『龍愛づる姫君』 (2)

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2 友

常に親しく交わるなかま。また、志を同じくする人。友人。ともだち。同じ集団に属する者。同行の者。道連れ。 字体は二又に従う。各々手をもって助ける意。友とは同族の間における友誼の情をいう語。


 よく晴れた真昼、遍は祖父母と共に坂を下りた。日向を歩くと、黒い服が熱気を吸い込んだ。
 国道の脇で、轟音と排気ガスを頭から被り、バスを待った。
 黒い服の下で、そこだけひやりと胸の間に貼り付いている護符の感触があった。祖母は華やかな古い着物の切れ端で、かわいらしい御守袋を縫い、中に龍王堂の御札を折り畳んで納めてくれた。袋の口は固く紐でくくられた。紐で首に掛けることもできるし、ピンを取り付ければ髪に留めることもできる。
 男から渡されたときには手を出さなかったが、祖母がそうして厚くくるんでくれたものは、受け取って首に掛けていた。御守袋は祖母の匂いがする。
 やってきたバスに、遍は祖母ともども乗り込んだ。作業着の祖父は路上に残って、にこにこと手を振った。
「全くジイチャンは毎日働きづめで、今日ぐらい休めばいいのに。することをせん、というのも大事やのに。今日は遍が帰ってしまうんやで」
 首と腕が痛くなっても、遍は後ろを向いたまま、祖父に手を振り返した。やがてカーブの膨らみに祖父の痩せた長身は隠された。遍は座席に座り直した。
「夏休みが、終わらなかったら、いいのに」
「バアチャンも、そう思うわ」
 バスは田圃の中の一本道を東へ走り、切り通しを抜けた。崖の向こうには平野が広がっていた。盆地を抜け出しても川はしばらく傍らを流れていた。走る窓ガラスごしに銀色の平らな面のきらめきは遠く見えた。やがて国道と川は離れていき、両側に商店がぽつぽつと立ち始めた。バスの車内に乗客が増えていった。
 終点の駅前で降りた。ロータリーも駅舎も夏の陽射しに焼けていた。きつい照り返しの駅前の商店街を、買い物袋を提げた人たちがぞろぞろと歩いていた。
 祖母は窓口に向かい、切符を一枚買って遍に渡した。
 云われるまま仕舞い、ポケットから出した遍の手を、祖母は握り続けた。
「よう来てくれたな。長い間ずっとおってくれて、ありがとうな」
 祖母は遍に繰り返しそう云い、長い間、手を離さなかった。ふっくらとしたその手は、柔らかく遍の手を包んでいた。遍は、なぜ礼を云われるのかよくわからないまま、そうされていた。
 まだ時間があったので、二人は構内のベンチに座り、アイスクリームを食べた。駅の売店で、クーラーボックスの中のアイスはどれも霜にまみれて固く凍っていた。かちかちのバニラを少しずつ口に運ぶ間、二人は黙っていた。
 埃っぽい駅舎の片隅で、遍は冷たいクリームで頬を痺れさせ、ガムと鳥の糞で黒白に汚れた床を見ながら、残してきた銀の川を、庭で実ったひまわりの種を、朝顔の薄く重なる花びらを、揺れる稲穂を、四方を囲む山垣を、盆地のみずみずしい暗闇を思った。
 一方、祖母が思っているのは、それとは違う事のようだった。
「お母さんお父さんに、よろしゅうに」
 ようやく、祖母は心配そうに、喪服の遍に云った。
「うん」
「また来てな」
「うん」
「また今度来るって、約束して」
「うん。約束する。また来る」
 その、また今度、というのは、あまりにも遠すぎる約束のように感じられた。
 電車が入ってきて、乗客がいっせいに降りた。行き先表示が回転し、大都市のものに変わった。アイスをなんとか片付けて、二人は立ち上がった。
 もう一度、いや一度だけではなく何度でも、別れの挨拶が交わされた。祖母はこどもに繰り返しさよならと云い、さよならと云った後でも握った手を離さなかった。遍も何度もさよならを返した。
 ついに祖母の手の感触が離れ、遍はひとりで改札を通り、客車の窓際に座った。
 それから発車の瞬間まで、祖母は手を振り続け、遍はしだいに恥ずかしく感じながら、手を振り返し続けた。やがて車両は滑り出し、動き始めたらあっというまに駅舎もプラットフォームも後ろに置き去りにした。
 電車はしばらく川に添って走った。山の圧迫が背後の空に遠ざかり、下流の平野が開けてくる。
 遍は窓枠に肘をつき、再び傍らに近づいてきた流れを眺めた。川幅が広がってきても、あの龍の棲む川には違いなかった。
 しかし線路はすぐに流れとは違う方向にそれていき、何度もひなびた駅に停まりながら、しだいに大都会へ近づいた。
 工場の煙突、ガスタンク、下水処理場、生け簀、自動車教習所、パチンコ屋、小学校や中学校のグラウンド、駅前に小さく固まった飲み屋街。そうしたものが緑の丘の合間からちらちらと現れて背後に追いやられる。緑はしだいに少なくなり、山は遠くなり、駅舎は大きくなる。乗り降りの足音も増えて、遍の隣には雑誌を広げたおとなが座り、向かいには入念な化粧の女性が足を組んで座った。
 車輪の下から大きな音が響き、窓の外を斜めの影が規則正しく横切る。車両は河を渡る。あの龍のいた川が支流の一本となって注ぎ込み、さらに近隣の河と合流し、大きな河となる。
 海近くの広い水面は一面にさざ波で覆われ、黒と金に光っていた。小舟が幾つも出て、何かを捕っている。水平線には巨大な丸い柱が一本、立ち上がっていた。その建設中の河口堰の周りには、幾艘もの色鮮やかなカヌーが泳ぎ回り、角度によって、乗り手が膝の上に立てた建設反対のプラカードの文字が読めた。
 水が風に押し戻され、下流からいっせいに波の影の向きが変わった。堤防の上を、揃いのユニフォームで一団となって走っていく少年たちの姿があった。気の早い薄の穂が伸び、空の筋雲は秋めいていた。
 河を越えると、一気に大都市が広がった。線路の両側にビルが迫り、壁面が近すぎて一つ一つの建物を見ることはできない。どれもが一瞬の灰色の影と、車体に軽い衝撃をもたらす空気圧となって過ぎた。その圧してくる影の中を延々と走り、駅に着く頃にはより高く伸びたビルの影で、線路は日暮れのように暗い。
 昼でも電気が煌々とついている。幾重にも鳴り響く発車ベルとアナウンスと話声の層をかいくぐり、遍は荷物を抱えて駅から出た。
 何度か、急ぎ足のおとなに突き飛ばされそうになった。ひとりだけ別の時空を生きていたような不慣れな心地で、人と色とが密集し混雑した商店街を通り抜け、地下鉄に乗り継いだ。
 地下鉄の車内で、人の視線が、たびたび遍の上を掠めていった。
「あの子、見て」
「何だか雰囲気が。厭だ」
「怖いよね。魔女の子みたい」
 反射的に、遍は左手を握り締めた。腕の中で、鞄が次第に持ち重りしてきた。
 降車駅から、十五分歩いた。道の両脇は鮮やかな看板に埋め尽くされ、新しい店もできていた。前にそこが何の店だったか、遍は思い出すことができなかった。
 昔は城下町の外れだったという、ごちゃごちゃとした下町の屋根の上に、十五階建ての白けたマンションの先端がのぞいた。

 マンションの最上階の玄関を開けて、黒服の母に迎えられた。同じ喪の黒で対面する遍は、緊張を感じた。――遍が魔女の子なら、母は魔女そのものだ。
 鞄を開けると田舎の空気が拡散し、草いきれと日向の感触があっというまに消えていった。向こうではあたりまえにあったものが、ここでは稀少品になる。朝採りのきゅうり。白い桔梗の花束。梅のシロップ漬け小瓶。
 母は顔を遍のほうに向け、しかし目は虚ろに宙を見ていた。
 夕方、帰ってきた父も活力がなかった。そのくせ二人のおとなの内側には、何かが溜まり、膨らみつつあるらしかった。ぴりぴりとした悲しみは、怒りと相似形をしている。食事をしていても洗濯物を畳んでいても死の謎にふけってるおとなの横で、遍は、赤ん坊がいたとき以上に、この場にいない、目に映らず耳に聞こえない透明な存在になっていた。
 夜は、誰ともおやすみを云い合わなかった。自分で電気を消して、個室のベッドに横になった。
 ――『影』があの子の命を奪った。もしかそうではなくても、自分が川に落ちるごたごたがあったから、赤ん坊から目を離してしまった。
 自分には、親に愛される資格なんてない、と遍には思えた。
 闇の中に左手を伸ばすと、指先から暗がりに溶け込んだ。左手に右手を添わせ、傷痕の盛り上がりをなぞった。
 ――この傷は、だいじょうぶ、心配ない。おとなになるまでに、消えますよ。そう医者は云った。
 遍は右手で首元を探って、御守を手のひらに包み込んだ。手のくぼみの中で小さな袋は、祖母が別れに際して握ってくれた、あのふっくらした手と同じ柔らかさに思えた。指先に紐が当たった。
 遍は袋の口を開けて、薄い紙片を取り出した。闇に目が慣れて、カーテンごしの薄明かりで、紙が鈍く光るのが見えた。その紙は何でできているのか、指で掴んでもよくわからなかった。開いて見ても、やっぱり字は読めない。
 枕の上に遍は紙片を置き、おそるおそる、左手を近づけていった。御札に触れて、龍のように自分が今夜、このまま左手から消えてしまってもかまわないと思った。しかし左手は紙に突き当たり、ただ滑らかな感触を受け止めた。
 すべすべした紙の表面を、左手のひらでなでた。
 その瞬間、文字の幾つかが、かすれて消えかけた。
 暗がりの中で、遍は、字が薄くなったことに気づかなかった。
 遍はまた護符を畳んで巾着袋に入れた。きゅっと握り締める。祖母の匂いがする。
 クーラーの静かな機械音が続いている。鉄筋コンクリートの柱と梁に囲まれた個室で、遍は夜ごとに隣で語ってくれた祖母の声が、今も隣にあってほしい、と願った。

「川は、一番低いところを流れとると思うやろ。ところがな、上流から岩だの流木だの流れ落ちてきて、水路が混雑してくると、水は、ばあと別の方へ行ってしまうのよ。隣の田圃を浸して流れて、今はこっちのほうが流れやすいんです、と涼しい顔をしとるんや。
 それで、あちこちをだらだらと水が流れるうちに、この盆地はますます平らに、肥沃になっていってな。
 よう稲が実るんや。なにしろ、川の水には龍神さんが棲んではるでな、水が、さあと流れたところには、龍の鱗が溶けとるのや。残された龍の鱗を、田圃にいっしょに鍬き込むと、土が豊かになるんや。
 だけど、収穫間際の田圃に水が来ると、稲が全部だめになってしまう」
 そこで龍に、田圃に入ってこないよう、よくお願いして、いろいろお供えし祀り上げて、うんといい思いをさせてやるのだと祖母は云った。大古屋は、龍とそうした取引をする術を知っていたから、村一番の長者になった。大古屋は龍と対話することができた。龍の望むものを供えることができた。
 それでも、『神』は『神』の時間の中で生きている。それが人の論理からは、気まぐれに映る。時に稲を流され、嘆くことになる。
「だけどある時から、川の氾濫はなくなった。なんでかわかる?
 十元岩というものが、置かれたからなんや。
 国道渡ってまっすぐ行って、橋の手前で右に曲がってずうっと行くと、その岩があるよ。
 その岩が、どうしてできたかというとな。
 ある大雨の時な、龍王堂の十元さんて人が、山から降りて来たんや。十元さんはなあ、何年か前にふらっと龍王堂に入った人で、修験者になる前は何やっとったんか知らんけど、えらく躯の大きい、背が高いだけじゃなくって横幅もすごいある、たいした大男やったんやて。いつも赤ら顔で、山門に入っとるくせに大酒呑みって噂があって、皆、十元さんのことを怖がっとった。
 その荒くれ十元さんがな、折しも山から流れ落ちてきた岩を、川の中にざぶざぶ入って持ち上げてな、
『はあああーっ』
 気合もろとも、川の根元のほうに投げつけたんや。どばあ、ごろんって、岩は川の端に落ちた。そしたら、そこで川の流れがすうーと曲がってな、田圃のほうには入ってこんくなったんや。
 見える人には、龍の鬚の片方が、岩の下敷きになっとるのが見えたわな――」
 遍はひとりベッドに横たわり、目を閉じた闇の中に、龍の透明な鬚を見た。細い長い筋の一本が、大岩の下敷きになって、龍が苛立たしげに流身をくねらせようとするのを見た。
 と、龍の鱗が数枚、龍の躯から離れた。
 光る三枚の鱗だけが分離して、闇をこちらへ、すう、と流れてきた。残された龍の躯の、欠けた鱗の間には、細い髪が幾筋か絡まっている。自分の髪だ、と遍は思った。遍と龍は、髪と鱗を交換してしまっていた。それは、互いに強くつながったことを意味するのだろう。
 遍の髪を絡ませた龍の躯は闇に溶け消え、三枚の鱗だけが、まっすぐに遍の方へ流れ続けている。鱗の下に小さな躯が生まれたのか、それとも鱗が膨らんで変化していったのか、いつのまにか、こちらに向かって宙を泳いでくるのは、鯉に似た形をした魚になっていた。
 そのものは遍の枕元に近づいた。
 遍は考えることなく、そっと左手を出していた。既に夢に入っているのだと思った。
 遍の手のひらに、魚は小さな鰭を打ち付けた。透明な躯が当たっても、手に感触はなかった。尾をひるがえす仕草がかわいい。
 自分が笑っていることを意識しないまま、遍は声をたてて笑っていた。

 新学期はすぐに始まった。
 長雨がしっとりと町を覆い、季節は一気に秋に傾いた。
 母と父の二人とも、祖父母と同じように、赤ん坊を話題にはしなかった。しかし、ベビーベッドは片付いていなかった。色鮮やかなモビールが空のベッドの上で回転し続けていた。小さな服の一枚も捨てられていなかった。それどころか母は、毎日一枚ずつそれを洗濯し続けた。
 港に近い下町の一角に、十五階建てのマンションは塔のようにそびえ建っている。白亜の塔の足下はごちゃごちゃした繁華街で、極彩色の欲望が渦を巻いて押し寄せている。塔に住む少女は、エレベーターで下に降りるたび、重なり合い混乱した他人の欲のただなかに放り込まれた。泳ぎきらねば帰れない。
 路地にはズボンの前を開けた男が自転車に乗っていて、人通りのある所まで執拗に追いかけられた。公園の電話ボックスを内側から開けて、新鮮な血をください、と頭を下げた痩せた若者は、少女が首を横に振ると、踵から巻き戻されるようにするすると元のボックスの中に引きこもり、人形めいた無表情で遠くを見たまま、ガラスのドアを内側から閉めた。クラブの看板が林立し、夕方には呼び込みの黒服が立つ通りを、クラスメイト達が妙にはしゃぎながら、遍には気づかず歩いていった。
 他人の幻想に追い回される以外の大半の時間は、静寂の中に過ぎていた。
 時間割どおりの授業と決められたとおりの知識、科学法則と文法と計算方法。それはまるで自分とは関係のない所からもたらされた、死んで乾ききった花束のように思えた。一つずつ花びらを数え、枚数を覚え、解体のしかたを教わる。生活には直接関係がないが、それを覚えなければ生徒として生活できないから、テストまで頭に入れておく必要がある技術だ。しかし覚えたつもりが、いつしか零れて消えていく。
 零れて消えるものの替わりに現れるのは、いつも同じ、あの透明な魚だ。ノートに伏せた視野の上側の境界から、丸い頭が覗く。慌てて目を上げると、左右に振れた尾の残像を見る。
 また別の時、並木道を歩いていると、それはやってくる。秋の明るい風に、肩の高さで遍の髪がなびいている。髪の向こう側を、歩く速さでショウウインドウが流れる。その髪とショウウインドウの反射の間に、ガラスの魚が見え隠れする。振り向いたり、立ち止まったりすると、街の猥雑な照り返しの中に消えてしまう。
 その透明な魚は、ほかの人の目には見えない存在だ。
「遍ちゃん、どうしたの?」
「……え?」
「目だけ、きょろきょろしてる」
「あの、ううん、何でもない」
 目で魚の動きを追うのは、ほかのこどもからは変な動作に映る。遍はあちらとこちらの間を泳いでいるような生き物が、緑をじっと見つめた後に、景色の上に載る赤のような、錯覚でできた像なのかどうかも掴めなかった。

 朝礼で貧血を起こして保健室に担ぎ込まれ、目を開けた時も、先生のかけている眼鏡の反射と同時に、その魚が見えた。
「吉谷《よしたに》遍、またおまえか。だいじょうぶか?」
 気さくな声が響いた。ぼさぼさ髪をゴムで一つにひっつめた若い女の先生が、魚の向こうにいた。
 朝ごはんを食べたか、何を食べたか、と恒例の質問が投げかけられ、パン一枚とミルク、とゆっくり答えると、
「また、たったそれだけ? 玉子とかサラダとかも、いっしょに食べなさいよ。まあいろいろ事情はあるんだろうけど」
 じろじろと顔を見られた。
「吉谷、いつも以上にぼうっとしてるかんじだね。目が泳ぐなあ。何かあったのなら、云ってごらん。どんなことでも、何でもいいから。これまでと変わったことがあったら、云ってみなよ」
 促されて、遍は思い切って話した。
「わたしにだけ、見えるものがあって」
 今、先生の肩の上で向きを変えた、とまでは云わなかった。先生は先を促すようにじっと遍を見た。遍は続けた。
「何だか最近、時々、見えるようになって」
「何が見えるの?」
「空を泳ぐ魚……」
 云っている最中に、警戒心が強まった。
「きっとただの気のせいで、わたしの想像にきまってるよね」
 早口で付け加えた。
 保健の先生は、いやいや、ふうん、とひとしきり感心してから、半ば独り言のように呟いた。
「そりゃ、イマジナリー・コンパニオン……てやつだろうね。ませてるじゃない、やっぱあるんだね」
「そういう、病気、ですか?」
「ううん、これだけなら病気じゃないよ。あんたぐらいのお年頃には、時々あること。だけどそっちの方にばっかり行ったら、病気になる。バランスの問題でね。吉谷、友だちとでも家族とでも、誰とでもいい。その空中のお魚さんはお魚さんで、そこそこのつきあいでほっといて、吉谷は、誰でもいい、誰か人と、人間と、楽しく過ごしなね」

 家に帰ると、ちりちりとした沈黙と、母の突然の涙と、ささいな事から勃発する両親の口論があった。
 夕食のおかずのことでも、二人は簡単に喧嘩できた。父の云うとおり、母は一日じゅう家にいるのに、部屋には埃が積もり、夕食には目玉焼きが一つ準備されるだけだ。その前の日はツナ缶、その前の日は冷ややっこ。
 だって食欲なんてないし、これでもがんばってるんだから、と母は反論する。
 母は五分と集中力がなくなっていた。おかずを皿に盛り付けるだけでも、途中に一回休憩を挟む。外出はほとんどできない。しじゅう襲われている躯の痛みは、精神的な原因によるものだと診断されていた。
 そのくせ主婦としての責任感は強く、遍が家事を手伝おうとすると、これはお母さんの仕事なんだから、あんたは勉強しなさい、と追い払われる。
 赤ん坊の死を、父も悲しんでいるには違いない。しかしその悲しみは、二人で共有できないことであるらしかった。
 夫婦喧嘩が始まると、遍は厭なかんじにどくどく打つ胸を抱えて、静かに自分の部屋に退き、嵐が過ぎ去るのを待った。
 口を挟もうとすると、こどもは向こうに行ってろ、と怒鳴られてしまう。遍は膝を抱えて、ドアのこちら側で、ドアのあちら側の感情のぶつけ合いを、断片的に拾い上げる。
「君も、君の家族も……まさかあれほど……君も……」
「あなたこそ……こんな時に……あのことのあてつけ……優しさがあだ……」
 厭な想像ばかりが膨らむ。
 どうして、二人は結婚して、わたしを産んだんだろう、と遍は考えた。――後で愛情をなくしてもめるぐらいなら、愛なんて最初から、ないほうがいいと思う。
 心は冷えてくると痛くなる。友だちに電話して、明るい声でどうでもいいことを話す気分にはなれない。
 ラジオをつけて、二人の話し声が聞こえないようにして、白く四角い壁の間で、遍は目で魚を探した。こういう時、本当に遍の近くにいてくれるのは、空を泳いでやってくる魚だけだ。遍は手を伸ばし、魚が手のひらに寄ってくるのを待った。
「あなたは、どこから来たの?」
 魚は答えない。
「バアチャンがいろいろ話してくれたけど、――あなたは、龍の何かではないよね。だってわたしは、御札を持っているもの。御札を持っていたら、龍は来られない」
 魚の返事は聞こえない。
「ずっと、いっしょにいてくれる?」
 魚は身を翻し、窓ガラスを抜ける。十五階の高さにある、ぼんやり霧にかすんだ初冬の夜空を、尾を振って泳いでいく。
「待って。そんなふうに、わたしは飛んでついて行けない。飛ぼうとしたら、落ちて、死ぬ。……それともわたしは、飛べるの? 飛べると信じたら、飛べる?」
 遍は窓に頭を押し付ける。暗い窓に映った左手のひらの傷痕は、うっすらとした三つの三角形の陰影になっている。
「行ってしまうのなら、龍を連れて戻って来て。そうしたらわたしは、こんな所から出て行って、自由になれるはずなんだ」

 保健の先生と、少しずつ話した。
「吉谷、元気とやる気を出しな。おとなになったら、わかることもあるから。おとなを許してやりなよ」
 そう慰められた。
「吉谷、自分にしか見えないコンパニオンの云うことばかり、聞くんじゃないよ。お魚さんはまだしゃべってない? じゃあ、しゃべらせないよう、気をつけな。それは自分の頭が作るものだから、自分のほうがお魚さんより優位に立たなくちゃだめだよ。『影』の云いなりになったら、自分を乗っ取られて、干からびて死んでしまうの、これはアンデルセンの『影』のお話。吉谷、向こう側へはいつでも行ける。だけど向こうからこちらへ戻ってくることはできない。だから今は、まだ待ちな。理由がわからなくても、こちらに留まってな。人間の友だちと、まっとうに遊びなよ。友だちを大事にしなよ」
 それなのに、夏からの遍は、それまでの友だちに気安く話せない秘密を持ちすぎていた。よその土地の龍だの、赤ん坊の突然死だの、手のひらの傷痕の意味だの、両親の不仲だの、空を泳ぐ魚だの。

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