『龍愛づる姫君』 (3)
3 血
血液。血筋。血統。比喩的に、人間らしい感情や血気・活力。血の道。 字形は、皿の中に血のある形。卜辞に血宮の名があり、そこで牲を用いる礼が行われている。盟誓のとき「牛耳を執る」というのは、その牲血をすすって誓うこと、いわゆる血盟を司会することである。
はかなげに桜花が散った後で、樹が夏に向けて発する生命力は、見ているほうが恥ずかしくなるくらい旺盛だ。緑の葉の間から、赤い星型の鍔がつくつくと突き立ち、その間も平たい葉は一日一日大きくなり垂れていく。樹の下には、放たれた赤い鍔が散らばる。
その赤い短線の散り敷いた地面に座って、女の子たちが体育の授業を見学している。
遍は校庭の真ん中で、太陽を反射する白い体操服で、同じ半袖の子たちとボールを投げたり受け止めたりしている。陽射しは強く透明で、目にきつすぎるぐらい既に明るい。
遍の不如意な手からボールがこぼれた。追いかけていって、拾い上げた。息をつきながら遍は、校庭の隅の木陰へうらやましそうな視線をやった。
「春なのに、風邪がはやってるんだね。三人も休んでる」
遍は不得意な運動のせいで、さっそく四肢に疲れを覚えていた。
「吉谷さんたら。あの子たち、生理だよ」
口早に教えられた。遍は顔を赤くした。
葉桜の手前を、透明な魚がつうっと横切った。風がその鰭の後ろを光ってついて行った。
「あ、男子がこっち見てる。吉谷さんのことを、見てるのかな」
「何、それ」
「あいつ、吉谷さんのことを、好きだって云ってたよ」
「嘘」
「へえ、嬉しくないんだ。じゃ、吉谷さんはべつに、好きじゃないんだ」
遍はためらったあげく、正直に答えた。
「……うん」
「じゃあ、誰のことが好きなの」
「え」
「岩永? 佐藤? 三木? 誰?」
男子の誰かを好きなはずだ、という思い込みの前で、遍は口ごもった。
「えっ、ええと」
相手はそれを、恥ずかしがっていると取って、なお攻めた。
「答えなさいよ。好きな人は誰なの?」
遍は、どうあがいても、期待されているような答を返せそうにないと感じた。不器用な正直さで、相手を失望させる。
「今は、いない」
「いないはずないでしょ。じゃあ、前、好きだった人の名前。云いなさいよ」
「……お父さん、だったんだけど」
「やだあ、お父さんなんて」
「うん、だった、だけ。もう好きじゃないんだ、お母さんと喧嘩ばっかりするから」
「変だよ、吉谷さん。同じクラスの男子でって聞いてるのに。お父さんだなんて。そんなの、ぜんぜんだめじゃない。話にならないよ」
「ごめん」
今、遍の好きな人といえば、夢で見るあの姿だ。その夜も遍は同じ夢を見た。いつからかいつも見る夢だ。
光る魚が闇の中を泳いでいく。それを追いかけて遍は走る。マンションの窓から飛び出し、魚と同じように空にふわりと浮ぶ。眼下に広がる街の灯。その上空を一気に越えていく。頬に当たる夜風が湿り気を帯びたものに変わる。ひどくもどかしく性急な気分で、何かがたりないと感じている。その一方で、こんなふうに魚について行ってはいけない、と感じる。いけないことをしている自覚がある。
遍のすぐ前を、夜に染まった魚が泳いでいる。
ほどけたリボンのように夜が香る。
その香りの筋に遍は重なり浸され、またずれる。水と生き物の入り混じった匂いがする。遍は魚の冷たい肌が発する媚薬を甘く受け止める。
魚と遍は空を泳いでいく。梢をかすめ、家々の屋根の上を過ぎる。
銀色の草が揺れる野原と、埋もれた線路のレール。月光の中で彫刻のように静止した森。――ここはいったいどこだろう?
知っているような、知らないような場所だ。
うがたれた空間の入口がある。
魚は孔の中に飛び込んでいく。水の飛沫がはねる。
――ここに入ってはいけない。
遍も魚に続いて川に飛び込む。――川? いや、空のてっぺんへつながるトンネルであるようにも思える。
曲面の内側は、ありったけの青色を溶かした洞窟であり、ありったけの緑色を溶かしたトンネルであり、ほのかに紫だけが光る暗い洞穴でもある。中に入ると、すぐに上も下もわからなくなる。トンネルのこちら側と、あちら側とがあるだけだ。
――あちら側へ、行ってはいけない。
闇に伸ばした左手が、躯を先へ引っ張っていく。
やがて、ふい、と遍は空間の広がりに放り出される。投げ出されたそのままの向きで手足を広げて、八方に開けた空間を感じる。回転しながら目に映じる、盛り上がる純白の雲の柱、藍色の闇がわだかまる逆側、濃い影に区画された床、水の流れている天井。
たぎる飛瀑と広がりゆく閑寂が同時に存在し、全能感と孤独感が一時に胸を占める。
遍は宮殿の床に、静かに着地する。柔らかな雲のクッション、あるいは細かな川床の砂の上に。
月光を浴びて銀色に輝く魚が空を泳いでいき、柱の影に入る。入れ替わりに、柱の影から、黒い影そのもののような姿が現れる。
彼は遍を招く。
――呼ばれて、ついて行ってはいけない。
遍は立ち上がり、夢見るように近づく。
長い腕が、せせらぎに似て優しく、遍の躯の外側を囲う。触れられても感触はない。遍の左手も心も、もどかしさを増して、違う、こんなはずじゃない、何かが違う、と叫ぶ。
いつからか、その一つの夢路が踏み固められていた。いつも同じ姿が、夢の中で両腕を開いて立ち上がっていた。
それは遍を呼んだ。
いや、呼んでいるのは遍のほうだ。甘美なのは今この時だけで、すぐに陰惨な結果に転じることを予感している。
風景に多くの色はなく、ただ光だけが揺れていることもあった。
何度でも、夢は出会いを繰り返した。躯は重力を無くして空を飛ぶ。泡が時々視界を横切る。二人は出会う。
月を反射した雲と水のほの明るさの下で、遍は唐突に涙を流す。悔し涙のような嬉し涙のような、意味のわからない透明な涙だ。
ようやく出会えた。運命の彼。
運命の彼は遍の肩を抱き、遍をどこかへ連れて行こうとする。そのとたんもうひとりの遍が、彼と遍の間に入ってくる。彼が連れて行くのはもうひとりの遍だ。遍はまだこちら側に立って、なすすべもなくそれを見送っている。
そしてある深夜、遍は、諍いの声で目覚めた。
闇の中で聞く怒鳴り声は恐ろしい。
今夜こそ全ての終わりの夜。
遍は手で御守をさぐった。袋は何夜も握られ続け、すっかり平らに潰れている。それでも遍はそれを握り、これがふっくらした温かい手だと信じた。
冷たい涙を頬に伝わせたまま、そのまま再び眠り込み、夢の中でもまだ、それを握っていた。
白い雲が夜空を流れ、雲でできた宮殿の形は次々に変わった。壁に囲まれ、広間が現われ、月光が射し入ると共に、雲の表面は真珠の光沢とムーンストーンと水晶の複雑な反射に、一方の影はラピスラズリやブルーサファイア、ペリドット、翡翠の集まりになった。
――龍宮の入り口。
絢爛とした天然の宝玉に足首までを埋めて、遍ははだしで立っていた。右手を開くと、御札は紐で首にぶら下がった。薄い下着の外で護符は夜風に吹かれ、膨らみ始めた胸のきっさきをかすめた。
――もう、戻りたくない。
遍は、ゆっくりと紐を頭から外した。
袋から紙片を取り出し、指先で粉々に破いてゆく。
遍の足元に、護り札がばらばらになって散り敷いた。
〈百年愛される覚悟ができたか〉
遍は顔を上げた。柱の間の薄靄は払われていた。澄んだ濃い空を背景に、隅々まで遍の理想にかたどられた彼が姿を明らかにし、目の前にいた。遍が現したものなら、それが遍の理想の姿をしているのは当然なのだろう。
遍の足元の紙片が、風で吹き払われた。
〈龍の姫がかくもたやすく、人間の男に管理されたとはな。誇りを忘れたか〉
人型の龍は酷薄に笑んだ。同時にちかりと月も光った。遍のとまどいを吹き流してしまうような、ここちよい声が響いた。
〈卑怯を手引きする紙切れなぞ要らぬ。おまえが龍を操れ〉
遍は護符を越え、一歩進んだ。足首までが、柔らかな雲に埋もれた。
「……連れていって。わたしはもうこれ以上、こちら側にいたくない」
〈来い〉
遍は腕を伸ばして一歩進み、彼の腕がつくる輪の中に立った。自分の腕の輪の中にも彼がいた。腕に腕が接し、胸に胸が接し、脚に脚が接していた。鱗を載せた遍の左手のひらは、龍の胸に吸い付いて一体化していた。遍の髪が、龍の肩に引っ掛かっていた。
護符を肌身から離したこの時、龍に触れた感触は、せせらぎの優しさではなかった。雷電のもたらす痺れだった。間に入っていた紙一枚のせいで、それまで龍とどんなに隔てられていたか、会いながらも触れられないでいたか、遍はその時、理解していた。龍は待たなかった。口で口を喰われた。血が一時に弾けた。睫が震える間にも、接している龍の躯から、強く鮮やかな猛々しい熱がなだれ込んでくる。その膨らみに押されて、遍自身の血は辺縁に押し広げられ、全身が痛いほど脈打った。
恐ろしく熱い稲妻が流れ入る。
龍の力を迎え入れるために、遍の内部が空と地に向けて急速に広がる。
めまいがした。とどまるところを知らない。無限遠に己の境界が去っていく。龍は巨大だ。遍の境界は広漠な宇宙との交歓を抱えて、ずきずきとなおも外へ外へ走っていった。
そうして拡張するのと同じ速度で、龍の強さの一片が遍の内に立ち上がっていた。遍の後頭部を押し広げているのは龍であり、龍を包み込んでいるのは遍だった。三千丈の雲も久方の月も星団も、下方の谷も森も、全てが遍の外側にあり、同時に内側にあった。遍は宇宙とつながる龍そのものだった。遍は幸福と寂寥に一粒の涙をこぼした。――こんなにも満たされるほど、空っぽだったとは。
次の瞬間、――いや、それは一瞬後などではなく、人という人が死に絶え、建物という建物が朽ち果てるほどの長い時の後だったのかもしれない。遍には、ただ肉体の痛みだけが残されていた。どきどきと打つ脈といっしょに、躯の深部がひどく痛んだ。これまで意識したこともない躯の部分が、存在を発していた。遠い宇宙が躯の内にある。足の間から鮮血が流れ出した。遍の何かが、龍との交感によって押し出されたようだった。血は遍の白いシュミーズに染み、接した彼の脚をも伝った。
遍と彼がその上に立っている雲も、漆黒の夜空も、その下に広がる暗い大地も、遍の流した血に濡れていく。黒に広がる、生身の赤。
遍の口をふさいでいた熱い流体が、ふと唇から退いた。彼の口元で先の割れた舌が踊り、ちらりと引っ込められた。
〈我は、与え、奪う〉
このうえなく優しく、彼の両手が遍の頬を包んだ。その優しさの下で、躯の全ての部分は、今や重たい痛みの巣となり、痛みのあまり、急激に感覚をなくしつつあった。
目の前で龍は笑みながら、本来の巨体に滑らかに変化していく。
遍の頭部の血の最後の一滴が、痛みに吸われて肩の下へ落ちていき、景色がモノトーンに転じる。すぐ黒一色になる。
空の奥に龍の咆哮を、遠く聞いた。何かを予言するような、満足げな。
〈夢を現になせ。現でこの龍を呼べ。おまえが現で呼べば、龍はくびきから抜け出す〉
黒の中に、まだ赤が流れている。闇に一筋、流れている深紅。
全身が脈打ち、遍は掛け布団をはねのけた。そのとたん腹を抱えた。芯のほうから鈍く重たく、厭な痛みがにじんで広がった。
何かが濡れていた。腰をずらすと、真白いシーツの上で血がこすれ、梵字の一つと似ている尖った模様になった。シュミーズに血は濃く染みていた。夢の中で処女をなくした。
御守はベッドの下に落ちていた。拾おうとすると、左腕に突き当たってくるものがあった。夢の中と同じ鮮やかな銀色の魚が、遍の腕を突いていた。遍はその魚がもはや透明ではないことに目を見張り、その口先の感触がくすぐったくて笑った。
それから、魚の触感が感じ取れるようになっていることに、はっと胸を突かれた。間近で見る魚の開いた口の中には牙があった。押し付けられた鱗はざらりと尖っていた。赤い目は遠く冷たく見えた。遍は腕を払いのけた。慌てて護符を探した。
それはベッドの下に粉々の破片となって散り敷いていた。夢の中で、遍の指が本当に破ってしまったらしい。
遍はそれを丁寧にかき集め、その最中に、護符の文字がほとんど読めないことに気づいた。薄れて、ばらばらになった文字を袋に入れた。そんなものにすら縋り付きたいほど、急に沸いてきた魚への嫌悪感は強かった。夢の中で味わったあまりの深淵に遍は圧倒されていた。――あんな宇宙に平気で棲むものは、きっと冷たい生き物に違いない。自分は幻影を愛していた、と遍は思った。はっきりと現された魚は、かわいくはない。魚は、きもち悪い。
遍は御札をゆっくりと首に掛けた。擦り付けられていた魚の冷たい肌の触感が消えた。しかし、触れられなくなっても、魚は透明にはならず、まだ銀色をしている。
とりかえしのつかない何かが変わってしまった思いで、遍が汚れた下着を洗面台で洗っていると、黒い服が目の端で揺れた。母が覗き込んでいた。
「来たのね」
「お母さん」
「こんな時にね、あんたは」
喪の黒に頑なに身を固めている母は、水に流れる赤を隠しきれずにとまどっている娘をじっと見た。
遍は、弟が死んでもまだ生き続け、龍の夢を見てしまう自分を、非難されていると感じた。喪の黒に広がる赤。夢の内容を見透かされている気がして、耳が熱くなった。
謝ろうとした時、母がここしばらくなかったような、平静な声で云った。
「今日は、デパートでお赤飯買ってくるわ」
「どうして?」
「女性の印が来るのは、めでたいことだってされているから」
「そんなの、まさか」
母は何を勘違いしているのだろうと思った。
「あんたはちょっと遅かったけど、遅いほうがいいよ、生理なんて、これからずっと何十年もつきあわなきゃいけないんだから。今日は学校、休む?」
遍は、驚いて母を見返した。母は笑おうとしていた。その筋肉は笑い方を忘れていた。母は歪んだ口元になった。
「遍には、いろいろ辛い思いさせてるけど、遍はちゃんと成長しているんだから。お母さんも、がんばらなくちゃね」
遍は学校を休んだ。躯全体が泥を詰め込まれたように重く、立っていると下腹部から太股までが痛んだ。今日は体育もある。体育を見学して、あいつは今日生理だと男子に指差されるぐらいなら、学校ごと休む。
台所で、二人で久しぶりにプリンを作った。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「お母さんには見えるの、この魚?」
「魚ですって」
「やっぱり見えないのか……」
「魚? 大変だわ」
護符がだめになった、と、母が龍王堂に連絡したらしい。それとも祖母づてで伝わったのか。新しい護符が届いた。
母はその時、また元のぼんやりした母に戻っていた。抗欝剤が効いている母は、物事にあまり構わなくなる。遍の机に封筒を無造作に投げ出して、黙って部屋から出ていった。
遍は龍王堂からの、何重にもくるまれた分厚い紙や布を剥いでいき、ようやく緑青色の薄い紙片にたどり着いた。護符に対面すると、自分の一部を無理やりに忘れさせられるような、変な気がした。
同封されていた手紙は、時間をかけて判読した。おとな向けの文章なので、よくわからないことばもあった。
――本来は直参すべきところだが、土地の抗争が発生していて、手が開かない。龍に魅入られた娘さんを、よく監視して、一刻も早く、必ずこの護符を持つようにさせてほしい。龍と娘さんの結びつきがこれほど強いとは、このところかつてなかったことで、予測できなかったとはいえ、こちらの失態である。龍王堂の総力を挙げて、より強力な護符を作り直した。古い護符は、書留で送り返してほしい。龍王堂、宇暁。
うぎょう。遍はあの男の名を知った。あの大きな手がこれを書いた。
新しい護符は、一見して、行数が多いと感じた。護符を検分する遍の視界を、魚が邪魔するように横切る。
――さっさと水に流して捨ててしまえ。母親はまた元に戻ってしまったし、いったいどうして、こちら側の世界にいなくてはならない。
自分がそう思ったのか、魚にそう囁かれたのか、遍にはわからなかった。
――この新たな護符は、強い呪句だ。姫の身を損なう。姫は龍の鱗を持ち、既に一部が龍であるのだから。その文字を身につければ、姫の肉体を犠牲にすることになる。
遍は二枚の御札を並べた机に両肘をつき、頬を包んで考えた。
今、遍は、誰にも気づかれずに、この護符を捨ててしまえる。
龍王堂の男はうかつにも、母親が遍に護符を与えると思っている。しかし親は遍に関心がなく、護符を受け取ったのは遍本人だ。宇暁には隙がある。遍が護符を、好きにできる。
遍は長い間、考えた。どうして、ここで生きるんだろう。こちら側にいなくてはいけないんだろう。あちら側に行けば、きっと新しい生活が待っている。
祖母のことばが浮んだ。
――することをせん、というのも大事なんや。
遍は、護符を捨てることができる。そして龍を呼べば、その力で、大嫌いになってしまった父を殺せるだろう。そのままあちら側へついて行って、戻ってこなくていい。きっと、できる。でも、しないことも、できる。
祖母に、また遊びに行く、と約束したことを思い出した。
祖母がどんなに遍を待っているかを遍は考えた。それから、祖父が約束を求めもせずに、黙って待っていることを考えた。
護符を持つことは、龍を捨てることになる。誰が悪か、と遍は考えた。龍が悪だとしたら、龍の元へ赴こうとする自分は、そうさせまいとしてきた先祖や龍王堂からすれば悪だ。龍を捨てるのは、龍からすれば悪だ。
遍が龍の所へ行きたいのは、両親が遍をかえりみないからで、だからあの二人が悪だ。弟が死んだのは遍のせいで、遍を育てたのはその両親、諍いする母を産み育てたのは祖父母。祖父母が悪の権化だ。そして、遍を一番に愛してくれているのは祖父母だ。悪の元締に愛される遍。
どうしようもない、と遍は思った。今すぐ、この世からいなくなって、祖父母を悲しませるわけにはいかない。悪い自分は、ここで、悪い人間のまま生き続けるしかない。生き続けて、いつかこの悪から自由になりたい。
母と父の間にあった愛は、今、お互いを苦しめ合っている。祖父母と自分の間にある愛は、まだそうはならない。けして、そうならない愛だけが欲しい。誰かの温かい手を握りたい。
新しい護符に触れると、魚が暴れ始めた。
遍は苦しげにのた打ち回る鰭の横で、新しい御札を祖母が縫ってくれた袋に納め、首に掛けた。
そのとたん、魚の姿はかき消えた。
遍の躯の奥にあった何かの感覚も消え、遍の肩は、重荷を載せられたように重くなった。
読み終えましたら、web拍手をお願いします。壁紙をプレゼントさせていただいております。

