた。
腰を抜かした利子は、手を使って四つんばいで転がり逃げていた。利子は廊下に頭を突き出すと、ようやく息をついた。利子の膝頭には血の赤の上に踏み砕いた骨の粉が白くつき、手の窪みに拾い集めていた真珠は、また全部、転がし落としてしまっていた。
豊彦が一歩退いた。しかし胸を押さえて、にやりと笑った。豊彦は手を礼服の胸の合わせに差し入れ、小さな紙片を取り出した。
「家の柱の厄除け札はな、俺が取っといたんや。龍王堂が回収に来る前に、何かの役に立つかもしれんと思てな。やっぱり、役に立った。おまえはこれでやっつけられる。なんや痛くないで。この化け物は、俺に任せろ」
姉は槍を手に、弟は札を手に、二人はにらみあった。
その二人が対面する座敷の隅で、鉄彦が、躯の前側を稼の血で固め、呆然と立っていた。
稼に憑いた『影』に驚いて飛び退ってから、鉄彦は父に目標を奪われていた。掲げた手も、その手に握られて刃こぼれしているナイフも、血に濡れ固まって、もはや指から離せないように一体化している。その右手を突き立てたまま、鉄彦はゆらりと利子のほうを向いた。目は透明すぎるぐらい透明に、小春日和の午後の光を弾いていた。
虚ろな目のまま、鉄彦は腕を水平に倒した。ナイフの先端が利子をまっすぐ指した。鉄彦はナイフに操られるかのように前へ進み始めた。
腰が抜けたままの利子が金切り声で叫んだ。
「もうひとり! もうひとりいるのよ、ママを泣かせた化け物、龍にとりつかれた化け物」
廊下に半分躯をはみ出させた利子は、廊下の先から、遍を指差した。
遍の腰がふっと軽くなって、足は湯に浸されたスポンジよりも急速に、くにゃくにゃになっていく。
玄関はほんの数メートル先だ。外の白い光が漏れて来ている。三秒もあればそこから逃げ出せるはずなのに、今、立っているのがやっとだ。そのくせ、額縁ごと古い絵をしっかりと胸に抱えていて、その腕をゆるめることもできない。――これは夢ではない。
水平に掲げられた鉄彦のナイフの切っ先は、ひきつった利子の顔の上を通り過ぎ、直角に曲がって廊下に現れた。
「逃げなさい、遍」
座敷で母が、遍をかばおうとするように、一歩進んだ。
――動く。逃げる。
遍はまだ脇に大事な絵を抱えている。力が抜けた足を無理にひきずる。夢のふわふわした地面を歩くよりも困難だ。ようやく台所から次の間への敷居を越えた。その時、鉄彦は、既に横に立っていた。
遍の目に、玄関の扉は見えている。外は昨日とほとんど変わりない穏やかな一日だ。――けれど、自分はけしてこの部屋から出られない。襲われる。
身構えた時には、激しくぶつかる力が遍の腕の中に既にあった。半端でない力で遍は押し流された。部屋の隅に向かって飛ばされていった。その過程で、絵を覆うガラスがこなごなに砕け、巻き上がり放射状に広がった。飛沫の先の天井近い柱に、宇暁の護符が見えた。
遍は、護符と逆方向に、まだ押し流されていた。ガラスに次いで、その一撃の衝撃が伝わった古い紙が遍の側に丸く膨らみ、真ん中から四方に破れていった。たわんだ額縁の枠が砕けた。金属の縁は曲がり、木製の枠は折れた。
木とガラスの鋭い切っ先があちこちの方向に突き立っているというのに、血に濡れた狂犬の鼻面は、構わずにさらに飛び込んできた。二撃目。衝撃で吹き飛ばされる。
振り返ると、遍は玄関の外に立っていて、玄関の中では、いとこが真夏の風景をめちゃめちゃに砕いていた。
遍がいた所には、家の柱から落ちた古い御札があって、いとこの刃先にさらされていた。
――私は、あなたを護る。
遍はしばらく呆けていた。
ずっと前の夏の日に、別れに際して宇暁がくれた身代わり札は、この日まで玄関柱と同化して、ひっそりと貼り付いていた。今、遍の躯が本来あるはずだったところに、その御札はあった。遍は外に立ち、空手で、家の中を振り返っている。
いとこは血の美しさと、人を殺すことの簡単さに、懐かしく酔っていた。
遍の目には、犬が噛みつくたび、白い梵字が、開いた口の影で飛び上がるのが見えた。
額縁はいっそう曲がり、描かれた川の青も月の銀も、ナイフでこなごなに砕かれた。朝に採ったきゅうりも、トマトも、いとこの汗と、汗に溶けた稼の返り血を次々に染ませていく。その下で護りのことばは、ひとがたを形成していた。身代わり札が鉄彦に、それを遍だと思わせている。
鉄彦の右手が上がり、下がるたび、梵字の尖った曲がりの間に、切っ先は吸い込まれる。
「行きなさい、遍」
座敷の奥で、母が膝をつきながらくぐもった声で叫んだ。
その声で、動作のスイッチが入った。遍は両腕を広げた。激しい怒りが一挙に体内に満ちてくる。渦巻き、しかし、あまりに混乱しすぎている。渦巻くばかりで混沌は形にならず、外へのつながりを見出せず、また猛烈に渦巻く。ことばが一つも思い浮かばない。遍の内面は真っ暗な闇として広がっていた。田舎が変わってしまっても、今でもあちら側を呼び出せることは、母が見せてくれたのだが。
座敷で稼は、豊彦がかざす札の前で膝をついていた。弟が姉の暗い額を札で封じようとした。
「姉さん、最後は俺が勝ったな」
しかし稼はうずくまった姿勢から、弾かれたように飛んだ。
「そんな古い、ただの厄除け札なんか!」
槍が天井を打ち壊した。勢いで稼の躯も柱にぶつかり、割れた部材と切れた内臓がばらばらと降った。稼は雲気のたちこめる槍を振り回した。槍には巨大な力が備わっていた。槍の当たった柱が簡単に傾き、家全体がみしみしと揺れた。床柱としては異常に太い四本の柱と、それにつながる梁が傾き、乾いた割れた音を立てた。
稼の躯はふわりと落ちた。それと同時に、大音響と共に一トンの重量が床の間を押しつぶした。三百年分の埃がもうもうとたちこめ、破れた屋根から瓦が続々と降ってくる。血濡れた畳は衝撃で外れ、床板は割れ砕け、三百年ぶりに日の光を浴びる床下から、黴臭さがむっと上がった。歪んだ枠から襖が外れ、庭に面した窓ガラスが窓枠の内外へいっせいに砕け落ちた。壁の白漆喰も、その下の黄土色の土も崩れ落ちて、たわんだ竹の網が揺れていた。
床の間を囲む柱が周囲の部材を引きずって傾いたので、ぐんと天井が低くなっていた。それでもまだ、大黒柱とほかの柱と梁は、傾き歪んでも剛性を保って、屋根の残りを支えていた。破壊されたのは床の間の周辺で、それ以外の部屋はまだ家としての形を半分ほどは保っていた。
騒乱が収まった。利子が、頭を抱えていた両腕を離し、周囲を見渡した。舞い上がる埃の中でも、黄金の輝きは利子の目を射た。
豊彦の両腕が、助けを求めて振り回されていた。豊彦は、落ちてきた金の延べ板に足首から下を挟み潰されていた。
「予言されてた呪いや、助けてご先祖様! こんな死に方だけは厭や! 痛い痛い痛い!」
口から泡を吹きながら、必死に逃れようとするが、豊彦の両手で押しやる程度では、一トンの金の延べ板は動かない。金の表面には亀石と同じ模様が、細い薄墨でびっしりと描かれていた。既に豊彦の足先はちぎれて躯から離れていたが、豊彦はそれに気づかず、延べ板を持ち上げようとする仕草を続けて、ない足先を黄金の下から引き抜こうとしていた。額には汗が一列に並んでいた。
利子が立ち上がって手を打った。
「黄金や、黄金! ほんとにあった! 畳一畳は嘘やなかった! 龍憑きの化け物屋敷に、嫁に来たかいがあった! 十億、百億!」
利子は笑い始め、笑いが止まらなくなった。埃をかぶって真っ白になった利子の頭は何かに打たれたらしい大きな瘤でいびつになり、背中から血が流れていたが、利子は何も感じていないようだった。勢いよく利子は割れた瓦を蹴散らし駆け寄ると、金の上に全身を投げ出した。夫がうめいている横で、利子は平たい金の表面を両手両足できもちよさそうに泳いだ。
黄金板が載っているのは水平面の上ではなかった。金属面がやや傾き、豊彦の脚をさらに一センチずつ押し潰し始めた。豊彦の悲鳴が高まり、それは人間が咽から出す声には聞こえなかった。しかし利子は薄墨の模様の下の、暗い金の輝きだけを見つめ、手足を押し付けて息を荒くしていた。
「ママー」
傾いた廊下を、半身が赤い生き物になった鉄彦が、まだ右手にナイフをかざしたまま戻っていく。障害物にぶつかり、弾き返され、不思議そうに何度も突き当たる動作を繰り返した。傾いて閉ざされた襖を開けられずに、鉄彦はその手前をうろうろする。
「ママー」
右を向いて傾いた柱にぶつかり、百八十度向きを変えて、左側を塞いでしまった戸棚の背にぶつかり、正面を向いて閉じた襖にぶつかる。その動作を機械人形のように繰り返した。歪んだ襖の向こうは、箪笥の背で押さえられていて、容易には開かなくなっている。
「ママ、どこー」
利子は息子に返事をしなかった。利子はいまだ金の上に寝て、うっとりと両手で滑らかな表面をなでさすり、頬ずりしていた。隣で豊彦は真っ青な顔で、冷汗を滴らせ、目を泳がせていた。
家は半ば壊れ、壁だったところを空気が通っていた。遍は腰をかがめ、外れた戸を抜け、散乱した家具を回り込み、母の姿が消えたと思われるあたりへ進んだ。
「お母さん!」
ぼろぼろになった躯の稼は、ひどく小さくなって、廃墟の隙間に入り込んでいた。
「お母さん……」
遍は母がどんなに自分を想ってくれていたのか、自分が本当は母を好きだったことを、この時になって初めて悟っていた。
何か云いたそうに稼が口を開くと、口の中は血でいっぱいだった。
「……あまね。しあわせに」
口の形だけで伝え、稼の表情が変わった。『影』に浸された相から元の痩せた見慣れた顔に変わっていく。力を失って落ちた稼の手が、遍の左手に触れた。稼の躯から、既に『影』は離れていた。
「お母さん?」
『影』は瓦礫の間をゆっくりと這い進んでいた。こちらからあちらへ、障害物を一つずつ上り下りし、壊れた家を出た。『影』は荒れ果てた庭の中を滑った。その方角には、亀石がある。坂ノ上に落ちた『影』は、全て亀石に吸い寄せられる。
乾いた音と共に、石柱の頂にある亀の形状が割れた。亀の頭は甲羅から離れて地響きをたてて転がり、西を向いて止まった。
遍は母の血に濡れた自分の左手を見た。その横で母の手はもう動かなかった。遍は母の手を握った。左手がなお血に濡れた。
「お母さん!」
遍は大声で叫んでいた。
豊彦が、傾いた柱の向こうに、遍の姿を見つけた。
「鉄彦なんやおまえ、あれ、まだやってなかったんか……」
鉄彦はまだ、迷路を抜けられないでいた。青ざめた豊彦も死力をふりしぼった。叔父が喪服の外ポケットから拳銃を出すのを、遍は目を丸くして見つめた。
いとこが箪笥を押し倒してその上へ乗り、遍の目の前へひょっこり顔を突き出した。
叔父が引き金を引く。
ようやく遍の中で回路がつながった。十一の夏から、今日までの日が、一直線に見えた。左手の三枚の銀の鱗は、龍の女の血に濡れていた。母の血は温かかった。澄んだ怒りの中で遍は鋭く叫んだ。
「龍よ、来れ!」
遍の左半身が燃え立ち、銀色の孔に消えた。今や龍の通り道は、遍の左手そのものだった。腕の付け根までが孔と化し、遍は痛みのあまり鋭く叫んだ。ばらばらに拡散していく手のひらの粒子の中央に、鱗が三本の釘のように突き立っている。遍は叫び、膝をつき、痛みに耐え切れずに叫び続けた。
遍の頭上の屋根が抜け、木材と瓦が空中に弾け飛んだ。ぽっかりと丸く開いた屋根の上に、一筋の雲が立ちのぼった。みるみる太くなる龍雲は、遍の躯から湧き上がる水蒸気だ。遍はしゅうしゅうと音をたてる雲気に包まれ、歯を食いしばっていた。
「……ああ……」
手の中で何かがうごめいている。強くて違和感のある、そして懐かしい。それが動くたびに手の骨も筋肉もばらばらに割かれる。嘔吐がこみあげる。左手の孔はほの暗く、同時にほの明るく、ありったけの血の赤と銀を溶かしてあちら側へ続いている。手の中で龍の質量がうごめく。
「出でよ、龍!」
銀の魚が飛び出し、家の屋根は全て弾き飛ばされた。端の方の柱と梁だけが、ぐらぐら揺れながら残っていた。
豊彦は、取り落とした拳銃を拾おうとして、利子の肩を必死に叩いた。
「あいつをやっつけるんや、大元を!」
利子が真剣な顔で引き金に指をかけた。
龍が完全に現れるより早く、横から稲妻が走った。
雷電の光と熱の轟音の後、溶けた金塊の表面に、人間の骨と焼け焦げた肉と毛髪が半ば埋もれていた。突き出した一本の手は、一カラットのダイヤモンドの指輪の代わりに、小さな炭の塊をつけていた。
鉄彦は横倒しになった箪笥を越えて滑り降り、くすくすと笑い出した。
「ママ、きれいだよ。大好きな黄金と溶け合って、ママきれいだよ。ぼくより愛してた黄金と、ようやく一つになれて、よかったね。おめでとう!」
鉄彦の右手が、固まった血糊を破って開いた。小さなアーミーナイフが手から落ちた。激しく笑い出した鉄彦は、背中から仰向けに倒れ、瓦礫に埋もれた。
「ぼくは自由だ、自由だ、自由だ!」
落雷は炎を生み、小さくぱちぱちとはぜる音が瓦礫の間から聞こえ始めた。
遍は左腕を天に高く突き上げ、完全に現された巨龍をかざし、立ち上がった。
「あなたは、力を汚すな」
遍の横で、柔らかな声がした。遍が振り向くと、龍の息吹の火炎が杖をかざした宇暁の前面を焦がした。遍は右手を伸ばし、宇暁に触れようとした。
「これは夢?」
宇暁は身を引いた。
「あなたに触れられると、術は消える。出よう」
「でも」
遍は鉄彦がいるはずの瓦礫の小山へ向き直った。そこは既に燃え出した火に包まれていた。
「それよりも『影』だ。見ろ!」
宇暁、いや宇暁の形を取った身代わりの護符は、杖で庭を指した。
破れた壁から庭に走り出た。
割れた亀石の周囲は、すっかり黒く染まっていた。もげた亀の首の断面から、奔流となって黒い『影』が流れ出していた。さらに、彫刻された文様をなぞって黒く透明な『影』がにじみ出し、地面に掘られた深い縦穴を埋め、穴から溢れ出ていた。闇の洪水。じくじくとして半ば透明で、何の本体もないままに動いていた。
背後で、家が一気に大きな炎に包まれた。遍と宇暁は、炎の照り返しの中で、『影』の流れを追って走り出した。叫ぶ火の塊がその後ろから庭に走り出て、亀石の手前で穴に足を取られ、一瞬で『影』に満ちた深い地中に吸いまれた。
遍と宇暁は、庭を抜け、門を抜け、坂の上で立ち止まった。
盆地は湖になっていた。たぷたぷとした『影』に満ちた湖だった。緑椀の内部は、既に夜よりひとまわり暗い闇にすっかり埋められていた。その闇を透かして近くの風景は見え、底のほうはとっぷりと暮れている。宇暁は杖を握った手で印を結び、
「ナウマク サマンダボダナン オン ダリタラシタラ ララハラマダナ ソワカ!」
叫ぶと同時に杖を地面に突き立てた。
『影』の一滴が空に舞い上がり、細かく四散した。それらの粒は天蓋を駆け上り、天頂をめぐり、やがて落下を始めると、盆地を浸した闇の水面に、再び混じった。
宇暁は印契を解いた。
「この土地に、もはや向こうの世界への通り道はない」
四方の山が不気味な地鳴りを始めた。屋敷の背後の斜面から、ぱらぱらと土くれが落ちた。
宇暁は杖を構え直した。
『影』の湖は、見慣れた家や道を透かし見させている。全てが暗く揺れる中、家々からゆっくりと老人たちの姿が現れた。皆、稼と同じような『影』に喰われた暗い空洞の顔をして、よく研がれた鍬や鋤を躯の前に構えていた。
「千四百年ぶんの影が解き放たれた。千四百年ぶんの禍が起きる」
不気味な地鳴りの中で、向かいの山の工場が、基礎ごとすっぽりとゆるんだ地盤から外れ、もうもうと土埃を舞い上げながら、剥き出しの山腹を転落していった。転がりながら自重でコンクリート板が割れ、内部の鉄筋が露出され、それが折れ曲がり、さらにその周囲のコンクリートが細かく砕けた。中から金属の機械がこぼれ、岩に当たって弾け飛んだ。
工場内で堰き止められていた水が、いっせいに沢を下り始めた。
遍の頬に、龍の冷たい鱗が触れた。遍はその感触に頭を動かし、その身じろぎによって、むしろいっそう冷たい棘にその頬を埋めてしまっていた。
〈龍と人が触れ合い、さらにもう一つの『影』も加わる〉
頭上で龍が云った。遍と宇暁の躯に落ちていた『影』は、龍本体を離れ、坂を滑り落ちていった。
〈さて龍の姫よ、龍を呼び出し、おまえは何を望む。我は与え、奪う。姫が龍に全てを捧げることになるまで〉
「『影』を……」
遍は云いかけてやめた。その望みが要求する代償を思った。遍は必死で考えた。
――龍に望んで『影』の問題を解決してもらうのなら、龍を呼び出す価値がない。古代の龍の姫は、かつては龍の『影』をどうしていたのだろう。亀石が建てられる前、『影』は人の間に禍をもたらしていたのか。神を呼び、願いを叶えてもらう代償に加えて、『影』のなす災禍をも受ける? いや。
鎌を持った老人たちは、老人特有の急がない足取りで、暗い夜の中を歩いていた。しかし遅くとも確実な歩みだ。それぞれの庭を通り抜け、一人一人、道路に出てきた。
盆地を満たす闇の水位が下がり始めた。水が『影』を運んでいる。まんまんと満ちた『影』は川筋に添って切通しを通り、下流の平野に溢れ出しているらしい。同時に川の水が流量を増しつつある。
――亀石はなぜ建てられた? 霧田津比売の三カ条。龍呼ぶ時、影よけの文唱えるべし。
――どこへ影をよければいい。亀石は割れて、もはや『影』を容れられない。『影』が寄ると人は死ぬ。
地鳴りが四方の山々から続いている。
老人たちは右に左に曲がりながら、つづら折れの坂道を上り始めた。先頭のひとりの頭が、闇の水面から突き出した。ぎらりと光る鎌を持って、ゆっくりと坂を上ってくる。
――龍王堂が来たのは三百年前。亀石が造られたのは千四百年前。それ以前は、姫はひとりで龍を呼び、ひとりで『影』を――
龍呼ぶ時、影よけの文唱えるべし。『影』を――
遍は両腕を開いた。同族の血に濡れた黒い服の姫は命じた。
「『影』よ、龍の元へ寄れ! 龍の中へ入れ!」
その声は鋭く盆地の波の上を渡った。『影』はいっせいにざわめき、龍は哄笑して『影』の湖の上に踊り出た。
〈そうだ、龍の姫よ、それこそが正しい、かつてあった古い文だ!〉
『影』は幾つもの三角形の盛り上がりの波となり、龍の後を追った。すぐに全ての波は龍の下に集結して一つの高い波となり、竜巻に引かれる海面のように引き上げられた。
龍は満足げにその体躯を盆地の上でゆるりと回転させた。
しかしざわめきつつ龍の下にいっせいに集まったのは、あまりに大量の『影』だった。黒い湖面から高く伸び上がった波は、龍に触れる前にその自重によって崩れ落ち、そのとたん盆地の椀の縁をせり上がった。宇暁が遍の前に立ち、杖を構えた。
遍は、気づくと、杖を中心にした球状の空間に宇暁と共に包まれていた。球の外側は『影』の水流と飛沫で暗かった。
再び湖の中央へ戻ろうとする暗い水にその球は持ち上げられ、湖上へ運び出された。
龍は散った『影』を集めようとするように空を駆けた。『影』の湖水は、川筋に沿ってその一部を盆地の下流へこぼしながら、龍を追って動いた。その二つの動きにより、闇の湖水は、再び豊かに流れ始めた川水と共に、下流の平野へ一気に溢れ出した。
『影』たちが、緑椀の切通しを抜け、下流の町を浸す。暗い水流は、堤防と家々の屋根を越え、遍と宇暁の乗った小さな泡を水面で揉みながら、勢いよく流れてゆく。
上空を走る龍と共に、全ての水と『影』は海を目指して駆け下る。駆けるにつれて龍の躯は、大量の『影』に匹敵するほど巨大になる。強い流れは河口堰を打ち破り、暗い水は海へ踊り出た。遍と宇暁の乗った泡も、壊れた堰の間から海へ放り出された。
海上で、龍は咆哮した。
『影』は龍の下に円盤状に集結した。円の中心から一本の波が持ち上がった。それは高くなると同時に緻密になる。海面一帯を埋め尽くしていた『影』は、またたくまに一本の剣となり、龍の二つに垂れた尾の間に入った。
尾は剣を埋め、両側からぴたりとついて、一本の尾になった。龍が再び咆哮すると、激しく雲気が立ち昇り、上空に雲が沸き広がっていく。
〈この龍は、失われていた部分を、取り戻したぞ! もはやこしゃくな堂の呪句ごときでは、二度と縛られぬ!〉
龍は雲を沸き立たせながら、尾を自らの口で噛み、ぐるりと洋上に浮かんだ。その巨大な輪の内側には、遍と宇暁の入った泡が浮んでいた。
大きな片目で、龍は宇暁を見据えた。
宇暁は杖を龍に向かってかざした。
龍の巨体がゆらりとかしいだ。
宇暁はなおも杖をかざす。
龍はちかりと笑って空に飛び上がる。
風圧で半球は波を越え、岸に打ち上げられ、遍は浜に転がり出た。
肌を傷つける荒い砂と、砂のところどころに半ば埋まったプラスチック容器、波で丸くなったガラス瓶のかけら、海草の切れ端。潮の匂いがきついそのごつごつとした浜。泡から出てきたのは遍ひとりで、一緒にいた宇暁は消えてしまっていた。
「まさか、龍……」
顔を上げると、目の前に本物の宇暁がいた。緑椀から海まで、遍を護ってきた泡の中の護符は使い果たされてしまったが、宇暁は浜辺に立ち、いまだ目を閉じ、杖を持った手で印契を結んでいた。
遍は波打ち際に腰までつかったまま、空を仰いだ。
雲に満ちた上空で、龍が髄の入った尾を一振りすると、天頂に孔が開いた。龍は自力で自在に開けた露頭の周りを、満足げに一回りした。それからゆうゆうと、青みを帯びた天頂の孔を抜けていく。
こちら側からあちら側へ行く龍の動きに感応し、浜辺にいる遍の左手の鱗も燃え立った。遍は苦痛に躯を折り、右手で左手首を押さえつけた。ありったけの赤と銀が瞼の中で弾ける。遍は耐え切れずに小さく叫び、躯を横に倒し、熱い左手を砂浜に押し付けた。寄せてきた波が手を洗うに任せる。洗剤の泡が波の縁にぷつぷつと弾けているが、遍はそんな海であっても冷たさを心地よく感じて、目を細めて、波に手のひらを預けた。
空間が裏返り、光彩は消える。
空に広がった雲が、雨を降らせ始めた。
宇暁は天頂をにらみつけて立ち、顔に雨を受けている。
遍は堅い砂とごみの上に横たわり、まだ肩で息をしていた。
何かを砕く音がした。宇暁が膝の上で、自らの杖を折っていた。
「わたしは人を殺めた」
宇暁は二つの木片を、打ち寄せる波に投げ捨てた。
遍は雨に濡れた上体を起こした。
「どうして、わたしが、生きているんだろう」
立ち上がろうとして、遍の足が滑った。遍は湿った砂に手をついた。
宇暁が遍に近づき、腰をかがめて、手を差し出した。指の太い、大きな手だ。
遍はその手に向かって、ほっそりした左手を挙げた。手のひらには、燃える鱗がまだ突き立っている。
宇暁の指先がそっと遍の手に触れると、鱗は金色に変わり、黄金の板となって遍の手のひらから剥がれ落ちた。
宇暁は遍の手を取り、遍を助け起こした。
人の手の温もりは、驚嘆するほど温かく、ここちよかった。
(了)
参照文献
各章説明文/広辞苑、字統
作中引用歌/正岡子規
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